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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2022年06月17日(金曜日)更新

第705号 〜余り物を施されて誰が恐れ入るか〜

 先日、家内がかかりつけのMセンセイから、近く開始される新型コロナの感染予防ワクチン第4回目の接種は「受けないほうがいいわよ」と、アドバイスを受けてきた。

 この言葉使いでわかるとおり、Mセンセイは女医さんで家内よりずっと若い。"歯に衣着せぬ物言い"で診断結果を説明してくれたり、体や薬に関する質問に答えてくれるので家内はすっかり信頼している。その証拠に以前は住居から2キロほどの病院に勤務していたMセンセイが2年前、10キロほど離れた遠くの病院に勤務先が移ってからもずっと通い続けているほどだ。
 私の左眼失明の原因が、初めて出会って精密検査を受けた内科医の診断結果による処方薬にあったことを考えると、家内のMセンセイに対する信頼ぶりは実に羨ましいほどだ。

 家内がMセンセイの「第4回目のワクチン接種は不要」という言葉を聞いたのは2週間前だったが、それもいささか時間をおいて2度耳にしている。最初は病院内で当日の診断を受けた後、2度目は途中昼食をして帰宅し、ポストに入っていた仙台市からの「新型コロナワクチン追加接種のご案内」を見たときだ。
 家内はMセンセイのさっきの言葉が自分の聞き間違いではなかったかと不安になってケイタイに電話をかけ、同じことをいわれたということだった。いわば"念を押された"ようなものである。

 家内からの"又聞き"になるがMセンセイの論旨はこうだ。
「この4回目の接種は余分なワクチンをクスリの有効期限内に処分するために実施するもので、オミクロン株の第6波が日々沈静しつつあるいま、あわててやろうとするのがその裏付けである。今後もしもコロナの新しい株が発生しても、それに対処するワクチンは必ずできるので心配しなくていい」
 なるほど!何となく納得できるではないか。

 オミクロン株による感染拡大第6波が始まったのは今年の1月なかば以降だ。その前のわずかな隙間に私たちは上京して息子夫婦や義兄姪夫婦、スキー仲間達と束の間の歓談を楽しんできたのだが、その第6波もいまは沈静化しつつあるのだ。
 しかもいま感染の中心になっているのは、われわれ年寄りではなく、若い世代から子どもたちなのだ。高齢者にあわてて接種する理由などないではないか。

 そして今回の接種案内を見ていて、私は"何だ!こりゃ……"と思ったことがある。いろんな説明文の中にあった「今回接種するワクチンはファイザー社製です……」という1行だ。ちなみに、私たちの3回目までのワクチンはモデルナだった。
 ワクチンには他にアストラゼネカがあり、いちばん格上がファイザーだというのが私たち共通の認識なのだ。政府分科会の尾身会長が「いずれも薬効に差はない」と力説していたのもかえって逆効果だった。今回はそのファイザーを打ってくれるというのだが、これが私のような"天の邪鬼"には、お上が町人相手に「どうだ、恐れ入ったか」といっているように聞こえるのだ。
 "余り物なんか施されたって、誰が恐れ入るか!"

 というわけで、私はいまのところ第4回目の接種は保留中である。
 

2022年06月10日(金曜日)更新

第704号 〜私たちの楽しい遠足"四阿ランチ"〜

 "四阿"は"あずまや"のことだ。いまは"東屋"と書くが昔の温泉場の射的屋みたいで嫌いだ。とにかくその四阿へ好天の日に遠足してお昼を食べるのだが、これが実に楽しいのである。
きっかけは1か月前のGW最後の日、家内が雲ひとつない青空を見上げながら「こんな日に外でお弁当を食べると気持ちがいいだろうなぁ」といったことだ。子どもが新しいオモチャを持ったときのように、新しくなった車をチャンスさえあれば運転したい気持ちだったようで、私もすぐ賛成した。
 そこで途中でサンドイッチや飲み物を買い、愛子と秋保を結ぶ峠道に向かった。ここはよく通るので様子も知っている。距離は10キロほど、道幅も広く眼下にゴルフ場なども見えて眺めもよく、駐車スペースも多い。だが結果は失敗だった。高所とあって風が強く、外へ出られないどころか窓さえ開けられず、狭い車内でボソボソと弁当をつかって帰ってきただけだった。

