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2022年01月28日(金曜日)更新
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第685号 〜老人と高齢者/老朽化と経年劣化〜
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先日ハガキを書いていた家内が面白いことに気付いた。"経年劣化"という四字熟語が辞典にないというのだ。
家内は目が不自由な私に代わって、毎週原稿をパソコンに打ち込んでくれるし本もよく読む。言葉の知識は町内の閑居老人達より豊富だろうから、私も興味をひかれて早速調べてみた。
私が使っている国語辞典は、新しいのが1990年刊行の大冊、講談社の『日本語大辞典』と、現役の頃から使っているコンパクトな『新潮国語辞典』1971年刊の2冊、それに文字だけを引く三省堂編『大きな活字の漢字表記辞典』1981年刊だが、そのどれにもなかった。
ただし上下2字ずつ分けたものはともに講談社刊にあった。"経年貯溜ダム"という項目及びその説明と、"品質や性能が低下すること"という意味をあげていた。
他に何かないかなと書棚を見て目についたのが『朝日現代用語/知恵蔵2003』だ。引っ張り出して索引を当たると"経年飛行機"がある。すぐそのページを開く。内容はこうだ。
2002年5月、中華航空(台湾)のボーイング747が離陸して巡航高度に達したところで空中分解を起こし、乗客乗員全員が犠牲になった。この事故の調査員が発表したのが、同機が就航から25年を経たことを踏まえたさきの言葉というものである。
ここでは"劣化"という言葉は使われていないが意味する内容は同じだろう。そして"経年劣化"とは早くいえば"老朽化"である。さきの講談社辞典をそのまま引用すれば"古くなって品質や性能が低下し役に立たなくなること"だ。言葉は変わっても中身は同じなのであり、私など昭和ひと桁生まれには"老朽化"のほうがかえって親しみがわく。実際、仙北北上川沿いの登米(とめ)市登米(とよま)町には明治時代に建てられた小学校――私の母方の祖母が通ったという老朽化した校舎が残っており、台湾の南門小学校を思い出し懐かしくなる。
しかし老化や老朽という言葉は近年は禁句、差別用語だという。老人を高齢者といい替えたのがそれで、私なんか何をわがまま甘ったれているんだと思うだけだ。
だがあらためて考えてみると、これら"経年劣化"は元々われわれ人間が蒔いた種なのである。安くて強力な動力源として科学技術の発展に大貢献した石炭など化石燃料が地球温暖化をもたらし、究極のエネルギー源ともてはやされた原子力が核のゴミ化し……いったいわれわれは何を学習してきたのだろうと思う。
どうも今回は我にもあらず大上段に振りかぶってしまった。 |
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2022年01月21日(金曜日)更新
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第684号 〜"老い"燦々と この身に降って……〜
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「老馬の智は用いるべきなり」という警句がある。意味はぴったりの具体例があるので、そちらを読んだほうがいい。『奥の細道』第七章「那須野」だ。原文でもわかる。
だが現代は、老馬の智など見向きもされない。私がリタイヤした30年前あたりから始まった少子高齢化の進展とともに、甘ったれのわがまま老人が増えてゆき、本当の智を備えた老人が消えていったからだ。
では現今の老人達にはどんな警句成語がぴったりか? 古くからあるよく知られた言葉を土台につくってみた。
まず「老人老い易く学成り難し」 柔軟活発な脳細胞を持った少年でさえなかなか身につかない新しい学術が、ボケ始めた老人の手に負えないのも当然だ。だから私はスマホには絶対手を出さない。そして日々自分の好きなことを存分にやっていれば「老人閑居して不善をなす」こともないだろう。(なお引用した原文の老人などに言い替えた元の言葉は記すまでもないだろう。以下同様)
「老多くして功少なし」 これこそいまの日本の縮図だ。それが如実にわかるのが大病院や市営バスなどだ。どこも1割負担の老人が大多数だ。
「老いては事を仕損じる」 池袋人身事故の加害者87歳は"老い"だけではなく、予約のフレンチランチに遅れまいと急いてもいたからブレーキとアクセルを踏み間違えたのだ。老いたら何事ものんびりいこう。
ところで以上の警句は漢籍古典由来のものばかりだが、警句はもちろん西洋文明にもある。主役はローマ、シーザーにまつわるものなど数えきれないほどだ。
そのひとつ某漫談家が「老婆は一日にして成らず」といったのは何年前だったか。こちらは「老後は一日にして成らず」だ。老婆も老後もそれ以前の生き方が反映されるのである。
土台は古い警句だけとは限らない。人々によく知られたものなら何でもありで、まずは有名な小説の書き出し。
「吾輩は老人である。名前はもう無い。」 昔はどこへ行っても「お爺さん」と呼ばれれば自分のことだと察しがついたので、名前などいつの間にか忘れてしまった。しかしいまはパチンコ屋でもスーパーでも周りは年寄りだらけ。個人特定には名前どころかマイナンバーまで必要ときている。イヤハヤ!
