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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2019年02月15日(金曜日)更新

第536号 〜酔狂だから"うなり坂"も登る〜

 近頃は雪と寒さでゴルフはもちろんテニスもあまりやってない。
 ゴルフ場は積雪さえなければオープンしているだろうが、寒風の中着ぶくれてスィングしたってボールは思うように飛びやしない。それに私のプレーはドライバーが当たりさえすれば80パーセント満足、スコアなんか二の次といった"いまだに初心者"スタイルなので体があちこち縮こまってマン振りできないこの季節は行く気になれないのだ。
 一方テニスはコートがダメだ。団地内のコートは住人はいつでも格安に使えるがとにかく日当たりが悪い。
 団地には4階建ての住居棟が9棟ありコートは棟と棟の間にはさまれている。棟は全戸南向きの設計なので東西に細長く、したがってその間の空きスペースに辛うじて設けたコートもプレーの軸を東西にとるしかなく、このため太陽が低いこの季節はコートの南側の縦半分が建物の陰になってしまうのだ。雪なんか降り積もると数センチでもなかなか解けないし、解けても滑って危ないのである。だから本格的にプレーできるのは3月までおあずけだ。

 そんなわけで近頃の私の運動は歩くことしかない。とにかく機会と時間さえあれば歩く。その一例が先月ここに書いたような家内と昼を丸亀うどんで…と決めたら私だけひと足先に店まで歩いていくことだ。だから毎月1度通院している整形外科など、センセイに会ってロキソニンテープと睡眠薬を処方してもらうだけなので予約も不要、月末になると天気のいい日を選んで歩いていく。これなんか自慢じゃないが"半端ない"のである。
 往路はたいしたことない。団地からほぼ500メートル下った作並街道を広瀬川沿いにくねくねと約45分、旧市街地のはずれになる大崎八幡宮まで行く。病院は街道の反対側赤い大鳥居の対面だ。ちなみにこの八幡宮は坂上田村麻呂が現在の岩手県水沢に勧請した由緒あるお宮で、その後奥州管領大崎氏が守護神として祀り、大崎氏滅亡後伊達政宗がここに祀ったものだ。仙台城の乾(いぬい)の鎮守であり、本殿などが国宝建造物になっている。
 半端じゃないのは復路だ。赤い大鳥居から約250メートル街道を戻ると右側に急坂の狭い道があらわれる。作並街道への開口部は車がすれ違えないほど狭く、朝は街道に合流するのが一苦労という通勤難所だ。しかもその入り口からすぐに急な上りが1キロ近く直登しており、地元では"うなり坂"と呼んでいるほどである。そしてその急坂が途中からダラダラ上りになって団地裏の墓園裏口(これが火葬場の入り口になっている)まで続くのだが、経路そのものは別に往路より近くなるわけでもない。つまり常識的に考えればこんな道をわざわざ帰る必要などこれっぽっちもないので、我ながら"物好きな!"というしかない。

 したがって世間一般の極々普通の人たちの反応も見当がつく。「何を酔狂な」に始まって「若くないんだから」「自信過剰」などから、トドメは「ビョーキじゃないの」である。私にいわせればこれらはいずれも「当たらずといえども遠からず」で中でも"ビヨーキ"は自分でもそうかなと思わないでもない。
 いわゆる"ランナーズハイ"の一種、早くいえば中毒や依存症の類である。

 しかしこの年になって「ウオーキング依存症」なんてカッコいいではないか。いや少なくともアルコール依存症や徘徊老人、さらにいえば毎日いろんな薬を服んで体温血圧脈拍血糖値などの数値に一喜一憂している人たちよりはマシだろう。もっといえば前のめりに首が突き出て腰が落ち、踏み出す膝が曲がったままの老人歩きにならないだけでもいいじゃないかと思っているのだ。
 余談だが、いま"アル中"という言葉は差別用語だそうだ。したがって若者が一気飲みなどやって体調が悪くなる急性のものを"アルコール中毒"、四六時中酒びたりでいないと心身障害を起こす慢性のものは"アルコール依存症"と言い替える。言葉だけ変えても何だかなあ…だが、とにかく何かといえば"人権"を持ち出すのがいまの風潮だからしょうがない。
 余談の余談だが、いまは"老婆"さえ差別用語で、そのうちには"老人"も"老醜"も"老骨"も使えなくなるかもしれない。"ご老体"なんて尊敬だけでなく控え目な賞賛を含んだいい言葉だと思うけどね……。

