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2024年03月28日(木曜日)更新
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第930号
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〇桜の季節になっても寒暖の差が激しい。これは例年いつもそうだが・・日本海側(富山・新潟)や北海道では雪が降っているのに太平洋側は晴れ日が多くなり桜の話題もにぎやかで若干申し訳ない気もする。だから寒い日があっても(これくらいは我慢しよう)と冬コートだけは外せない。
新パソコンにやっと慣れてきた気もする。遠隔サポートも一回あったし、休日に娘や息子が来宅したときメモしておき教えてもらっている。目から鱗は、「どうして電源入れたままなの?」言われてびっくり・・なるほど外出先でも使えるノート型は充電済みで持ち運べる。机の上にあるが家中どこでも・・庭でだって使える文明の利器だ。知らずに使っていた自分が情けない。
体調のことを報告したい。有名な東大病院、正式には 東京大学 医学部付属病院 の診察券をもらった。一日数千人の患者が来院するので広い部屋だ。最初に係員へ手順を聞き用紙に記入し、受付番号を待つ、暫し待たされ保険証を出してしかじか説明すると更に待たされ、改めて各種検査個所の番号を書いた袋を渡された。そこでも受付があり指示に従い検査を受ける。着替えたり荷物を持ったりして遅れる、採血の部屋などは20番以上の採血窓口があり、その上に受付番号が出ていて当方などは遅れて行ったので一番下にポツンと表示されていた。通りかかった白衣の人に番号札を見せると「ああ、お待ちください」と言って、丁度交代で空いていた番号のところへ案内された。採尿では(日野から上野御徒町経由だからうっかり駅で小便を済ませたばかり)なのにコップを渡され「しまった」絞り出すのにまた時間がかかった。レントゲン室でもボタン付き下着でなければ簡単なのが「下着は一枚だけにしてください」心電図では上半身素肌にして下さい、と面倒だ。エコー検査などは事前に「30分程度はかかります」と念押しがあったりする。正に検査疲れ・・である。
全ての検査が終わり、その受付へ行くとここも結構広い部屋で待たされる。あまり長いので尋ねると調べて「ああ、採血結果だけがまだきていません」と電話で調べてくれるようだ。30分ぐらいして呼び出しベルが鳴る。一番最初の受付の際に預かった袋に固い器物が入っていた、どうやら呼び出しベルらしく患者が順調に検査していないときや、病院側から用事があるときに鳴るらしい。事前に知らされていないので突然のベルにビックリ、「〇〇号室へくるように」と表示されていた。行くと知らない名前の先生の名札がある。ノックするのに躊躇していたらドアが開き見知ったM先生が手招きしてくれる。そして名札の違いをみて外した。 診断結果は、疑いの濃かった弁膜症は何事もないと診断され安堵した。しかし狭心症などの心配もあり今一度カテーテル検査かその他の方法を提案されそれが終了した4月に再度来院の予約が約束された。 あいにくの寒さと突風のなか、ほぼ一日がかりの行事が終了した。新宿へ戻り京王ライナーの時間まで余裕ができたので昼食兼の夕食を頂き(飲みたい酒を我慢して)一息ついた。早く病人の気持ちから離れたいが・・これも人生、付き合うしか無い。
話は飛ぶが、あの大谷選手の話題は韓国で、いや日本も世界中でも明るい話として爽やかだったのが、僅か一日にして通訳のスキャンダル化が水を差してしまった。お蔭で? 期待されたエースまで打ち込まれて気の毒でさびしかった。これからアメリカへ戻ってもTV取材やマスゴミ(マスコミではないゴミ記事)話題が多くなるのを思うと当方と同じような「好事魔多し」・・に似ている。
当方にも苦い思い出がある。週刊誌にいたころ、年末特集のため我が班は「今年一年で一番不幸な人々・・」の特集を企画したことがある。数人の候補を上げ皆に取材させた、最後にやってきた部員が「イャー、参りました・・」と、報告に来た。ある有名女優さんの夫だった人が別れることになった、その後の心境を聞いてくる」だった。ご本人との連絡が取れず編集部員がとった最後の手段が、元夫の勤務する病院へ風邪を引いた患者として診察を受け、その席上で名刺を出して取材に来たことを名乗ったらしい。驚いたのはお医者さんの方で「君、こんなことをしてまでコメントが欲しいのか?」その姿は、逆に編集者を憐れんでの顔だったそうだ。それほど若くもない当方も「そりゃ失礼したねぇ」反省はしたが「そうかい、それをそっくり記事にしてくれ」非情にも言っていた。まさにマスゴミそのものだった。いま思い出しても恥ずかしい仕事だった、いやゴミだった。今後の大谷選手はもとより通訳の人とて、その親族や知人はマスゴミにやられるだろう・・お気の毒だ。
