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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2021年10月08日(金曜日)更新

第670号 〜忘れる、調べる、の楽しいバランス〜

 近頃どうも頭の回転が鈍くなったような気がする。咄嗟の場合すぐには思い出せない事柄が多くなってきたのだ。特に人の名前や地名など固有名詞がダメだ。つい最近のことだ。

 テニスコートで、この7月ベルギーに移住して行った夫婦が話題になった。フランス人の夫と日本人妻の国際結婚でともに40代、二人とも団地にいたときはテニス部にいたのでなじみがある。特に住居が同じ棟だった私たちとは親しく、家内は時々ラインで近況をやりとりしている。そんな夫婦の移住先・首都の名がでてこないのだ。
 するとかつて私の師匠だったYさんが助け舟を出してくれた。「ブリュッセルにはヨーロッパで旨さナンバーワンのビール醸造所があるそうですね。何でも高級ワインと同じ味がするんだとか。1度行って飲んでみたいですね」首都の名だけじゃなくその地の名物まで加味されて二度と忘れないだろうと思ったのだった。

 人の名もそうだ。阿倍晋三の前の総理大臣が誰だったか何としても思い出せず、家内にスマホで調べてもらった。民主党の野田佳彦だという。あゝそうだったなとあとは芋づる式、その前は事故原発の視察など余計なことをやってミソをつけた菅直人、その前はかの小沢一郎から「神輿は軽くてパァがいい」と担ぎ出された鳩山由紀夫。だがその前は……となるともうわからない。
 こんな世間知にうといとぼけた老人でもノホホンと暮らしていけるのだから、この国はホントいい国だなと思ってしまう。

 さらにいえばそうした固有名詞以上にダメになったのが漢字だ。うろ覚えというか記憶に自信がなくなった字が山程あり、原稿を書くときはのべつ辞典を当たっている。40年前「そろそろ老眼でしょう?」と後輩から贈られた『大きな活字の漢字表記辞典』と時計職人が使う拡大レンズが必ず傍にある。
「この世をばわが世とぞ思う望月の……」で知られる平安中期の権力者・藤原道長の日記『御堂関白記』は誤字当て字が多く読みにくいことで知られている。それでも多くの人が読もうとするのは第一級の史料として価値が高いからで、私ごときの文章がそんな有様だったら誰も読もうとはしないだろう。
 だから自分で書けると思っても一応確かめる。本稿では"醸造"がそうだった。

 漢字を忘れたりうろ覚えになったのは年のせいだけではない。眼が不自由になり本を読まなくなったせいだ。文章を読んでいるとそこに出てきた漢字もたとえば風景の一部のようにイメージして脳にインプットされるのでしっかり記憶できるのだろう。そうした再確認ができなくなってうろ覚えになったのだ。
 とにかく近頃の私は"あらためて調べ直す"ことが多くなった。本が読めていたときは文章の流れで何となくわかったつもりになっていた言葉や成句などを、辞典などできちんと調べるようになったのだ。おかげでそれまでの思い違いが訂正されたものもいくつかある。
 眼が不自由になっても悪いことばかりじゃないのだ。"失うものがあれば得るものもある"と思えば、気持ちはいつも前向きになれるじゃないか。
 

2021年10月01日(金曜日)更新

第669号 〜太らなくても体力は回復した〜

「天高く馬肥ゆる秋」だというのにちっとも太らない。というより今年はじめから3月にかけて減った体重が元に戻らないのだ。
 この1月なかば私は不整脈を発症し、2月もなかば過ぎまで半病人のような日々を送った。夕食で胃がちょっとでもふくらむとベッドで仰向けになったとき心臓が圧迫される感じがして寝つけず、夕食はシラス干し入りのおかゆが主という毎日だった。体重が5キロも減り腕胸尻太股ふくらはぎなどの筋肉がごっそり落ちた。

