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2023年09月22日(金曜日)更新
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第760号 〜さあ!秋は衰えた体力を回復しよう〜
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今年の夏は暑かった。全国各地で日中39度を超える異常な暑さが出現し、ここ仙台でも35度に達する"危険な暑さ"が続いて"熱中症"に対する備えがのべつテレビから流れていた。
私も90年の生涯で初めてといいたいほどの猛暑を、軽い熱中症まがいで1度ヘタバッタりしたものの何とか乗り切って秋を迎える。
そんな猛暑の中、私が心配していた、いや気がかりだったことがひとつある。猛暑になる前に特殊な治療を受けていた心臓のことだ。
心臓は人一倍丈夫な方だと私は子どもの頃から思っていた。走るのは長距離が得意だったし、当地へ引っ越してきてからもゴルフはカートに乗らずに歩くので有名だった。それが3年前の年始め、残雪の積もった歩道を歩いて激しい動悸と息切れに襲われ、かかりつけ医から「不整脈(心不全)」と診断されたのだ。
以来そんな動悸息切れが年を経る毎に習い性になってきたので「何かいい治療法はないか」とかかりつけ医に相談し、今回治療を受けた東北厚生病院を紹介されたのだった。これは後日患者仲間から聞いたことだが、この病院は心臓治療では東北一の評判だという。話してくれた患者は秋田からわざわざやって来たそうで、あちらでは治療希望者が順番待ちということだった。
厚生病院へは紹介状をいただいた当日5月22日に行った。何しろ住居から作並街道を約5キロだ。以前の私なら軽く歩いて行ける。午前の診察が終わったところで、私たちはタイミングよく診察室で担当のNセンセイに会った。まだ40代にしか見えない若い医師だった。
センセイは紹介状をさっと読み「この症状の治療法には外科的なものと内科的ものがあるが、どちらを選びますか?」といった。私は外科を選んだ。するとNセンセイが「治療には入院が必要だが、いつからできますか?」とたずね、私は「今日からでもいいです」と答えた。
そしてその午後から私は病院のベッドで寝起きし、1週間後29日にNセンセイの手で"カテーテルによる心臓大動脈弁の置換え治療を受け、翌月9日に晴れて退院したのだった。この新しく生き返った心臓も酷暑の夏を何ら心配することなく乗り切ったのだ。涼しい秋を迎えられるのがどんなに楽しみかわかるだろう。
今月初め私たちはあの治療から3ヵ月ぶりにNセンセイの診察室を訪れた。
当日、私たちは予約表に書き込まれた時刻の2時間前に診察室の前に着いた。診察室前の50人ぐらいは座れそうな待合スペースの長椅子は半分以上埋まっていた。予約表を窓口に置き2人分の空スペースを見つけて坐っていると、やがて看護師さんに名前を呼ばれ、"血液検査を受けてくるように"告げられた。
戻ってくると次はレントゲン撮影、次いで心電図、おしまいにエコーと4つの検査が続き、待合スペースで10分ほど待ってから診察室に呼ばれた。
室内にはおなじみのNセンセイと、その向こうの机でパソコンに向き合っている助手がおり、Nセンセイが「元気ですね」とこれまたおなじみの口調で声をかけてくれた。入院中朝の回診で各科の責任者らしい中年の診察着姿の後方でベッドの私にかけてくれた口調だ。その声を聞いて私は「検査の結果も問題なかったんだな」と安心したのだった。
さあ!この秋は衰えた体力の回復に精を出そう! |
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2023年09月08日(金曜日)更新
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第759号 〜熱中症や夏ばては無粋な風物詩〜
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先月下旬の某日、朝食を済ませた後私は"夏ばて"でヘタバッテしまった。連日の35度近い猛暑に加えて過日"熱中症"で倒れた記憶もあったところへテレビから「当地も本日は36度近い危険な暑さが予想されます」という気象予報士の声が飛び込んできて、「こりゃダメだ」とベッドにノビてしまったのだ。
夏ばてとは体が熱さに順応できず機能低下し弱ってしまうことだ。普通に人並みの体力がある人なら滅多にないことだが、老化や病気で体力低下している人なら簡単に起こる。私の場合その二つが同時に重なったのだから無理もない。
しかも私は心臓の治療のため入院していた時期が最悪だった。5月下旬から6月上旬までの20日間、ちょうど日毎に暑くなっていった時期だ。その時期に私は空調のよく効いた病院内で毎日食べて寝るだけ、院内の移動はすべて看護師さんが押してくれる車椅子の上、自分の足で歩くのは廊下の向こう側のトイレに行くときだけという、何ともグータラな、いや体のためにならない日々を送っていたのである。
