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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2018年09月14日(金曜日)更新

第515号 〜目に加え歯も難儀しています〜

 半年ほど前に新しくなった上の義歯がときどき割れる。
 その頃私の上の歯は大部分がガタガタになり、それまで辛うじて残っていた前歯4本と右の犬歯も抜からてしまい左と犬歯と続く小臼歯2本が最後の砦になった。ついでだが下の歯で残っているのは前歯4本とそれにつながる犬歯小臼歯など8本だけ、ふり返ってみると"80歳20本"にはギリギリセーフだったかどうか。
 したがって下の義歯は左右の奥歯それぞれのブロックを前歯裏側に沿った丈夫な金属のフレームでつないであり問題ない。問題は上の義歯だ。

 ふつうムシ歯になりやすいのは奥歯だろう。それが治療の甲斐なく抜歯され入れ歯になるのだが、それが片側1〜2本程度ならまだブリッジで支えられるだろう。しかし抜歯が増えさらに左右に及んでしまうとブリッジでは無理だ。口蓋(口の中の天井部分)に沿って入れ歯専用の合成樹脂や金属で別のしっかりした天井をつくり、その端っこに代わりの義歯をくっつけることになる。ちなみに以上の過程は私自身の経験を元に書いており、特に専門家に取材はしていない。何しろ私は物心ついた頃から歯痛に悩まされ歯科医と無縁だったのは戦中戦後の一時期しかないのだ。歯列矯正や金歯、インプラントなどの治療、あるいは入れ歯をうっかり飲み込んでしまったなどの変わった経験こそないものの、治療についてはたいていのことは知っている。
 たとえばムシ歯はどういうわけか寒くなると痛む。だから会社にいるときはほとんど痛まないムシ歯もスキーに行くときは正露丸を必ず持って行き、痛み出したらこれを少量患部につめこんで応急処置をする。歯そのものはボロボロになったが「背に腹は代えられない」なんていいながら滑っていたものだ。
 その入れ歯を支える土台の天蓋が割れるのである。(土台が天蓋というのもヘンな話だがわかりやすく書こうとするとこうなる。内田百閒先生流にいえば"やむをえないものはやむをえない"である)

 初めて天蓋つきの入れ歯になったのは、当地へ引っ越してから間もない20年ほど前だ。
 転居後、具合が悪くなったとき私は電話帳で近くの歯医者を当たり、広瀬川の向こうにY医院を見付けた。歩いて30分足らずの距離だ。電話をかけて予約を取り行ってみると住宅街の一角のごく普通の和風住宅に看板がかかっている。「レトロな歯医者だな。これならセンセイもベテランだろうから信頼できそうだな」と思った。案の定だったが、女性なのは意外だった。年齢は私よりひとつかふたつ上、本郷生まれの江戸っ子で、大学教授の旦那さんの転勤で仙台に移り、十数年前開院したという。
 そのベテラン女医センセイが私の歯の治療ぶりをじっくり観察して、「いい治療をしてるわね。きっと若いけどマジメなセンセイだったのね」と言ったのを覚えている。「出版健保の診療所にずっと通っていました」と言うと、「そういうところは町の病院と違って損得抜きだし若いセンセイが多いからいいんですよ」と言った。この女医センセイの基本方針が"できるだけ患者の歯を生かすように治療する"で、余程悪くならない限り抜歯しない。当時流行りはじめたインプラント治療を「あれは絶対にやっちゃだめ」とも言っていた。
 この女医センセイがやむなく上の両側の奥歯を抜いて、天蓋でつないで補強したのだった。最初に装着したときはそれほど違和感はなかったが、ビックリしたのは初めて食べものを口に入れたときだ。夕食をたまたま家内と一緒に外ですることになり、折から旬の牡蠣の店に入ったのだが、最初に大好物の生牡蠣をひとつ頬張った途端、口の中のあまりの狭さにそれこそ"口あんぐり"だったのだ。噛もうにも噛めず呑み込もうにも呑み込めず目を白黒させてオタオタオロオロする私を家内は妙な顔をして眺めていたが、それとわかった途端吹き出してしまったものだ。