 3月はじめ心電図エコー血液3点セットの精密検査を受け「何も不安はない」と診断され、まず墓園歩きから再開した。そして徐々に歩数を増やし現在は1万歩スイスイまで体力も下半身の筋肉も回復したが体重はほとんど増えないのだ。家内は
「胸や腕背中の筋肉はしっかり付いてきた」といい私もわかるのだが、どうも胴回りがなぁ……なのだ。
 私は若い頃からウエスト76センチで半病人以前までまったく変わりなかつた。それがいまベルトの穴ひとつ3センチほどゆるくなったままだ。腹筋も一応はかつての6分割状態らしくなっているが、何となく線が細く弱々しい。
 要するに胴回りが細くなったままなのである。私にすれば中身の五臓六腑すべてがひと回り小さくなってしまったようで頼りないことおびただしい感じで、これも年のせいで仕方ないのかなと思ってしまうのである。

 20日ほど前、かかりつけ医の定期健診を受けた。センセイの診断は心臓(血圧)も胃も別に変化はなく正常に作動しているということだったが、その診察前に看護師さんに身長を計測してもらったら164センチしかなく40代頃より5センチも小さくなっていた。年老いると全身の骨も一つずつ小さくなっていくのだからしょうがない。面白いのは腰から下の縮みが少なかったことでズボンが余り短くなっていないのだ。構成する骨の数が少ないからでこれは有難かった。

 ところで本稿を書きながら気付いたことがある。去年や今年はじめのことをくわしく思い出せなくなっているのだ。
 私は去年9月1日に心臓内科から処方された薬と眼科の薬がバッティングして、それまで頼りだった左眼の視力が徐々に失われていった。このため読書や書くことが次第にできなくなり、日記も9月いっぱいで書かなくなった。しかしこうして何か書いて皆さんに読んでいただいている以上、記述に正確を期すのは義務だ。だから去年の9月30日の次ぎのまっさらなページから新しい記述を始めようと思っている。

 毎日1万歩をきっけけに始めた腕立て伏せも、こうした原稿書きの合い間によくやるようになったし、お腹を心配してひと頃控え目だった晩酌(お気に入りの日本酒を常温で)も復活した。あとは目は見えなくても"秋の夜長"を楽しむ方法を案出しなければ……と思っているところだ。
 

2021年09月24日(金曜日)更新

第668号 〜1万歩 スイスイ歩く 九十歳〜

 日課の「1万歩」の歩き方を先週からちょっと変えた。1万歩を午前と午後2回に分けて歩くことにしたのだ。
 まず朝食後トイレや薬の服用、血圧測定など朝の行事を済ませてから出かけるのをはじめ、下り坂から歩き始めるのもコースも変わらない。変えたのはコース後半の約5分の1だ。北環状道路の上りを3キロ弱上ったところに墓園へ抜ける近道の入口があり、そこから先の往復ほぼ2千歩を省略した。
 これで朝は7千500歩〜8千歩、残りは午後墓園を歩くのだが2千歩じゃ物足りないから5千歩ぐらいこなす。それで私も満足できるし墓園への義理も立つ。
 変えた原因は私の胃腸にある。朝だけ歩いていたある日お昼を食べ過ぎてひどい胃もたれを起こし、夕食をパスして寝てしまったのである。昼の内容はエビフライ2本と前夜の残り物の家内の手づくりハンバーグ1コとご飯が少々だったが、このフライが"海老大僧正猊下"と尊称したいほど分厚い立派な衣をまとっており、それが胃を占領してしまったのだ。
 胃もたれは先にそれがきっかけで胃カメラを呑む羽目になり要らぬ心配をした覚えがある。年相応に胃腸の消化能力も落ちてはいるのだろうけど何とかならずにすむことはできないものかと考えていたら、家内がこんなことをいってきた。「朝ごはんの後よく歩いてるからお腹もこなれて胃もたれしないんじゃないの。だから歩くのも2回に分けて午後も歩いてみたら?……」
 なるほど、そういう手があったか!とはじめに書いたように朝の歩き方を変えたのである。ただし午後は1万歩に足りない分をカバーするだけでは物足りないので1時間ほどにしている。

 考えてみるといまの私の自由時間、すなわち1日24時間から寝たり食べたり家内の買物に付き合ったり何か家のことをしたりする時間を差し引いた真のプライベートタイムの中で、歩いている時間が占める割合いは大切さという点で相当なものだと思う。大袈裟ににいえば私の生き甲斐のような時間なのである。

