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北 広次郎(キタ こうじろう)
1936年 名古屋生まれ
東京外国語大学ロシア語科卒綜合商社丸紅に勤務、1966年より日本製繊維機械の海外輸出に携わり英国マンチェスターに永住する。
傍らエッセイスト、ドキュメンタリー作家、欧州産業革命研究所家工業ジャーナリスト、国際技術ビジネスコンサルタント等兼任。著書に「ミスターようろっぱ」「ユーロッパからこんにちは」など

『ユーモアクラブ』について、海外ではどこの国でも、実に含蓄のあるユーモアが日常の会話の中にナチュラルに解けこんでいる現実をみるにつけ、日本人のそれが残念ながら平均以下と気づきました。そこで、駄洒落ではないハイセンスなユーモア文化をマンチェスターから発信したいと思います。

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2012年03月05日(月曜日)更新

第31号
 シャールロッテ・ド・ロスチャイルド(CDR)
 音楽文化親善特使のコンサートの背景を垣間見る
(写真は2011年秋、東北CDRチャリティー・コンサート会場)


 まず主題に関しその後皆様から戴いたメイルに感謝申しあげます。
 これほど歴史的に未曾有の3・11の大津波震災以後一周忌が過ぎんとしているのに、すでに風化しつつあるのではないか、と危惧されている方々がいらっしゃる状況も感じています。そこで非力な人間ながら、一体これから何がせめて自分には出来るのだろうかと思い悩んでいます。

 しかし 私は非力ながらも、海外に1966年から在住してるが、それだけに望国の念強くなり亡国にはなってほしくありません。このままで行くならば、どんなに笛吹けど太鼓叩けど、世界は永久に『福島(イコール日本)は第二のチェルノブイリ』という固定概念のまま定着してしまいます。

 思い切った革新的イメチェンのアイディヤを出し合い、それには単にアイディヤだけに終わらせず、皆が実践をするという意識が必要不可欠だと確信しております。私個人だけでは限界があるが、私の身の丈でも出せるアイディヤを絞り、海外と故国ジャパンに再起して貰いたいの一心です。

 これは目的意識を共有し、理解しあえる同志の仲間の方々の強力な協力の絆がなければ、何事も前進しがたい大きなテーマであると感じています。

 3・11の一周忌の今月、英国BBCが日本ロケで収録してきた「ドキュメンタリー番組」を放映しました。いつもながらBBC独特の手法による内容で、被災地の子供を主体の語りを中心に集録されているのが、かえってさりげなく、じわじわと徐々に強烈な印象的を醸し出す効果を出していました。

 このフィルムは、日本孤島のひとびとにも観て戴きたいものです。英国時間2012年3月8日(木)夜9時に英国全土に放映されたものです。

 一人だけ助かった小学校の先生が、亡くなった生徒の親たちから、強烈な非難を向けてる場面は眼を避けられない、胸の痛みを感じました。
『すぐ 裏の小山に上って避難してれば、生徒達は、命が助かった筈なのに、先生達の指示で校庭にとどまり、津波にさらわれて亡くなってしまった、いたいけな生徒達は一体、、、、、、?!?!?』と言うPTAの怒りの言葉。そして一人生き残った教師は『前代未聞の経験したことのない大津波地震に判断がつかなかった。 』というだけで、頭を垂れてるのみので後は無言で通してるのみ。

 もし私が、あなたがあの場の教師であったらどうしてるか? 又もしあの場面でPTAの中の一人だったらどういう発言行動パターンをとっているだろうか? なんとも耐え難いような、重い十字架を背負って丘を登るその重苦しい空気。

 ドキュメンタリー・フィルムの制作手法には、独特な定評があるBBCの取材の優れものの番組であったせいもあり、その内容の深刻さになんとも言葉が出なくなりました。BBCの手法は、常にヒューマンの取材哲学が秘められています。

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 本年春のCDR文化親善特使の日本公演予定の中の一部は
  http://www.min-on.or.jp/special/2012/rothschild/
ですが、5月は米国公演ツアーになっいます。

 本年秋の日本公演はつい一昨日、また追加として本年10月中旬の東北での大型チャリティー・コンサートが決定された連絡が、日本のスポンサー団の関係者の方々から私に電話とメイルで確認があって、この念願だった企画なのでコンサートだけのみならず、それ以後の方の、なんらかのお役に立てるような、ある継続プランをもって望みたいと考えて来ましたので、決定を首を長くして待っていました。

 とくに福島原発事故が、チェルノブイリ原発事故の時のような報道を世界に流されてしまったのは、海外に永く住む私から見ても、遺憾で無念ですが、この異変現象に対するイメチェン・チャレンジは、単なる東北福島エリヤだけの問題ではなく、八方海洋孤島国Jジャパン自体の世界へのイメチェン大変革にシンクロナイズ(連動連結)していると考えて、歩む、いや時には走るしかないと思います。

 CDR文化親善特使に関しましては、3・11震災後、日本での公演予約申込が、当然減るものと思っていました。ところが様子を見ていましたら、その予測に反して、日本からも更に多くのチャリティー・コンサート招待公演が昨年から増加する現象が発生しました。

 これまったく想定外で、関係者は首をかしげていますが、本年も申込みが来ていまして、3月下旬4月上旬日本、5月米国公演、6月欧州公演、9月下旬10月中旬まで又昨年同様九州宇部関西関東北など日本公演に続き、10月下旬から香港シンガポール・オーストラリヤ公演が決まっております。この大部分は、実は昨年から申込があったものに加わって来てるものです。

 今中国本土北京上海からのコンサート公演のお誘いの打診も来ていますが、本年はCDR特使の予定がほぼ決まっており、時間的に余裕がないので、来年に考慮したいと思っています。

 昨年3.11以後他の外国タレント・アーティスト達に関して企画されていましたコンサート・イベントで、特に東北地方でのものが多いが、日本での予定がキャンセルになったものもかなり会ったと聞きました。 しかし2011年9月中旬からCDR特使は、あえて仙台公演を行い、直後気仙沼や東松島等被災地を視察して周りました。

 一方9月14日夜の、学習院大学東北福島支援チャリティー・コンサート公演は、当初は8月の盆休み前と学校休み8月中にコンサート会場の許可がおりたのですが、準備時間があまりにも短いことが危惧されていました。当初は訪日前か既にインド公演のために、9月14日早朝成田発便デリー向け出発の予がが決まっていたのです。しかしCDR女史は、東北福島支援の当方の裏方の事情に同情して下さり、ぎりぎりの瞬間に、9月14日早朝発便をわざわざキャンセルして翌朝便に切り替えてくださいました。そして当日500名を超える観客が集ってくださいました。

 その学習院大コンサートに来て下さったを方々の中には、わざわざ航空便で札幌からお越しになってた方がいる事を知りまして頭が下がりました。この方はCDRコンサートはこれが初めてでなく、1990年代のだいぶ以前に札幌で行われたCDRコンサートにお越しになりファンになったのだそうです。

 その頃福島原発事故の放射能の影響で、主に東北からそして関東在住の外国人達の大半も日本脱出、本国への帰国をしている最中でした。私も2011年8月訪日直前に英国のマンチェスター国際空港で、放射能からの脅威から逃れるため、日本の東北地方に住み着いていた英語の先生等を含む英国人達が帰英して来た団体に出会いました。