 ところでさきの大崎八幡宮あたりから広瀬川を越えた先に通称"地獄坂"という急坂がある。青葉山に上っていく坂で東北大学の学生が名付けたそうだ。私には十分歩ける範囲なのでここも遠からずトライしてみるつもりだ。4年前地下鉄東西線が開通して上った後の帰りは楽になったことだし……。
 

2019年02月08日(金曜日)更新

第535号 〜降る雪や戦後も遠くなりにけり〜

 ここ「仙台は雪国ではないが北国である」という一節をかなり以前地元紙のコラムで読んだ覚えがある。季節はいま頃だったか、それとも三月下旬いわゆる"南岸低気圧"に向かってシベリアから寒波が吹き込み季節はずれの雪を降らせたときだったか、とにかく当市が大雪に見舞われたときだ。その"北国の雪"が今冬は例年よりずっと多そうな気配なのである。
 おまけに私たちの住居は仙台駅から見ると8キロほど西北西方向、元はM群M町だったところで、青葉区とはいっても500メートル下の作並街道をわずか30キロも行けば分水嶺の奥羽山脈を貫くトンネルがあり、その先は山形県だ。北日本上空の気圧配置が西高東低の冬型でしかも等圧線の間隔がせまいときには強い北西風が日本海上空の水蒸気を大量に運んできて蔵王山などの樹氷を大きくさせるだけでなく、降り残した雪を山脈を越えてこちら側まで持ってくるのだ。そしてそれは仙台市街地ではほんの小雪でもこのあたりでは数センチの積雪をもたらすのである。
 雪を持ってくる風はベランダ越しに見ていてもすぐわかる。風と寒気の双方が強い日に右手広瀬川の上流から雲とも霧ともつかぬ白っぽい気流がサーッとやってきて対面の青葉山にベールをかけてしまう。と見る間に右の方からほとんど水平に近い角度で雪片が舞い始めるのだ。私なりに精一杯の表現をすれば"冬の妖精"というしかなく、家内などうっとりと眺めている。

 ただこのあたりで積もるのは真夜中から丑三ツ時にかけて降り始めた雪だ。前夜ベッドに入るときは(近年は早寝になって8時〜9時)降りそうな様子もなかったのに、朝起きて外を見ると一面まっ白ということがよくある。雪は周辺の物音を吸い取るのか、私が寝ている部屋とほとんど同じ高さで20メートルぐらいしか離れていない仙山線の電車の響きもまったく聞こえない。まさに、
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」(三好達治)の雰囲気そのままである。

 だがせっかく積もった夜来の雪も10センチ程度だと、昼前にはあちこちが黒々としたコンクリートの地面に変わってしまうので、雪国情緒にひたるひまもない。何しろこのあたりは以前"村"だったとはいえ現在は100万都市の郊外新開発住宅地域の一角なのだ。ベランダの先に広がる約5百坪ほどの広い市営駐車場にしても、まだ暗いうちから通勤の車が積もった雪をそそくさと払い落として出て行き、車列と車列の間にタイヤ痕がどんどんひろがっていく。これが道路となると尚更で、仙山線の向こう側は一山全体墓園でも中を通る道路はどこかへの近道や経路になっているらしく、濡れた路面がすぐムキ出しになる。
 私みたいに戦後間もない頃の寒い冬を身にしみて経験している者にとっては文字どおり"味気ないことおびただしい"限りだが、これが発達した現代文明の賜物というのなら「快適な世の中になったものだ」と受け取るしかない。

 とにかく私が戦後台湾から引き揚げて来た頃、昭和20年代の仙台はいまよりずっと寒かった。私たちが住んでいたのは駅の東側歩いて10分足らずのところだったが、雪が降ると坂道で手づくりの竹スキーができたほどだ。
 青葉城大手門下の五色沼が凍結してスケートリンクになったこともよくあった。ちなみにこの沼は旧制二高の学生が日本初のフィギュアスケートをやったところとして岸辺に記念碑が立っている。また、いまは通り全体にアーケードをかけて雨も雪も"どこの世界?"といいたげな顔をしている東一番町も、当時は雪が降ると近所の未舗装地域からゴム長をはいた人達がやって来てたちまち泥んこ道になり"仙台田んぼ"といわれたものだった。