 ちょうど1年前、昨年の9月のいま頃から私の目の要だった視力1.3の左眼が急速に見えなくなり始めた。原因は薬のバッティング、これまで何度も書いている。残された視力0.3の右眼だけではそれまで容易にできたこともうまくカバーできず、日々の楽しみが次々と失われていった。読書やパソコンから生来の器用さを生かした裁縫や何かの修理といった屋内作業、ゴルフやテニスなどだ。繁華街へ出かけたり近くの温泉への一泊旅行もしなくなった。コロナ感染防止の自粛は皮肉なことに私たちにはよかったほどだ。
 そんな私にかろうじて残った楽しみが、書くことと考えること歩くことだったのである。

 "書くこと"は読書と並んで私の脳を衰えさせない大切な作業だったし、小さな字は読めなくなっても大きな字なら書ける。加えて家内の励ましと助けもあってご覧のとおり本欄も休まず続けている。"考えること"は誰もがいつでもどこでもできる脳のトレーニングだと思う。内容は何でもいい。大きく広く自由に飛び回らせるのがいい。そして不審に思ったことはすぐ調べるのだ。年寄りにはボケ防止になる。
 そして"歩くこと"は私をアピールする見せ場なのだ。こういうものをひとつでも持っていれば人は前向きになれるのだ。タイトルのように「どうだ!見たか!」と私はいつも胸を張って歩いている。
 

2021年09月17日(金曜日)更新

第667号 〜伸びたり縮んだりパンツのゴム紐〜

 明明後日、来週月曜日は"敬老の日"。ちなみに明明後日は話し言葉では"しあさって"あるいは"やのあさって"という。さらに手持ちの辞典には「大後日」とあり私も初めて見たが、残念ながら読み方はわからなかった。私が子どもの頃そのまた次の日を"ごあさって"といっていた。"ロクでなし、七でなし……"と同じパターンだ。

 一昨年までこの日は町内会が70歳以上を招いて"敬老昼食会"を催していたが、コロナのため昨年に続いて今年も中止、代わりに当日お菓子を配られる。会には "祝長寿"の乾杯のためお酒も少しは出る。私も一昨年はすすめられるまま飲んだが、近頃は晩酌もたまにといった下戸なのでこちらのほうがうれしい。
 乾杯といえば一昨年の会では私が発声の音頭をとった。86歳の私より年長の男性は3人いたが皆さん改まった挨拶は不慣れとあって老人会(一期会)世話人代表の私が指名されたのだった。

 その昼食会以来丸2年この頃気付いたのだが、私より年上の3人をはじめ町内の高齢者何人かの近況がわからなくなっているのである。つまり人前に顔を見せなくなっているのだ。どんな人たちか年上3人を皮切りに書いておこう。
 まず2歳上のKさんは、初夏の頃だったか墓園で出会ったきりだ。7月の「一期会」に顔を見せた奥さんによると「うちのおとうさんは週3日病院に行ってるから」ということだったから、そちらで忙しいのだろう。だが残る2人は1歳上のMさんも同年だが早生まれのKさんも、生きてるかどうか気配さえ伝わってこない。
 年下も年齢順に、まず私の前の一期会世話役人代表だったTさん、前々期まで管理組合常任理事だったUさん、このあたりの町内会連合会で役員をしていたHさん、3・11大震災のとき理事だったSさん、そして1昨年の昼食会が初参加だったYさんだ。ちなみに彼以外で初参加だったのは、私のテニスの師匠Yさんと同じくテニス部のSさんの二人、しかもSさんはこの8月末腎臓ガンで亡くなっている。かつてテニス部にいたこともあるさきのYさんと合わせて何とも奇妙な巡り合わせだ。

 以上男性7人をあげたが、もちろん知人女性の中にも近頃顔を見なくなった人は2〜3人いる。
 そして顔を見せなくなった一番の理由は"コロナ感染を心配する余り"といったら言い過ぎか。

