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2021年08月05日(木曜日)更新
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謹告
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当ユーモアクラブ発足時からの執筆会員・大熊昭三先生が令和3年2月12日、満92歳で大往生を遂げられましたことをご報告いたします。
故・大熊先生は支配人にとって帯広三条高校時代からの恩師であり、文芸部というサークル活動から本との出会い雑誌編集に対する興味を与えて下さり、その後先生は上京して川崎で教師生活を送られ、支配人は出版社勤務にて同窓会・同期会等でご指導を頂戴しておりました。支配人が古希を契機にユーモアクラブを起ち上げた時には「協力するよ」の頼もしい一言で、長年取材していたユニークな「トイレマーク(写真)」を、これまた軽妙洒脱なコメントを付けて応援して下さいました。
上段写真にありますように、執筆への執念は変わらず昨年・一昨年共に賀状には「もう少し休ませてください」の添え書きはご自身の燃える執念として窺うことが出来ます。さすがに今年の賀状こそありませんが2月12日のご逝去を聞けば納得がゆきます。
大熊昭三先生 長い間お世話になり有難うございました。ごゆっくりお休みください。合掌
*去る4日、支配人宛てに川崎橘高校出身のH様より「どうも、大熊先生のご逝去をご存知無いようですね」とのメールを頂戴しました。H様 有難うございました。
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2017年02月23日(木曜日)更新
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第31日目 帰郷 大佛次郎
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本当かどうか、即断はできないが、京都の人が「前のいくさのときは・・」という時の「前のいくさ」とは、敗戦に終わって七十年も経った第二次大戦のことではなく、応仁の乱のことだという。それはともかくとして、全く戦争のことを知らない、飢餓を知らない、戦争を文字でしか知らない人たちが、もう「後期高齢者」になっている世の中である。
沖縄の悲惨や、東京など多くの都市の大空襲など、他人から聞き、本や語り部から耳にするだけ。だから限られた人たちしか、その凄まじかった現実を知ることがない。ましてや、軍に入り、その中で数奇な運命に翻弄された人の生涯など、知るべくもなかろう。
私は文学が好きで、ずい分と多くの本を読んだ。しかし、ふり返ってみると、歴史上の事件や主人公を書いた、いわゆる「時代物」はあまり読んでいない。というより、ほとんど目を向けなかった。といった方がよいだろう。今になって、屁理屈をつけるがそこに書かれた人たちは、もう亡くなって何百年も経っている。作者はその主人公たちの言動を一つも見たり聞いたりしたわけではない。あらゆる言動を作者の頭の中で作り上げるだけである。だから作者の好みが多分ににじみ出てくるだろう。それが「時代もの」の強みでもあり、弱みでもあろう。唯一の例外として、私が熱心に読んだのは司馬遼太郎さんの「国盗り物語」であった。まるで語り部のような語りに惹かれてあっという間に読破した。
大佛次郎
明治三十年(1897年) 横浜市英町(現、中区)に、父 野尻政助、母 ぎん の三男として生まれる。清彦と命名。父は日本郵船社員。二兄と一姉があり、長兄は天文・英文学者の野尻抱影
横浜市の太田小学校に入学したが、転居で卒業は東京の白金小学校。東京の府立一中に入学、卒業。
大正八年、原田酉子と結婚。十年に鎌倉の長谷大佛裏に転居。私立鎌倉高等女子学校で約一年国語と歴史を教えた。
大正十三年、大佛次郎の筆名で、はじめての大衆小説「隼の源次」を発表。「鞍馬天狗」のデビューである。十二月「鞍馬天狗」を博文館より刊行。
大正十五年、「幻の義賊」を刊行。新聞小説「照る日曇る日」を大阪朝日新聞に連載。
昭和四年、赤穂浪士を新橋演舞場や帝国劇場などで上演。昭和五年「日蓮」を読売新聞に連載。その後仮面舞踏会。白い姉。鼠小僧次郎吉。夕凪。安政の大獄など多くの作品を「改造」や各新聞などに発表。
昭和五年、久米正雄らとともに、張学良政権下の満州(現中国東北部)へ。
昭和一八年、同盟通信社の嘱託として、マライ、スマトラ、アニダマンなどに行く。マラッカ滞留中に後の「帰郷」ノメモ。
昭和二〇年、東久邇宮内閣参与となる。終戦直後ではあったが、創作力旺盛で、からふね物語。乞食大将。源実朝。幻燈など次々に発表。
昭和二三年、四月「帰郷」を毎日新聞に連載。二四年、「宗方姉妹」を朝日新聞に連載。二五年、「帰郷」により第五回、芸術院賞を受賞。
その後も各新聞や雑誌などに次々と創作を発表。戯曲「楊貴妃」「若き日の信長」が歌舞伎座で上演される。
英訳「帰郷」がアメリカで刊行され、続いてスペイン語、イタリア語、ノルウエイ語、フインランド語訳が刊行された。
大佛次郎といえば「鞍馬天狗」ということばがすぐ返ってくるが、この「帰郷」を始め「風船」「宗方姉妹」「旅路」も大佛氏の数多くない現代小説である。横浜市では大佛次郎の「文学館」を大切にして、原稿や資料、遺品などを大事に展示している。
