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2023年07月07日(金曜日)更新
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第755号 〜転倒!頭をホチキスで縫われた〜
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ちょっと激しい動きをしただけで動悸息切れを起こしていたのが、20日間の入院手術で全快したのはよかったが、そのわずか20日間で体力=筋力がすっかり落ちてしまったことには驚いた。
経緯はこうだ。6月9日(金)私は施術医N医師から託されたかかりつけ医Y医師への書面を持って退院した。そして翌日午前中だけ診察するY医師の手が空いた頃医院を訪れて書面を手渡し、今後の治療をお願いして辞去した。そして久しぶりに二人で外出したので、どこか寄って行こうという話になり、墓園に隣接する市営ゴミ焼却場の付属施設リサイクルプラザに行こうとなったのだった。
ここは市民が捨てたゴミからまだ十分使えるものを選別して手入れし、展示しているコーナーで時々掘出物にぶつかる。私などサイズが大きく型も古いが品物は上等で柄もおしゃれな品を見つけて100円寄付し、自分で仕立て直したズボンが3点はある……というわけでそちらへ向かったのだったが、これが大失敗だったのだ。
駐車スペースに車を停め、一足先に下りて施設の入口へ向かって歩き始めた私は、そのゆるやかな上り斜面に足をとられ、仰向けに転んでしまったのだ。運転席から出たところで見ていた家内によると、足元から崩れるようなグズグズした転び方だったそうだ。それでも背中にスリ傷ができ後頭部には3センチほどの裂傷もできていたから棒立ちで転ばなくてよかった、足が弱っていたのが幸いしたようなものだ。
そして傍にいた人がすぐ手配してくれた救急車で病院へ運ばれ、まず頭部のCT検査をし、次いで外科で背中の大きなスリ傷に絆創膏を張られたり、頭の傷をホチキスのような器具で縫い合わされたりして、ちょっと遅れて駆け付けた家内に引き取られて帰宅したのだった。
それにしてもわずか20日の入院生活が、以前は"1万歩スイスイ"を誇った下半身の筋肉をまるで棺桶片足老人並みに衰えさせるとは意外心外以上、腹立たしくなるほどだ。私は帰宅するとすぐ自分の太股を調べた。成程だいぶ細くなっている。太腿の付け根あたりに両手を回すと左右の親指が8センチも重なる。かつては親指の先がやっとくっつくぐらいだったから周囲16センチは細くなっているのだ。体重も5キロ落ちており、上半身の筋肉もスカスカ、まさに町内の同世代"やせ蛙"氏さながらで、これじゃあれっぽっちの坂で転倒するのも仕方ないかなと納得させられたのだった。
私は現在90歳と8ヵ月になる。こんなに長生きできるとは自分でもまったく予想しなかった。血縁からいっても両親はともに60代、弟二人は70代と60代でサヨナラしている。親類縁者でも90歳で亡くなった母方の叔父が一人いるきりだ。
体形は子どもの頃から"ヤセの大食い"で、いくら食べても太らない痩せ形の筋肉質、その筋肉もいわゆるマッチョには程遠く腰から下を固めるばかりの長距離ランナー型だった。
内臓も丈夫だった。病気になって寝込んだ覚えがあるのは敗戦後引き揚げの際台湾から持ってきたマラリアぐらいだ。転校入学した仙台一中(旧制)で授業の最中に突然猛烈な寒気に襲われ、全身がガタガタ震え出すのだ。真夏だろうが関係ない。授業そっちのけで中退帰宅して布団をかぶって寝るしかない。そして高熱と悪寒が2日続いた後(二日熱)ケロリと治ってしまうのだ。ただしこれも私一人だけの病気で家族の誰にも感染しなかった。媒介するハマダラ蚊が仙台にはいなかったのだろう。
だから私はこの年まで生命にかかわるような病気も、そんな事故に遭遇したこともないし、ケガもせいぜい頭の皮をホチキスで縫われる程度ですんでいるのである。願わくば"お迎え"とやらもそんな調子で来て欲しいものだ。 |