 雪景色を眺めているといろんなことを思い出す。
「上さ見れば虫っこ、中さ見れば綿っこ、下さ見れば雪っこ。」というのもそのひとつだ。言葉づかいから見て東北地方のわらべ歌の類いだと思うが正しい由来はわからない。ネットで検索したら、岩手県の酒蔵"S"が冬場限定で販売している活性原酒「雪っ子」のCMが出てきたから、知る人も少なくなったのではないか。
 そしておそらくここ仙台のいまの子どもたちは霜焼けやあかぎれも知らないだろうと思う。
 今冬の雪がいくら多くなっても暮らしはさして変わりなさそうである。
 

2019年02月01日(金曜日)更新

第534号 〜楽観を勇気に次の目標へ〜

 10日ほど前、冒険家三浦雄一郎さんが南米大陸最高峰アコンカグアの登頂を断念した。本人は自信満々だったらしいが、同行の医師から「高所での活動は年齢的に心不全を起こすおそれがある」と勧告されて従ったという。残念だっただろうけど背に腹は替えられない。
 三浦さんは私とほとんど同じ昭和7年10月生まれの申年"当年とって88歳の米寿"である。満80歳のときにはエベレスト登頂に成功しているが、冒険は30代に入った頃から始めて世界キロメーターランセ(スキーで急斜面を直滑降し定められた区間のスピードを競う)に出場したり富士山頂付近から直滑降したり、さまざまなことをやってきた。
 実は私も45年ほど前『週刊大衆』のインタビユー記事の取材で会ったことがある。今回のアコンカグア挑戦に同行している次男豪太さんがまだ幼児だった頃で、スキーのスラローム感覚を身につけさせるため彼を乳母車に乗せて近所の公園の中の道路を走り回ったという話など聞いたものだ。
 とにかく今回は残念だったが「再度チャレンジしたい」といっているそうで、次の目標も胸のうちにはあるのだろう。

 この三浦さんに関連して思い出した言葉がある。いまから100年ちょっと前に活躍したイギリスの南極探検家A・シャクルトンの「目標がなくなったら次の新しい目標を目指せばいいんだ」というものだ。
 シャクルトンは本業船乗り、航海士だ。その縁で南極探検には4回行き(はじめの2回はメンバー、後の2回はリーダー)4回目のチャレンジ途中、47歳で遭難死した。その4回の探検行でもっとも有名なのは1914年の3回目、彼が40歳のときだ。27人のメンバーと共に南極大陸横断にチャレンジしたが、船が流氷に閉じ込められて沈没、遭難する。だがそれから1年半もの間、彼はメンバーを取りまとめ励ましながら1人も死なせずに救出され、生還に漕ぎ着けたのだ。そしてそのリーダーシップが世界中で評判になり、彼自身も時のイギリス国王ジョージ5世から"サー"の称号を贈られたのだが、さきの「目標……」という言葉がこのときのものかどうかはわからない。
 というのもシャクルトンは生来一攫千金屋で、南極探検行の合い間にはさまざまな事業に手を出しては失敗し、亡くなったときは途方もない借金を抱えていたからだ。つまり「目標……」はそうした一攫千金狙いから出てきた言葉という感じが多分にするのだ。そんなわけで彼の言葉では「楽観は真の勇気だ」というほうが私にはピッタリくる。
 よく考えてみれば私自身"勇気"はせいぜい人並みだと思うし、一方"楽観"は人一倍だろうから、こういう言葉には一も二もなく納得してしまうのかもしれない。とにかく人生たいていのことは楽観するに限る。