「帰郷」は映画化された。主演は誰であったかは覚えていないが、最後の絵はダイヤの女王。それが大写しになって終わった。それだけは今でもはっきり覚えている。
帰郷 大佛次郎
白壁の多いマラッカの町は、繁る熱帯の樹々とともに、洗い出されたように目に鮮やかな色彩を一面に燃えさせていた。丘の斜面で草を刈っていたマレー人が二人を見て高野左衛子の日本の着物姿に驚いたように手を休めて突っ立って見ていた。
どういうゆかりがあって左衛子が海軍の特別の庇護を受け、三十そこそこの若さでシンガポールに来て、高級な料亭をひらいているのかは、画家の小野崎もまだ知らずにいる。・・・・インド人の店を見つけて車を停めて中に入っていった。「ダイヤモンド、ない?」左衛子の自由なマライ語であった。・・・帰りみちの途中で、左衛子はパンクを直している若い海軍士官と、背広の中年紳士に逢った。平服の紳士は、参謀の牛木大佐である。「我々について一緒に帰った方がいい。これから我々の行くところへ一緒に行って、ある人に君の純日本風の姿を見せてやってくれぬか」「牛木の私用だが、どこへ行って、どんな人間に会ったかということを、女将の胸にだけおさめておいて貰うのだ」「やはり海軍の方・・?」「いや、そうではない」パンクは直っていた。案内役の副官が一軒ずつ門を見て、ある所で急停止した。名刺を受け取って読む「これは私の古い友人だ」と、流暢な英語で言う。牛木大佐の足音は、部屋の入口で停止した。ベランダに立って海を眺めていた人は振り返った。牛木大佐が、例の強い調子で見守っているのと丁度目が合った。「守屋」と大佐は押し出すようにして「生きておったか、貴様」 無言のまま笑って、これも強い目で見返していたが「貴様、か?」と妙に孤独な感じでその人は呟いた。「久しぶりで俺をそう呼ぶ奴に出合ったものだ。何年目かしらん。しかし俺の名を忘れんで来てくれたものらしいな」「何より元気なので結構だ。しかし・・・・貴様、もう大佐だと!」「そんなものらしい」と牛木大佐は笑った。「だが、貴様、どうしてこんなところにおる?」「国籍もどこにあるか覚束ない人間が、どこにいようが不思議はない筈だが、しかし流石の俺も驚いたのだ。スマトラのサバンから船でシンガポールへ入ったらこの戦争じゃないか。俺の船は、プリンス・オブ・ウエールスが出動して行くのと港の入口ですれ違ったが、まだ戦争とは知らなかった。上陸して否も応もなく、そのままシンガポールに足留めだ。日本の爆撃機が、頭の上の空をとびおった。海軍機だなと思い、実に何とも言いようのない心地がした」「何のためにシンガポールに来たのだ」「ヨーロッパへ帰る汽船をつかまえるためだった。・・・・俺は地方人だ。もっと悪く、もう日本人じゃないんだから」「貴様。海軍に戻って・・・・死場所を得ようと思わなかったか」「しかし、言わしてくれるなら言う。公金費消者、横領を働いて外国で失踪した人間を二度使うほど、帝国海軍が、がたがたになって来ているのかね」「俺は事情は聞いていた。貴様がそんな破廉恥の奴じゃないと知っていた。気性からひとりで罪をかぶってしまったのも、うすうす感じていなのだ」
そして牛木は「ひとり息子に先に行かれたことで、心おきなく任務につけるというものだ」「息子さんが!どこで?」「ミッドウェイだった、二十三歳だった」姿勢よく出てゆく大佐の後を、守屋恭吾は大股に歩いて追って行った。「牛木」「今にして俺は、若い日の軽率妄動を悔いる。しかしこの愚かな戦争で、貴様などが死ぬことはないのだ。何としてでも生きて還れ。生きていて戦争を早く止めるように」「遅かろう、遅いのだ」
左衛子はダンスホールの外房になっている喫茶店の卓を占めて、落ちついて雨の勢いを見ていた。中国人らしい紳士が、外から入ってきてヘルメットを脱いだとき、「あ!」と思わず口走って、笑顔で立って迎えた。男はマラッカの華僑の家で会ったことのある守屋恭吾である。・・・・牛木はどうしたと聞くと左衛子は「出かけた」と答える。「そうですか、出かけましたか」自殺しに行ったのだと恭吾は言った。・・・・しばらく話しているうちに家族の話になり「お嬢さまがおありでございますって? おいくつくらいに?」「二十」「お名前は何とおっしゃいますの」「伴子」
人に案内されて、車で出かけた先は、杏花村という京蘇料理の店であった。左衛子も二、三度行ったことがある。二人は階段を四階まで登った。奥の部屋に人が多勢集まっていて、紙幣のやりとりをしていた。恭吾は「さまよえるユダヤの人」の話をしたりして、やはりヨーロッパの方がいいなども語った。そして恭吾はぬっと椅子から立ち上がった。思わず左衛子はおびえて媚を消した。「マダム」と強い目で見て「抱いてもいいかえ?」「どうぞ」−「奥さまを思い出してくださいまし」警戒警報のサイレンが尾をひいて外で聞こえたようであった。
マラッカの刑務所は、町外れにある小さい建物である。インド人ばかりの所と隣り合わせている。鉄の扉をしめて厳重である。英文の書類を渡した客が「先生」と叫び、はっきりした英語で叫んだ。「葉です。お迎えに来ました」守屋恭吾が木の腰かけから立ち上がって、若い葉氏を見まもっていた。「釈放です。もう外へ出ていいのです」「戦争が終ったから」「終わりました。先生」
日本人の手から経営がはなれた英字新聞や華字紙がこの部屋にも入ってきた。ミズリー号の上の降伏調印も、元帥マッカーサーの日本本土進駐も写真入りで報道せられていた。時折、自分を取り調べた憲兵の顔を思い出して苦痛を感じることがあった。