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2023年06月23日(金曜日)更新
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第754号 〜難関を超えて次の楽しみへ……〜
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4月はじめから発症した心不全の治療が内服薬だけではあまり進展せず、この際手術=カテーテルによる大動脈弁狭窄症の治療=でも受けてみるかと、5月22日かかりつけ医から紹介状をもらって、仙台厚生病院を受診した。ここを選んだのは住居から作並街道を1本道、市街地へ入ってすぐ……以前の私なら歩いて行ける手近さからだったが、後日知ったところによると病院自体がその手術では東北随一という評判だったのだ。
受付をすませて小1時間ほど待っている間に胸部のレントゲン写真を撮られた。やがて診察室に呼ばれた私は相手のN医師が若々しいのにビックリした。実際はもっといっているのだろうが私の半分以下といってもいいくらいなのだ。だが私はこの若さでここまで任されているのだから、なまじベテランぶった医師より安心できるなと思った。
N医師は私の治療にはさきの手術と、薬で症状を緩和して心臓にかかる負担を取り除く保存的治療法の二つがあることを説明し、どちらを選ぶかたずねてきた。私は手術を選び、できればその日のうちにでも入院したい旨を告げた。N医師はすぐあちこちに電話をかけ、空ベッドを見つけてくれ、私たちは同席していたN医師の助手の案内でそのベッドに向かった。
ベッドは10階の病室専用フロアのナースステーション脇にポツンと置かれていた。恐らく急な入院患者用に特別にしつらえた一角だろう。私はそこですぐ入院着に着替えた。ゆったりした羽織のような上っぱりにステテコのようなズボン、生地は薄いブルーの綿一枚仕立て、そして下ばきは排泄物がけっして洩れないような頑丈な作りのオシメだ。足元は着脱が簡単なズック靴だったのでそのまま。私は15分ほどで新規入院患者として落ち着いた。
そしてそんな私を家内はしっかり見定めた後、当座必要な金額を私の財布に納めてロッカーに入れ、「それじゃ頑張ってね」と笑顔で手を振って帰って行った。
それから29日の手術日までの1週間は患部の徹底的な検査と、体の中の酸素を新鮮なものに徹底的に入れ替えるような日々だった。
検査は血液検査に始まり心電図、胸部レントゲン、呼吸機能検査、頸部血管超音波、血圧脈波、心臓超音波、心臓CT、心臓カテーテル検査など、毎日のように看護師さんが押す車椅子に乗せられて、それぞれの検査室に出向いて行った。また新鮮な酸素は日中いつも顔につけている吸入パイプのほか夜間には専用のマスクを顔面に装着させられた。これが昔の防毒マスクのように顔面をピッタリおおうつくりで、顔にまともに吹き出す酸素の勢いも強く息苦しくなるほどだった。そこで私は自衛のためときどきマスクの脇から指を突っこんで外の空気を吸っていたが、それでも"そのうち体が酸素爆発するんじゃないか"と思ったほどだ。
当日は4例の手術が予定されており私は4例目、午後3時開始だった。だが前の3例が少しずつ押せ押せになり私は5時過ぎになった。3時前に来院した家内はだいぶ待たされて気もそぞろだったようだが、手術台らしい黒いベッドに寝そべった私は目で「行ってくるよ」といっただけで、その後のことは翌朝明るい日差しを浴びて目が覚めるまで全然記憶にない。
ただ家内は手術の全容をモニターで見ていたとのことで、ホッとした顔をしていた。
それから6月9日退院するまでの10日間は朝の院長回診と3度の食事が楽しみだった。院長回診は同行しているN医師がいつも私に「元気ですね」と声をかけてくれるのがうれしかったし、食事は完食が楽しみだったのである。どちらも"明日へつながる"ように思っていたのだった。 |