都々逸もある。「人の老い路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ」 「……行方も知らぬ恋の道かな」(百人一首)だから邪魔のし甲斐もあるので、甘ったれわがままの老い路なんか放っとけ。
「長い老後に短い手足」 いまの老人世代は胴長短足の日本人体形がほとんど、私のような手足の長い年寄りは滅多にいない。
というわけで私は近頃「老い燦々と この身に降って」と自画自讃している。昨年の今頃とは気力体力とも大違い、自分がいちばん好きなこと――書くこと歩くことに活路を見つけたからだ。 |
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2022年01月14日(金曜日)更新
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第683号 〜ボケても達者なチャレンジ精神〜
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このところいささかボケてきたかなと感じている。自分ではいくら達者だ1万歩スイスイだと自慢していても,年が年だ。実際2週間前の"明けましておめでとう"で私は数え年91歳なのである。脳の働きだって往年より相当鈍化しているだろう。
加えて昨年クリスマス明けからの日本列島大寒波襲来も、一時的だが影響したんじゃないか。当地も雪が積もり強烈な寒風で歩けない日が続き、脳への新鮮な血の巡りが鈍化していたと考えられるからだ。大晦日から上京して久しぶりに会った義兄や姪夫婦、息子夫婦達と少しは飲んだせいもあるけれど……。
ボケたなと感じる代表は物忘れ、忘れることの筆頭は地名人名など固有名詞だ。つい先日もこんなことがあった。
昭和27年〜32年にかけて芥川賞を受賞した"第三の新人"とよばれた小説家達がいる。その中の一人の名前がどうしても出てこない。頭の中であっちを探りこっちを捜すなどして、そういえばこの小説家の父親を主人公にしたNHK朝の連続テレビドラマがあったなと思い出した。そして主人公の息子(後の小説家)が周囲から「じゅんのちゃん」と呼ばれていたのに気付き、下の名"淳之介"はやっと思い出したものの、苗字がどうしても出てこないのだ。
こんなとき私は苗字を五十音順に思いつくままあげて、名前をつなげてみる。
「青木淳之介……違うな、井上淳之介……違うな……」といった具合だ。まさに
"下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるだが、このときはそうはいかなかった。"な"で引っかかってしまったのである。
中村淳之介……うん?ひょっとすると……」というわけだ。
だがこれはすぐに大はずれだとわかる。F社の私よりひと回り若い後輩の名前で、それも上の一字だけ、下の"之助"がないのだ。しかし一度とらわれるとあれこれ引っかかって先へ進めなくなるのが考えごとの常で、今度は"中村淳"のことばかり頭に浮かび、小説家のことなどどうでもよくなってしまうのだ。
そして翌日トイレでしゃがんでいる際などに"そうか吉行淳之介だった"と思い出すのである。われながら記憶の再現力が衰えたなと思う。
知っている漢字も書けなくなっているものが多く、原稿を書くときよく辞典を引く。例えば"お家安泰"の"泰"だ。そして私の場合単に文字そのものを確かめるだけではなく、その文字を主にした古くからある有名な単語"泰山"まで大きな辞典を引き、"泰山は土壌を譲らず"という成語を初見して満足するのである。
「ボケ老人の蘊蓄漁り」あるいは「チャレンジ精神」?