 ところで話はまったく変わる。
 冒険家探検家と並べてみて、私は"面白いな"と思ったことがある。両者の違いではない。これは簡単だろう。文字どおり冒険は"危険をおかすこと"探検は"危険を探ること"だ。したがって前世紀なかば頃まで地球上あちこちに人跡未踏の危険なところがあったときは探検家が主流、それらが探検し尽くされてからはいかに困難な条件下でそこに挑むかを"楽しむ――アピールする"冒険家の時代になったわけだ。
 私が面白いなと思ったのはもっと単純な言葉のことで、そういうことをする人を示す"家"という言い方についてだ。英語ではたとえば"冒険=adventure"という単語の語尾に"er"をくっつければたいていのケースで"……をする人"がすぐできあがるが、日本語では一筋縄ではいかないのだ。私見だがこれは明治維新後の文明開化で新しい職業がどんどん増えたせいだと思う。つまり明治以前"士農工商"と身分がはっきりしていたときは外見だけで侍か百姓か職人かお店物か見当がつき、それぞれ相応の呼び方もできていたのが、時代が変わって男はみんな"散切り頭"職業も多彩になると、下にくっつける字も多様にならざるを得なかったのである。"家"以外に思いつくままあげると、師、士、者、員、人、手……などがある。手なんかあるかといわれそうだが運転手騎手などすぐ出てくるし、野球では審判と打者走者以外グランドにいるのはみんな〇手だ。

 それにしても"家"をつけるとまずはその分野の権威、実力者と認められるから妙だ。これが冒険屋や探検員だったらそのへんにいる日曜ランナーやその他大勢のスタッフになってしまう。作家と文士の違いである。もっとも文士は"三文々士"につながるから嫌われるので、武士に対する文士という意味ではなかなかいい呼び方ではないか。
 私が大嫌いなのは"者"をつける呼び方だ。近年の"者"は体に故障のある人に対するいわゆる差別用語を"〇〇障害者"などと言い換えたもが多く、そこからの連想で高齢者や有識者にも虫唾が走るのである。年寄りや老人、後者にしても"その問題にくわしい人"でこと足りるのだ。仰々しく古い言葉を持ち出してくることはない。

 われわれ男性はたいてい冒険や探検が好きだ。だから三浦さんの残念さもよくわかるし、一方いまの自分に引きくらべて羨ましいなとも思う。しかし今更どうなるものでもなく私は私の生き方に徹するしかない。
 せいぜい楽観的に新しい目標を目指そう。
 

2019年01月25日(金曜日)更新

第533号 〜新元号"金運元年"はいかが?〜

 30年を越えた"平成"も余すところ3ヵ月余でピリオドが打たれ、新しい元号はその1ヵ月前4月1日に公表されることになった。前にも書いたが私は平成に変わって以来"年"は公的なものでやむをえないケースを除き西暦を使ってきたので、新しい元号についてもそれほど興味はない。ただ世間には商売柄こうしたものは大歓迎という人も多いだろうから人並みの関心は持っている。
 そんなわけで先日、新聞の折り込みチラシで「金運元年」という字句を見たとき思わず「これはいいや!」とひざをたたいてしまった。持っているだけでお金がザクザク入ってくる"世にも不思議な"財布の広告である。「2019年を金運元年に!」というキャッチコピーがその財布の写真の上にドカンとうたってあり、金運元年の4文字が他は黒字にはさまれた金色の影付き活字でひときわ大きくなかなか目立つ。落語のうっかり者なら新しい元号が早くもスクープされたかと勘違いしかねない――実をいうと私も一瞬そう思いかけた。
 チラシによるとこの財布は、素材に欧米で金運や幸運のシンボルとされる馬蹄の紋様を細かく刻印した合成皮革を使用し、「一粒万倍の泉」で全国の宝くじファンに知られる(私はあまり買わないので知らなかった)熊本県の宝来宝来神社の宮司に特別祈祷してもらった有難いご朱印付きというたいへんな縁起ものだ。価格は税送料込みで5千円をちょっと切れる。"験かつぎ"の好きな御仁ならいっちょう買ってみるかと前のめりになるかもしれない……と思った。

 こんどの新元号は、7世紀なかばに日本で初めて制定された「大化」から数えて248番目になるという。平成までの247個――正しくは"元"と数えるが"個"のほうがわかりやすくていい――の中には南北朝時代(14世紀中〜後期の約60年)北朝が制定した18個も入っている。その点では私などが小学校で習った「日本の天皇陛下は神武以来万世一系」はウソだったし、だいたい歴史とはウソを教えるものだ。
 その247個には"金"や"運"はもちろん"幸"さえ入っていない。かろうじて"福"が1度使われているだけだ。どうも昔の為政者はわれわれ民草が金持ちや幸福になるのを望まなかったようで、これからはそんなことはあるまい。
 1979年(昭和54年)に制定された元号法によると、元号は、
「国民の理想としてふさわしい、書きやすく読みやすい漢字2文字で、過去に元号や贈り名(諡号)に使用されていない、俗用されていないもの」
 が必須の条件だという。要は抽象的なわかりやすくめでたい漢字をふたつ並べることで、事物をあらわす具象的な文字は避けるのである。だが古い時代には"雉"をはじめ鳥、雲、銅、亀、国、などが使われていたし、亀にいたっては織田信長が生きて大活躍していた時代の元号"元亀"にもなっている。昔はそんなルールもけっこう大雑把だったのだろう。
 247個中いちばん多いのは"永"で29回、次が"天"の27回だ。ただし"永"は2文字の上にも下にも付けられるが、"天"は上だけだ。これが地元プロ野球チーム"楽天"や私たちが時々行く手頃な居酒屋"凡天"のように下にも付けられたら逆転だ。