 とはいえこの"天気のいい日に遠足弁当"というアイディァは捨て難い。またやろうといい合った途端、"何だ!団地のすぐ裏に絶好の場所があるじゃないか"と気付いた。私がしょっちゅう歩き回っている墓園だ。
 ここは仙台市が元は地域の里山だった岡の中腹(JR仙山線が走っている)から上を公園墓地として開発したもので、ゴルフ場がひとつスッポリ入るほどの広さがある。この斜面を市は階段状に造成して何十ヵ所もの区画をつくり、仙台駅東側(かつては"駅裏"と呼ばれ、寺院と墓地が多かった)を開発整備したとき半強制的に収容した墓地を移転させたり市民希望者に抽選分譲したり、これまた駅裏にあった火葬場をここに新設移動するなどしたのだった。
 とにかく道路は十分に整備されているし、全山南向きなので日当たりもよく眺めもいい。テッペンまで上ると天候さえ良ければ仙台平野を越えて太平洋まで見えるほどだ。

 そこで家内に提案したら「お墓の見えるところでお弁当なんて……」という。"人間至る所青山あり"じゃないかと思ったが、こだわるものはしょうがない。で次に思い付いたのが墓園内の四阿だった。
 四阿は園内に4ヵ所あるが、ひとつは寺院墓地の中なので利用しにくい。残る3つのうち2つは道路のすぐ傍だ。試しに行ってみたが霊柩車を先頭にした車列を見ながら……もどうかと思ったし、周囲の木も大きいので晴天でも中は薄暗く陰気なので遠足弁当には不向きだ。

 ところが残りの一つが絶好だった。
 場所は墓園全体の麓で住居からも近い。3千平米近い広い区画が墓地ではなく池を巡る親水公園になっている。500平米ほどの池には墓園らしく蓮が植えてあり、水面に見えるのは緑の葉だけだが、間もなく白い花が開き始め旧盆頃には全面まっ白になる。
 そしてこの池を眺めるジャリ敷きの遊歩道と、坐って休める四阿があるのだが、その四阿は木陰などにさえぎられて、周囲の道路から中にいる人影はさだかには見えないのだ。本当にいいところを見つけたものだ。

 その四阿ランチはこれまで数回やったが、いつも楽しく満足だった。こうした楽しみができるのも心身達者なればこそだと思う。
 

2022年06月03日(金曜日)更新

第703号 〜記憶に勝る"日記"はない〜

 先月下旬から日記を書くのをやめた。理由は"つまらなくなった"に尽きる。

 日記はまず空模様から始まって当日の主な行動を記録するものだが、この日々の行動がわれわれ年寄りはまるで変化がなく"つまらない"のだ。「山歩き7000歩達成した。首振り爺さんと大階段下ですれ違った」なんて2〜3日前と同じことを書いたってしょうがない。
 それに私は眼のせいで、後で簡単に読み返せる安定した字を書くのも大変なのだ。読み返す必要があるようなことならこの年でも記憶に刻み込める。

 私は67歳と2ヵ月半、日記は1行も書いたことがない。小学生の頃は周囲にそんなインテリ趣味の友だちはいなかったし、中学高校は戦後の混乱期でそんな余裕は誰にもない。大学生から社会人になってからは、多分終わったことより先のことを考えるので精一杯だったのだろう。「明日があるさ/明日がある」である。「列島改造」「エコノミック・アニマル」から「フィーリング」などのあの時代、われわれは先の予定を手帳やカレンダーに書き込むだけ、いつも前向きでいられたのである。