おかげでかねてかかりつけ医から指摘されていた心臓の疾患はカテーテル治療による大動脈弁の置き換えで今後まったく心配なくなったものの、入院20日間がもたらした気力体力の減退はなかなか回復せず、いまだに私を悩ませているのである。
その減退の主な原因は"老化"と"暑さ"だ。
私はいま90歳、来月には91歳を迎える。これは私がいくらスーパー爺でも動かしようがない。"人は寄る年波には決して勝てない"のだ。そして今年の暑さもまた誰にも動かしようがなかった。そんな条件下で私ができることは何か対処法がないか考えることだけといっていいだろう。
3年前の春先、私は突然の不整脈で寝込んだ。しかもその前年の9月初めには、心電図エコー血液3点セットの精密検査から仙台日赤循環器内科の医師に「脳梗塞のリスクがあるのでこの薬を服みなさい」と処方された"血液をサラサラにする薬"を服んで、当時服んでいた眼科の薬とバッティングさせ、それまでよく見えていた左眼に眼底出血を起こさせて見えなくしてしまった時期だ。そんな左眼の精神的負担もあって不整脈がよくならなかったとき、私は"それならいっそ逆療法をやってみよう"と中断していた"山歩き=裏の墓園を歩き回ること"を再開したのだ。
結果としてはこれが効を奏し、春の深まりとともに歩数も伸びる一方不整脈はいつの間にか影をひそめて気にならなくなり、見えなくなった左眼も毎日の暮らしに取り込めるようになり、季節が変わる頃には「1万歩スイスイ歩く90歳」と豪語できるようになっていたのだった。
"やまない雨はない"という。いまの季節を無視した猛暑もやがてはおさまり秋風が吹き始めるだろう。私もそんな涼しい風を肌に感じてから歩き始めることにしようと思っている。何しろ主治医から「決して無理はしないように」と念を押されている心臓なのだ。年も年だし目標は"5千歩スイスイ"ぐらいでいいか。
こうなると"熱中症"も"夏ばて"も私にとっては"無粋な風物詩"というしかない。
といったからって現在の私は長々と休んで体力がなくなったわけではない。10キロぐらいの荷物なら4階まで悠々と持って上れる。安心して下さい。 |
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2023年08月25日(金曜日)更新
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第758号 〜私は『身体障害者1級』になった〜
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今年の夏は暑かった。8月下旬のいま頃になってようやく平年並みに落ち着いたが、七月なかばから1ヵ月ほどはずっと日中35度近い猛暑日の連続で、さすがの私も気息奄々、住居へ帰り着いた途端ベッドにノビて"これはヤバいな"と感じた日もあった。
今月初め家内と一緒に車で出掛け、まず二人とも行きつけの整形外科へ行ったときだ。診察後隣りの薬局で処方された薬を受け取ったのが10時過ぎ。車は炎天下の駐車場で1時間以上もさらされており、車内は40度以上になっている。冷房の効いた病院や薬局から車内へ入ると、いくらエアコンを効かせても体はその暑さになかなか順応できない。
そして帰途、まずスーパーへ寄って1時間ほど買物。その後ファミレスRで昼食にこれまた1時間ほど……と冷房の店内と熱気の車を3度往復して私はすっかりヘタバッてしまったのだった。
"鬼の霍乱"という言葉がある。ふだん鬼のような元気な人が突然吐いたり下したり体調を崩してしまうことだ。この"霍乱"が"日射病"のこと、いまの"熱中症"である。つまり後日気がついたのだがその日の私は吐いたり下したりこそしなかったもののまさに霍乱そのものだったのだ。
実はその1週間ほど前、仙台市から私宛に送られてきた1通の封書があった。開けると『身体障害者手帳』とともに"心身障害者医療費受給者証"(保険証と一緒に常に携帯する)など一連の書類が入っている。中でもまず目についたのが『身体障害者手帳』だ。
私のこれまでの認識ではJRの乗車券が付き添い人と共に半額になったり、高速道路の料金やタクシー代も割安になる"なかなか結構な"手帳だ。これらの知識は家内の義姉や出版健保の知人から得た。そして左眼が視力低下したとき、"これで身障者手帳がもらえないだろうか"と主治医の女医センセイに聞いたこともあったが、答えは「白い杖を突いて歩くような人じゃないとダメらしいですね」だった。
手帳は5ページが折り畳み式になっており1ページに私の顔写真と生年月日、身体障害の等級別"1級"の記載、"仙台市"の赤いハンコがドッカリ押してある。そして第2ページにあるのが"障害名"だ。
「大動脈弁狭窄症(大動脈弁置き換え)による心臓機能障害」とあり、その空白スペースの下方に「心臓1」という記載がある。これを私は"心臓で1番重要な部分"と解釈するのだがどうだろう?
