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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2022年03月04日(金曜日)更新

第690号 〜私流"腕立て伏せ"の効用〜

 私は近頃やっと体力にも体そのものにも自信がもてるようになった。昨年2月末不整脈と胃炎に目の不自由さが加わって気力減退、体重も5キロ落ちてまさに気息奄々たる有様だった。これでコロナに感染したらイチコロだな……と心配したものだ。
 そこで3月に入ってからまずは足腰からだと気合いを入れて山歩きを始め、歩数もどんどん増えていった。これは住居がエレベーターのない4階で、家内が買物から帰宅したとき荷物を運び上げるなど否応なしに階段を上り下りしていたので、下半身はそれほど衰えてはいなかったのだと思う。
 さらに不安だった胃も、カメラ検診で単なる胃炎とわかってからは山歩きにもはずみがつき、6月なかばからは"1万歩スイスイ"が普通になった。

 ところでここで気付いたのが、しっかりした下半身に対する上半身の貧弱さだった。肩も腕も胸も腹も大きな筋肉が薄くなってスカスカ、大袈裟にいえば背中の向こうが透けて見えるような感じさえして、これじゃまさに"やせ蛙"だな、他人事じゃないぞと思ったのだった。
そこで始めたのが、かかりつけ医のアドバイスによる腕立て伏せだ。ただし両手をつくのは床面ではない。いつも使っている机とセットの肘掛け椅子の座面をいちばん下まで下ろし、その肘掛を握るのだ。これは我ながらいい思い付きだった。高さは50センチちょっとだが床面よりかなり楽だし、両手でしっかり握るので椅子さえ固定すれば運動もやり易いだろうと、ベランダとの境のガラス戸の頑丈な敷居に椅子の足を押しつけた。
 これで準備完了、早速始めたのが昨年6月終わり頃だ。

 やり方は1度に続けて13回、これを原稿を書いている合い間など気が向いたときにする。13回というのは私が好きな数字であり、はじめ試しにやったときこれが体力的に充分限度だったからだ。30年前退職する当日まで出版健保の野球大会にレギュラーとして出場していたことを思うと、我ながら情けないがしょうがない。とにかくこのワンセット13回の自己流腕立て伏せを続けることにした。
 ただし1日○セットとノルマを課したわけじゃないので回数はまちまち、2〜3セットだけの日もあれば20セットを超える日もあった。つまり私が始めたトレーニングは、胃炎による半病人生活が半年近く続いて見すぼらしくなった上半身が、山歩きで回復した下半身と見合うぐらいに戻ればいい……ぐらいの気持ちだったのだ。マッチョになろうなんて思いはてんからなかった。

 だいたい私の体型は誰が見ても"やせ型中背"だ。若い頃はもう少し背丈があり高いほうに入ったが年とともに縮み、日本人全体が高くなって中背になった。やせ型は子どもの頃から変わらず、成人したときの体型(骨格)をずっと維持している。若い頃からウェスト76センチが不動、胴回りに脂肪が付いて貫禄が出てきたといわれたこともないし、健診で中性脂肪を注意されたこともない。
 こんな体に腕立て伏せの効果が見え始めたのが昨年12月初め頃、肩腕胸の筋肉がはっきりわかるようになり、体重も5キロ近く増えていた。そしていまは腹筋もいわゆる"シックスカット"を呈している。薄着の季節が楽しみになってきた。

 われわれの体は年老いても上手に鍛錬すれば効果が現われるものだなと、あらためて認識した。これは筋肉だけではなく、脳もひいては精神も同様だろう。目が少しぐらい不自由でもこのまま老いさらばえるには私はまだまだ早過ぎるようだ。
 

2022年02月25日(金曜日)更新

第689号 〜鶏眼胼胝処置から年だなと思う〜

 近頃ふとした時に「ああ俺も年なんだな」と気付くことが多くなった。
 たとえば、こうして原稿を書いているとき目線がエンピツの先を離れて、ちょっと左上の紙をおさえている左手の甲にいく。そんなときだ。そこに浮き出た濃褐色のしみがまず目に入り、次いで浮き出た青い静脈、しわだらけの皮膚、指のつけ根や関節の上のたるみなどを、手を拡げて眺めたり触ったりしながら「もう90歳か」と納得するのだ。