 年代を西暦で考えるようになったとはいえ、私は元号を無視しようと思っているわけではない。むしろ日本歴史を勉強するツールとしてこんな重宝なものはないと思っているほどだ。元号を冠した歴史上の事柄を頭に入れておけば日本史はだいたいつかめるのだ。
 たとえばこうだ。大化の改新に始まって天平の甍、承平天慶の乱、保元平治の乱、文永弘安の役、建武の中興、応仁の乱、慶安太平記、安政の大獄、慶応義塾、明治維新、大正デモクラシー、昭和恐慌……あっという間に私が生まれた頃まで来てしまった。これらの言葉はその時代を象徴する出来事を簡潔に言い表わしているから、これを端緒に調べていけば関係する人物や時代背景、前代からの流れ後世への影響などもどんどんわかってきて面白いのだ。
 さらに元号に関して私はこんな記憶もある。
 そのひとつは司馬遼太郎さんのエッセイで「京都人が『うち(家)が焼けたのは先の戦争以来ですわ』という戦争とは応仁の乱のこと……」という話。もうひとつは大江健三郎の『万延元年のフットボール』は"桜田門外の変"を題材にした作品だろうと長年思っていたことだ。何しろ私は彼の作品をまったく読んだことがなく、万延元年とくれば三月三日、雪降る中の井伊直弼暗殺事件しか頭に浮かばないのだ。こんなこと他人に話さないでよかった。とんだ恥をかくところだった。
 ほかにも"明治は遠くなりにけり""昭和元禄"なんてのもある。前者は中村草田男の俳句で昭和6年作、第一句"降る雪や"に続くもの、後者は昭和43年時の自民党幹事長福田赳夫の発言だ。いずれも時代の雰囲気を感じさせてくれる。

 いまネットには新元号の予想があふれている。競馬予想みたいに本命対抗なんてうたっていたり人気順に並べてみたりさまざまだが、支持の多いものをあげると、安延、永明、安化、建和、弘永……といかにも元号らしい。もっとも中には平和、自由、希望など俗用されているもの、大和(まさか、"やまと"と読ませる?)や羽生(はぶ?はにゅう?)なんてものもあり、お遊びもいいところ。
 こうなると、"金運元年"もありだなと思ってしまう。
 

2019年01月18日(金曜日)更新

第532号 〜歩くと新しい発見に出会う〜

 先日、1万5千歩オーバーをちょうど2時間、ほとんど休みなしで歩き通した。距離は約10キロだ。
 お昼を例の"丸亀うどん"で食べようということになり、11時開店に合わせて私は9時10分前に家を出た。家内は車で後から来る。裏のいつも山歩きをする墓園の途中から市の清掃工場(温水プールやリサイクル品の展示&無料提供コーナー、見学コースなども付随した大型ゴミ処理施設)の前を通って仙台北環状線に出たら、後は4車線道路をとっとことっとこ歩いて行った。ただし地元で"北環"と呼ばれるこの道路は東京の"環7"のように平坦ではない。陸奥(むつ)と出羽(でわ)つまり太平洋側と日本海側を分ける奥羽山脈から張り出してきた尾根が仙台平野まで達しており、道路はその台地を越えていくので、前半は墓園からの延長で上り後半はおおかた下りになる。
 この台地は旧市街地から見れば"はるか郊外の山"である。実際に"北山"や"国見"(おそらく伊達政宗あたりが領地の仙台平野を見下ろしたところではないか)という地名とJR仙山線の駅もあり、いずれも私たちの住居より、また当然ながら北環よりも市街地に近い。それが高度成長期に入って宅地としてどんどん開発されるとともに、幅員も十分ある幹線道路も整備されていったのわけだが、民間業者の開発に比して役所のやることは遅いのが常で、この北環が全線開通したのも昭和が平成に変わる間際だった。だから私たちも転居してきた当初はここにそんな道路があり沿線にイオン(当時はジャスコだった)をはじめSCがいくつかと、パチンコ屋、車の販売店、ガソリンスタンド、ファミレス、コンビニなどがひしめき合っているとはまったく知らず、下の作並街道を広瀬川沿いにくねくねと市街地のはずれまで走って買物に行ったものだ。

