活字世界のこぼれ話し

 
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過分数 (頭でっかちの意味)
紀元2600年・1940年商人のまち大阪生まれ。
マスコミ出身者が多い某大学を卒業。
以来、活字の世界から離れることなく日本中どこでも飛び回るメモ魔。

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2010年05月20日(木曜日)更新

第177号
 普天間問題は、日本全体の問題であるとう、国民的教育から始めなければならない。

 普天間問題は、沖縄県の問題ではない。日本の、日本国民全体の問題である。第二次世界大戦で、唯一日本国内で戦争があった場所だ。沖縄問題は、日本全体の課題であるという戦後教育が、大きく欠落してしまった欠陥が、未だに尾を引いているのである。どこか他人事のように、普天間問題を沖縄と政府に押しつけて、議論をもてあそんでいるマスコミも無責任だ。もう一度、原点に返って議論すべきだ。
 戦後がまだ終わっていない沖縄には、基地を新しく設けることは出来ない。出来るとすれば、お願いするとすれば、政府、そして国民の代表が、誠意を尽くして話し合うべきで、腰の引けた対応では本格的論議まで発展しない。政権交代と言っても、現実的問題は継続しているのだから、与党、野党共に責任があるだろう。党利、党略だけで議論しているだけでは、やがて亡国に繋がってしまう。仕方がない、ここでもう一度選挙だ。出直すしかない。
 

2010年05月12日(水曜日)更新

第176号
 タレント候補で選挙を勝ち抜くだけでは政治の劣化は進むだけ

 政治家は選挙で選ばれる訳だから、選挙に強い人格が要求される。それだけに、大衆受けする人格も大事にされる理由がある。現在進められている新党誕生の動きと、間近の参院選選挙を睨んだ動きを見ると、政治の専門領域からはずれた候補予定者、いわゆるタレント候補が目白押し、単なる議席を目指した票稼ぎのための鎧の下が見え見え、これでは普天間問題もはるか彼方だ。
 その国の政治は、国民の程度に合わせたものしか出来ないとよく言われるが、タレントを立候補させた集票戦術は、日本の政治感覚の劣性を見事に説明している。集票マシーン化のみを目指すタレント候補は、日本の政治をますます劣化させるだろう。選挙戦術のみが優先する日本政治の現場、これでは激動する世界、その中での世界戦略も、戦術も、成立する訳がないではないか。いい加減にして欲しい。政治家をタレント並に劣化させてはならないのだ。投票を獲得する力と、政治力のとが別物になってしまっている。こうした国に将来はない。            
 

2010年05月06日(木曜日)更新

第175号
 スポーツ界における真の強さは、絶対比較でなければならない。

 宮里藍と石川遼はどちらが本物で強いのか。それは宮里が本物で強い。国内で世界新記録タイのスコアを出しては見たが、海外で予選落ちを続ける石川には、国内でしか通用する力しかないと言わざるを得ない。今しばらくは、世界に通用するには時間がかかる。宮里の面白いところは、世界で勝っても、国内で意外ともろい。これはご愛敬だが、その辺が、実力を却って信じさせられるから面白い。ワンちゃんのホームラン世界記録も、球場の広さを考えると、割り引かなければなるまい。何事も、世界記録は、絶対的な比較で決めるべきだ。 
 サッカーワールドカップも近づいたが、メキシコ五輪での銅メダル時の選手力、コーチ陣の戦略、戦術、総合的知力には、はるかに及びも付かない。資金力も、支持者の裾野の広がりも、断然メキシコを越えている。それなのに勝てない。BSTVのプレミアリーグのゲームと、Jリーグとのそれを比較するとよく分かるはずだ。そのためにも、究極の本物を楽しむ力を、われわれ自身も養わなくてはならないである。
 

2010年04月28日(水曜日)更新

第174号
「1Q84」の3は物語の解決編、読まなければ大損である。

 「1Q84」を面白く読んでいる。特異な表紙の分厚い本を持ち歩いていると、よく声をかけられることもある。なんと「面白いですか」という声だ。「面白くないと、読んだりしません」と応える。「随分と、厚いですからね」と読むのに苦労することを示す反応もある。
 1、2は確かに序章として部分が多く、複雑な描写ははっきり言って分かりにくい面があった。ところが3になると、1、2の総括、もっと言うと解決編と言って良いぐらい、内容が整理されて来る。1、2の内容が腑分けされ、具体的に描かれる。読みやすく、大団円に近づく躍動感さえある。
 村上春樹物を読むのは初めての経験、春樹ワールドを知っている読者は読みやすいだろうが、慣れていないだけに、確かに1、2は苦労した。しかし、新興宗教の悪魔的存在感、文学作品の作り方の脆さ、人間の突飛な、意外な行動の理由付けなどは、読んでいて情報小説としても納得する。
 1、2は同時に出たが、読み切れていないのだろう、3の売れ足が、1、2に較べて遅い。それも仕方がないところだ。苦労して読み切った1、2の解決編なのだから、1、2もきちんと読もう。読まないと損をする。それにしても、決して読み易くない長尺物が、これだけ売れるのだから、日本読書界のパワーは、まだまだ、捨てたものではない。
 

2010年04月22日(木曜日)更新

第173号
 今年古希を迎える日本人は、あの皇紀二六〇〇年生まれですよ。

 自分の誕生日を誰かと重ね合わせるのは、誰でもがやったことではないだろうか。生まれた日は、昭和一五年四月二三日である。西暦では一九四〇年、皇紀では二六〇〇年、誕生日遊びはまずこうして始まった。社会人になって大人とのつきあいが始まったが、「幾つだい」と聞かれる。こちらの正体を知りたいからだ。どうしても年長者と分かる相手には、皇紀で答える。懐かしそうに「あの年は二六〇〇年記念で、銀座で振舞い酒があった。酒も配給になっていたはず、美味かった」と対話が深まる。今年筆者は七〇歳の古希と言うことだが、年長者も少なくなり、皇紀は通じなくなって来るだろう。
 四月二三日が誕生日の有名人はいないが、この日に亡くなったのがシェクスピア、セルバンテスだ。俺はその生まれかわりだと言って顰蹙を買っていたこともあった。他愛のないことだ。しかし、四月二三日が、サン・ジョルディーの日となって、喧伝されるようになり、本を贈り、花を返す風習を、出版販売業界が取り上げたのは愉快だった。何たって俺の誕生日だと。そこで、祝うように本を読んでおくれよと呟いていたものだ。もっとサン・ジョルディーの日が、世間全搬に定着していれば、例えばバレンタインデイのように、そうすれば、現在の出版不況、少しは程度を低くしたのではと。古希を迎え、サン・ジョルディーを思い、出版不況を嘆く。妙な三大噺だ。
 
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