 この女医センセイもいまは仕事から身を引いて息子センセイに代わり、住居は洋風に建て替わり診療所も別棟で新しくなったが、Y医院の患者本来の歯をとことん生かす治療方針は変わらないようだ。私の上の入れ歯など天蓋部分を金属にすればもっともっと薄い丈夫なものになるのだろうが、すすめられたことは一度もない。金属はさきのインプラント同様保険がきかないからだろう。
 その入れ歯が新しくなってから天蓋が時々割れたのである。
 はじめ書いたように上は左側の犬歯以下3本だけ自前で残りは全部義歯になった。これは逆にいえば自前の3本の部分には天蓋の補強が欠損しているということだ。実際入れ歯をはずして上から見ると全体的には縦長の放物線型の左肩が大きく凹んでおり、その下に先端に大臼歯2本の義歯を付けた天蓋の下辺が半島のように突き出ている。割れるのはこの半島の中程で、なるほどここに想定外の力が加わったらひとたまりもないと思わせる。
 これまで割れたのは3度、いずれもトースト2枚を重ねて噛んだときだ。最初は専用の接着剤でくっつけたがすぐ割れたので中に金属のボーンを入れて補強した。これが2週間ほどもったが、3度目はそのボーンまで割れ目が入り、接着剤だけでなく半島部分の素材を倍ぐらい厚くしてくれた。
 そしていまのところはこれでどうやらもっているといった状態なのである。
(なお本項は私自身の歯も含めてもうちょっと書きたいことがありますので次回へ続けさせていただきます)
 

2018年09月07日(金曜日)更新

第514号 〜親離れしたての一年生熊へ〜

 私たちのマンション団地とJR仙山線をはさんで、ゴルフ場がひとつすっぽり入るほどの大きな市営墓園と最新設備の火葬場があり、それら一帯が以前はいわゆる"里山"だったことはこれまで時々書いた。そしてその墓園が私の格好のウォーキングコースであり、さらには園内のあちこちに数年前から「熊出没注意」と立札が設置されたことも触れた。きちんと数えたことはないが多分50ヵ所ぐらいはあるだろう。何しろ墓園の周囲70%ぐらいは以前のままの雑木林だ。周辺道路のすぐ傍まで灌木の茂みになって奥が見通せないところもあるし、その茂みのすぐ下に沢が流れているところ、雑木林が仙山線を超えて作並街道の縁まで続き、その向こう側は広瀬川が岩の間を流れているなんてところもある。
 要するについ30年足らず以前までは熊のテリトリーだったのである。出没するのも当然で、いかに仙台駅や一番丁など市中心部まで歩いて行けるところとはいえ、われわれ新参者が"そこのけ顔"して歩いちゃいけないのだ。
 というのも実はつい先日、私自身がウォーキング途中で熊に出会ったのだ。

 その日、私はいつもどおり早目のおやつをすませ"山歩き"に出た。そして勝手知ったる墓園の経路を木陰伝いに最奥のテッペンまで登り、太平洋を遠望して下りにかかったところだった。8月も下旬の園内はお盆のお参りもガクンと減り人影もなかった。晴れていた空に黒雲がかかりはじめ、「ひと雨くると少しは涼しくなるかな」なんて思いながら、園のいちばん外側の2車線道路を歩いているときだった。道の前方30メートルほどを左から右へ何かが横切ったように見えた。
「熊だな」と直感した私は咄嗟に歩調を少しゆるめた。
 出かけるときにかけた濃いサングラスと折から曇ってきたせいで見えにくくなってはいたが、動きといい体型といい間違いなく熊、それも1頭だけだ。私はサングラスをはずし、よく見える右眼の周辺視野で相手を観察した。道路をはさんで斜め方向だから距離は20メートルぐらいか、時間もほんの2〜3秒だったが、体長1メートル足らずで毛はグレー、頭が体の割に小さいなと感じた。そんな短い出会いの後、熊はさっさと道路脇の茂みへ消え去ったが、私はそのとき見たいろんな要素や後日得た情報を元にヤツは親離れしたばかりの若い個体だろうなと判断した。これは当たらずといえども遠からずだなと思う。
 後日の情報というのは私がヤツに出会った前日だか、テニス仲間の娘さん(大学生)が別の場所でヤツを目撃していたことだ。話を聞くと大きさや毛色のほか1頭だけだったことなど私が出会ったのと同じヤツだ。ただし場所は団地東側の小さな沢筋につくられた親水公園。私が出会った墓園西側とは正反対のところだ。ただし墓園最奥テッペン北側をグルリとめぐって森はつながっており、公園といっても住民はほとんど近付かない。それに沢筋を下って行くと作並街道をくぐり小さな田んぼや点在する農家の間を抜け広瀬川につながり、広瀬川の向こうは青葉山の深い森だ。
 墓園の森は周辺に住宅や学校が次ぎ次ぎとできて人間社会に蚕食されつつある。木々も熊の好物のドングリが多そうには見えない。