 2011年9月14日の学習院大学東北支援チャリティー・コンサートの直後から、私は特に原発事故の現地である福島県でのチャリティー・コンサート開催の意義を、CDR特使と繰返しお話して来ました。

 これには私の過去にかかわる背景の事情があります。私はかつて元いた商社時代、マンチェスター・リバプールの中間にある英国核燃料公社(BFNL)からの原発用の核燃料棒の輸出を手伝っていたことがあります。燃料棒の日本向け運搬専用船二隻も英国の造船所で建造され、完工式も行われた時でした。

 そのころ日本の東電を含む九電力東海村へ運搬される核燃料棒保管プールの安全管理方法を見て、日本国はその危機意識に関する安全管理法には、十分対策がなされているはずと思う傍ら、安全管理のための発想法の相違をBFNLの方に教えられて、気づいた事もありました。以前東海村で、臨界をこえる事故があり無防備な係員の方が、バケツに水汲んで処理しようとして、放射能をいっぱい浴びてお亡くなりになった事故がありましたが、本来その時点で国として安全管理体制が強化されるべきであったにもかかわらず、放射能に対する軽視というか、無知ののまま、一過性の事故として一時は報道はされただけで、結局は風化され封印され忘れさられてしまいました。


 本来あの東海村の事故の時が、福島原発事故への兆しであったと見るべきでした。
 しかしその国家的危機意識は生まれなかったし、準国営企業的体質の電力会社には表向きの利益追求しか見えておらず、『日本には原発事故は起きない神話が』はびこり、あらゆる危機を想定した安全管理への必要経費の出費は無視されて来たのです。

 これは故意の過失、故意の過誤であると思います。ましてチェルノブイリ原発事故も、対岸の火事にしか見ていませんでした。

『日本にはあり得ない事故』という妄信(盲信)したままの無知蒙昧か、電力を制する技術者や管理経営者の驕慢体質をそのまま踏襲してきたといえます。そのつけは余りにも大きすぎるしっぺ返しになった事が、今回の国民的大被害の犠牲者を生んだわけです。

 これに関する詳しい事は、お時間のある時に、 『北広次郎 』をインターネットで検索し、 『ミスターヨーロッパだより 』の第13号などを御参照ください。 

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2011年04月11日(月曜日)更新第13号
『原爆と原子力発電の相関関係を省みる』

2011年06月07日(火曜日)更新第14号
『戦後日本の原点に戻って』
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2011年06月17日(金曜日)更新 第15号(その一)
『明治維新文明開化から現代日本の東北大震災福島原発まで』 

2011年06月17日(金曜日)更新 第15号(その二)  
『日本国民のために暖かいロイヤル外交を!』 (1) 
『日本国民のために暖かいロイヤル外交を!』 (2)
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2011年06月23日(木曜日)更新 第16号
北 広次郎の先祖の話 
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 その間、CDR特使は東北コンサートの話をして一度も躊躇したり、嫌がったりする事はありませんでした。むしろ常に逆に積極的で東北に対して前向きに考えて反応してくれました。

 1980年代末から、東北地方都市でも既に何度も公演活動を、地道に辛抱強く行ってきたCDR特使にとっては日本全土、特に昨日今日のにわか外人タレント・アーティストとは全く異なる歴史があります。

 それと1948年、二千年振りに現代イスラエル国家再建を成し遂げ『イスラエル建国の父』と称されたCDR特使の実父第五代英国ロスチャイルド家当主エドムンド・ロスチャイルド男爵の大きな影響を受けていました。実父ニックネーム・『エディ』は大の日本びいきで、戦後日本を訪問した回数が33回を越すといわれています。
 エドムンドと北 広次郎の関係については、上記『ミスターヨーロッパだより』の中の

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第7号
『クオ・バディス、孤島国Jジャパン?』(その二)
 (英国ロスチャイルドが北に贈った感謝状のわけ)
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2010年07月16日(金曜日)更新 第8号 
『クオバディス孤島国Jジャパン?』(その三)
 (英国ロスチャイルドが北に贈った感謝状のわけ)
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2010年07月28日(水曜日)更新 第9号 
『クオ・バディス 孤島国Jジャパン?』(その四)
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2010年08月10日(火曜日)更新 第11号  
『ロスチャイルドと音楽家の実像』 
   音楽の表裏歴史 (その1)
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2011年03月10日(木曜日)更新 第12号
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を御時間のある時に御参照ください。 
 

2012年02月27日(月曜日)更新

第30号
 『英国の中国への香港返還のために動いた人々』
              (日本英国中国の結びつき)

 北 広次郎も英国のマンチェスター地区のポップミュージシャンに作詞を提供したりしてスタジオ録音をしたりしてたこともあり、また当時ブラッセルに在住していた、中京地区のアルテフィルハーモニックオーケストラと西尾合唱団の指揮者兼音楽監督をしている田中瑞穂氏(インターネットで索引可。過去にバルセロナオリンピック年のスペインセビリヤ万博、韓国大田市万博、愛知デザイン万博、愛地球万博等でも指揮をしている)が、北広次郎の作詞12作品に作曲しており、ちょうどいい勉強にもなった。

 その後ロスチャイルド家のシャルロッテ・ソプラノ音楽芸術特使が、その作品中の志摩半島の御木本パールアイルランドで書いた作詩・田中瑞穂作曲の『エリザベートと真珠の珠(たま)』を、銀座ヤマハホールで日本語歌詩のまま唱い絶賛を博している。2011年3・11の東北大津波地震福島原発事故の後、開催したチャリティー・コンサートでは北広次郎作詞田中瑞穂作曲の『さすらいびと』を日本語でシャルロッテ音楽文化特使によって日本人以上の哀歓と望郷の念をこめて唱われた。この歌は災害によって、故郷を離れて避難生活を送ってる人々の心情を唱って居るものである。


 東京銀座ヤマハホール公演には、在京の外国大使夫妻も来られていたが、終演後、当時北京大学美術教授であった中国改革開放の立役者の小平先生の御長女が大きな花束を抱えてステージに上がってきて祝辞を述べた光景が実に印象的であった。これは当日予期してなかったハプニングで、最初舞台上にあがってこられ自己紹介をうけるまでは、どこの御婦人か分からなかったのである。


 ほどなくして1997年チャールス皇太子、マーガレットサッチャー首相、ブリットン香港総督が出席しての中国への香港返還式典が挙行された。その日北広次郎は、英国から大阪出張中で、仕事が終わってからその晩元伊藤忠商事の方の行きつけの道頓堀のこざっぱりした小バーに招待を受けたが、10人ほどの小カウンターバーに腰掛けてスコッチを飲んでいたら、隣に外資銀行マンのロンドン生まれの英国人の若中年男と、オーストラリヤ人のフィアンセ女性が座っていた。彼女も銀行員で、二人とも香港駐在勤務中に知り合った仲で結婚寸前の旅行で、今はメルボルンから日本旅行にきているといった。ところが、その英国人男性が、TVで香港返還式典の実況放送を真剣な面持ちでジーッと観入っていたが、突然酒盃をママさんのいるカウンターの中の壁際の、天井に近い位置の棚に設置されたTVのスクリーンに向けて乾杯の仕草をしながら、『あれは英国なんだ』と繰り返し口走っていた。その彼の両頬にはとめどなく涙の大粒が数珠状に繋がり、零れ落ちて行くのが見えた。その瞬間、彼の胸底に落雷を受け周辺には激しい空震が走ったようであった。

