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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2021年12月17日(金曜日)更新

第680号 〜"体力老人復活!"である〜

 もう半月足らずで大晦日というわけで今年の総括をしよう。まずは私の左眼だ。

昨年の9月はじめ、いきなり視野全体が真っ黒になった左眼は現在も視力は回復しない。それでも近頃は全体をおおっていた黒い影がだいぶ薄れ、晴れて日の当たるところにあるものならだいぶ識別できるようになってきた。
 それにわずか0,3の視力とはいえ右眼が残っている。読書やテニス、ゴルフは無理でもこうして文章を書いたり、墓園や町中など足元の安全な場所を気の向くまま歩くことだってできる。"天は二物を与えず"というが、"二物を奪わず"でもあるなとつくづく感じる。

 そんな私の見え方は先週書いたとおり。前々からの知人で体つきや仕草をよく知っている相手でもない限り、巾2メートルぐらいの歩道ですれ違っても誰かわからないほどだ。加えて視野も狭い。両眼で見ていたときの半分もない。これは両眼で見たときの遠近感や立体感がなくなったせいだろう。
 私はときどきテニスコートに行く。ゲーム前の練習でフェンスまで飛んでいったボール拾いや観戦、世間話をしに行くのだが、そんなとき空中を飛んでいるボールから一瞬でも目を離すと、後の行方――軌道がわからなくなってしまうことがよくある。これも視野が狭くなったのと同じ原因からだろう。

 そして近頃はこの見えないことを逆手にとって楽しむこともできるようになった。肌の合わない嫌いな相手を無視するのだ。
 たとえば老人会でストレッチ体操を体育館で習うときなど、私が奥のほうでインストラクターと歓談していると、入口にそういう人物がやってくる。そこでこちらがまったく見えない気付かない風をしていると、何か探るように近付いてきて「元気?」などと声をかけてくる。そこでやっと誰かわかったといった感じで顔を向け「あ、お陰さまで」などと返すのだ。
 もちろんこうした相手には町内ですれ違っても知らん顔をしている。私らしくない陰険なひねくれた楽しみだがこれも年の功か。

 とにかく去年10月から今年4月まで私の左眼は視界全体が真っ黒で何も見えず、1月なかばから不整脈や胃炎も併発して精神的にもまさに"人生最悪"の状態だった。深夜ベッドの中で暗闇に見えない眼を据えて「オレは大丈夫だろうか?」と思ったこともある。
 だがそうした落ち込みからも近頃はすっかり回復した。さらに真っ暗だった左眼にも明るさが戻ってきた。

 さらに近頃うれしいのが「姿勢がいい」とよくいわれることだ。それも体操のインストラクターなど体の専門家からだからなおいい。歩くとき足元に視線を落とさなくなったからである。腕立て伏せを続けているので上半身もしっかりしてきた。
"体力老人復活!"である。
 

2021年12月10日(金曜日)更新

第679号 〜ゴルフ部の紅一点Oさんが骨折〜

 町内ゴルフ部の紅一点、しかもコンペで調子のいいときはベスグロを取るほどの実力者Oさんが、先日プレー中に足首(左右どちらかは聞き漏らした)を骨折して手術入院したという。家内にも話して二人でビックリした。

 そもそもOさんをゴルフ部に入れたきっかけは私だ。3年前の梅雨どきだったかテニスコートのキーを取りに管理センターに行くと、受付で女性が職員に何か話している。そして話を聞いた職員が「そちらの方がゴルフ部ですから……」と私を紹介したのだ。
 それがOさんで「今度のコンペに参加させて欲しい」という。私は「丁度いい。これから一緒にテニスコートに行きましょう。ゴルフ部の部長も来ているので紹介します」と連れて行った。そして道々彼女が以前テニス部にいた同姓Oさんのお母さんで、キャリアウーマンの娘さんが東京へ転勤した後に引っ越してきたことを聞いたのだった。