日本の兵隊が、三、四十人、分散して、黒々と、死んだように地面に寝ていた。ふいにダーン・・と響く鈍く重い爆音が追ってきた。自決したのである。ビルマあたりにいた兵隊たちは、南に行き、歩いてマライ半島を南下した。途中、続々と死んでいった。八百屋がいる。会社員がいる。平和なちいさい生活を営んでいた人たちだ。親や妻子と別れることなど夢にも考えずにいた人たちである。
バツウの大洞窟に行ってみた。壁に、手の届く限り、落書きしてあった。英字と漢字で人名ばかりである。日本人の名が多かった。
恭吾の視線は一か所に停止した。「高野左衛子」ゆるやかに微笑が涌いてきた。葉氏が言う。「つらい・・苦しいでしょうよ、日本は」恭吾は答えた。「そう思うから帰るのだ、葉さん、やはりヨーロッパに戻る気はなくなった」「帰って何をします」「それは分からない。しかし永く分かれている女房や子供も日本にいるので」「ああ!それならばオールライトだ」
終戦後、三年の東京。小野崎公平の画はなかなか売れないが、道楽で習ったギターをひけば内職になることを知った。このビルの四階にひらいたキャバレー。左衛子の店は繁昌していた。小野崎はここでも頼みこんで唱わしてもらっていた。後日、左衛子はこの画家を呼び出した。「あなたの乗っていらした船に、ずっと昔、海軍にいらしたことのある守屋恭吾って方が、ひょっとして乗っていらっしゃらなかったしょうか」−あなたのお船、軍人でない人だけ乗ってきたんでしょう」そこへ甥の岡村俊樹が顔を出した。
左衛子は熱心だった、「こちらに家族の方がいらっしゃるのを何とかしてお所を探したいんです、でも、もう海軍省はないし・・」「それなら、どこかで兵学校名簿を見るか、もとの水交社の会員名簿を探せば出ているでしょう」左衛子は言い出した。「牛木利貞少将が同期だったんです。あのお方ご無事だったんですって」やがて二人は電車に乗って帰ることにした。並んで腰かけた。画家は言う。「俺はね、南方に行って現地のみじめな生活を見てきた。上野のルンペンや復員者たち、浮浪児たち。画は拙いけれど、苦しい絵をきっと画いてみせる」そして彼の視線は写生のモデルのように動かずに、瞳は一方に釘づけにしている美しい顔を一つ見いだした。外套もきちんと身についた紳士であった。画家は知る筈はなかったが、これは守屋恭吾であった。
新宿に着いた電車から画家が降りて行った。岡村は中野まで行く。その向こう側の席に、守屋恭吾は両腕を組んだ姿勢をまだ崩さずにだ。視線もまた、斜め前に腰かけている若い男からはなれない。まだ二十六、七の青年だが、飯田橋駅でこの男が乗って来て、向こう側の席に腰をおろし、ふと顔をみた時、夢かと思って見つめたものである。恭吾は相手も記憶を失っていないのを見た。二十四時間、交代で番人をつけて直立不動の姿勢を取らせ、一睡も許さずに同じことをくり返して尋問して故意に疲労させたり、棒で突いたり叩いたりした、(こいつだった!)忽然と目の前に現れた。東中野について、ドアの開いた音で男が急に気がついたように目をひらき降りてゆくのを見て、恭吾はやはり立ち上がってあとにつづいた。・・・・焼野原の向こうの黒い丘の上に、遅い月が上がっているのがみえた。「君。僕を忘れていなかったな。」「どなたでしたろう」「忘れた?それならそれでよい。思い出すようにしてやろう」
駅で派出所を尋ねると真ん前であった。「牛木さん、あの、海軍の」巡査は方向を指して教えてくれた。円覚寺の前を鎌倉の方に歩いた。家も小さく、屋根も粗末なトタン板。「牛木」という新しい表札を見つけた。頭の禿げた大男がこちらを見ていた。「牛木・・閣下のお宅はこちらでしょうか?」「牛木は私です」「しかし閣下というのは、もう日本には存在せぬ。気をつけた方がいいな」「実は少々お伺いしたいことがあって来たのですが・・海軍の御同期の方で、守屋恭吾とい方をご存知でしょうか」「知っています。その守屋なら、ここへ訪ねてくると電話をよこしたので、先刻から待っているのだ」・・・・「何年ぶりだろう、君とこうやって外を歩くのは?」円覚寺の境内は、年とった杉の大木が多い。
「小野崎さん、お客さんよ」このアパートの管理人の女房がそう言った。玄関の土間に、洋装の若い女が待っていた。雑誌のエトワールから伺った。マラッカはこちらの先生がくわしいと伺ったのだという。「エトワール社の守屋・・ばん子さん」「伴と書いて、とも子と読みます」伴子は「家」から開放された。女でも自活できるようにという母の訓えの通りで、彼女はエトワール社の雑誌の編集を手伝うことになった。伴子がお父さまと呼んでいる隠岐達三に出合ったのは社に戻る途中であった。軽快に追いついて肩を並べて歩き出した。達三は終始、自由主義者だったと称しているし、戦時中に書いた二三の著書も追放の理由とならなかった。
春の午後。巨きな汽船が本牧の鼻をはなれ斜陽を浴びながら沖を通って行くところであった。「静かなこと」左衛子はつぶやいた。連れてきたお種は、夫信輔の妾である。赤坂の妓籍にあるのを、夫と深い伴にあることを知ると、親もとに話をつけて引き取って来て、以来、一緒に住んでいる。左衛子は、伯父が軍事参議官までした海軍の元老だった関係を利用して、戦時中、シンガポールへ単身出かける大胆な行動に出た。次第に個性が明らかになった。