 しかしこの大返還劇を演出した仕掛け人達は、むしろ英国側に居た事はインターネットで北 広次郎のミスターヨーロッパで更に触れています。


 そして香港返還に深く関わっていた『中国改革開放の父』である小平先生は、晩年御病床にあった小平先生は、残念な事に香港返還日の寸前に他界されてしまった。その小平先生の御長女が、東京銀座ヤマハホールで私が開催させて戴いたシャルロッテ・ド・ロスチャイルド・コンサート(ノーベル平和賞受賞マザーテレサ追悼記念コンサート)の終演直後、前列客席から大きな花束を抱えて、ステージに上がって来られた夜の事がいまだに鮮明に脳裏に刻印されている。それはまだ香港返還前の事であり、全く想定外の出来事であった。


 しかし中国への香港返還は、英国政治史開闢以来初の女性首相マーガレット・サッチャー首相と、1948年現代イスラエル国を再建したエドムンド(ニックネーム:エディ)・ロスチャイルド第五代当主(その御息女ソプラノ歌手のシャルロッテ女史は私 北の20年来の友人)が最終的に表裏一体で演出したものです。マーガレット・サッチャー首相の御主人デニスは、ロスチャイルド商業銀行頭取でした。サッチャー首相の跡を継いだジョン・メイジャー首相も元はロスチャイルド銀行員であり、保守党員になった。今の香港上海銀行HSBCは99年間英国が香港を借款してた時代のアジヤ最大の金融活動の一大拠点で、その発祥から大株主がロスチャイルド家であった。英国の香港返還は、世界を変える一大転換事象であった。


 そして香港返還後 やがて北京オリンピック・ロンドン・オリンピックに繋がるが、その発端になったのは、日本の長野オリンピック招致のときから始まっていた。 オリンピックと世界万博はセットになって繋がってゆくケースが多い。典型的な例を見ると、1952年である。特に発展途上国では、その傾向が顕著である。アジヤではまず日本、韓国、そして中国が、このプロセスを踏んで来ている。


 この1992年はスペイン・バルセロナ・オリンピックが開催された。しかしそれだけではない。同年スペイン・セビリヤ市では世界万国博覧会が開催された。 しかし同年は、まだそれだけではない。コロンブスがバルセロナ港を帆船隊組んで出発し、大西洋を西進横断して、米国大陸沿岸の島にたどり着いたのが1492年のことで、『米国大陸発見年』から丁度5百年経た年であった。バルセロナではその大航海時代の五百年祭ヨットレースを開催した。

 その頃コロンブスは地球が円球状いという説をかなり確信をもっていたので、その大陸は最初インドだと思い込んでいた。マルコポーロの『東方見聞録』の紹介により、黄金の孤島国『ジパング(JAPAN)』にもたどり着けると思っていたという説もある。しかしまだここが 新大陸という認識がなかった。
 今は『アメリカ大陸』というが、本来なら『コロンブス大陸』とか『コロンボ大陸』と名ずけられて、しかるべきものであった。では何故 『アメリカ大陸』という呼称になってしまったのか?というと、AMERIGO VESPUCCI(アメリゴ・ベスプッチ)が二番手の海洋探検隊として米国大陸沿岸にたどり着いて上陸したという事で、『アメリゴ(アメリカ)大陸』が採用されてしまった。

 これは微妙なところである。世間には、何事も最初の発見者や発明者や紹介者が、いろんな屁理屈をつけられて、いつの間にか飛ばされて後発者達が『漁夫の利を』得てしまう矛盾不合理がまかり通ってしまう不条理が起きる。その典型例がコロンブスのケースで、それが『コロンブスの卵』にもなった。

 コロンブスは 再度米国へ航海していて、ほとんど欧州を留守にしていたので、留守中にますます人々には忘れられ無視されてきた。それに、陸路隊商隊がインドから持ち帰る金銀財宝や胡椒など香辛料を持ち帰る事への期をかけた物欲の塊の、探検隊帆船建造に投資した貴族や商人の投資達は、コロンブスがアメリカ・インデイアンの道具や植物やら、あまり金目のないガラクタしか持ち帰って来なかった事に落胆してバルセロナの晩餐会の席上、コロンブスを非難した。これに憤懣やるかたないコロンブスはテーブル上に『コロンブスの卵』を立て、『誰かが先行した後の二番煎じはたやすい。』と言う抗議をぶつけて晩餐会の席を蹴って会場から去った。



 香港返還の当日晩、TV画面には、豪華船クイーンエリザベス号が香港沖に停泊し、香港の夜景のネオンの輝きと、次々に連続して打ち上げられる花火の閃光色の彩なす映像が、99年借款の歴史的終焉を、時空に放射する歓声と、哀愁と、ノスタルジャーが交錯する映像が映し出されていた。

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 最後に GOOGLE か YAHOOに 北広次郎 を打ち込んで ミスターヨーロッパを 検索して見て下さい。こちらは日本語でありますが。


 北 広次郎が松本零士さんと対談のインタビューです。
 次のU-tube サイトを見てみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=gk2PvOeHMBE
http://www.youtube.com/watch?v=MK9J2CYVUC4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5vBPnrHKcUA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=gWdvWKy1Xng&feature=related
http://www.youtube.com/user/AOYAMAMUSICKOJI?feature=watch#p/u/6/2qPj_erx-2Y
http://www.youtube.com/user/AOYAMAMUSICKOJI?feature=watch#p/u/10/qc2xlDY9DpY



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北 広次郎 英国
Nori Kojiro Kita

NKita Consuting(EU/UK/USA/Middle-East/South-America)
E-mail: norionplanets@gmail.com
Tel: UK+44-161-903-9808
 

2012年02月20日(月曜日)更新

第29号
 『国際関係舞台表裏先駆けの歴史』
 (北広次郎はロンドン国際特許大係争の生き証人)

  産業・工業・商業・貿易・著作権・商標・知的財産などに関係される方々は、お時間を割いてご参考までにご一読ください。


 北広次郎が何故国際特許裁判に絡むようになったのかは、北広次郎が丸紅にいた頃ロンドンの最高裁法廷に2年かかって20回余り、チェコスロバキヤ国営機械公団に対抗し、英国最大の民間企業ICI(IMPERIAL CHEMICAL INDUSTRIES)(デュポンに匹敵する大化学会社で起源はロスチャイルドに関係あり)と日産自動車と丸紅株式会社を北広次郎が束ねて代表し、戦後日本最大の特許大係争を行ない実質勝訴した。

 万一これに敗訴すれば、日本の戦後最大の莫大な賠償金が絡む大裁判で、北広次郎が世界市場に始めて売り込み、工場で大量に使用させていた水噴射式超高速自動織機に関する国際特許係争であったが、しかし裁判中は敗訴の夢を見て冷汗を掻いた夜が幾晩幾朝かあった。