 その顔見世のコンペで彼女は81の好スコアで回りメンバーを唖然とさせたのだ。ベスグロは1打差で部の実力者S氏がとったが、彼は昼食時に前半の彼女のスコアを聞き、注文したビールもひと口だけで後半気合いを入れ直したとゲーム後のパーティで話していた。
 ちなみに娘さんは地元の女子ナンバーワン進学校から東京の大学に入り、陸上部で活躍していたという。おそらくその縁で就職しキャリアを重ねたのだろう。お母さんが家内と同年(80代)だから40代後半〜50代ぐらいか。テニス部ではマネージャーだったが、忘年会の仕切りぶりなどすこぶるつきの有能さだった。ただテニスは始めて間がないようで来たボールをまっすぐ打ち返すだけ、コートを縦横無尽に走り回っていた。ゴルフには興味もなさそうだった。

 片やお母さんはゴルフ一辺倒テニスは見向きもしない。お互いに離れて暮らしていたことといい、共に勝気で男まさり仕事も人並み以上にできる母娘の、反発し合う心情がモロ見えるようで面白いなと思う。

 実は私は骨折する前日Oさんと日課の山歩きで出会っているのだ。そこは墓園ウォークのメインストリートみたいなところでよく人に会う。で私が歩いていると前から白い人影がやってくる。誰かわからなかったが10メートルぐらいに近付いたところで軽く頭を下げ「こんにちは」と挨拶した。山ではすれ違う見知らぬ相手に挨拶するのが、こちらに敵意がないことを示す礼儀だ。
 すると向こうも何かいいながら近付いてき、間が1メートルぐらいになって私はやっとOさんだとわかったのだった。そしてゴルフや私の眼の話などをして別れたが、その翌日のアクシデントを聞くと、管理センターの偶然の出会いまで遡って奇妙な縁を感じるのだ。

 それにしても私の眼だ。見えるだけは見え歩いたり書いたりにはたいして支障がないだけに"もうちょっと見えれば……"と思うことしきりなのである。とはいえ私も年だし今更高望みすることもない。日々悔いなく生きていれば、そのうちお釣りがくるだろう。
 

2021年12月03日(金曜日)更新

第678号 〜先の楽しみも達者でいればこそ……〜

 何か薄ボンヤリと過ごしている間に時は日進月歩で移りゆき、ふと気付いたら師走といった感じである。まさに"光陰矢の如し"月日の経つのは早いものだ。これも年のせいか……なんて近頃は何もかも年のせいにしたがる。

 そんな某日、家内の姪から家内に「大晦日から新年にかけて東京へ来ない?」と誘いの電話がきた。家内の実家は近年お花見で有名になった目黒川沿いにあり、いまは4年近く前連れ合いに先立たれた(私にとっては)義兄が一人で住んでいる。そこへ近所住まいの姪夫婦と都内住まいの私たちの息子夫婦が集まるので、私たちにも声をかけてきたのだ。
 義兄は私と同年生まれである。仕事も趣味も違うが話は合うし、酒も飲む。義姉が亡くなってからは姪夫婦をまじえて年に1〜2度、一緒に温泉旅行をするようになった。それが2年前の暮から新年にかけての松島を最後に、コロナ猖獗のため途絶えていたのだ。

 松島の後、姪は同年4月、去年から今年にかけて、今年の6月など私たちと一緒の温泉旅行を計画してくれたがみんなおじゃんになった。今年新年の予定など去年の元旦お昼を食べに行ったホテルの食事と見晴らしが気に入って、帰りしなフロントで1年先の予約をしたものだ。女らしからぬこうした決断の速さに私はいつも感心する。
 というわけで行くことに決めて家内が姪に電話をしたのだった。

 このとき姪が「二人が来ることはナオ君(息子)たちには内緒にしておいて驚かせてやろう」といい、家内も「面白いわね」と賛成したらしいがそれはダメだ。息子はこのブログを毎週読んでおり、私たちの一挙手一投足をほぼ掴んでいる。ならばここで息子たちに「知らぬふりをしてビックリしろ」と言い含めておく手もあるが、まあ無理だろう。
 姪と息子はぴったりひと月違いの同年生まれ、しかも姪が早生まれで学年は上のお姉ちゃんだ。この従姉から息子は幼い頃からいいようにあしらわれて、何でもお見通しなのである。隠し事やお芝居なんてできっこない。