自動車は木屋町通りへ入ってから間もなく止まった。父親のいる旅館の名を読んだが、「守屋さん、今さき、どこへお行きやしたんどっしゃろう」金閣寺へ行ったという。後を追うようにして伴子は車で金閣寺へ。いよいよと伴子は感じ、かすかに胸騒ぎがした。恭吾は、奥の廊下に腰をおろしている伴子を見た。自分も覚えのない動作で立ち上がった伴子。「おいくつ?」「何をしている?」当たり前のようなことを聞かれて「父は海軍でございました。もと」「お父さまはご健在なのですな」自分の父親と男の顔を、伴子は大きな目で見守り、強く頷いてみせた。「私も海軍にいたことがある。あたなぐらいのお嬢さんのある方だと、兵学校もあまり違っておらん筈のように思うが」伴子は不意にそれを遮った、「お父さま」と素直にすらすらと口に出て「あたし、伴子さなんです」 いろいろ語ることがあった。「大きくなった。よく育った」と幅を太く言って、声はうるんでいた。「俺のところへ来てはいけなかった。しかし、よく来てくれた。礼を言う」夜行で東京へ、お友達と一緒に帰るという伴子と、恭吾の宿に戻って、いろいろ話をした。紫色の台座にダイヤモンドが光るのを目にした。頂きものである。しかの伴子は好きではない。「誰がくれると言ったの?」「申し上げない方がいいんです」夜。恭吾は京都駅まで伴子を送って行った。しかしホームまでは行かない。握手して「重ねて礼を言う。よく会いに来てくれた。しかしおっ母さんのことを頼みます。離れていても安心していられるのはこの上なく幸福のことだ。からだを大切におし」
左衛子は来なかった。東山のトンネルのあと、また汽車は長いトンネルに入った。大津の駅にとまると、乗客は窓や入口の戸を一せいに開け放った。その戸口から、左衛子が入ってくるのが見えた。
恭吾が東京へ出たのは秋になってからである。電車に乗って一つ橋でおり、共立講堂の前に立った。「新文化の下における倫理」という講演会。講師はかっての妻が再婚した、隠岐達三である。終わって出てきた男は、、またいそがしそうに、新聞社の座談会の方に出るのだという。参議院に立候補するという噂もある。新聞社へ行く車の中で、恭吾は達三と話し合った。
宿へ帰ろうと銀座の方へ出た。脇道へ入るとビルの地下にある酒場の看板にひかれてそこへおりて行った。そして電話を借り、変わりない妻の声を、そして伴子の声を耳にした。地上へ出たところで、恭吾は偶然、牛木利貞の姿をみた。石鹸会社の発送主任という勤めを始めたという。牛木が平凡な好々爺に見えた。「昔を知っている奴が裁判にかけられているのを見ているのが一番つらかった。陶淵明なんて柄にもないものを見ていたら、「日入って郡動息む」という文句があった。まさに日本は郡動だったからなあ」
酒場に入って二人はビールを飲んだ。夜はふけた、裏通りには人通りもなかった。箱根に宿を取っている。紅葉には早いが遊びに来ないかと言って宿の名を教えた。
恭吾は次の間に誰か入って来たのを感じた。左衛子も座っただけで恭吾を見守っていた。「とうとう、私、まいりました」「今夜はとうとう、・・伺いました」・・・・「一旦は、それァ神戸へ帰るが、そこから、もっと遠くへ、どこへ行くのか知らぬが、また出かけるのだ。差当たって香港か上海だろう・・娘に会ったよ、日本へ帰って収穫はそれだけだった・・子どものことを考えていると、心がきれいになるものだ。親とはそういうものなのだな。マダム」
「君が勝つか、僕が勝つか。神様に判断してもらおう」恭吾はトランクを持ってきた。
「勝負のきめ方は簡単だ。赤が出るか黒が出るかでよい。マダム、ダイヤの札は君にあげよう。ダイヤの女王をね。僕のはスペエドだ。君が切って、君がめくりたまえ」
「わたくし、守屋さんがどなたより好きになっていたんです。好きで好きで、苦しくなったから伺ったんです」左衛子は自分でトランプを切り、卓の上に伏せた。「出ないわ」「出ますよ」スペエドの女王の札が実に黒々とした感じで出てきた時に、流石に左衛子はあっと口走った。
「勝ったか」と恭吾は言った。手をのばして残った札をめくってみると、一枚置いた下にダイヤの女王は重なっていた。・・・・翌朝、左衛子が訪ねて見た時、恭吾は小田原で朝の急行に乗るといって山を降りて後であった。
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2016年10月27日(木曜日)更新
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第30日目 夫婦善哉 織田作之助
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山陰の、どこか小さな田舎町の出身なのに、いつの間にか「そうやんけ」などという、おかしなアクセントの関西ことばを口にして、元を知らない人たちには「あいつも、吉本の流れか」と思わせておく。かけ出しの芸人も、売れない芸人も「ああ、吉本か」と思わせておくのが一番であろう。
本屋さんの棚をみて、もう盛りは「又吉さん」あたりに落ちついたのだろうが、一時はやたらに目についた。まず始めは「大阪学」、それから「博多学」、続いて「札幌学」、そこらあたりで終わるかと思ったら「広島学」が目についた。つまり、各地方の特長、個性などを読み物としてまとめたものである。