 ウエストミンスターブリッジのビッグベン時計台の英国国会議事堂があるテームズ河畔近くのストランドにあるロンドン最高裁判所法廷には、毎回朝9時から夕方5時まで出廷させられた。いかめしい歴史的建造物のロンドン最高裁は、前は通る事はあっても、一生中に入ることはありえないと思っていたが、まさかこれほど通う詰めることになるとは、それまで夢想だにしていなかったのである。この英国最高裁ビル前が、TV画面に映し出され、ニュースキャスターが並み居る群集の前で、判決のニュースを告げる度に、当時が思い出される。

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 当時これ以外にも、他の多くの国際特許問題に関係をさせられた。証拠集めに海外に出張を重ね、多くの法廷弁護士団に会見し、サポート書類を提出し、特許技術内容を説明し、国際特許法の勉強も、否応なく、学ばざるを得なくなった。

 以後、商社メーカー間では、国際特許部長という異名がつけられる。これは戦後初の日本の大中小機械メーカーの代表取締役の委任状を預かり、これら企業を束ねて代表し、北広次郎が自ら丸紅傘下で創立し、代表取締役を勤めた丸紅テクマテックス社グループ(英仏伊米タイ国など世界各国に創立した)。インターネットで索引可能の、戦後成長を始めた日本工業界企業を、海外の特許係争攻勢から防衛するための闘いの連続であった。そのような体験から北広次郎が得た教訓は、『出る釘は打たれる』『世界に売れる優れた生産機械ほど特許攻勢ににさらされる』、『猿真似模倣国ジャパンという汚名のそそぎかた』 『どんなに長い暗闇の隋道(トンネル)にも、やがて明かりの見える出口がある』ということであった。

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 その頃ホンダ、ソニーもまだ小さなトランジスターラジオを売り出して間も無いころで、世界ではまだ無名だった時代である。当時日本の特許庁も発足してから間もない頃で、正直言って後進性が免れなかったので、海外で国際裁判やっても、あまり頼りにならない事が多くて、毎回悔しい思いをした。

 英国のある電気関係の発明家の特許が、申請後四年以内に全欧州諸国、米国、カナダ、豪州、インド、香港などで認定発効されたのに、十年経過しても日本の特許庁には認定せず放置されていた理由は、戦後発足した日本の特許庁の未熟さもあったが、庁職員の人数が少なく、科学工業技術の専門家にいたってはなおさら致命的に少ないため審査が滞っていたのもで海外からの激しい非難をうけていた。

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 また日本の司法制度にも欠陥があったし、今でもある。最近の例だが、日本メーカーのコピー機の内部のトナーカセット装置で、欧米では自社製の新品交換を系列代理店に強いて来たし、違反者代理店には、その部品の供給を停止する意地悪を強いてきた。さもないと保証をしないとかいってこれを海外でも強要した。しかし、この新品交換カセット代が本体器に近い価格であるため、家庭用はそこそこでいいが、使用頻度の多い店舗事務所では、その交換経費が年間馬鹿にならない。そこで、トナーカセットをリサイクルする業者がふえてきた。しかし日本メーカーは、リサイクル業者を排除しようとした。

 これに関しては、北広次郎自身も、試してみて、リサイクル品でも、十分遜色なく機能する事を体験した。この問題では北広次郎自身も現地消費から相談を受けていて、リサイクル業者団体にアドバイスしてロンドン・ダウニング街10番地首相官邸に嘆願状提出した。
 官邸から本件理解したので関係部門で、早速調査審議するという回答を貰った。リサイクル業者が居ないと、一回使用したカセットは毎回新品で入れ替えせねばならないから、その廃品回収でごみの山を築くので環境に悪い。それにリサイクル業者締め出しは独法禁止法に触れるということを訴え続けた。そしてリサイクル業は合法と認められて、多くのこれに携わる業者の人々の職が救われた。しかし、その後日本でおきたリサイクル業者対世界的大手メーカーの法廷争いでは、全く欧米とは正反対の判決結果が出され、大手メーカーの勝訴となって、リサイクル業者を違法としたのである。

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 この日本のケースを知って、北広次郎が思い出したのは、ロス疑惑の三浦事件であった。たしかグアム島で三浦は、妻と愛人の二人の保険金殺人にかかわったとして、時効制度のない米国警察に逮捕された三浦は、ロスに転送されて獄房の中で首吊り自殺をした。その時、それ以前日本での裁判で、三浦の弁護をした弁護士が『一旦日本国内で既に無罪が確定してる三浦をロス警察がグアムで逮捕し、ロスへ移送して裁判かけるのはけしからん』とTVマスコミで抗議していたが、この日本の弁護士の国際的司法知識の希薄さには呆れた。

 おしなべて『国際的司法』となると、八方海洋孤島国ジャパンの攘夷的鎖国性が露呈してくる。そしてどちらかというと、日本の司法も、裁判は正義を追及する場所という看板は掲げていても、国際特許などでは国内大手企業向きであるし、政権の政治の色が見え隠れする。

 欧州は五百年の司法裁判制度の積み重ねの歴史があるが、大岡越前裁き式恣意裁判時代を経て、日本は明治維新の西欧の六法全書の翻訳を日本に採用して、まだ140年の歴史で、終戦後のマッカーサー体制下の再成新制スタートからして、まだたった半分の70年である。

 音楽著作権JASRACにしても、スタートして歴史が浅い。私の高校一年先輩のM氏は早稲田仏文で、西条八十先生のゼミにいたが、卒業の時に、出来たジャスラック(JASRAC)に就職したその契機は、実に単純であった。JASRACの初代会長に就任する事になった西条八十先生にくっついて行くところなら、どこでもいいという軽い気持であって、JASRACって一体何をする所なのか、全く知らなかった。そして入ってみて全国のキャバレーやバーやパチンコ屋を毎晩巡回し、『音楽著作権使用料を支払うよう』にと督促してあるく変な取立屋の仕事だと段々気がつい来た。しかし『レコードとカセットテープ買うた時に、もう金払うたんや。何で又金払わにゃならんのや?そんなん二重取りやんか。そんな馬鹿げたことをわざわざ言いに来たんか 帰れ!』とどこでも厄介者扱いで追い出される始末。

 後にM氏はジャスラックの国際部長になってから、3日間のロンドンでの世界音楽著作権国際会議に列席するために来英することになり、その時ロンドンに駐在していた北広次郎に、『英語がこころもとないので、同席してくれ』と懇願されて、商社の3日間仕事放り出して、お付き合いしたことがあるが、会場では音楽著作権、公演権めぐり、プレーヤー再生機器メーカーからとるべきだとか、レコードメーカーからとるべきだとか、双方に分担させべきだとかどこから徴収すべきかの論議が沸騰していた。そしてここで、英国音楽著作権協会グリーガード氏と知り合うことになる。ロンドンの世界音楽著作権国際会議のとき、次の世界大会は北京で開催が決まっていた。

 しかし当時の北京政府は、まだ音楽著作権国際協定加盟には消極的になれない事情があった。中国の人口13億人からすると、一曲がヒットすると一晩にして一億枚のシングルが売れて印税で億万長者が誕生することになり、それが共産社会主義思想の体制下で国是にそぐわないので、まだ正式加盟は先延ばしにしたいという空気があった。そこで英国は、まず英国香港政庁の支配下にある香港から、手をつける事から着手し、海賊版の取締りから、音楽著作権使用権の啓蒙教育と使用権料の徴収から初めようとしていた。しかし、戦後日本にJASRACが創設された直後と同様、知的財産権の認識が全く一般には無い所では、それは最初からすんなり行く筈がなかった。