そういえば5月末の治療後、主治医から「いつも携帯し、他の医療機関を受診する際は必ず提示してください」と渡されたカードにはもっとくわしく「人工の生体弁(註・サイズ26mm)が留置されています。(カテーテルによる大動脈弁の治療)を受けています」という記述もあり、治療内容はさらによくわかる。とはいえそのカードそのものさえ障害者手帳を送られてきてから気付いたのだから我ながらのん気というしかない。
何しろ20日ほどの入院から退院後、私がまず思ったのは"これで動悸や息切れを気にしないで動けるようになったな"ということと、その20日間でゲッソリ落ちた体の筋肉をどう取り戻そうかということだったのだからノン気の極みというしかない。主治医の「くれぐれも無理をしないように」という注意などてんからスッ飛んでいたのだ。それでもはじめに書いたように"熱中症1歩手前"で済んだのは幸運としかいいようがない。
手帳には"保護者の欄"というページがある。障害者=私を介添えする人物について記入するページで、私の場合はもちろん家内だ。そして障害者が受ける鉄道旅客運賃減額などのサービスを私同様に受けられるのだ。気候がよくなったらこれを使って上京し、息子夫婦や義兄や姪夫婦をはじめスキー仲間たちと会えればいいな思っているが、今、先のことはなかなか予定するのが難しく実現できるかどうかわからない。
とにかく私は心臓に疾患をかかえる90歳老人なのだ。これからはそれをあらためて肝に銘じて日々慎重かつ大事に生きていこう。 |
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2023年08月11日(金曜日)更新
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第757号 〜90歳越えた 日々楽しく生きよう〜
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ひと月ほど前まで私は年齢や残り寿命がひどく気になっていた
私は昨年10月17日に満90歳になり、いまは10ヵ月近く過ぎた。気になり始めたのは今年4月上旬、風速13メートルの向かい風の中を1時間近く歩いて動悸息切れが激しくなり、かかりつけ医から"心不全"といわれた頃からだ。それまでは何の不安もなかった自分の寿命が急に心配になり始めたのだ。
実は私はこのマンションの管理組合理事会の監事として、この4月から2年の任期に就いたばかりだ。にもかかわらず、さきの診断からひと月後にはゴルフコンペ後のパーティに顔を出して飲み過ぎた結果"心不全悪化"の再診断を受け、さらにそのひと月足らず後には、そのかかりつけ医の紹介で東北地方きっての心臓治療ができる総合病院へ入院し、大動脈弁のカテーテル治療を受けたのだ。
その入院生活でゲッソリやつれてしまったことはこれまで何度か書いた。町内をちょっと歩いただけでも動悸息切れし、久しぶりに会った人には「何かひどい病気でもしてたんですか?」と不審がられるような変わり様で、寿命や年齢が気になり始めたのもその頃からだ。
私自身でさえその頃は毎朝洗面所の鏡に写る自分の顔を見ながら、「おい、今日は大丈夫か?」と自問したものだ。それも近頃はどうやらふっ切れた。
私はいわゆる係累の中でも殊の外長生きである。90歳で亡くなったのは母の弟(叔父)が一人だけ、あとは両親は60代、うえの弟は70代、下の弟に至っては長年人工透析を受けていたので60代前半だった。
私は特に胃腸が丈夫だった。"ヤセの大食い"で人一倍よく食べながらちっとも太らず食べたものはすべてエネルギー源として消費され、内臓脂肪にも皮下脂肪にもならないので、中年過ぎても貫禄がつかなかった。
内臓で人一倍丈夫だったもう一つが肝臓だった。酒が強かったのはそのせいで、元人事課で社員の健康診断を仕切っていたスキー仲間のクミちゃんから「Cさんて不思議な人ね。あんなにお酒を飲んでるのに、肝機能の数値はいつも正常なんだから」とよくいわれていた。
スキー仲間には彼女のほかにもう一人・K子さんという女性がおり、仲間の代表ヨネやんをはじめその仲間達といつか会えることが私と家内の大きな楽しみにもなっているのである。二人とも元気なうちに実現させたい。