 私が初めて日記を書いたのは当地へ転居して3年目、2000年元旦、今世紀初日だ。前々から持っていたハードカバーの日記帳が2冊あり、その1冊を活用することを思い付いたのだ。当時私は大腸ガンを切除手術するほぼ2年前で体調は良好、家内も元気で手引きカートでラウンドするパブリックコースへよく行っていたし、弟たち二人も元気だった。
 その書き出しはこうだ。「今日から書き始めるのはいいタイミングだと思う。いつまで続くかやってみよう。」そして2日前から息子夫婦が来ていて、午後嫁さんの実家(群馬県伊勢崎)へ向かったことなどが書きつけてある。
 記述はその後も同様で内容は事実オンリー、面白かったとか心配したなどの気持ちはゼロ。どうやらこれが私流らしい。

 こうした私流日記を以来2020年おととし9月まで4冊続けたのを突然中断させられたアクシデントが、例の薬のバッティングによる左眼失明だ。このときの記述を見ると9月10日頃から本が読めなくなり、20日頃には記入する文字も体をなさず、月末頃は文字も行を揃えて書けない状態になっている。
 そして9月30日、ページの上部に2行書いてあるだけで下の余白に「やめる」と大書してページ全面に×印があるのだ。

 しかしその1年後、昨年10月から私はまた書き始めた。不調だった体も回復したし、……というわけだったが、その体調もいまや"一日1万歩平均"の山歩きに腕立て伏せなどを加えて万全。さらに"書く楽しみ"は本項を家内の助けを得ながら1度も休まず続けたことで証明済み……というわけで"筆を折る"ことにしたのだ。

 いまつくづく思うのは"記憶に勝る日記はない"ということだ。
 

2022年05月27日(金曜日)更新

第702号 〜念願の気仙沼 贅沢な一泊旅行〜

 先日、気仙沼へ行ってきた。家内はもちろん初めてだったが実は私も初訪問だった。終戦後台湾から仙台に引揚げて来て以来76年間、東京暮らしが主だったので機会がなかった。
 それが三陸道が仙台から八戸まで通じた上、奥松島から先が無料になっていること、今月末まで地域割りでホテルなど安く利用できることなどがあつて、行ってみようとなったのだった。

 気仙沼は私にもかねてより行ってみたい気持ちがあった。
 話は72年前にさかのぼる。昭和25年私は仙台一高の2年生だった。この夏野球部は絶好調で県大会東北地区大会と勝ち進み、甲子園出場をかけた決勝戦を気仙沼高校と敵地気仙沼で戦い、前半リードされながらも逆転優勝したのだった。ただしいまなら考えられない話だが、折から夏休み中とあって私たち一般生徒はそんなことはまるで知らず、大阪に向かうナインが仙台駅を夜行で出発すると聞いて初めて経緯を知ったほどだ。
 以来"気仙沼"は私の記憶に刻まれてしまったのだ。

 当日は10時過ぎに出発した。まずは市街地北側を西から東へ縦断、利府中ICから三陸道へ入る。10分ほどで松島北ゲート、ここまで有料で610円、その先は延々約300キロ八戸まで無料だ。ただ大部分片側1車線の対面通行でIC付近に追い越し車線があるだけ。家内もそこは心得てスピードは控え目、前車に追尾して走る。そして雲ひとつない好天下を途中SAで軽食をとったりしながらも、午後1時には気仙沼中央ICを下り予約したホテルに着いた。

 フロントで観光ガイドマップをもらい、早速向かったのが大島だ。
 ここは文字どおり気仙沼湾を縦に二分する大きな島で住民も多く、大震災では津波の直撃を受けたが、島の北端に標高234メートルの亀山があり多くが助かったという。その山頂からの眺望が360度"三陸沿岸随一"と聞いていたので是非行ってみたかったのだ。
 島へは大震災後にできた大橋を渡って行く。歩道もありこれで住民の生活は格段に便利になったそうだが、私も次に来たときは歩いて渡ってみようと思った。
 亀山へはもちろん歩いて上った。天気がいいので私の不自由な眼でも北側の唐桑半島を越えて岩手県の陸前高田や大船渡のあたりまで見渡せ、大満足だった。ただし車は途中までしか上がれなかったので家内は残念だった。