 これは音楽ばかりではなく、技術工業品や、ブランド商標権でもどうようであった。警察の協力と司法当局裁判においてのコラボで、やっと香港ではその機能が作動し始めたのである。

 そして中国本土にも、それが浸透し始めるのは、香港返還が大きな役割を果たした事になる。しかし完全浸透になるまでは、まだまだ時間がかかってるが、その象徴的事件は、北京オリンピック開催前の、デイズニーランドのコピーキャラクターの出現であり、日本のポップ音楽のコピーであった。中国政府もコピー商品の取締りを強化するようになったのは、英国の香港返還と世界特許同盟への正式的加盟強化には、英国の香港返還がこれを強く後押しをした。小平先生の押し進めた『改革開放政策』から、香港返還後、中国は世界の工場となり、北京オリンピック、上海万博をも成し遂げた。世界第二の経済(工業)大国に躍進し、AU(ゴールド)保有量は、昨年米国を越えたとも言われる。

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特許商標登録に関する国際協約について

 北広次郎は1960年代から機械技術の国際特許にかんして、職業柄多く関与させられてきたが、また国際的商標登録面でも、多くの企業の相談を受けてきた。しかしここでも、八方海洋孤島国ジャパンと、欧米大陸国の矛盾を感じたことがしばしばある。最近中国台湾が、京都北海道東京大阪讃岐など、都道府県町村名を勝手に自国内で商標登録してしまい、独占的使用権を握ろうとしたケースがある。日本人が台湾で讃岐うどん店を出店しようとして讃岐(さぬき)名を使おうとしたら、先に登録者がいて、使えないという事が起きた。

 特許商標登録に関する国際協約では、都道府県町村名は商標登録には受付けられない規約がある。終戦後の孤島国日本も、そういう知識も意識もない時代があった。今でもといえるかもしれない。トヨタ自動車の発祥の母体会社は、創立者の豊田佐吉翁の愛知県刈谷市の豊田自動織機製作所であるが、近くに豊田市がある。そもそもこの市は、豊田家の名前をとって始まった市名であるが、都道府県町村名は商標名社名として、国際規約では認められないので、通した。自分が作った市名が足を引っ張ってしまったという珍しいケースである。豊田家でも、発祥当初は、ここまで世界的大企業になろうと予測出来た人はいなかった。


 その資本金は豊田佐吉翁が発明した自動織機を、隣の三重県志摩半島の御木本幸吉の養殖真珠の五重の塔とともに、『二吉(二人の吉)』はロンドン万博に出品した。これが日本の近代技術の曙になった。その佐吉翁発明の自動織機の技術に目を付けた、英国マンチェスターのPlatt-Brothersという繊維機械製造会社が、佐吉の製造パテントを買取ったPlatt-Toyoda Loomというブランド名の織機を英国で生産開始した。その織機が1960年後半から1970年代初めに、スペインのバルセロナから行く田舎地方のラッサ・サバデル地区にある繊維工場で、まだ使われていたのには驚いた。その豊田佐吉がロンドン万博に出品してPlatt社にライセンスを与える提携をしたのは明治の初めの事であるから、それから80年近く使用されてたことになる。
 その時代物の織機を、ついに私がニッサン自動車製のウォータージェット(水噴射式)織機で、入れ替えたのであるが、後にカルロス・ゴーン氏がニッサン社長に就任してから、ニッサンの繊維機械部門はトヨタグループ発祥母体会社豊田自動織機製作所に売却されたから、時代はがめぐりめぐって奇しき御縁である。

 この時豊田佐吉翁が受取ったロイヤリティー資金がトヨタ自動車の資本金となった。ニッサン(日産)自動車も、実は戦前英国のAustin(オースチン)日本支社であった。ブランド名はダットサン(DATSUN)といった。ホンダも英国に関係がある。創立者本田宗一郎氏翁は、英国マン島のオートバイレースに参加して、初回は途中エンコで、完走できず棄権した。数年後エンジン改良に改良を重ね、再度レースに挑戦して見事優勝し、以後連続優勝を重ねて、今日の世界のホンダに成長した。

 それに刺激された同郷の親戚が、『本田が優勝するくらいなら、俺たちだって出来ないはずはない』とこぞってマン島レースに参加して、鈴木、川崎、ヤマハが追いかけて世界に出た。ヤマハはもっとユニークなのは、其の前にオルガンピアノのコピー品造りに挑戦してきた歴史がある。ヤマハはオートバイや競艇ボート、漁船のエンジンばかりでなく、日本製楽器の分野で、世界市場に進出を果たした。1950年代後半から1970年代、私が居た丸紅ロンドンで小松製作所のブルドーザーや加藤製作所の建設機械の輸入を始めた時、小松を商標登録することを、依頼されたが、石川県の小松空港の小松市が存在するので、コマツは商標登録できなかった。かといって今更社名やブランド名を大松、中松に変える事はもう出来ない。そこで、これはそのまま商標登録はせずに使うことにした。

 ニッサンが吸収合併した会社にプリンス自動車という会社があった。そこのスカイラインはもう幻の車であるが、今でも名車といわれてる。そのスカイラインを欧州に輸出しようとしたが、ドイツにPRINZ(英語ではPRINCE)という車があったために登録できない。そこで、『ミカド(MIKADO)』という日本の古名を商標登録し登録し、欧州に輸出を開始した。これには更に後日談がある。

 北広次郎はプリンス自動車の製造してたプリンス・ウォーター・ジェットルーム(水噴射式織機)と、トヨタグループ発祥本体で母体会社の豊田自動織機製作所の綿紡績機械を抱えて1966年7月、蒸気機関の世界産業革命の発祥地英国マンチェスターに乗り込んだのである。当時『プリンス』という商標権は。先に申請したタバコに火を点けるライター製造の日本のプリンスライター社が有していた。そのためプリンス自動車は、プリンスライター社に年間六百万円の商標使用権を支払い続けて来た。しかし後にプリンス自動車は石原洵社長時代ニッサン自動車に吸収合併される事になって、『ニッサン・ダットサン』の商標に統一されて、プリンスライター社への社名商標『プリンス』の使用廃止となり、名称使用権年間六百万円の支払いは停止された。その後多くの日系企業からの商標登録、海外現地会社設立登記の為、現地国での社名登録に関して、多くの問合せや相談が北広次郎に持ちかけられて来た。

 最近特許は日本でもなく、米国でもなく、まず欧州EUに真っ先に申請する方が得策とされるようになっている。これならEU特許申請は。一度の申請でEU圏内27ヶ国が一遍に取得できるからです。

 国際特許に関する御問合せは、1966年以来長らく欧州法廷にて実践的実戦体験を積み重ねてきた経験もあり、御相談事があれば、下記住所にコンタクトされれ場アドバイスを差し上げます。

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北 広次郎 
Nori Kojiro Kita

Nkita Consuting(EU/UK/USA/Middle-East/South-America)
E-mail: norionplanets@gmail.com
Tel: UK+44-161-903-9808
 