 普段われわれは手の甲をしげしげと眺めることなどないだろう。「働けど働けどわが生活(くらし)楽にならざりじっと手を見る」(石川啄木)のは手のひらだし、個人特定の指紋掌紋はあっても手の甲を対象にしたものはない。そんな普段まったく気にしないところに、"老い"があるからビックリするのだ。
 そういえば往年の人気俳優・高倉健だったか、実年齢よりかなり若い役を演じた際、手の甲にも入念にドーラン化粧して、いつカメラに撮影されてもいいように備えたという。この年になって気付く私などとは違うプロ意識だ。

 近頃気付いたことがもうひとつある。いつもの墓園ウォーキングの最中、左足に靴ずれのような痛みを感じ始めたのだ。痛みはひと月ほど前からだと思うが、当初は微弱で発生ポイントも特定できず放っておいた。すると痛みはだんだん強くなり、ポイントが中指と薬指の付け根あたりと感得できた頃には、左足をかばって歩くようになっていた右足のひざ裏のちょっと上、太股後ろ側の筋肉の下のほうにも引きつるような痛みが出てきたのだ。
 そこでようやくこの痛みの元凶を確かめようと、シャワー後に左足を見て唖然とした。中指と薬指が接触する内側に直径3ミリほどもある赤黒い大きな"タコ"ができていたのだ。つまり靴をはいて歩くと双方が角突き合わせることになり、それぞれの根の先端が指の肉に喰い込んで痛みを発生させていたのである。私が「年だな」と思ったのはこの後だ。

 これまでこんなタコぐらい自分で削り取っていた。そのための小さなよく切れるハサミもある。これでタコの根元周囲、痛みを感じるか感じないか微妙なあたりに切れ目を入れ、それを少しずつ深くしていって丸ごと切り取ってしまうのだ。微妙で根気のいる作業だがそれが私には面白かったのだ。
 加えて私は子どもの頃から、どんな傷も化膿したことがない。だからこんなシロウト手当も平気でできたのだが、今回は見送った。目が見えなかつたこともあるが、もっと大きな理由はその作業のための姿勢――上体を丸く小さく屈めて左ひざを胸元に引きつける窮屈な姿勢を長時間とり続けるのは無理だなと思ったのだ。
 これも"年だな"である。

 そこで早速家内に話し、翌日家内行きつけの皮膚科医院へ一緒に行った。そして処置はメスで赤黒いタコを上からスイスイ削り取っていくだけの簡単なもので済み、帰りは買物する家内と別れて、1万歩ちょっと歩いて帰宅したが、痛みはかすかに感じただけだった。
 余談だが、帰宅して病院で貰った『医療費明細書』を見ると「処置」の欄に「鶏眼・胼胝処置」とある。胼胝(へんち)はタコのことで前から知っていたが鶏眼(けいがん)は漢和辞典を引いて"うおのめ"だとわかった。またひとつ妙な知識が増えた。 
 

2022年02月18日(金曜日)更新

第688号 〜私の特技裁縫の会心作あれこれ〜

 視力1.3あり私のいわゆる"利き目"だった左眼が、眼底出血のため視界全体が暗闇になってから間もなく1年半、視力0.3しかない右眼だけの日常にも左程不自由はしなくなった。

 そして昨年秋頃からは、まっ暗だった視界の周囲から少しずつ明るさが戻ってきている。主治医の女医センセイによると「眼底静脈からドバっと出血したのが次第に消えていき痕がカサブタになっています」ということだが、そのカサブタが消えたら見えるようになるかどうかはわからない。
 いずれにせよ近頃はまったく見えなかった左眼にも明るさが戻り、対象もいくらか判別できるようになって右眼を支えているように思えるのだから、"よしとしなきゃ"だ。この年で欲張っちゃいけない。