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2024年03月21日(木曜日)更新
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第929号
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〇前号の続きである。 証券会社に雇われたS社長との因縁を後日当人から聞いた。戦時中のこと、陸士出のご本人がある赴任地の朝礼に待機いていた。広場の踏み台で朝礼ラッパを聞いていると前方から転げるように走ってきた兵士が敬礼した、「貴様は何者か?」に「ハイ、陸軍一等兵のKです」「良いぞ、覚えておく」。全員が揃ったところで「本官はS連隊長である、今朝のK一等兵は一番乗りだった。諸君も見習って、お国のために一層励むように・・」ということがあったそうだ。戦後のある日、新橋駅で帰宅電車を待っていると、一人が寄ってきて、「失礼ですがSさんですか?」見覚えのあるK一等兵だった。同じ電車で鎌倉へ帰ることになり、そのKさんは今では証券会社の専務さんと分かり以来交際が始まり、今回の株取得を受け「洋紙店なら出版事情を知っているだろうから・・」と請われて社長になったのだという。本当に、株が取り持つ偶然だが今では当事者全員がこの世に居ない。当方だけが知る株とのご縁である。
〇そんなことを思い出しているうちに、またまたニュースで大企業の製造メーカーは、賃上げ要求に対して満額!とか3万5千円以上!などと、当方が知る高度成長期並みの回答が活字になっていて驚いている。更には下請企業をいじめてコストカットや値引きした企業が罰せられたりしている。当方の会社とて最初のころは結構厳しいことをやっていた。雑誌を誌別に原価計算をしていたので、印刷代・製本代は発注部数で支払い。用紙は(5百枚・1千枚の梱包単位or巻取り本数単位)で購入し、改めて誌別に使った枚数だけ計上していた。面白いのは請求書が届くと総合計の金額から千円以下を切り捨てる端数処理をしていた。しかも手形である。小さな下請業者などは最初の見積もりでサービス価格にされたのにこれでは厳し過ぎます。と去っていった業者もいた。そんなことも会社が成長するうちに、会社自体で記事の入れ替えとか修正や追加が多くなり、そのすべてを雑誌の原価に入れるのも矛盾する・・などの理由で取り止めになった。ま、高度成長期への過度期とはいえ、あの頃の下請けいじめは今思えば可愛い程度といえる。
だが今現在、街中を歩いていると下水官やガス管、道路工事が・・年度末にはよく見かける風景だ。ガードマンの「すいません」に「ご苦労さま」一応挨拶しているが「これ孫請けの何番目?」なんて聞いてみたくなる。政治家の裏金問題を死者のせいにしたり、誰が指図したか分からない、聞いていないを繰り返す答弁「こんな人に今度は投票したくないなぁ」思ってみるが、選挙区も違うから、のど元過ぎればなんとやら・・に落ち着くことも老人には馴らされている。戦後も厳しかったが今ほど悪質では無いように思えて仕方が無い。
〇10年経過したパソコンは検索が遅いばかりでなく、一度ストを起こすと待っても、待っても復活せず小一時間かかることもあり、いつブチ切れるか不安となり、このほどついに新しいノート型を購入した。契約しているサーバーの遠隔サポートへ連絡すると、無料で出張サービスが(肝心のことだけだが)設定してくれた。さて、打ち込み始めて勝手が違うことに戸惑っている。何といってもWindows10が11に変ったことだ。マニュアル用紙やCOなどというソフトも一切ない。すでに入力済みだから即使えるし「分からないことは自分で調べろ」的である。だから放置してあったタブレットを充電してそばに置き「これこれしたい」・・検索しながら使っている。覚えた後は簡単だが・・その覚えるまでに時間がかかるのだ。当方は、パソコンが普及し始めた2000年に会社を卒業したので、当時のワープロから独学にて覚えそれも3台目の機器である。覚束ない指先で目をしょぼしょぼさせ、前のめりになって打ち込んでいる姿はちょっと哀れとさえ感じている。何ごとも習うよりは慣れろという、目標ができて嬉しいと喜ぼう。
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2024年03月14日(木曜日)更新