 われわれ日本人は昔から熊を"足柄山の金太郎"のように仲間扱いするようなところがあったが、その一方では害獣扱いもする。古い歌謡曲で、先の戦争で倅を亡くした老マタギが「話し相手の犬連れて、熊のオヤジをみやげにすると、鉄砲ひと撫で……」なんてヒット曲『山の吊橋』(春日八郎)もあった。近年はそうした害獣扱いが多くなったように感じる。その元がわれわれにあることを考えると熊にとっては迷惑千万。こうした首尾一貫しない理屈を力で押し通そうとするのが人間の強者であり、私たち弱者や熊は耐えるしかない。
 
 その後雨天を避けて何度か山歩きをしたが、ヤツに再会していない。すでにもっと棲み易いところへ移動したのかもしれないし、だとすれば若いが利口なヤツだと思う。夜遅くまで車を走らせるバカどもがいる環境はアンタの野生には向かないのだ。とりあえず、エールを送ろう。
「達者で生きろよ!」
 

2018年08月31日(金曜日)更新

第513号 〜私のキョロキョロ文体について〜

 本も新聞も読めなくなってから半年以上になる。その間このページを一度も休まずに書いてきたのは我ながらたいしたものだと思う。もちろん書いた原稿をパソコンで仕上げてくれる家内の助力によるところも大で、心中感謝している。
 書くテーマは毎回あれこれ考える。まずは原稿を発表する日付や時期に即したものだ。今回なら8月31日、夏も終わり、そろそろ風立ちぬか、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(古今和歌集)だな、しかし今年は台風が早くからやたら来るな、50年ほど前は9月26日が台風の特異日だったけど……、当時校了日に先輩と飲んでたら、大雨で東横線が不通になり中目黒から多摩川の向こうまで歩いて帰ったっけ、あの頃からよく歩いていたなあ……などと連想を広げていき、面白そうなものイケそうなものを拾い出すのである。

 そしてその合い間にはうろうろとさして広くもない部屋の中を歩き回ったり、ベランダから漫然と外の風景を眺めたり、突然思い立って腹筋運動を始めたりするが、以前左眼が見えていた頃は辞典や地図を読むことも多かった。本棚には新旧2冊の国語辞典を筆頭に漢和辞典、古語辞典、逆引き広辞苑(実はあまり役に立たない)、さらには15年以上も前の知恵蔵(付録の小冊子がけっこう役立っている)、武家編年辞典(稲垣史生編)なんてのもある。
 何か調べたいことがあると私はそれらの辞典を目的の項目だけでなく、ついでにその近くに他の興味ある項目を見付けてはよく読んだものだ。別に新しい知識を身につけたいわけではない。好奇心旺盛というか、単に目移りしやすい性格なのかもしれない。
 私は本物の知識は自分が興味を持って積極的に調べた上で身につけたものだと思っている。その意味では"一を聞いて知った十"のような知識は"門前の小僧"が詠む経と同じ耳学問、いわゆる"百姓読み"的な類推で本物にはほど遠いものだと思っている。私は父親がそのような周囲を"鼻白ませる"ことの多い人だったので、尚更そうならないように心がけているのだ。

 私自身は知識の引出しは他の人よりいくらか多いだろうという自信はある。原稿を書くときはその引出しを手当たり次第引っ張り出してテーマを捜すわけだ。ただ惜しむらくはその引出しに、主題をひとつに絞った一貫性のあるものがないことだ。たとえば川柳や都々逸、落首、ザレ歌の類のまとまった大きな引出しがあったら書く内容がもっと深くなったのになあ……と思うのだ。
 残念だがその分他人より達者な足腰があるのだからまあいいかだ。年齢と眼を考えればこれ以上欲張ることはない。

 そういえば私の文章はよくあちこち寄り道する。この「そういえば」をはじめ「ちなみに」「余談だが」「さらには」などで始まったらたいてい寄り道だ。本題を奥深くトコトン掘り下げるほどの識見もパワーもないので、目についた引出しを片っ端からのぞいてネタを拾い集めているようなものだ。いささか気恥ずかしい言い方だが、これが私の個性かなと思う。
 私は子どもの頃からよくキョロキョロしていたようで、その癖はいまだに抜けない。歩くときも講談の剣客のように目を正面下段に据え顔を微塵も動かさず、行き交う相手が気合いにたじろいで思わず道をゆずってしまうようなエラそうな歩き方はできない。サングラスの奥の目を絶えずキョロキョロさせながら、「アキアカネが下りてきたな」とか「いつものノラネコが見えないな」などあたりの様子を細かく確認して歩いている。特に車には気をつける。近頃の車は人を見るとアクセルとブレーキを踏み間違えるからだ。