2012年02月13日(月曜日)更新

第28号
 北 広次郎が不動産や絵画美術品クラシックカーに結びついた背景

 当方の欧州高等貴族バイヤー達の4種類の真性バイヤーの購入方法についての背景を説明します。

 北 広次郎のケースはごく特殊かもしれませんが、彼ら貴族筋のバイヤーと故あって結びついて、この貴族購入方式で30年間これらに絵画購入のアレンジをしてきています。残念ながらこういう真性バイヤーとの海外国際取引の経験的専門家は皆無なために説明に苦慮します。

 しかし、北 広次郎が欧州高等貴族と知り合い結びついた動機は、当初絵画や美術品とはまったく無縁な文化芸術友好交流の個人的関係からたまたま彼らから絵をさがす事に協力してほしいとたのまれたのがきっかけで、最初全くの奉仕で紹介してきました。

 その当初は私は当時まだ丸紅機械本部の海外代表でしたから、私には機械販売の本業がありましたので、絵画の持主売り手買い手双方から依頼され絵画所有者を我々機械製造販売顧客から紹介して差し上げましたが、絵画に関しては手数料などは一切いただきませんでした。

 バブルの頃は、デパート・商社はみんな美術品部を作りました。私のいた丸紅も、丸紅画廊を作りました。現在の三越社長で日本百貨店協会会長の私の高校同級生中村胤夫君も、まだ岡田社長時代には美術品部部長として、三越の顧客依頼の為に絵画を扱っていました。その頃、西武セゾンも大丸など一流デパートも大手商社も一斉に美術品部開設しまして、商社の名前を冠した画廊が店を構えましたが、1991年日本バブルがはじけてからデパートも商社も全部美術品部は廃業しました。

 私は1982年から丸紅を卒業して、国際技術貿易コンサルタントとして現地英国で独立しました。同時に英国通商業省工業開発協会の、日本を主体とした外国工業の英国工場建設誘致促進委員会の顧問に任命されました。以後日本贔屓だったマーガレット・サッチャー首相と協力し日系工業製造業各社の英国工場建設誘致運動を手伝い、日系企業英国工場進出希望調査団に対する英国工業事情文化事情生活事情教育事情などなど講演と相談役を担当しました。

 そしてまず最初に誘致したのが、ニッサン自動車英国工場建設でした。丸紅機械部時代私は、ニッサン自動車の繊維機械部のウォータージェットルーム(水噴射式織物機械)の輸出入代理店エイジェントとして、1964年から欧米市場他にメイドインジャパン機械を販売開始していましたから、当時のニッサン自動車社長石原洵氏にも、英国労働組合事情などの講義も行ない英国内工場建設用地のお世話もしました。

 ルノー社カルロス・ゴーン氏がニッサン自動車社長就任で、ニッサン自動車繊維機械部は、かねてより度々買収を希望されていたトヨタグループの発祥母体親会社である愛知県刈谷市の株式会社豊田自動織機製作所(英国万博出品展示の豊田式自動織機の発明者豊田佐吉翁画その出品機パテントを、英国マンチェスター市のプラットブラザーズ社に特許使用権売却して得たロイヤリティーを資本金として、トヨタ自動車が創立発足した)にニッサン繊維機械部は移譲されたのです。

 北 広次郎は、1964年丸紅繊維化学機械部で、上記トヨタの母体会社豊田紡績機械の世界市場への輸出も手がけていたのです。その他村田機械製作所、津田駒工業、東芝機械、日立製作所、三菱重工繊維機械、大阪機工毛紡績機、などなど機料品メーカー、電気品モーター、島津製作所などテスター試験機、部品製造メーカーの200社あまりをたばねて、紡績織物染色仕上法制加工プラント工場の機械各種・アクセサリー・パーツを組み合わせて、フィリピン・マレーシヤ、インドネシヤ・タイ・ベトナム・パキスタン・インド・エジプト・トルコなど中東・アフリカ諸国、英仏伊独など欧州各国、カナダ・米国・中南米、ロシヤ、韓国、中国、オーストラリヤなど、殆ど全世界各国に紡績織布染色仕上法制加工工場建設据設置などを行ってきました。

 そして丸紅グループ内で北 広次郎提議で丸紅テクマテックス社を世界各国に創設して英国会社社長荷就任し、フランス・リオン、イタリヤ・ミラノなどにも丸紅テクマテックス社を創設し、顧問役員を兼務しました。米国シャルロッテ、タイ等にも創設し、現在は日本も含めてすべて丸紅テクマテックス社に統合されています。(丸紅テクマテックス社検索可)

 そして1995年前後3年間、日本の不良債権不動産資産(絵画・宝石・クラシックカー・古美術・骨董品が付随したもの、不動産が多かった)の整理に英国貴族R家筋の推薦でLEHMAN BROTHERS JAPAN に派遣されました。そしてその銀行損切買収再度債権化外資買いの渦中に巻き込まれました。その時に不良債権不動産の売り物の物件には、西洋絵画コレクション・日本骨董美術品・中国骨董美術品・ダイヤモンドなどの宝石コレクション・クラシックカーコレクションなどが付帯的にくっついてきまして、外資によりニューヨーク・ロンドンに持ち出されたものです。

 いま、欧州EUはギリシャ国債破綻問題からイタリー、スペイン、ベルギーに飛び火しており、又ドル安がひびいてペイパーマネー・国債・債権・株への不信感から、ゴールド金延板・西洋絵画・ダイヤ等宝石、レアメタル・レアアースなどの物品への投資へシフトさせています。ゴールドのロンドン相場は、2011年11月1トロイオンス当たり瞬間1750米ドルを超えました。1トロイオンス当たりの相場が2000米ドル超えるのは時間の問題と言われています。2008年秋、リーマン・ブラザーズが破綻したサブプライム問題が起きる前のゴールド相場は1トロイオンス当たりのロンドン相場は、たった670米ドルでした。特にまた単品でも金額の張るブランド作家の西洋絵画が又注目されています。

 最後に、GOOGLEかYAHOOに北 広次郎を打ち込んで「ミスターヨーロッパ」を検索して見て下さい。こちらは日本語でありますが。

北 広次郎 英国
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2012年02月06日(月曜日)更新

第27号
 北広次郎はロンドン国際特許大係争の生き証人

 産業・工業・商業・貿易・著作権・商標・知的財産などに関係される方々は、御時間を割いて御参考までに御一読ください。


 北広次郎が何故国際特許裁判に絡むようになったのかは、北広次郎が丸紅にいた頃ロンドンの最高裁法廷に2年かかって20回余り、チェコスロバキヤ国営機械公団に対抗し、英国最大の民間企業ICI(IMPERIAL CHEMICAL INDUSTRIES)〈デュポンに匹敵する大化学会社で起源はロスチャイルドに関係あり〉と日産自動車と丸紅株式会社を北広次郎が束ねて代表し、戦後日本最大の特許大係争を行ない実質勝訴した。

 万一これ敗訴すれば、日本の戦後最大の莫大な賠償金が絡む大裁判で、北広次郎が世界市場に始めて売り込み工場で大量に使用させていた水噴射式超高速自動織機荷関する国際特許係争で会ったがしかし裁判中は、敗訴の夢を見て冷汗を掻いた夜が幾晩幾朝かあった。