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第928号
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〇先週、日経平均株価が史上最高値を付けたとのニュースが流れていた。当方には苦く重い体験が残っている。昭和31年(1956)縁あって元会社へ入社できた。岐阜の米問屋から「三本の矢は折れない」と三兄弟が独立して数人の部下を連れて上京していた会社だった。大衆雑誌が8種類刊行され8周年と云われていた。初めは倉庫係、翌年は事務所で奉仕掛りを命じられた、幸い目前に見える法大に合格できたので勤労学生だった。8周年の懸賞ハガキから賞品を出す仕事だった、優勝がミシンという時代でもあった。それを基に読者層の分析を自分で試み自室で夜中にやっていた。ある日総務部長へ提出すると「フン、自分の仕事に集中せよ!」無視された。数カ月後役員室に呼ばれた、三兄弟の役員と総務部長が居て「先日の資料を持ってこい」言われ提出すると「これだっ、至急印刷せよ」専務の声がかかった。ある大手スポンサーと専務が食事接待時に「ところでお宅の出版物の年齢層は?売れている地域は?」尋ねられ一応曖昧に答えたが、8周年の葉書を使えないか?・・だった。偶然にも作成してあったので、編集者が指名され立派なパンフが出来上がり会社も喜んだし自分でも面目を施した。
その9月、人事異動が張り出された。何気なく見ると当方は「資材係を命ずる」とあった。専務から「君は製作部に所属するが、特別に社長直属になるからそのつもりで」だった。社長室へ呼ばれた「ワシが決めた。資材掛りとは、紙・印刷・製本など製造費の6割以上を占める用紙の買い付けが主体で重要な仕事だ。有名な製紙メーカーやその代理店と商談するから、君のその恰好では困る。特別に3000円昇給したからワイシャツなど整えてくれ」だった。原価計算が必要になり普通程度しか覚えていないソロバンを懸命に自習した。月に数回ある編集会議では社長の横に座り、各編集部が「グラビア8Pをカラーの口絵にして」、「本文16頁増やして」など要求があると「計算せよ」だった。雑誌によって部数が違うので、その都度計算し報告する・・慌てるので数字は合っているいるが桁を間違え「バカ、そんなに高い訳がない」結構叱られ恥をかいていた・・一番面倒なのが印刷代。固定費と変動費に分かれ部数によって変化するから手間が掛かった。ソロバンで叩かれそうになったこともあった。
社長は10時ごろ出勤11時過ぎには外出、夕方の帰社が多かった。次第に社内の雰囲気に慣れ社長が株屋さんへ行っていると知った。何でも専用の机があり午前・午後と売り買いしていることを知った。そのうちご機嫌の良い時と悪い時があることも分かった。どうも株の値下がりが影響していたようだ。ある日など社員の慰安旅行で出発のバスが社前で待機しているのに「ワシや行かない」駄々をこねていたらしい。そういう時に岐阜から一緒に来た総務部長が「全社員がお待ちしていますから・・」となだめて、やっと乗車するなどもあった。当方の二回り年上の子年でご機嫌の時は二次会へも同席を許され、しまいに支払い時に「君、支払っておけ」分厚い財布を預かり、釣銭の袋を渡すとホステスの前で領収書だけ抜き取り「ほれっ」と袋をくれた。それを見てホステスが「まぁ素敵!」ご機嫌で待たせていた車でご帰還を見送っていた。そんな会社も10年経過するごろ労働運動が激しくなり昭和42年(1967)組合が結成された。しかも代々木系と企業内と二つも誕生したのでイヤ気を出して、何と株屋(この頃は証券会社)へ相談し自社株を売ってしまった。
資本が変わった証券会社は子会社を創り雇われ社長が決まった。それが用紙販売店のS社長だった。そして会社へ乗り込んできて部下が当方へ「これからは私たちが管理します」「冗談じゃないよ」抵抗すると、翌日「新設する編集総務部へ移動せよ」通達され、今までなかった年度予算作成と編集部を調整する課長に任命された。部員は3名、編集室にガラス張りの小部屋を作り「部長・課長・代理」の3名が担当することになった。会社自体は150人程度になっていて内編集部員は90名ぐらいだったと思う。
話を少し戻して、創業社長がまだ在社していた頃、新しい取引を望む洋紙店が通いつめていたのでOKを貰っていた。その数日後、創業社長が見本誌を持ってS銀行の支店室へ行くと先客があり同席となった。席上先客がテーブル下の雑誌を見て「何ですなぁ支店長、最近はこんなくだらない雑誌が多くて困りますなぁ」支店長は慌てて「これ、この社長さんの会社ですよ」先客も驚いて謝ったそうだが・・雑誌をけなされた創業社長は無言で帰社したという。そして呼ばれた「あの用紙店の名前は?そうか中止してくれ。しかじかだ」。当方も「そんなことがありましたか、分かりました」で、直後に菓子折り持参で来た洋紙店社長に「社長には会えません。取引の話は無かったことにしてください」・・その断った社長が今回雇われ社長として乗り込んで来たのである。正に小説じみた話であった。