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2023年05月26日(金曜日)更新
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第753号 〜海の男の艦隊勤務月月火水木金金〜
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朝目を覚ましてベッドから出ながら、何か楽しい歌を口ずさんでいることがある。体調気分ともいいときで、つまり"生きているのが楽しい"ときだが近頃の私には縁遠い。一日も早く回復してそんな気分になりたいものだと頑張っている。
朝の歌は数あるが中で最もよく出てくるのが、「チクタクチクタクボーンボン」『早起き時計』だ。1937年(昭和12年)キングレコードから発表されたもので、歌は「お早うお早う夜が明けた/きれいな朝だよ飛び起きろ/時計が待ってる呼んでいる」と続く。私が5歳のときにできた歌だが幼い頭にいつの間にかインプットされてメロディも歌詞もよく覚えている。
この時計はあらためていうまでもなく"振り子時計"だ。円形や八角形のガラス蓋の付いた文字盤の下に同じくガラス蓋付きの縦長のケースが付いており、中で円い振り子が秒を刻んでいた。戦前は大抵の家にあったが、戦後は生活の洋風化とともにチャブ台や火鉢などと同様いつの間にか見なくなった。
古いものでは前者と同年に発表された『愛国行進曲』がある。
「見よ東海の空あけて/旭日高く輝けば/天地の生気溌剌と/希望は躍る大八洲/おお晴朗の朝雲に/聳ゆる富士の姿こそ/金甌(おう)無欠揺るぎなき/わが日本の誇りなれ」というのをメロディはほとんど間違いなく、歌詞も3分の2ぐらいはそのとおり歌っていた。いまこうして元の歌詞を見ると、"晴朗の朝雲に"とか、"勤皇無欠"とか最後を"……誇りなり"にするなど自分なりに"わかる言葉"に変えたところもある。つまりは就学前の子どもの耳学問、習わぬ経を詠む門前の小僧だ。
それにしてもたかが"大人の唱歌"のような歌に難しい言葉を使うものだ。"金甌無欠"――国が戦に負けたことがないこと――なんて、辞典をひいて初めて知った。
その後日本はひたすら戦争に傾き、4年後には真珠湾奇襲をやらかしてせっかくの金甌無欠をパアにするのだが、その昭和16年に発表されたのが『艦隊勤務月月火水木金金』だ。歌詞は「朝だ夜明けだ潮の息吹/うんと吸い込む銅(あかがね)色の/胸に若さの漲る誇り/海の男の艦隊勤務月月火水木金金」。メロディも簡単だしさらには"月月……"という一句がはるか後年の高度成長期の"エコノミック・アニマル"につながるとあって、世代を問わず多くの人に知られているようだ。
ところが同年"国民歌謡"としてラジオで発表された歌が『朝だ元気で』だったそうで、これは私も全然知らなかった。当時の歌詞はこうだ。「朝だ朝だよ朝日がのぼる/燃ゆる大空陽がのぼる/みんな元気で元気で起(た)てよ/朝は心もきりりとしめて/あなたもわたしも君等も僕も/ひとり残らずそら起て朝だ」。戦後の昭和26年からNHK朝のラジオ体操のオープニング曲に使われた歌詞とあまり変わらない。
はじめの国民歌謡を知らなかったのは当時わが家にラジオがなかったせいもある。現代のテレビほどラジオは一般に普及していなかったのだ。その証拠に同年12月8日朝の"大本営発表"日米開戦のニュースを、3年生の級友50余人が朝顔を合わせても誰一人話題にしなかったのだ。つまりは親からも聞いていなかったのである。
内地の子ども達がどうだったかは知らない。
そして戦後の昭和21年『リンゴの歌』に続いて大ヒットしたのが『朝はどこから』だ。朝日新聞の懸賞募集入選作で歌詞は「朝はどこから来るかしら/あの空越えて雲越えて/光の国から来るかしら/いえいえそうではありません/それは希望の家庭から/朝が来る来る朝が来る『お早う』『お早う』」。メロディも明かるくて馴染みやすいし、私は"未来の国から来るかしら"と変えてよく口ずさんでいる。