私は、戦前の名古屋に近いところで三年近くを過ごし、戦後も知多半島でしばらく暮らしたから、知らないことも多いが「なるほど」「そういうことか」と、名古屋人について「なるほど」と納得させられることも多い。名古屋(岐阜もふくむ)の喫茶店は、住宅街で繁盛している。日曜日の朝などは、そういう店のモーニングサービスは、子供連れの家族で賑わっているという。モーニングサービスに「みそ汁」があるのは当たり前だそうだ。もし、清州でそういう店があったら、まっ先に織田信長が客になったに違いない。北海道については「札幌」の名で、千石という方が書いている。勿論、他にもいて、札幌や北海道というのは、題材としては、まことに書きやすい土地なのかもしれない。開拓者たちは、古い因習などは、みな内地へ捨ててきた。そして豚や牛と一緒になって原野を切り拓いてきた。市街地は別として、「一寸、隣へ行ってくる」という隣の家が実は一キロくらい離れているのは当たり前である。ごく普通に走っているはずの車。しかしメーターをみると100キロ近いスピードが出ている。広大すぎて距離感覚が内地とずれているのだ。
こういう特色のある県などが、まっ先に本にまとめられる。地味な県、特色のつかみにくい県などは、一般の人たちの記憶にも残っていない。具体例として名をあげて恐縮だが、茨城、栃木や、鳥取や島根などがそうであろう。
電車を待つ人たちが列を作らない。電車が入線してくると、我先にと乗車口に殺到する。東京や、関東育ちの人たちは、下車しようとしても入口に殺到する大阪人のために押し戻されて、いつまでたっても下車できない。次のバスは、いま〇〇の停留所を出た、という表示が考えられたのも大阪だという。
違法(不法)駐車は大阪の名物。善悪ではなく、損得なのだという。青信号が点滅していても、黄信号は大阪では「行け」というものらしい。そして、大阪を研究するどなたも口にするのは「武士の社会は建て前が大事。しかし大阪商人は本音の社会に生きている」 つまりは、江戸は武士の社会であり、大阪はそのほとんどが町人=商人であった。
水上滝太郎は小説「大阪」「大阪の宿」の中で「無秩序に無道徳に発展する大阪」とこき下ろし、谷崎潤一郎は「大阪人の不作法さ、垢ぬけのなさ」を指摘する。松尾芭蕉は伊賀の人。元禄の昔、大阪に入る。宿のまわりが昼夜を問わず騒がしい。「気づまりで興を失った」と江戸へ手紙を書いて早々に兵庫へ向けて発った。
大阪の漫才は、相方をアホにして、どついたり、倒ししたりしていじめぬいて笑いをとる。東京の漫才は「笑われる人間を作りあげる。そしてその原型はやはり西鶴であった。
織田作之助。大阪、天王寺区の裏長屋で生まれ、育った。進学組に入り高津中学に合格した。やがて第三高等学校に合格したが、留年をくり返し、あげくに父が死んで一家は離散。彼も校則により放校。昭和十二年に上京。かっての東大。その前にある落第横丁に下宿する。妹からの手紙をトイレで読んでは泣き、ボックスへ戻って悪友たちとバカ騒ぎ。大阪に帰り、新聞記者をやりながら「夫婦善哉」を書く。昭和十五年、これが文芸推薦となった。審査員で大阪生まれの武田麟太郎と宇野浩二が推した。ところが、審査員の一人の川端康成は「若さと気品を欠く」と批評した。・・・・いったいに大阪人は虚飾をきらい、気取りやキザな態度を避けて、露骨なまでに自然を尊ぶという性格を持っているが、西鶴もそうだった。
二十年八月。戦争が終わった。織田作之助は、太宰治や林芙美子らとともに流行作家となった。小説の神様、志賀直哉は織田の書いた「世相」を載せた雑誌を「汚らしい」と投げつけた。「二流文学論」を書いて志賀に挑戦した。「可能性の文学」も志賀への挑戦である。翌二十二年一月、銀座裏で喀血し「東京の奴らが何だ」と言い切っていた織田作之助は死ぬ。三十五歳だった。
夫婦善哉 織田作之助
蝶子は十七歳のとき、両親の反対を押し切って、大阪、北新地の芸者になった。声張りあげて唄を披露する蝶子は、はっさい(お転婆)を売り物にして、人気の芸者になっていった。やがて彼女は、安化粧問屋の若旦那で、気の弱い柳吉と馴染みにとなったが、問屋の跡取りである柳吉には妻子があり、中風で寝たきりの柳吉の父親は、二人の仲を知るや、すぐに柳吉を勘当した。二人は駆け落ちする。東京でまとまった金を手にした柳吉はまた病気が出て、熱海で放蕩生活。関東大震災にあって、二人は大阪へ逃げ帰る。
蝶子は芸者になって稼ぐが、柳吉には全く稼ぎがない。関東煮屋、果物店など、あらゆる商売を始めては失敗した二人が、何とか成功したのは、女給をおくカフエであった。しかし、商売が大当たりしても、柳吉の父親は二人を認めようとはしなかった。そのまま他界する。父親の葬儀をすませた柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こうか」と蝶子をさそい、二人は法善寺境内の「めおとぜんざい」の店に向かった。
この作品は織田の姉夫婦がモデルだと言われている。これを読んだ織田の姉夫婦が、自分たちのことを書いた、と怒ったというが、彼は決して義兄のだらしなさをなじろうとしたわけではない。
この作品は何度か映画化されている。私も一度見たことがあるが、豊田四郎監督で、蝶子を淡島千景、柳吉を森繁久彌が演じたものである。二人のその後を書いた「新、夫婦善哉」という映画も作られたが、この部分は織田作之助の作ではない。
なお、小説では未完の長編「土曜婦人」などが有名である。
ほとんどを大谷晃一氏の「大阪学」(新潮文庫)に拠った。
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2016年08月25日(木曜日)更新
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第29日目
作家 丹羽文雄のこと 父・丹羽文雄 介護の日々