 考えてみれば私自身けっこうな高齢者だ。来月は89歳になる。いまや町内のどんな集まりでも最高齢者である。よくぞここまで生きてきたものだと我ながら感心する。運及びいい加減な生き方のおかげだ。運は丈夫で太らない体に生まれついたこと、それと日々緊張し過ぎずダラけ過ぎず適当にやってきたことが幸いしたのである。ゴム紐も伸びっぱなしでは切れるのも早い。かといって縮んだままでは用をなさない。生き方も日々緩急をつけることが大事なのだ。
 タイトルの1節は息子が中学1年生のとき口ずさんでいた戯れ歌だ。どこで聞き覚えたかうまいことをいうわいと思った覚えがある。何か触発されたのかもしれない。横浜日吉にちっぽけなマイホームを入手した頃で、以来50年近く人生に波瀾はあったが破綻はなかった。
 

2021年09月10日(金曜日)更新

第666号 〜八方塞がりでも普通の日常はある〜

 コロナの感染急拡大で2週間前から当県も緊急事態宣言に入った。そのときのニュースで観光地松島が伊勢神宮と一緒にレポートされたが、夏休み中の土曜日というのにガラガラ、湾内観光船が発着する広い岸辺には客引きらしい人影がポツンポツンと見えるだけ。有名な瑞巌寺と並んで海に面した表通りのみやげ物店や食堂の中にはシャッターを下ろして臨時休業の店もある。全国放送だったからご覧の方も多いだろう。
 私たちはもちろん自粛である。

 自粛なんか私たちは自慢じゃないが去年の春からやっている。不要不急の外出を控えるのは"不要不急の出費を控える"のと同じ、われわれ年金生活者にはお手のものだし、三密を避けるのもスーパーなどへの買物は空いている時間帯に、近所付き合いは何かと口実を設けて疎かにすればいい。コロナは高齢者ほど感染すると重症化しやすいと聞いて守りに徹したのだ。
 何しろ去年の春以来私たちは市の繁華街や駅前に足を踏み入れたのが2度だけ、それもワクチン接種に出向いただけなのだ。あと家内と合わせて月に5回病院に行くが、それらの病院は全部市街地から遠く感染予防も徹底しているので問題ない。

 ところでこの夏場2ヵ月ほどの間に町内で私たちの知り合い3人が相次いで亡くなった。女性女性男性の順で3人とも私たちより年下の70代だった。そして女性二人は肺炎と筋委縮症で何年か闘病の末に、男性は去年の末腎臓にガンが見つかり放射線治療を続けたものの及ばずだった。
 
 このSさんは世話好きな人のいい人でテニス部のマネージャーなども引き受けてくれ、干支でひと回り以上年の離れた私ともよくいろんな話をした。私などから見れば真面目過ぎるほどで、あるとき私が北海道出身の彼に冗談半分「道内に無分別という町がある?」とたずねたところ「あったかなあ」と首をひねった揚句、同じ北海道出身のAさんに訊きに行ったほどだ。またコロナ感染がひどくなり始めた昨年春だったか、私が「俺なんか台湾で雑菌まみれだったからコロナも寄り付かないだろ」というと「ダメダメ、コロナウィルスは雑菌なんかより強いんだから。用心しなきゃダメ」と真剣な顔でいってくれたこともあった。
 
 かの孔子さまの「逝く者は斯くの如きか昼夜を舎かず」(川上の嘆)ではないが、コロナが猖獗(しょうけつ)を極めている現在でもコロナによる死より他の死に方のほうがはるかに多いのだとわかって、われわれの日常はまだまだ普通なのだと安心できるではないか。

 余談だが私はコロナのニュースを見るたびにすぐ頭に浮かぶ歌曲がある。昭和7年(はからずも私が生まれた年だ)オペラ歌手の藤原義江が関東軍の依頼を受けて作った『討匪行』という軍歌だ。その1番の歌詞がいまの日本におけるコロナの状況にピッタリだと思うのだ。
「どこまで続くぬかるみぞ/三日二夜は食もなく/雨降りしぶく鉄カブト」だ。途中から歌詞を「……三日二夜は医者も来ず/入院待ちの自宅療養」とでも変えたら絶望的な状況が見えるようではないか。
 こんな八方塞がりから解放されるのはいつのことか。
 
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