ところがその後は"朝をテーマにした歌"を唱歌をはじめ歌謡曲などでもほとんど聞かないのだ。私が知っているのは昭和45年発表の『おんなの朝』歌・美川憲一と、翌46年の『別れの朝』歌・ペドロ&カプリシャス&高橋真梨子しかない。そして歌詞は前者が「朝がきたのねさよならね……」後者が「別れの朝二人は冷めた紅茶飲み干し……」、メロディもメランコリックでさきにあげた古い歌の快活な明るさとは正反対だ。やはり"歌は世につれ"である。
というわけで朝起きて口ずさむ歌は"明るい"のがいい。私は3番目が多いです。 |
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2023年05月19日(金曜日)更新
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第752号 〜目には青葉山ほととぎす初鰹〜
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皆さんご存知の有名な句である。作者は江戸時代前期の俳人山口素堂、かの松尾芭蕉と親交があり、蕉風の展開に影響を与えた。脱俗優雅な句風で知られるが、一般に有名な作はこれだけ。だから私など句風云々よりこの一句のいかにも年季の入った俳人らしい工夫に魅せられる。
第一句を"目には青葉"と字余りにしたところだ。ここは一般には俳句の規則どうり"目に青葉"と五音でいう人が多い。家内もそういっていたしパソコンで検索すると"目に(は)青葉"とカッコでくくっていた。「病コウモウに入る」と同じく一般的な読み方が定着したものだ。
私は"は"が入ることで"青葉"が格段と際立ち、続く"ほととぎす"や"初鰹"も存在感が増したと感じており、こういう作者の感覚はそのまま受け取ったほうがいいと思っている。
この青葉つまり新緑がいま実に素晴らしいのだ。住居の南側ベランダに立って眺めると、左の東側は広瀬川のせまい谷間の先に仙台市街地の高層ビルの先端がチラッと頭を出し、右西側は青葉山と小さな谷をはさんで連なる蕃山の稜線が隣家との境の薄板まで続いて、それらの稜線の上方は広い空が広がっている。そして私の目の高さとほとんど変わらず大きく左右に水平に広がる青葉山の下、つまり私の方に向かってなだらかに広がる北側斜面の新緑が実に見事というしかないのだ。"心が洗われる"というしかいいようがない。
目障わりなものもある。視界のほとんど正面、北斜面の裾から斜面の3分の1を超え、幅もけっこうあるゴルフ練習場だ。下辺の打席の建物はともかく左右と奥の鉄柱やネットは斜面の森に埋もれてしかとは見えないが、そのスペースを占める人工芝のいかにも安っぽいグリーンが目障りなのだ。ただしここは町内会でも練習拠点にしている仲間が多いので、私も心中ひそかに毒づくだけだが……。
鮮やかな新緑は目の下にもある。住居の棟と管理センターの間を通る町内のメインストリートの街路樹3本のケヤキだ。ちなみにここ"杜の都"仙台の"市の木"はケヤキで、市内の街路樹のほとんどを占めているし、かつて"杜けあき"という当地出身の宝塚スターもいた。だがケヤキはソメイヨシノと並んでそれほど高価な木じゃない。以前町内の某氏が団地が竣工して入居したばかりの頃、ひやかしに来た植木屋の友人から「何だ、ここは安い木ばかりだな」といわれたとボヤいたこともあった。
とはいえ敷地内には花見時になると一献傾けたくなるような桜並木もあるし、藤棚やシャクナゲの植え込み、都会ではちょっと見られないヤマボウシの並木もある。さらに極め付けは敷地のすぐ北側に接する元里山だ。この林には毎年4月なかば過ぎからウグイスがやってきて、それぞれのテリトリーで鳴き交わすのだ。
こうした春先から木の芽どきにかけての爆発するような自然の営みに触れると、私が団地を評してよく口にする"ここは自然環境は最高だが生活環境は最低"の後半はカットしたくなる。生活環境なんて住む人の気持ち次第なのだ。