 ウエストミンスターブリッジのビッグベン時計台の英国国会議事堂があるテームズ河畔近くのストランドにあるロンドン最高裁判所法廷には、毎回朝9時から夕方5時まで出廷させられた。いかめしい歴史的建造物のロンドン最高裁は、前は通る事はあっても、一生中に入ることはありえないと思っていたが、まさかこれほど通う詰めることになるとは、それまで夢想だにしていなかったのである。この英国最高裁ビル前が、TV画面に映し出され、ニュースキャスターが 並み居る群集の前で、判決のニュースを告げる度に、当時が思い出される。

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 当時これ以外にも他の多くの国際特許問題に関係をさせられた。証拠集めに海外に出張を重ね、多くの法廷弁護士団に会見し、サポート書類を提出し、特許技術内容を説明し、国際特許法の勉強も、否応なく、学ばざるを得なくなった。

 以後商社メーカー間では 国際特許部長という異名がつけられる。これは戦後初の日本の大中小機械メーカーの代表取締役の委任状を預かり、これら企業を束ねて代表し、北広次郎が自ら丸紅傘下で創立し、代表取締役を勤めた丸紅テクマテックス社グループ(英仏伊米タイ国など世界各国に創立した。インターネットで索引可能)の戦後成長を始めた日本工業界企業を、海外の特許係争攻勢から防衛するための闘いの連続であった。
 そのような体験から北広次郎が得た教訓は、『出る釘は打たれる』『世界に売れる優れた生産機械ほど特許攻勢ににさらされる』『猿真似模倣国ジャパンという汚名のそそぎかた』『どんなに長い暗闇の隋道(トンネル)にも、やがて明かりの見える出口がある』ということであった。

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 その頃ホンダ・ソニーもまだ小さなトランジスターラジオを売り出して間も無いころで、世界ではまだ無名だった時代である。当時日本の特許庁も発足してから間もない頃で、正直言って後進性が免れなかったので、海外で国際裁判やっても、あまり頼りにならない事が多くて、毎回悔しい思いをした。

 英国のある電気関係の発明家の特許が、申請後四年以内に全欧州諸国、米国カナダ、豪州インド香港などで認定発効されたのに、十年経過しても日本の特許庁には認定せず放置されていたケースがあり、それを海外で攻められて恥ずかしい思いをした。理由は、戦後発足した日本の許庁の未熟さもあったが、庁職員の人数が少なく、科学工業技術の専門家にいたってはなおさら致命的に少ないため審査が滞っていたのも海外からの激しい非難をうけていた。

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 また日本の司法制度にも欠陥があったし、今でもある。最近の例だが、日本メーカーのコピー機の内部のトナーカセット装置で、欧米では自社製の新品交換を系列代理店に強いて来たし、違反者代理店には、その部品の供給を停止する意地悪を強いてきた。さもないと保証をしないとかいってこれを海外でも強要した。しかし、この新品交換カセット代が本体器に近い価格であるため、家庭用はそこそこでいいが、使用頻度の多い店舗事務所では、その交換経費が年間馬鹿にならない。そこで、トナーカセットをリサイクルする業者がふえてきた。しかし日本メーカーは、リサイクル業者を排除しようとした。

 これに関しては、北広次郎自身も、試してみて、リサイクル品でも、十分遜色なく機能する事を体験した。この問題では北 広次郎自身も現地消費から相談を受けていて、リサイクル業者団体ににアドバイスしてロンドンダウニング街10番地首相官邸に嘆願状提出した。官邸から本件理解したので関係部門で、早速調査審議するという回答を貰った。リサイクル業者が居ないと、一回使用したカセットは毎回新品で入れ替えせねばならないから、その廃品回収でごみの山を築くので環境に悪い。それにリサイクル業者締め出しは独法禁止法に触れるということを訴え続けた。そしてリサイクル業は合法と認められて、多くのこれに携わる業者の人々の職が救われた。しかし、その後日本でおきたリサイクル業者対世界的大手メーカーの法廷争いでは、全く欧米とは正反対の判決結果が出され、大手メーカーの勝訴となって、リサイクル業者を違法としたのである。

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 この日本のケースを知って、北 広次郎が思い出したのは、ロス疑惑の三浦事件であった。たしかグアム島で三浦は、妻と愛人の二人の保険金殺人にかかわったとして、時効制度のない米国警察に逮捕された三浦は、ロスに転送されて獄房の中で首吊り自殺をした。その時、それ以前日本での裁判で、三浦の弁護をした弁護士が『一旦日本国内で既に無罪が確定してる三浦をロス警察がグアムで逮捕し、ロスへ移送して裁判かけるのはけしからん』とTVマスコミで抗議していたが、この日本の弁護士の国際的司法知識の希薄さには呆れた。おしなべて『国際的司法』となると、八方海洋孤島国ジャパンの攘夷的鎖国性が露呈してくる。そしてどちらかというと、日本の司法も、裁判は正義を追及する場所という看板は掲げていても、国際特許などでは国内大手企業向きであるし、政権の政治の色が見え隠れする。

 欧州は五百年の司法裁判制度の積み重ねの歴史があるが、大岡越前裁き式恣意裁判時代を経て、日本は明治維新の西欧の六法全書の翻訳を日本に採用して、まだ140年の歴史で、終戦後のマッカーサー体制下の再成新制スタートからしてまだたった半分の70年である。音楽著作権FASRACにしても、スタートして歴史が浅い。私の高校一年先輩のM氏は早稲田仏文で、西条八十先生のゼミにいたが、卒業の時に、出来たジャスラック(JASRAC)に就職したその契機は、実に単純であった。JASRACの初代会長に就任する事になった西条八十先生にくっついて行くところなら、どこでもいいという軽い気持であって、JASRACって一体何をする所なのか、全く知らなかった。そして入ってみて全国のキャバレーやバーやパチンコ屋を毎晩巡回し、『音楽著作権使用料を支払うよう』にと督促してあるく変な取立屋の仕事だと、段々気がついて来た。
 しかし『レコードとカセットテープ買うた時に、もう金払うたんや。何で又金払わにゃならんのや?うちらは、今が最も忙しい時間帯なんや。そんなん二重取りやんか。そんな馬鹿げたことをわざわざ言いに来たんか 帰れ!』とどこでも厄介者扱いで追い出される始末。後にM氏はジャスラックの国際部長になってから、3日間のロンドンでの世界音楽著作権国際会議に列席するために来英することになり、その時ロンドンに駐在していた北広次郎に、『英語がこころもとないので、同席してくれ』と懇願されて、商社の3日間仕事放り出して、お付き合いしたことがあるが、会場では音楽著作権、公演権めぐり、プレーヤー再生機器メーカーからとるべきだとか、レコードメーカーからとるべきだとか、双方に分担させべきだとかどこから徴収すべきかの論議が沸騰していた。そしてここで、英国音楽著作権協会グリーガード氏と知り合うことになる。北 広次郎も英国のマンチェスター地区のポップミュージシャンに作詞を提供したりしてスタジオ録音をしたりしてたこともあり、また当時ブラッセルに在住していた、中京地区のアルテフィルハーモニックオーケストラと西尾合唱団の指揮者兼音楽監督をしている田中瑞穂氏(インターネットで索引可。過去にバルセロナオリンピック年のスペインセビリヤ万博万博、韓国大田市万博、愛知デザイン万博、愛地球万博も等で指揮をしている)が、北広次郎の作詞12作品に作曲しており、ちょうどいい勉強にもなった。その後ロスチャイルド家のシャルロッテ・ソプラノ音楽芸術特使が、その作品中の志摩半島の御木本パールアイルランドで書いた作詩田中瑞穂作曲の『エリザベートと真珠の珠(たま)』を、銀座ヤマハホールで日本語歌詩のまま唱い絶賛を博している。その公演には、在京の外国大使夫妻も来られてたが、終演後、当時北京大学美術教授であった中国改革開放の立役者の小平の長女が大きな花束を抱えてステージに上がってきて祝辞を述べた光景が実に印象的であって、ほどなく1997年チャールス皇太子、マーガレットサッチャー首相、ブリットン香港総督が出席しての中国への香港返還式典が挙行された。その日北広次郎は 英国から大阪出張中で、仕事が終わってからその晩元伊藤忠商事の方の行きつけの道頓堀のこざっぱりした小バーに招待を受けたが、10人ほどの小カウンターバーに腰掛けてスコッチを飲んでいたら、隣に外資銀行マンのロンドン生まれの英国人の若中年男と、オーストラリヤ人のフィアンセ女性が座っていた。彼女も銀行員で、二人とも香港駐在勤務中に知り合った仲で結婚寸前の旅行で、今はメルボルンから日本旅行にきているといった。ところが、その英国人男性が、TVで香港返還式典の実況放送を真剣な面持ちでジーッと観入っていたが、突然酒盃をママさんのいるカウンターの中の壁際の、天井に近い位置の棚に設置されたTVのスクリーンに向けて乾杯の仕草をしながら、『あれは英国だ』と繰り返し口走っていた。その彼の両頬には止めどない涙の大粒が数珠状に繋がり、零れ落ちて行くのが見えた瞬間、胸底に落雷を受け激しい空震が走った。