 とはいえこの利き目が不自由になって心底残念なことがひとつある。指先を使う細かい作業、中でも針と糸にミシン、アイロンを使う裁縫は私のもっとも得意なものであり、いちばんの趣味だったのだ。
 私は子どもの頃から人一倍手先が器用だった。工作が得意で家の近くにあった"天龍材木"の工場から台湾檜の木片を拾ってきては肥後の守(当時の安価な折込みナイフ)で削り、軍艦や飛行機をよく作った。さらにこれは思春期に気付いたのだが、私の体型は一般の人より手足が長く、既製のシャツやズボンが合わないのだ。70年前じゃ各種サイズのレディメイドなどありはしない。
 だからおしゃれしたかったら自分で作るしかないと思いあとは独学。当時盛んになりつつあった洋裁学校、文化服装学園(新宿にあった)の教科書を見たり、友だちの家にあった足踏みミシンを使ったりしながら、どんどん上達していったのだ。
 
 この裁縫ができなくなったことが数年前にある。そのときも今回同様左眼の視力が急に落ちたのだった。
 それまで2ヵ月おきに眼球に直接注射されて安定していた視力が全然前ぶれもなく突然ホワイトアウトし始めたのだ。冬山でいきなり猛吹雪に襲われたようなもので、日増しに見えなくなっていった。女医センセイも初めて出会ったケースらしく、何日か経って「私の手に余りますので、東北大学病院眼科の網膜の権威を紹介します」といい、私は即入院手術、魔法のように視力が回復したのだった。
 このとき私はズボンを一着、仕立て直しの途中だったのだ。

 品物はゴミ焼却場のリサイクル品コーナーから100円寄付して貰ってきたものでウール地のタータンチェック、柄はちょっと派手だが上等な品だった。というのも元は乗馬用だったらしく、ひざを曲げ前傾しても形が崩れない特別な仕立て方をしており、柄が派手なのもそのせいだろうし、私より前に貰っていく人がいなかったのもわかる。
 私はこれを遊び気分たっぷりの外出用に仕立て直そうとしていたとき、さきのホワイトアウトで中断したのだが、手術回復後にすぐ仕上げたのだった。

 これは自分でも快心作であり、また最後の最後の作なのだ。

 考えてみると裁縫はかなり根気のいる作業だ。たとえ左眼が元のように見えたとしても、いまあのようなことができるかどうか? それでも"残念"という気持ちは持ち続けたいと思う。
 

2022年02月11日(金曜日)更新

第687号 〜雲に聳ゆる高千穂の高嶺おろしに……〜

 今日2月11日は"建国の日"で祝日、学校も会社も休みのはずだが、オミクロン株感染拡大の現在はどうだろう。いずれにしろ休日だってどこかに出かけられるわけじゃないし、あまり楽しくはないだろう。

 私が子どもの頃(台湾にいた)は"紀元節"といって国をあげての祝日だった。これは『日本書紀』に西暦紀元前660年のこの日、九州日向から東征してきた皇統の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコノミコト)が大和の橿(かし)原神宮で即位したという記述に拠っている。すなわち大和朝廷=大日本帝国の始まりだ。
 紀元前660年はかの『魏志倭人伝』にある邪馬台国よりほぼ千年も前だ。まさに神話の世界、荒唐無稽の極みだが、私たちは誰一人それを疑わず「日本は神の国だ」と思っていたのだから可愛いもんだ。

 当時は祝日でも学校は休みじゃなかった。ただ授業はなく、1年生から6年生まで全員定刻どうり登校して講堂に整列し、校長先生が読み上げる教育勅語や紀元節の話を聞き、全員で"君が代"と"紀元節の歌"を歌って、つまり全校あげてこの日を祝って帰宅した。
 歌はいまでも覚えている。「雲に聳(そび)ゆる高千穂の/高嶺おろしに草も木も/靡(なび)き伏しけむ大御代(おおみよ)を/祝う今日こそ楽しけれ」と歌うこともできる。歌詞は『古事記』の"天孫降臨"や"神武東征"を踏まえており、創作"紀元節"にいかにもふさわしい。
 またこの日は各家をはじめ役所や会社駅郵便局商店など人がいる所には門口に日の丸の旗を立てるのが習わしで、台湾人の家だけじゃなく有名な"竜山寺"など古い名所でもそうしていた。