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2024年03月07日(木曜日)更新
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第927号
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〇一ヶ月お休みを戴いた。その理由はいわゆる「好事魔多し」で、折角の米寿祝い受賞7日後のことである。通っていた歯医者へ普通に歩いていたら動悸・息切れが激しく歩道脇の塀に寄りかかり暫し静止していた。今年に入って時々似た気分もあったが今日は格別に異常だ。歯医者へ謝りタクシーで脳専門病院へ、(我が家の血統は親族殆どが脳梗塞など血圧の関係が多く当方も脳のMRIには普段から注目していた)受付でしかじか説明すると暫し待たされ(多分カルテの照会などしたのだろう)「その症状は当院では無く循環器専門医です、これは提携している病院のパンフです」・・体調も少し収まっていたのでバス、電車を乗り継いでM循環器病院を訪れた。種々検査を受け診断は「心不全です、弁膜症の疑いもあるので、いづれ提携しているT病院の先生に診てもらいましょう。今日は即入院して心肺ほか全身に溜まっている水を抜きましょう、約2週間はかかるでしょう」「えっ、今日直ぐにですか?・・いったん帰宅して〜」に、「即です、既に身体中に水が溢れ浮腫んでいます。いま家に帰っても今晩には救急車で来ることになりますよ」で個室に入れられた。
当方の入院経験は、これまでは胆石で胆嚢全摘出時と手首骨折した時の2回だった。ベッド傍で看護婦さん数人が「全部脱いでください、このおしめ付けて下さい、寝て下さい・・有無を云わさず尿管に管が・・息を大きく吸って・・あら、奥まで入らない、何度か試して・・その苦痛・・男の先生呼びましょう・・どれどれ、すっと納まったようだ。素肌にパジャマ上下だけ、素早く左手には点滴の管・右胸には心電図などの数本の管、指にはパルスオキシメータ。心の余裕も無く、眠ろうと思へば思うほど寝付かれない・・(気功で練功したろうに)その呼吸法もここでは通じない(だからお前の訓練はいい加減だったのだ)反省ばかりが現れるから余計にまんじりともしない第一夜だった。前日は昼・晩食事をしていないので、さすがにお腹が空いている。5時には検温・採血・血圧・体重と手際よく測られ7時には朝食・・8割は頂いたが塩気の薄い煮物・焼き物・・全てが温かく、料理も器も・・乗せた台すら温かいので気持ちが良い。こんな病院食なら嬉しい。食べれば排便だ、「一歩は良いけど3歩は厳禁です」と簡易オマルを置いて行かれた。紙を敷きおもむろに座る、神妙な顔をしているうちに何とか終わる。個室で良かった、これが4人・6人部屋なら厳しいだろうな・・突然、能登半島で地震被害を受けた方々を想いご同情を覚える。
頃合いを見計らって処置をし窓を開けてくれる。9時には先生方の総回診がある、昨日の先生が「どうですか?」「はい、お陰様で落ち着きました。有難うございました」に担当の看護師さんが「2L以上の尿が出ています」「良かったですね、お大事に」・・その後は移動できる小型レントゲンが「はい、こちらを見て・・息を大きく吸ってぇ、はい、そこで止めてっ」「パチリ」これは毎朝行われた行事である。3日目ごろからトイレは自分で行けるようになり5日目には4人部屋に移り、シャワーも使えた。
時節柄コロナの影響が続いていて面会は厳しい。面会者は一名、それも毎回固定していて週に一度だけ1時間。ただ必要な物は何時でも看護師さんに預けることが出来る。リハビリは午後、膝の上げ下げ・椅子で立座り・廊下の往復。そろそろ歩きから連続早歩きまで毎日、その都度血圧を測る。9日目ごろ「明後日あたり退院できるかな?」結局、11日目にして無事に退院できた。
退院に当たり初日と同様な諸検査を終え、連携するT大病院M先生のご診断、「疑いのある弁膜症は断定できません、関連する(幾つかの専門用語が出るが書き取れない)や狭窄症、腎臓・膵臓まで疑われます。一度T病院の外来に来ませんか?ここより詳細な検査は出来ますが・・(でもカテーテル検査もあるなぁ)・・」最後は独り言にも聞こえた。当方は「この年齢ですから、病名を知るため検査・検査し、病名が分かる都度治療していたらベッド人間になってしまうので、私は好みません。しかし折角のお誘いですから原因究明をよろしくお願いします」応諾し退院した。