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一面。一番下の広告欄で時折目にしていたが、いわゆる三面記事の欄で、この社の名前を目にするのはあまり無いことだった。教科書選定のころに、問題集を先生方に進呈したということである。「え?」と、もう一度、大きな字の見出しをみつめた。そこにははっきりと「英語科」とあった。私が東京高等師範学校を卒業してから、もう何十年も経っている。あの当時は、「国語、とりわけて漢文の大修館」という認識が強かった。時が流れれば、大修館が英語に手を出しても何の不思議もあるまい。そう思いながら、私は一旦は教師となって都内の学校に就職したが、途中からこの大修館に入社。教科書選択や、辞書の選定などで、時折お会いすることのあった、一年先輩のY氏のことを憶い出した。一期上のY氏とは学科が同じ「国文科」である。当時。戦時中の抑圧から開放されて、文学は太宰を始め織田作之助や坂口安吾など、いわゆる無頼派の花ざかり。勿論、戦前からの船橋聖一や丹羽文雄、石川達三などの大家も書いている。紙質の悪い再生誌でも、作って売れば、いくらでも売れた時代であった。「文芸クラブをやろうよ」とY氏に言われて、私も仲間何人かに話を持ちかけた。そして空いた時間などには、道路一つをへだてた向かいのお茶の水女子高等師範学校へ出向いては、国文科の人を呼び出してもらい、校門付近でいろいろ話しあった。「はい、そうですか」と、すぐ出来上がるものではなく、むしろ異性と話すことなど全くなかった青年たちは、話し合うこと自体を楽しんでいたといってもよい。
ある時。わけを話して、父に米を少し分けてもらった。家で穫れた小麦からの粉や、野菜類などを少しずつ父から貰って荷物を作り、何という駅で下車したのか、今となっては定かではない。まだ、マンションやら、高層ビルなどが出来ていない時代のことである。丹羽文雄氏は若い者の面倒見がよい。ということで、住所なども雑誌に出ていた。うろうろしながら、土地の人に聞いたりして、やっと辿りついた。玄関に入って、米などの品を、お子さんにさし上げたか奥さまにさし上げたのか、それも定かではない。そして20枚ほどの自作の短編を、「読んで頂けますでしょうか」と差し出したのは覚えている。奥の方から、話し声、笑い声などが聞こえてくる。多分、弟子たちが集っているのだろう。ややあってから、先刻の短編を返してくれた。そして「今の勉強をまず大事にしなさいとのことです」それを聞いて私は、勝手に少しは脈があるのかなと、思いこんで丹羽家をあとにした。
今から二十年あまり前のことである。
東京高師卒業生だけでなく、文理大の卒業生もふくめた同窓会組織を「茗渓会」という。年四回、季節ごとに機関誌を発行している。何気なくページをくっていて、消息欄に眼がとまった。Y氏の名前が「お悔やみ申しあげます」の欄に書いてあるではないか。同期の友よりも親しくして頂いた人である。まだ仕事も中途ではなかったか。現職であったころに私に、大修館の営業職を通して、いつもことばをかけてくれたYさん。学年は違っていても、Yさんとは文学が好きで、という気持ちは通じ合っていたようだったが、同人誌も出さないまま、社会人になってしまった。そして永の訣れとなったのだ。
文士仲間が集う、いわゆる文壇では美男子で通っていた丹羽文雄氏、「介護の日々」とあるから、身体の故障ではなく、当節でいうなら「認知症」になったのかもしれない。「父」とあるから「父 丹羽文雄・介護の日々」というこの本の著者、本田桂子さんは実のお嬢さんであろう。
「アルツハイマーになった父、丹羽文雄の介護経験を『婦人公論』(一九九六年九月号=平成八年)に発表するという機会を頂いてしまったのです。・・・・この手紙を書くようにすすめて下さったのが、瀬戸内寂聴さんでした」・・・・「京都に行ったときには、いつも瀬戸内さんの寂庵に伺うようにしています。瀬戸内さんが、まだ晴美と名のっていらした頃、父のところへちょくちょく顔を出してくださっていて、よく存じあげているのです」「書いてみて驚きました。大きな反響をいただいたのです。丹羽文雄は寝たきり老人になっているのかと思っていた。・・・・よく赤裸々にあそこまで書いた。自分の老後のあり方を考えさせられた。・・・・改めて丹羽文雄って偉い人だったんだと思った次第です」・・・・「作家、丹羽文雄は娘の私にとって「父」というかけがえのない存在であると同時に、理想の男性でもありました。背が高くハンサムで、何を着てもダンディで、かっこよくて・・。寡黙ではありましたが、口を開けばしゃれた言葉で、機知に富んだ会話を楽しむ。・・・・ゴルフ好きが高じて始めた丹羽文雄学校では・・・・懸命に指導する。同人誌の主宰としては、後進の育成に心魂を注ぎ、文学青年のように議論を戦わせる。妻を思いやり、子どもたちを愛し、孫たちをかわいがる。・・・・ひとたび筆をとれば、何人も近寄りがたい、修行僧のような気高さで、孤高を持して机に向かう。素敵でした。どんな父も大好きでした。私の自慢であり、誇りであり、尊敬の的であり、そして最愛の人でした」
四日市は丹羽文雄氏のふるさと。生涯の中でつくった唯一の俳句を刻んだ句碑が完成し、除幕式に招待を受けた。句碑の建った鵜の森公園は、父の子ども時代の遊び場だったところ。実家の崇顕寺から東を眺めると一面の菜の花畑であったらしい。『古里は 菜の花もあり 父の顔』 この句を刻み、副名に、父の活躍を刻んだものである。