 さきの紀元節の歌と同じく子どもの頃脳にインプットされていまでも残っているものが私にはまだいくつかある。現代のようにパソコンやスマホなどなかった時代だ。データを保存しておくのは自分の脳しかなかった。
 その筆頭が神武につづく歴代の天皇名、以下のとおりだ。「ジンムスイゼイアンネイイトクコウショウコウアンコウレイコウゲンカイカスジン……」といった調子で"欠史八代"を含めて第20代安康あたりまでスラスラ出てくる。なぜこんなものを覚え込んだのか、遊びの一種だったとしか思えない。家内が時々口ずさんでいる手まり唄「イチレツランパンハレツシテニチロセンソウハジマッタ……」みたいなものだろう。
 だがこうしたものを思い出すと、私は「まだボケてないな」と安心する。ちなみに激動の時代"昭和"天皇は124代だった。

 昨年のいま頃、私は気力体力とも最低、人生最悪の状態だった。これで春が迎えられるだろうかと本気で思ったのだったが、それがいまはよく歩き頭もよく働き、さし当たっては心配ないところまで戻った。そしてこの分ならもうひと冬ぐらい越せるだろうし、コロナ感染にも収束の目処が立っているだろうと思っている。
 

2022年02月04日(金曜日)更新

第686号 〜コロナに負けるのは年寄りの恥〜

 先週はじめ二人でコロナワクチンの3回目接種を受けてきた。町内では早いほうだが、東京の義兄やスキー仲間の中には先月なかばに済ませた者もいる。地方の大都市はこういう小回りのきかないところがあるなと時々実感する。

 コロナの感染予防に関して、私たちは相当以上に用心深い。いちばんの理由は高齢者ほど重症化するということだ。この年まで運と頑張りで生きてきたのに、どこの馬の骨とも知れぬ氏素性定かならぬ――実際はちゃんとわかっているのだけど――ウイルスにやられるなんて沽券にかかわるのだ。
 もうひとつ死因が肺炎というのも気に入らない。私たちの若い頃結核病は"業病"といわれ患者は人里離れた療養所で治療するしかなかった。業病とは"前世の悪事の報いと考えられた治療しにくい病気"のことで、いまは差別用語として"難病"といい替えている。ちなみに黒沢明監督の名作『酔いどれ天使』は肺結核がテーマで、ラストシーンに救いがある。というが、私は三船敏郎の生き方のほうが性に合う。
 さらにもうひとつ、10数年前に誤嚥肺炎で亡くなった弟の記憶がある。弟は中年から糖尿の持病があり、晩年は体力が衰えてのどにからんだ痰を吐き出す力もなくなっていたようで、発病は当然の成り行きだった。しかし彼はそれが理不尽といわんばかりに、見舞いに行った私を憎々しげににらみつけ「帰ってくれ」と手を振るだけで、イヤな病気だなと私は思ったのだった。

 とにかくコロナに感染して重症化し肺炎で死ぬのはご免なので、感染予防は精一杯やってきた。一昨年はじめからこれまで、私たちが駅前や東一番町などの繁華街へ足を踏み入れたのは、今回の3回目を含めて接種のための3度だけ、それとさきの大晦日から新年2日にかけて上京した際の乗り換えに駅構内を素通りしただけなのだ。
 ついでにいっておくとこの上京は前の感染が一段落し、三ヵ日明けあたりから始まったオミクロン株の感染急拡大の小さな隙間にタイミングよくはまった。おかげで義兄や姪夫婦、息子夫婦に会え、"いま会っておかないとこの先いつ会えるかわからない"スキー仲間達とも、わずか1時間ほどだったが東京駅で歓談でき本当にうれしかった。

 そのオミクロン株の様子をみると、私はこれまでの中ではわれわれ年寄りにとっていちばん危険な変異株ではないかという印象を受ける。当初は"感染力は強いが重症化しにくい"という触れ込みで感染者も無神経な若い世代が多かったが、近頃は高齢者にも感染が広まり重症化する患者も増えている。つまりはじめは油断させておいて後で牙をむくタチの悪いヤツなのである。
 とにかく感染力が強いのが困る。極端にいえば自分ではまだそれと知らずにいる陽性者とすれ違っただけでも感染のおそれがあるのだ。

 したがってわれわれの対応はひたすら自粛して感染を防ぐこと、そして気力体力を充実させておくことだ。要はいい食事をとりよく眠り自分のペースで体を鍛えておけばいい。簡単なことじゃないか。
 
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