その夜、家人と熟慮の結果「今更病名を知り、検査入院が本番入院へとベッド人生になるよりは、中古車は中古車として7掛け人生結構じゃないか。動かなくなって廃車と云われたら歩こうじゃないか。これからは3ヵ月に一度でも今回お世話になった病院での診察をお願いしよう・・再回答を決断した。
88歳4カ月!手首に巻かれた年齢を見て「あら、お若い。職業はナニやっていたの?」交替する若くて溌剌な看護師さんたちの声掛けをもらい「出版社だよ」「えっ、文春砲?・新潮?」「全然違うよ」「えーと、ナニ・ナニ・・・フタバ社?」10個目ぐらいに云われて「ウン、当たり―」に、「春日部のお兄ちゃんどうしている?・・」 いや、驚いた。・・この明るくて若い病院・・またお世話になるのかなぁ〜完治は遠い。
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2024年02月08日(木曜日)更新
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第926号
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〇1月大ラスの新年会は神楽坂で昼間にあった。当方は集合1時間前には地下鉄で牛込神楽坂駅に着いて久しぶりに見知っている通りを眺めて歩た。坂の途中にあったK製本は某出版社の印刷部門になっていた。書店数も少なくなり自社で小口印刷するのは聞いていたが現実を見せられた気分になった。坂上を左に曲がると昔の出版クラブ・書籍協会が並んでいたが、豪奢なマンションに変わっていた。現在の出版クラブは神田神保町へ移っている。通り過ぎて小さな版元があったとビルも変わっていた。神楽坂通りは見知っている店、全く新しい店など想い出深い。毘沙門天に手を合わせる、そこの横町を左へ曲れば元会社なのだが真っ直ぐを行く。懐かしい五十番(ここの肉まんは旨い)、顔なじみの居酒屋も名を変えて代も変わったように思われる。足袋屋は変わっていない。下りに入ってRという中華店はそのまま、金物屋などもそのまま、満月とい居酒屋の看板はあるが知っている人は居るまい。馴染みのそば屋は締まっている・・看板に「店主がケガのため当分お休みします」‥実はここで二次会予約を考えていただけにガックリ、当方は3代まで見知っているし懐かしい店だ。対面のお汁粉屋はウナギ店に変わっていた。
〇会場へ着くと大学同期のU君が奥様の介添えで杖を突いてやってきた。介護2の時には電動車椅子だったが介護1になるとそれも取り上げられ自力で歩行訓練を重ね、遂に横浜から都内へ来られるようになった努力家だ。参加者は35名、内3人が米寿の表彰を受けた、今年二つ目の受賞である。宴もたけなわの頃「受賞者のことば頂戴しましょう」となり、当方は2番目に登場、「この年齢になると突発事項は当たりまえ、3日ほど前から歯が痛み出してお医者へ行くと、この金歯の中が虫歯で消毒しなければならないと金歯を外された。おかげで麻生さんの様に口が曲がってしまった、今日のお料理は格別美味しそうですから、私の顔を見ないでお耳だけでお願いします・・と断り4,5十年前の金歯にバイ菌?とお医者に云ったら(元々その歯が悪くて金冠にしたのだから・・言われので仕方が無い。私の今日は金目の物が無くなり先程皆さんから戴いたお祝いが一番高価な財産です・・悪いのはハバツでした・・皆が笑ってくれた。
そして今日の会場は飯田橋、実は私1955年・戦後10年目に北海道は帯広から、ささやかな青雲の志を持って34時間かけて上京しました。持っている金は9000円(当時1ヵ月6000円で暮らせると言われていました)翌日この飯田橋の職業安定所へ来ました(この会場のすぐ側、あのあたりです)昼間働いて夜学校へ行きたい)が条件でした。お隣の水道橋で牛乳配達をしましたが、あの春日町の坂は格別厳しくて大変でした。色々あって元会社、30名も居ない会社でしたが縁あって入社出来ました。目前が法政大学、会社は快く認めてくれました。そこで知り合ったのが、今日奥様介添えで同伴されているU君です。以来45年勤め、更にはOB会など、この飯田橋・神楽坂は私の第2の故郷なのです。ここで米寿のお祝辞を戴き誠にありがとうございました。・・当然のこと、二次会は遠慮して自重した。嗚呼!人生ナニが起きるか分からないの・・だから楽しい。
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