物忘れもひどくなっている。出がけにマスクを忘れ、履いた靴のひもをほどくなど毎度のこと。それでもこうして原稿は書けるし歩くことも大丈夫。脳の仕組みが不思議でしょうがない。 |
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2022年01月07日(金曜日)更新
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第682号 〜去年今年 貫く達者 老夫婦〜
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二人揃って無事新しい年を迎えた。大晦日に上京して義兄、姪夫婦に会い、元旦には息子夫婦も合流して年賀の酒を酌み交わし、二日はかつてのスキー仲間達と1時間ほど顔を合わせて帰仙した。いささかあわただしいスケジュールだったが滞りなく消化できた。
というわけで2022年遅ればせながらおめでとうございます。本年も宜敷お願いいたします。
私は今年あと10ヵ月足らずで満90歳になる。いまの心身状態ならまあ大丈夫だろう。家内は今日が満83歳の誕生日だ。当地は海の幸に恵まれている。どこかそんな店に付き合うことにしよう。
二人とも年相応に体にはあちこち老化がある。私は目がいちばんの難物だが近頃は耳も遠くなってきたし、半数以上が義歯の歯にも苦労している。家内は腰とひざに慢性的な痛みがあり、昨年秋頃からは歩くとき私が腕をかすようになった。また私以上に耳が遠くなり二人の会話はいつも大声、人前で内緒話はできない。
そんな私たちだが第三者の眼で掛け値なしに見ても、同じ年代の高齢者夫婦よりかなり若く達者だと思う。そしてそんな達者の元になっているのが,私たちの"行動力"であり"好奇心"だと私は思っている。
私の行動力はいうまでもなく脚力、家内は運転歴55年を越える車だ。私たちのマンション団地はこれまで何度も書いたとおり"自然環境は最高だが生活環境は最低"なところだ。広瀬川に面した旧里山の南斜面に建設された団地は周辺にクマが出没するほど自然には恵まれているが、いちばん近いコンビニさえ急なバス道路を500メートルも下って行かなければならない。私のようによく歩く足や気楽に乗り回せる車でもなければ、日々の暮らしもしんどいのだ。
しかし改めて考えてみれば、生活に行動力が必要なのは私たちの団地に限ったわけではない。ここは極端なケースで、どんな環境でも行動力は必要なのであり、それがわれわれが日々達者に生きていく元になっているのではないか。つまりいつも自分から積極的に行動することができなくなったら、脳や気力はもちろん体も衰えるだけだろう。まさに老衰の始まりである。
この行動力を喚起するのが好奇心"遊び心"なのである。かの『梁塵秘抄』(平安後期の歌謡集)にあるとおり、われわれ人間は「遊びをせむとや生まれけむ」なのだ。明日でも1ヵ月先でもそんな遊びの予定があれば今日も楽しく達者に過ごせるのである。
二人合わせて170歳を越えたとはいえ、軽やかな足まわりと遊び心で今年も日々達者に過ごしていこう。 |
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2021年12月24日(金曜日)更新
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第681号 〜今年もあれこれあったが大過なし〜
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先週に続いて今年の総括第2部だが、実は何もない。結局はコロナ自粛で終わった一年だった。われわれ年金生活者には有難い一年だったともいえる。
今年亡くなった仲間や知人も十指に近いが、その人たちを今更述懐しても始まらない。皆さん私より年下ばかり、この先私は皆が知らない年を重ねていかなければならないのだ。
それで自分でも"これから先を生きる励ましになった"と感じたことがひとつある。
胃カメラを生まれて初めて呑んだことだ。
6月初旬の某日、朝食後妙な胃もたれ感を起こしてかかりつけ医に飛び込んだところ、「念のため胃カメラで診てみましょう」と1週間先の診断を予定したのだ。その1週間はどんな結果が出るか不安でしょうがなかったが診断は単なる胃炎。心底ホッとした。
日課の山歩きにもはずみがつき「1万歩スイスイ歩く90歳」などと嘯(うそぶ)けるようになった。以前作った「靴下を立ったままはく90歳」より面白いと思う。年寄りの自慢はストレートでわかりやすいほうがいい。
こんな私より家内のほうが出来事的には格上だし、それも二つある。
まずは9月だったか直径5センチ近い立派な金メダルと表彰状が送られてきた。送り主は宮城県歯科医師会、表彰状には「宮城県8020よい歯コンクール入賞」とある。すなわち80歳を越えても自分の歯が20本以上、ムシ歯などなくしっかり残っている高齢者を表彰するもので、歯医者さんのPRでもあるだろう。家内がコンクールに応募したのもメンテナンスで通っていた歯医者さんの推薦だったからだ。
その家内の歯は8020どころか親知らず4本も生え揃って32本、しかもムシ歯もなく見事に並んでいる。まるで北朝鮮軍兵士の分列行進である。
もうひとつは今月はじめ4回目の高齢者講習に合格して、新しい免許証を得たことだ。このところ高齢者による事故が増加しているので講習もきびしくなり、家内もだいぶ耳が遠くなって不安だったようだが、難なく通ったらしい。
それで次の車検をどうするかと心配している。いまの車は10数年前買い替えたもので、大きくて馬力もありゴルフで方々遠征するのにぴったりだった。近頃のような近場の買物が主という使い方には不向きなのだが……そのときはまた考えよう。
いずれにしろ今年も去年同様コロナ自粛で、われわれは近場をウロウロするだけだった。電車に乗ったのはワクチン接種のため仙台駅前まで行った2度だけ、県境どころか市境をまたいだのさえゴルフが3回、松島の友人宅と同じく松島のホテルに結婚記念日に1泊したのが1度ずつで計5度しかない。
おかげで世の中の動きにはいささかうとくなったが、日々達者で過ごす分にはいい。来年もこうありたいものだ。
註 勝手ながら次回(12月31日)は休み、新更新は1月7日にいたします。 |
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