ともかく私は現在90歳、この先2ヵ月ちょっとで91歳である。ほんの30年前なら
"棺桶に片足"どころか両足突っこんでいてもおかしくない年だ。それがこうして「あと何年生きられるかな?」なんていってられるのである。医療の発達は実に素晴らしいものだと実感する。そしてこの素晴らしさに感謝する意味でも、私はこれから先も日々楽しく生きなければならないと思うのである。
そして楽しい日々は"一人よりも二人"でつくるのがもっといい。
"これまでにも増してよろしくお願いします" |
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2023年07月21日(金曜日)更新
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第756号 〜"寄る年波"と"奇蹟の90歳"〜
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このところ酒が弱くなったな!と痛感する。
きっかけは3ヵ月近く前になるが、4月末の町内会ゴルフコンペの成績発表パーティだ。去年までパーティ成績発表はコロナ感染に配慮して、プレー終了後コースの片隅でささやかに行なっていたのだが、それを今年から以前のように管理センターの洋室で行なうことにしたのだ。何しろ会場は住居のすぐ傍、飲物なども自前で調達できるとあって、パーティもコンペを楽しく盛り上げる要素のひとつだったのだ。
それが数年ぶりに復活したのである。……で私も久し振りに参加したのだった。
そして私が日本酒党だと既にご存知のかつての仲間達からすすめられ注がれるまま飲んで、お開き後同じ棟のSさんに介添えされながらようやく住居に辿り着き、上着とズボンだけ脱いでベッドにもぐり込んだのだった。
そしてこの"無茶飲み"が当時診断されていた"心不全"を悪化させて、ほぼ1ヵ月後の入院とカテーテル治療を招いたのだった。
ところで私は厳密にいえば、かの東日本大震災以来"晩酌"をやめている。手元の
『日本語大辞典』(講談社)によると"晩酌"とは"夕食の時に酒を飲むこと。またはその酒"とあるからだ。すなわち私は大震災以来、夕食の際1本つけることをしなくなったのだ。(旅先などでは別だが……) 夫婦二人きりなので私達の夕食は早い。5時には食べ始め6時には家内の洗い物も終わっている。その後は両者それぞれ自由時間、私は好みの器に満たした酒を片手にベランダに出、夕暮れの風景を楽しみ、家内は読書にふけるのだ。
この酒を満たす器の大きさが時とともに変わっていったのである。当初はちょっと細身の白地ボディの正味1合は十分入るぐい呑み、それが半年ほどで半合入りに変わり、いまはもっと小さな器なのだ。サイドボードに並べてあるそれら酒器の変遷を見るとそうした酒量の激減ぶりがわかり、われわれ人間は結局"寄る年波には抗しようがないのだな"と思うのだ。
さらに近頃はその寄る年波を90歳の年齢にひしひしと実感する。それは心臓の治療により以前は不安の種だった動悸息切れが治まったこととは裏腹に、そのための入院生活によりガックリ落ちた筋力がさっぱり回復しないからでもある。以前の私ならそんなことはなかった。
3年前の春先、私は雪道を無理して歩き激しい動悸息切れに襲われて不整脈と診断された。不調は長引き食事も細くなって、夕食はシラス干し入りおかゆが半月ほど続いた。前年の秋薬の服み合わせから突然左眼が失明したことも精神的に影響していた。このときの立ち直りのきっかけが「この程度の不調に負けてたまるか」と自分から起き上がり外を歩き始めたことだったのだ。そして歩数が5千を超える頃には足腰に筋肉も付き、体力も以前に増して回復していたのだった。
だが今回の"寄る年波"はそんな体力回復だけでは乗り切れないようだ。すなわち知力も気力も動員する必要があるのだ。逆にいえばこれは"90歳の見せ場"なのである。
家内が近頃私を見ながら「奇蹟の90歳」とよくいう。90歳を迎えられたことが奇蹟とでもいうようないい方だが、思い返せばまったくそのとうりである。そして、これからもその奇蹟を見せられるのではないかと私は思っているのである。 |
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