 そのイオンの少し手前が丸亀うどんまでのだいたい中間点で、北環の最高地点、家からずっとゆるい上りだ。
 そしてイオンのすぐ裏にホテル付き27ホールのゴルフ場と、高さ100メートルのコンクリート製観音像が立っている。いずれも同じ業者が建設したものでオープンしたのは平成3年だ。市内から近いのでひと頃はにぎわったようだが、近年名称が変わったところを見ると経営も変わったのだろう。何しろ27ホール中の9ホールはドライバーを使えないホールがいくつかあるような狭くて短いコースだ。それに練習場が鳥籠だけという中途半端な"つくり"なのだ。バブルの頃あちこちで乱立した会員権で一攫千金狙いコースと似たようなものだろう。また有難い観音様も付近の住民には「夜帰って来ると不気味な感じがする」と悪評さくさく。要するに"バブルのシンボル"みたいな施設といっていい。

 私はイオンまでもイオンからも時々歩いているが、イオンから先の北環は車から眺めていただけで歩くのは初めて、これがけっこう楽しかった。
 道路は相当な下りになる。元は狭かった道を拡張したらしく、左側の歩道の横にはコンクリートや模造石で固めた背丈より高い壁面が続いていたり、右側歩道の横には幅10メートル足らずの粘土の空地にふた抱えもある大きな石がゴロゴロと転がっており、その空地の奥はこれも粘土質の崖といってもいい急斜面なのだ。こういう個所は"切り通し"で道を拡げたのだなと察しがつく。
 急な下り坂が一目瞭然でわかるところがあった。道路の右側にある市営住宅団地だ。5階建て部屋数50戸ほどの集合住宅が10棟ほどまとまっており、うち4棟が北環に面しているのだが、その前の歩道を下りながら観察すると、いちばん手前では1階だった部屋が棟の中ほど手前で2階と同じ高さになっているのだ。つまり傾斜地に横長の建物をつくると両端では同じ高さでも階数が違ってくるのだ。住んでいる人はそれをどう数えるのだろうとちょっと興味をもった。そういえば欧米では日本の1階を"グランドフロア"といい2階から上を"1階2階……"というからここでもそういってるのかなと思ったりした。

 坂を下りて平坦な道を500メートルほど進むと、同じ4車線が交差する大きな交差点に出る。右へ行くと市の中心部、左へ行けばバブル期に開発された大規模文教住宅地区、泉パークタウンだ。ここは県立大学をはじめ県立図書館、中高一貫の有名な私立お嬢さん学校、日韓ワールドカップのときイタリア選手が宿泊したホテル、規模は小ぶりだがアウトレットモール、ちょっとばかり高級なゴルフ場などがある。中でも住宅地の奥まったあたりM山地区は建ち並んでいる家々のほぼ3軒に1軒が凝ったデザインの3階建てという高級住宅地で、住人は「山の手」と自称していると聞いたことがある。
 そして交差点の先道路の両側には田んぼが広がっており、左側には納屋や作業小屋、車庫などとともに2階建ての住居もあり、30メートルほど離れたところにはそれより新しそうな別棟の2階家も建っているのだ。つまり親世代と子世代が別居という構図であり、この田んぼもいずれは形を変えてしまうのだろうと思った。

 家内と待ち合わせた丸亀うどんはそこからもうひとつ低い丘を越えた先で、私のほうが少し早く着いた。
 こうして歩いてみると車で通っているだけでは気付かないさまざまなものが見えて、なかなか面白かった。ただ面白さにつられて歩いたので着いたとき膀胱が満タンになっており、うどん屋の隣のSCのトイレに慌てて駆け込んだ。途中に生協などもあったのだから次にどこか遠くまで歩くときは気をつけよう。
 
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