早稲田大学在学中に文壇に登場した。・・・・旺盛な創作活動に生き『鮎』『菜の花時まで』『厭がらせの年齢』『路』『一路』『親鸞』『蓮如』『妻』等々の偉業は日本文学史上に輝く文化勲章を御受賞になる。
四日市名誉市民 丹羽文雄先生八十一歳の春 門下生 河野多恵子
父は状態が悪くても、何も認識できないときでも、私のことだけはわかるようでした。「桂子よ」と言うとすぐに「おお、桂子か」と喜んでくれるのです。それが最近はどう言っても私がわからないときがあります。・・・・あるとき、丹羽の家に行きましたら「お前は誰だ」と言うのです。「桂子よ、桂子じゃないの」と何度言ってもわかってもらえず「帰れ、帰れっ」とすごい剣幕で怒鳴るのです。そんなときは「どうしてわからないの」などとネチンチ粘らず「あら、ごめんなさい、失礼しました」と退散します。・・・・昼の部、夜の部のお手伝いさんたちも、ほんとうにやさしく、温かく、父に接してくれています。一日に最低一度は出る父の口癖「四日市に帰りたい」のときも上手にかわしてくれています。すぐに「じゃあ、今から四日市に行きましょう」と父を散歩に連れ出して下さるそうです。父はとっても嬉しそうにいそいそと外に出るのですが、近所をひと回りすると、もうすっかり四日市のことは忘れてしまって、静かに家に帰るのだとか。・・・・
父は友人の作家、石坂洋次郎さんが、急速に耄碌してしまったことにショックを覚えて書いた文章の中で、こんなことを言っています。「自分の心を失うということが、どんなに悲しく、おそろしいことであるか。私は半世紀にわたって文学による自己表現の仕事に従事してきたが、私という人間が激変するなど想像もできないことである」・・・・症状が悪化して、記憶がとぎれるのと同じように、原稿もとぎれとぎれ。部分、部分は書けても、間がどうしても書けなくて、結局は話がつながらなかったり、書き始めてもすぐに何をしているのか分からなくなったり。・・・・正常な自分とおかしい自分が、ひとつのからだの中に混在しているわけですから、父も辛かったと思います。
【雑談】 世の中は、ままならないこともあれば、そんなことが・・というような面白いこともある。だいぶ前に、恥ずかしながら、一人前ヅラして、かっては文学青年であったことを書いた。瀬戸内寂聴さんとしばらく手紙のやりとりをしたこともある。彼女は文字通り四国の方である。その彼女が東京へ何度もやってきて、丹羽文雄先生の所に出入りしていた、なんて、この本田さんの本を読んで初めて知ったことである。
地元というか、生家から通えるところ、というか。そういう所に就職するのがごく普通であろうが、K君は敢て川崎をはなれ、大学を出たあとは、関西が拠点の企業に就職した。奥さんは京都の方。なかなか会いに行く機会がなく、彼の家を訪ねたのは、彼が亡くなって六年が経っていた。長い間、舞鶴の方に居住していたが、伊勢湾に面したこの土地をついのすみかと思いを定めたのであろうか。迎えに出てくれた奥様の運転で、車は海をはなれた住宅街の方へ入ってゆく。というようより、昔ながらの家と新建材を使った家が混在している一帯を通った。神社の前も通ったし、古い寺院の、年を経た大木も目にした。あるいはあれが、丹羽文雄氏が生れ、育った崇顕寺であったかもしれない。そんなことなどを考えるたびに、丹羽文雄氏と、多少の縁があっただと、感じ入るのである。
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2016年07月28日(木曜日)更新
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第28日目 「一寸さきはヤミがいい」 山本夏彦
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文学青年を気取って、なま意気なことばかり喋っていた学生時代。ごく当たり前の教師にしかなれなかったが、教師の仕事をしながら本を書く。共著をふくめれば、十冊余りを出したことになる。寝る時間を削って、まとめあげたこともあった。資料を見つけに、あちこちの図書館に通いつめたこともあった。夢を追いつづけた作家にはなれなかったが、自分の名がついた本を、書店の書棚で目にしたときは、ささやかな夢がかなったと、自分を祝福したい気分であった。
私なりの意見を、一つの論としてまとめあげるには、やはり多くの先輩の方々、評論を書きつらねる方々の意見に、耳を傾けなければなるまい。多くの方々の本を読んだ。そして多くのことを教えて頂いた。
原稿がまとめあがる頃、私はそういう方々に手紙を書いた。何人かの方々に、コピーでは失礼だから、自筆で手紙を書き、どういう本の、何ページ、何行目から・・といって、その部分を書き出し、私のこれから出版する予定の「・・・・」という本の一部に引用することをお許し頂きたい。勿論、その本は、一部、贈呈させて頂きます、と書き添える。
注文をつけられることはあっても、断られることはなかった。ただし、多くの方々が、日常の活動で大へんお忙しいのであろうか。ご本人が直接書いて下さることはまずないといってよい。私は宛名を書いたハガキを同封してお願いしているが、そのハガキに書かれた文字はご本人ではなく、恐らく大学の研究室の方か、秘書の方ではなかろうかと思う。ご本人が直接書いてご返事を下さったというのは、十五日の頃に書いたであろう「アーロン収容所」の会田雄次先生。そしてこれから書かせて頂く山本夏彦氏。このお二人だけであった。