 つまりそうした根っからの性格が文章にも反映しているわけで、いうなればこれが私の「文体」なのである。もはや開き直るしかない。
 とはいえ私なりに気をつけていることももちろんある。引出し漁りは内容がともすれば雑学的になりやすいので、子どもが喜ぶ雑学だけにはならないようにしようということだ。そのため見えなくとも必要なことはできる限り調べ直している。この点でも家内の助力はたいへん有難いのである。
 

2018年08月24日(金曜日)更新

第512号 〜「バケツの水をかぶった」女

 テレビで豪雨のニュースを見ていたら30代ぐらいの女性が「バケツの水をかぶったような……」といっているのを聞いて、いやはやなんとまあ!とあきれた。土砂降りの雨を表現するのに「バケツをひっくり返したような」とはいったが、その水を頭からかぶることはない。どこでどうやって覚えたものか、こんな人口に膾炙(じんこうにかいしゃ)した慣用句を人前で麗々しく間違えて使うなよな……と思ったものだ。
 だが時間がたつにつれて、こういう言い方がかえって現代人らしいのかもしれないなと思えてきた。
 古くからある「バケツを……」といった表現は人々が土砂降りを外側から眺めているいわば客観的な言い方である。対して「バケツの水をかぶった」女性は土砂降りの中にいる。つまり主観的だ。別の言い方をすれば前者は土砂降りが主役、後者は自分が主役である。そこが現代人らしい。これを年寄りがしゃしゃり出て間違いだと言おうものなら「私がそう感じたのだから余計なこといわないでよ」と言われかねない。自分が正しいと思い込んだらイノチ懸け、テコでも引かない。かつて秘書をハゲ呼ばわりした女性代議士さながらである。

 こうした古い慣用句の誤使用では「芸が身を助く」もある。これは「芸が身を助くるほどの不幸せ」という古川柳もあるように、自分のことをいえば自慢話めいても内心不本意、他人にいえばいささか不躾なからかいになる。芸人じゃあるまいし素人の芸は所詮道楽、金をかけて遊ぶもので金を稼ぐものではない。つまり「芸が身を助く」は落ちぶれたことを意味するのだ。これまた古川柳の「売り家と唐様で書く三代目」なのだ。
 だが現代人の解釈は逆のようだ。何か技術=芸を身につけていれば余分な収入があり贅沢できると思っているらしいのだ。私も『体力老人』が電子書籍になった頃「芸が身を助けるですね」と言われたことがある。見損なってもらっちゃ困る。私の芸(本領)は歩き出したら坂道だろうがカンカン日照りの中だろうが1万歩以上続けて歩き通せる足腰と心肺機能なのだ。

 ただし言葉はわれわれ人間が使うものだ。勘違いや記憶違いからくる言い間違いもあるし、間違えやすい言い方も多い。小学校低学年ぐらいの男の子が、別の子が食べているのを見て「ウラマヤシイ」と言ったお菓子のコマーシャルなど、いまでも時々ふっと思い出すほどだ。
 そこに巧まざるユーモアがあったら尚更だ。
 家内がこんなことを言ったことがあった。車でどこかへ遠出したときのことだ。助手席で私は地図を見ながら道順を指示していたが古い地図なのであまりアテにならない。車載のカーナビはもっと古くて現在走っている道路が道なき山の中だったりしている。そんなときは私の方向感覚だけが頼りだ。交差点に出てくる行先表示を確認しながら「直進」「右折」などと指示して予定時間を大巾に短縮して目的地に到着した。「どうだ!」と胸を張る私に家内が言ったものだ。
「猫の首とったような顔しないでよ」
「あん?」一瞬キョトンとする私。家内もすぐ気付いて笑い出した。それ以来助手席で時々「猫の首探そうか」とからかっていたが、近頃は遠出することも少なくなったし、私自身が地図が見えなくなったのでまったく口にしなくなった。残念だがしょうがない。

 それにしても今夏の異常気象は記録破りだった。7年前の東日本大震災以降「天災は忘れた頃にやってくる」(寺田寅彦)の連続である。「記録的短時間大雨情報」なんて言葉も初めて聞いた。
 こういうとこは「君子危うきに近寄らず」で鳴りを潜めているに限る。「止まない雨はない」のだ。ただし雨宿りはくれぐれも安全な場所で。
 