 TV画面には、豪華船クイーンエリザベス号が香港沖に停泊し、香港の夜景のネオンの輝きと、次々に連続して打ち上げられる花火の閃光色の彩なす映像が、99年借款の歴史的終焉を、時空に放射する歓声と、哀愁と、ノスタルジーが交錯する映像が映し出されていた。

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 特許商標登録に関する国際協約について

 北 広次郎は、1960年代から機械技術の国際特許にかんして、職業柄多く関与させられてきたが、また国際的商標登録面でも、多くの企業の相談を受けてきた。しかしここでも、八方海洋孤島国ジャパンと、欧米大陸国の矛盾を感じたことがしばしばある。最近中国台湾が、京都北海道東京大阪讃岐など、都道府県町村名を勝手に自国内で商標登録してしまい、独占的使用権を握ろうとしたケースがある。日本人が台湾で讃岐うどん店を出店しようとして讃岐(さぬき)名を使おうとしたら、先に登録者がいて、使えないという事が起きた。

 特許商標登録に関する国際協約では、都道府県町村名は商標登録には受付けられない規約がある。終戦後の孤島国日本も、そういう知識も意識もない時代があった。今でもといえるかもしれない。トヨタ自動車の発祥の母体会社は、創立者の豊田佐吉翁の愛知県刈谷市の豊田自動織機製作所であるが、近くに豊田市がある。そもそもこの市は、豊田家の名前をとって始まった市名であるが、都道府県町村名は商標名社名として、国際規約では認められないので、通した。自分が作った市名が足を引っ張ってしまったという珍しいケースである。豊田家でも、発祥当初は、ここまで世界的大企業になろうと予測出来た人はいなかった。その資本金は豊田佐吉翁が発明した自動織機を、隣の三重県志摩半島の御木本幸吉の養殖真珠の五重の塔とともに、二吉でロンドン万博に出品した。その佐吉の織機に目を付けた、英国マンチェスターのPlatt-Brothersという繊維機械製造会社が、佐吉の製造パテントを買取Platt-Toyoda Loomというブランドで織機を英国で生産開始した。この時佐吉が受取ったロイヤリティー資金がトヨタ自動車の資本金となった。
 ニッサン(日産)自動車も、実は戦前英国のAustin(オースチン)日本支社であった。ブランド名はダットサン(DATSAN)といった。ホンダも英国に関係がある。創立者本田宗一郎氏翁は、途中エンコで、完走できず棄権した。数年後エンジン改良に改良を重ね、再度レースに挑戦して見事優勝し、以後連続優勝を重ねて、今日の世界のホンダに成長した。それに刺激された同郷の親戚が、『本田が優勝するくらいなら、俺たちだって出来ないはずはない』とこぞってマン島レースに参加して、鈴木、川崎、ヤマハが追いかけて世界に出た。ヤマハはもっとユニークなのは、其の前にオルガンピアノのコピー品造りに挑戦してきた歴史がある。ヤマハはオートバイや競艇ボート、漁船のエンジンばかりでなく、日本製楽器の分野で、世界市場に進出を果たした。1950年代後半から1970年代、私が居た丸紅ロンドンで小松製作所のブルドーザーや加藤製作所の建設機械の輸入を始めた時、小松を商標登録することを、依頼されたが、石川県の小松空港の小松市が存在するので、コマツは商標登録できなかった。かといって今更社名やブランド名を大松、中松に変える事はもう出来ない。そこで、これはそのまま商標登録はせずに使うことにした。

 ニッサンが吸収合併した会社にプリンス自動車という会社があった。そこのスカイラインはもう幻の車であるが、今でも名車といわれてる。そのスカイラインを欧州に輸出しようとしたが、ドイツにPRINZ(英語ではPRINCE)という車があったために登録できない。そこで、『ミカド(MIKADO)』という日本の古名を商標登録し登録し、欧州に輸出を開始した。

 これには更に後日談がある。
 北広次郎は、プリンス自動車の製造してたプリンス・ウォーター・ジェットルーム(水噴射式織機)と、のトヨタグループ発祥本体で母体会社の豊田自動織機製作所の綿紡績機械を抱えて1966年7月蒸気機関の世界産業革命の発祥地英国マンチェスターに乗り込んだのである。当時『プリンス』という商標権は、先に申請したタバコに火を点けるライター製造の日本のプリンスライター社が有していた。そのためプリンス自動車は、プリンスライター社に年間六百万円の商標使用権を支払い続けて来た。しかし後にプリンス自動車は石原洵者社長時代ニッサン自動車に吸収合併される事になって、『ニッサン・ダットサン』の商標に統一されて、プリンスライター社への社名商標『プリンス』の使用廃止となり、名称使用権年間六百万円の支払いは停止された。その後多くの日系企業からの商標登録、海外現地会社設立登記の為、現地国での社名登録に関して、多くの問合せや相談が北広次郎に持ちかけられて来た。

 最後に、GOOGLEかYAHOOに北 広次郎を打ち込んでミスターヨーロッパを検索して見て下さい。こちらは日本語でありますが。


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 最近特許は日本でもなく、米国でもなく、まず欧州EUに真っ先に申請する方が得策とされるようになっている。何故ならEU特許申請は、一度の申請でEU圏内27ヶ国が一遍に取得できるからである。

 国際特許に関する御問合せは、1966年以来長らく欧米法廷にて実践的実戦体験を積み重ねてきたベテランエキスパートの下記住所にコンタクトされる事をお薦めします。



北 広次郎 英国
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