 そのかわりホテルへの帰途、家内は市内"海の市"の海鮮レストランで豪華な"あわび尽くし"を味わっていた。――私は寿司定食をつまみに地酒。
 そしてホテルでゆっくり寝み、翌日は遅めの朝食。前日以上の好天下、風光絶佳な道の駅へ寄ったりしながらゆっくり帰宅したのだった。

 あらためて思い返すと、これはなかなか贅沢な旅だ。気仙沼まで初めてそれも泊りがけで出かけながら、楽しんだのは山のテッペンとあわびだけなのだ。見たり味わったりするものはもっと沢山あったろうに、である。
 しかし私はこうした贅沢ができるのも、ちっぽけな故障はそれぞれあるものの全体的には余裕がある私たちのような"達者な年寄り"なればこそだと思うのである。
 この余裕、もうちょっと持ち続けたいものだ。
 

2022年05月20日(金曜日)更新

第701号 〜体重減も健康な老化現象のひとつ〜

 昨年夏の終わり頃からほぼ半年近く体重が増加しない。それも家で測ったものではなく、50日おきに通っている内科のかかりつけ医院で測った数値だ。54キロ弱で安定(?)しているのだ。

 これは昨年前半、柄にもなく気力減退から半病人状態に陥ったのを何とか克服して、以前のようにスイスイ山歩きできるようになった頃のものだ。
 半病人になる前、私の体重は60キロ近かった。それがヘンな胃もたれのため夕食はシラス干し入りおかゆしか食べられない栄養失調的食生活で一時は50キロ近くまで痩せ細った。その胃もたれが胃カメラ診断で"単に神経的な原因で心配するようなものではありません"とわかって回復も順調になり、体重も54キロ近くまで戻ったのだがそこでストップ、かつての60キロ近くまで戻らないのである。
 そして理由をあれこれ考えた結果、私が見つけた答えは"老いた体に余分な脂肪や肉は不要"というものである。

 昨年夏の終わり頃から私は腕立て伏せを主にした"筋トレ"を始めた。その頃は"山歩き"も早々と再始動しており足腰の筋肉はしっかりしていた。対して腰から上が貧弱だったのでかかりつけ医のアドバイスで始めたのだ。ただし腕立て伏せにちょっとした腹筋や腕のトレーニングを加えたのが私のひと工夫だ。
 その結果いまや私の腹筋はいわゆる"シックスカット"を呈するようになり、肩腕胸のあたりの筋肉もしっかりついてきて、太股やふくらはぎに見劣りしないほどだ。
 つまり私の肉体には余分な内臓脂肪や皮下脂肪はまったくないらしいのである。

 私はかつてアルバイト原稿を書くために糖尿病についていろいろ勉強したことがある。そこで面白いなと思ったのがわれわれ日本人の糖尿病だ。日本人の糖尿病は西洋人とは発症の質が違うのだ。西洋人の発症原因が単に糖分の摂取過多なのに対して、日本人のそれは糖分の備蓄にあるらしいのだ。いつやってくるかわからない飢饉に備えるためであり、農耕民族と牧畜民族の違いだという。
 なるほどなあと思ったのだが、いまそれから思いついたのが"年をとるにつれて腹が出てくるのを貫禄がついた"と褒めあげるのも日本人ならではの民族性からきているのではないかということだ。長寿を阻害する要因を褒めそやしているようなものだろう。

 私は子どもの頃から"痩せの大食い"で、いくら食べても太らなかった。そしてそのまま年を重ねて現在に至っている。ズボンの胴回り76センチが学生時代から変わらず、それも近頃は筋トレのせいで逆にベルトの穴がひとつ細くなったほどだ。70代80代と老いるにつれて身長も少しずつ縮んできたし、そんなあれこれを勘案すると私のいまの体重は理想的といってもいい。
 五臓六腑もまあまあ達者だし、私はもうちょっと長生きできそうである。
 
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