 往復はもちろん新幹線だ。家内は車でもいいといったが、私が取り合わなかった。かつての優秀なナビゲーターもいまは100メートル先の信号さえすぐには見つけられないのだ。300キロを越える東北道と複雑怪奇な首都高など怖くて走れるもんじゃない。
 指定席も往復確保したが、かつてのような年末年始の大混雑はないようだった。とにかくコロナ感染が収まっているのが有難い。これで韓国のようなどこで歯車が狂ったかわからない感染大爆発でも起こらない限り、安心して行ってこられる。

 大晦日から2泊して義兄や姪夫婦とは2年ぶり、息子たちとはもうちょっとぶりに会い、お互いに元気を確かめ合い、酒を酌み交わし、おせちをつまみ、積もる話をし、そしてつぎの機会までお互い元気でいるように励まし合って帰ってくる。まさに"一期一会"である。
 こんな先の楽しみがあるのも達者でいればこそだ。
 

2021年11月26日(金曜日)更新

第677号 〜体にもやっと自信がついてきた〜

 このところ自分の顔をしげしげと見たことがない。もちろん鏡に写して見るのだが、その鏡を見るのが日にせいぜい5〜6回ほどしかないのだ。まず朝起きたときに顔を洗うついでに"別に変わりないな"と一瞥。これなんかまるで戦前の兵営で夜番の門衛が昼番に「異常なし」と引き継ぐみたいなものだ。

 朝昼晩の食事の後も時間はちょっと長いが似たようなものだ。まず上下の義歯を取り外して洗い、口をすすぎ残っている自前の歯をブラッシングした後ちょっとした作業をする。本題からはずれるが義歯の同じ悩みを持つ人の参考になると思うので書いておこう。
 義歯も数多くなると何本もまっ白い歯を植え込んだボディというかピンク色の固い樹脂を使うようになる。このボディが元の歯ぐきに当たって何か噛む度にコスれ、スリ傷になって痛むことがよくあるのだ。このスリ傷の治療に私はかねてよりメン棒にイソジンをつけて使っているが、これがなかなか効くのだ。イソジンは傷の消毒治療薬だ。何滴も呑み込んだらともかくこれぐらいなら問題ない。現に私はこれで傷や痛みを何度も治してきた。グッドアイディアだと思っている。

 他は手洗いの後ぐらいだが、これなど洗面台の灯りさえつけずにすませるので鏡など見やしない。だから近頃は自分の顔をたとえば警察の似顔絵つくりのプロ相手に的確に説明できるかどうか……。
 若いときは男性も鏡をよく見ただろう。カメラフィルムの古いTVCMじゃないが「綺麗な方はより一層綺麗に、そうじゃない方もそれなりに……」とニキビをつぶしたり笑ったときの口の開け方を工夫したり、鏡相手にあれこれやったはずだ。
 だが男性の顔への関心も大半は20代後半まで、その後は鏡で見るのも服装など全身が主になり、これまた古い文句で恐縮だが「男は顔じゃないよ、心だよ」(バーブ佐竹)に変わっていく。

 身なりと同時に男性が30代から気にし始めるのは体形だろう。私のその年代はかの三島由紀夫が象徴するボディビル全盛期だったので、その感がより一層強い。当時F社に"Iデブ"と、かげで呼ばれていた私より数年下の社員がおり、「あれじゃ生涯結婚できないな」といわれていた。
 その点私など20代からこれまでウェストサイズが76センチでほとんど変わらないので、常に堂々としていられた。