新聞の一面、最下段は本や雑誌などの広告欄になっている。二面や三面にも広告欄は広がっている。特に二面や三面の場合は多くの関心をひきつけようとしてか字もかなり大きい。そして、どぎつい表現が目につく。一面では字はあまり大きく出来ない代りに、意表をつく広告が時折目にとまる。時には本の広告なのか、それとも薬の広告なのかと、一瞬迷うこともあるような広告も目につく。そんな中で「室内」という雑誌はきわめて、こういうことばをつけたくなるような、きわめてオーソドックスな、まじめな雑誌であり広告のやり方であった。勿論、「室内」という雑誌の名前からしてきわめて地味であるし、一般的なものとは言い難い。主宰していた人。社長と申すべきなのか、それが言いたいことを正直に言い、そのコラムがことごとく、うん、なるほどとうなづかせる、そんなかけがえのない人、山本夏彦氏であった。
例えば、「核、廃絶」「原子力発電、絶対反対」と口で叫び、行動に移して、デモ行進に加わったりする。そして家に帰れば、原子力発電のお陰でストーブをたいている暖かい部屋で、テレビの歌番組を楽しんでいる。山本氏はそれをこう評する。「出来てしまったものは、出来ない昔に帰れない」と。
多くの本をお書きになった。私の貧しい書架にも山本氏の本がいくつかある。「寄せてはかえす波の音」「ひと言で言う」「完本文語論」「最後の波の音」「良心的」「死ぬの大好き」「一寸さきはヤミがいい」 これらを書いて名言を残して平成十四年、八十八歳で亡くなる。
著書からの引用、お許し頂ければ幸いです。という私からの手紙に、直筆で「どうぞ」と返事を下さったのは先に記した。会田雄次先生と「室内」主宰者の山本夏彦氏お二人だけであった。「文庫本、世は〆切。降る雪や明治は・・・の成り立ちの要約、承知しました」このハガキは宝物として大事にしまってある。
茶の間の正義。日常茶飯事。変痴気論。読言独語。笑わぬでもなし。愚図の大いそがし。かいつまんで言う。つかぬことを言う。二流の愉しみ。ダメな人。何用あって月世界へ。意地悪は死なず。誰か「戦前」を知らないか。完本文語文。寄せては返す波の音。
きびしくも楽しいコラム。一〇九編を収めた「一寸さきはヤミがいい」 新潮社刊より
遠きみやこにかえらばや
十月十七日号グラビア冒頭をご覧あれ。うっかり通りすぎるところだった。第一ページといえば、本来なら雑誌がいちばん力をいれるところである。見ると何の奇もない紳士服売場である。文字はタイトルにしてはわざと小さい。「遠きみやこへかえらばや」とあるだけでコメントによれば室生犀星の詩の一行である。この一行なら犀星没して四十年、本誌の読者の大半は知っているだろう。知らない若い読者でもどこかで目にし耳にしたことはあるだろうと、私は改めてこの不思議な巻頭をよく見た。画面まん中にいる中年の男子が主人公だということは分かる。ほかに売子と客が二、三人いるが、誰も注目していないからこの人無名氏にちがいない。むろん私も知らない。コメントによると、十三歳のとき漁船が座礁して救助され、三十九年ぶりで北朝鮮から生れ故郷の石川県に帰ってきた寺越武志さん(五十三)だと分かる。北朝鮮なら日本語は自在である。ここまできてこの人いま問題の拉致団と関係あるらしいと疑われたが、これは全くの別口と判明したから騒がなかったのである。私は去る一月から入退院をくり返してテレビも新聞も見ていなかったので知らなかった。この人を巻頭に据えたのは編集長の手柄である。この十月四日、母親の友枝さん(七十一)に付き添われて金沢市内の土を踏んだ。さぞ「今浦島」の心地だったろう。長寿国になったとはいえ、この母親が生きて七十一で我が子に会えたのはめでたい。
次は牛鍋屋で歓迎の宴の帰途の写真。続いて買物をして福引大当たりの図である。(これはちと「やらせ」くさい)金沢は戦災に焼け残った都である。ビルだらけであろうが、まだ三十九年前の面影をとどめている露地や横丁は残っているはずである。ここは明治六年の昔、泉鏡花の二十年近く遅れて室生犀星が生れた都である。
犀星は父が女中に生ませた子で、すぐもらいっ子にやられ、筆舌に絶する苦労をした人である。自分の天才を信じて上京したが、誰にも相手にされない。恥をしのんで古里に帰ること両三度、常にうしろ指さされる思いをして二十代を過ごした。
けれども金沢はなお都である。小京都である。異郷にあっても夢寐にも忘れられない古里であるが、もう帰れない。二十三、四の犀星にとっては古里はもう知らぬ都にかえるよりほかないのである。
二十余年、日本人であることをかくして、ようやく私は日本人ですと名乗って認められ、要職というほどのものではないけれど、そしてそれはいつ反転するかわからぬ身分ではあるけれど、私は本誌編集長が、これを巻頭に据えた見識を嬉しく思わずにいられない。ことにタイトルの文字がひっそりと小さく、また犀星の詩の一行を借りたのもさすが古い文芸出版社だと思わずにはいられない。蛇足だが若い読者のために詩の全部をかかげておく。題は「小景異情」その二である。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食なるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
*週刊新潮に連載された“写真コラム”は一〇〇〇回を越えた。
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