活字世界のこぼれ話し

 
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過分数 (頭でっかちの意味)
紀元2600年・1940年商人のまち大阪生まれ。
マスコミ出身者が多い某大学を卒業。
以来、活字の世界から離れることなく日本中どこでも飛び回るメモ魔。

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2006年10月30日(月曜日)更新

第2号 新古書店よありがとう。年金生活者の強い味方です

 みなさん、書店地図が変わっているでしょう。ある日、出勤途中にあった書店、昔、こどものマンガ、奥さん用の家計簿付き婦人誌新年号、急に思い立って、冠婚葬祭の内容を知りたくて、買いに走ったいわゆる、商店街の中の本屋さんが、いつの間にか閉店している。こんな経験が多いはずの昨今、町の本屋さんの代わりをするのが街道筋にある新古書店、なんといっても、それほど汚れていない本が定価より安く買えるのだから。若者はコミックを、年金生活者は一寸遅れた新刊を。
 ある年金生活者、新古書店がなければ、われわれは一体どうすりゃ良いんだと言う。そりゃそうだろう、少ない年金で読書を楽しもうとすれば、新古書店は便利なもの、出版業界からは、組織的な万引き受け皿拠点として、目くじらを立てられている面もあるが、それは年金生活者には関知しないこと。出版業界は新古書店を仇敵視するが、年金生活者は、こんな便利なものはないのである。まして、読んでしまえばまた買ってくれるのだから。ダブルで役立つ新古書店よ、ありがとう。
 

2006年10月23日(月曜日)更新

第1号 『言ってみようよ「こんにちは」と』

 昔、昭和20年代後半から30年代前半にかけて、NHKラジオ(大阪)の夜の番組で花菱アチャコ、浪花千枝子で“喋くり漫談”があったと記憶するが、天井近くから流れてくる四球ラジオは、鮮明ではなかったが、夕食時、祖母、母、兄2人の5人家族はそれを楽しんでいた。浪花の尻に引かれるアチャコが常設パターン。確か、冒頭に浪花が「いらっしゃいませ」アチャコ「こんばんは」と声を掛け合っていたと記憶する。それを合図に箸を取る五人であった。
 いま、コンビニ店へ入っていくと「こんにちは、いらっしゃいませ」と声がかかる。「こんにちは」に少々違和感があったが、今は慣れた。レジからだけでなく、展示商品をしゃがんで向こう向きで整理しながら、背中からも声は飛んでくる。 書店に入っていくと、迎えるのは無言の声。買うべき商品をレジ前に置くとやっと「いらっしゃいませ」と。買う客になるまで声はかからないのだ。
 新古書本店でもコンビニ店と同じように、「こんにちは」の声が背中からもかかってきた。あいさつの持つ力はそれなりの販売力に繋がっている気がしてならない。書店も入店者(入店客とは言わない。入店客は買う人だから。買わないでも店に入ってくる者をさす)に「こんにちは」あるいは「いらっしゃいませ」と声をかけてごらんなさい。売上が伸びるでしょう。
 

(曜日)更新

第283号
 人を殺す、この決定的な行動原理を誰が解明するか

 殺人の重さが分かる人間は、文化人であると規定したい。人が人を殺す、この不条理な関係を、証明するのは不可能に近い。これを解明できるところに、人間たる存在感が生まれ、人間世界が成立する。やけに、高邁な表現が続いたが、人を殺す重大事を、簡単には解けないと考えるからだ。
 殺人、人を殺す、生命を絶つ。こんな重圧はない。ここから、殺人は狂気であると切って捨てたい。刑法で殺意があったかなかったか、それが刑量の尺度になるが、こらしめたいという気持ちと、殺したい気持ちの格差は大きい。ここから人間の生命価値感も生まれる。いろんな、殺意を持った暴力が存在するが、そこには生命を絶つという殺意はなく、騒がせたいという、騒ぎの主人公になりたいという、単なる英雄志向にしか過ぎないところもある。ただ、日本の現状が、人を殺す。傷つける、それが許されやすい、社会状況である現実が、何よりも恐ろしいのである。 
 
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