2018年08月17日(金曜日)更新

第511号 〜本も読めるようになるだろう〜

 近頃、妙なことに気付いた。これまでまったく見えなかった右眼の中心部分がいくらかというか多少というか、何となく見えてきたような気配があるのである。おかしな言い方になったのは自分でもはっきりしないのだからしょうがない。

 右眼の手術を受けたのはもう10年以上前だ。病院はいまも通っている日赤眼科、ただし執刀医はいま診てもらっている女医先生の前のK先生だった。家内と二人で白内障の手術を受けたとき、右眼底中心窩奥の静脈が2本重なっていることがわかり、このため対象が波打って見えたり歪んで見えたりする"加齢黄斑性"になっていたのだった。そしてこのまま放置しておくと右眼全体の視力がなくなるおそれがあるということで、その静脈の重なりを修正する手術を行ったのだった。
 手術は成功だったと思う。何しろ眼底の毛細血管とあってミリの何分の1かの微妙なワザで行なわれたのだろう。あまりにも静か過ぎて私は知らぬ間に居眠りしてしまい、コクンと頭が落ちたほどだ。それでも手術はうまくいったとのことで、以来右眼は中心部分は暗幕がかかったが、生き残った周辺の視力がそれをカバーして左眼をバックアップしてきたのだった。
 ちなみにその手術まで私のいわゆる"利き目"は右だったが、手術を機に左に変わっている。

 その右眼の中心部分がいくらか見えるようになってきたのだ。さらに今年1月から突如半減した左目の視野まで広がりつつあるのだ。両眼ともかかっていた暗幕が薄れていくような感じで、このため1週間ほど前に起こった奇妙奇天烈な現象にはかなり慌ててしまった。
 前回この原稿を書いたときのことだ。私は表を使ったA4コピー用紙の裏に赤エンピツで1センチ幅のケイ線を引きエンピツで縦書きにしているが、その文字がケイ線をこえて左側へ左側へとはみだしてしまうのだ。特に漢字がいけない。四字熟語など最後の一字が半分もはみ出してしまう。気が付いて元に戻す、またはみ出るの繰り返しで、書き終わった1行がまるで"ナバロンの要塞"から砲撃を受けたイギリス艦隊の回避運動、ジグザグ航行である。
 自分でもヘンだなと思ったが、文字そのものはちゃんと見えているので「まあいいや」と書き上げて、パソコンに打ち込むため家内と読み合わせをした。すると原稿を一見した家内がいう。「眼が前より悪くなってるんじゃないの?」「いやそんなことはない。自覚症状としては前よりよく見えるようになったぐらいだ」といいかけて、はたと思い当たった。
 これは視力が衰えた左眼を右眼がカバーしようとしているせいなのである!

 そのことに何となく気付いたのはこの4月なかば久しぶりにゴルフに行ったときだ。飛んで行ったボールを右眼がいち早く見つけるのだ。打ったボールの方向は感触でだいたいわかるが落ちた先までは見えないので同伴プレーヤーに頼んでおき、そこへ向かって手前からどんどん歩いていく。すると20メートルほど手前で緑の中に白い点が、右眼視野の下辺にチラッと入ってくるのだ。私の場合ボールは白に限る。黄色や赤のカラーボールは緑の芝の中では非常に見にくい。
 それ以来「右眼もけっこうやるじゃないか」と思っていたが、その右眼がさらに「原稿書きも手伝うょ」といい出したんじゃないかと私は解釈するのである。

 私の左眼と右眼は"見え方"がちょっと違う。
 まず違うのは見る対象の方角だ。これは夜戸外の灯りを見るとすぐわかる。中心窩が健在な左眼は対象を正しい方向にとらえているのに対し、中心窩に故障がある右眼は方角がずれる。100メートルほど離れた外灯が数メートル右へ偏ってしまうのだ。そしてその一方では視野は周辺部分しかないが視力のある右眼のほうが対象の細部はよく見えるのである。そのよく見えながらも方向の隔りが原稿を書く際の漢字に現われるわけだ。つまり文字の一点一角はきちんと書けるのに文字そのものがケイ線の左側へはみ出してしまうのだ。
 そんなわけでこの原稿もあちこちの行で艦隊のジグザグ航行が見られるわけだが、こうして原因がわかればさして気にすることもないのだ。いや逆に左右両眼とも老いによる機能低下を何とかカバーしようと頑張っているのだ、というべきかもしれない。そのうちには本だって読めるようになるだろう。
 
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