 そこであらためていうと、私は顔を見ることは年々少なくなってきたが、全身を何かに映して見ることはけっこう多い。身なりをチェックするのだがそれもここ2年ほどは減ってきた。コロナ自粛で外出する機会がなくなったせいだ。
 それで残念なのは、湯上りのパンツ1枚の全身をしばらく見ていないことだ。私はいま主治医のアドバイスで始めた腕立て伏せだけでなく腹筋も鍛えており、肩胸腕だけでなく下半身と合わせて全身、ゴルフ場の風呂場でも恥ずかしくない体になってきたと思っている。男はいくつになっても"見てくれ"を気にするものであり、気にしなくなったら……なのである。
 

2021年11月19日(金曜日)更新

第676号 〜訃報から老いのしたたかさを知る〜

 11月も間もなく下旬、今年も残り少なくなった。いま頃になるといつも今年亡くなった人たちが頭に浮かぶ。私たちも年が年だし昨年来のコロナ禍で遠方の知己とは往来もない。訃報も数少ない。
 
 町内のSさんは私より15歳も下だった。人付き合いが趣味みたいな人で、10年ほど前引っ越してきた途端、ゴルフ部テニス部卓球部そば打ち倶楽部と立て続けに入部、管理組合の理事にもなって、しょっちゅう顔を合わせるようになった。どれも前からやってみたいと思っていたものだが勤めが忙しく、誘ってくれる仲間もいなかったそうだ。とにかく毎日忙しくて楽しくてしょうがないといいたげだった。
 このSさんが去年暮、血尿が出て腎臓ガンが見つかり年明けから放射線治療を始めた。だが結局は手遅れで夏の盛りに亡くなった。晩年の八面六臂の活躍ぶりを考えると、彼は自分の寿命を知っていたのではないかとさえ思えてくる。

 その後町内で家内より年下の高齢者女性が2人相次いで亡くなった。ゴルフ仲間の奥さんと元テニス仲間だ。前者は肺炎球菌による肺炎、後者は筋委縮症でともに何年か寝たきりの末だった。
 こういう"難病"は病名は知っていても実際に接することは少ない。本人はもちろん介護する家族もたいへんだっただろう。

 町内以外では1月に小学校のクラスメートH君が亡くなった。
 私たちの小学校は戦前の台湾である。時代的に当然男女別学、それも1クラス50人以上の大世帯、おまけにその50余人が一年生から6年生まで組替えなしだったから全員顔見知りになった。だから敗戦、引揚げなど少年にはきびしい経験をしても、10年ほど後初めて催された同窓会では、各自おずおずと腰は引けながら、かつてのクラスメートがひと目でわかった。そしてそれを機にH君の幹事役でわれわれだけのクラス会を時々やるようになったのだった。そのH君がいなくなり残るは私ともう1人ぐらいか。まさに「戦後も遠くなりにけり」である。

 私たちのスキー仲間で毎年の温泉旅行にも参加してくれたS君が膀胱ガンで亡くなったのは6月、行年78歳だった。入社したときから私とは気が合い酒もよく一緒に飲み、酔って家へ連れ帰ったことも多かった。だから家内とも親しく、臨終前に一目会いたかったが、コロナ自粛で叶わなず残念だった。

 今月10日過ぎ前のS君よりさらに古いスキー仲間.ゴンちゃんの訃報がきた。ゴンちゃんとはF社にいた頃、歌舞伎の有名な「お若ぇのお待ちなせぇ」と声をかけられた盗っ人と同姓からついたアダ名で、もちろん当クラブの支配人氏とも親しい。ただ私たちとは52年前彼の結婚式の媒酌人をつとめた縁がある。訃報は"八十歳にて永眠……"とあるだけで他は何も書かれていなかった。しかも52年のうち40年ほどは賀状のやりとりだけのあっさりしたお付き合いだった。

 さて今年89歳になった私はいまのところ頭も体も特に問題ない。だからこれら知人友人の訃報も動揺なく受け取ることができた。老いとともに"したたかさ"も増しているのだ。気持ちだけでなく体もしたたかさを失わないようにしたいものだ。
 
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