話を下のケヤキの新緑に戻す。ケヤキの成長は早い。葉もよく繁る。市内のケヤキ並木の傍の住人によると「見上げる空が日毎に狭くなっていくように感じる」というほどだが、こちらはそれを上から見下ろすからいいのだ。私の視力0.4の片目では実際に見える筈もないが、それこそ見ている間に枝先の新緑が大きくなっていく感じさえするのだ。
そして樹冠いっぱいに広がったこの新緑が陽光や風を受けて方向も様々に照り返すのを見ながら、私は新鮮な葉緑素を体いっぱい取り込むように深呼吸を繰り返すのだ。正面に広がる青葉山と上空の"気"も一緒であることはいうまでもない。
ホトトギスにも触れておこう。この鳥は初夏南から渡ってくる。このあたりであの独特の鳴き声が聞こえるのは来月初め頃からだ。青葉山から私に向かって鳴きながら一直線に飛んでくる。葉緑素を浴びながら待っていよう。 |
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2023年05月12日(金曜日)更新
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第751号 〜そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん〜
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わが家では"老化"をかなり以前から"経年劣化"といっている。平安時代後期奥州で起こった"前九年の役・衣川の合戦"で八幡太郎義家と安倍貞任がやり合った「年を経し糸の乱れの苦しさに/衣の館はほころびにけり」という故事をふまえた言葉だ。もっとも現代は車や電気製品などによく使われるようで、こんな10世紀も大昔の話など知らない人が普通だろう。
というわけで言葉については一般の人より少しは知識があるつもりの私など、こういう言葉は好んで使う。先日もかかりつけの医院で女性看護師に血圧測定か採血かをされながら「もうこの年になると体中経年劣化ばかりだから……」といったら「えっ?」と顔をあげ「あそうか老化のことですね、うまい言い方だな」といってくれた。
この医院では2ヵ月ほど前、同じようなシチュエーションで、私が「日帰りで行ってみたいな天国へ」といったら、傍にいた看護師さん全員からなじるような目を向けられたことがあった。このとき私は"こうした医院の中で死に関する話題は禁句であり、ここではそれがスタッフに徹底しているな"と思ったものだ。そしてここのセンセイにお任せすれば、いささか野放図過ぎた私の体調不良も間もなく快癒するだろうと信じている。
話を本題に戻して、私たちの経年劣化は年齢相応に可也りのものだ。二人ともそれこそ五感すべてといっていいのだが、特に悪いところをピックアップすれば私はあらためていうまでもなく眼、家内は耳だ。そしてこれらに関しては慣れたもので、たとえば何か手続き事で役所の窓口へ行った際など、まず私が「私は目がよく見えません、家内は耳がよく聞こえません。二人合わせて一人前ですのでよろしくお願いします」と相手に念押ししている。
私が利き目の左眼を失明した経緯はこれまで何度も書いているように何年何月何日からと日付も明確にわかるが、家内の耳が遠くなってきたのがいつ頃からかは、適当に見当をつけるしかない。
「歌を歌っても自分の声が全然聞こえないから歌おうって気にならない」と口癖のようにいい始めたのが5年前、実家(東京目黒)の義姉が亡くなった頃ではないか。その葬儀の後、義姉の遺品の補聴器を幾つか試して「どうも私には合わない」とがっかりしていた。
聞くところによると補聴器は本人が安心して使えるようになるまで微妙な調整が必要で費用も半端じゃないという。私のメガネが100円ショップで買ったのとは大違いなのである。
家内が近頃口癖にしている言葉がある。「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」だ。浄瑠璃『近頃河原達引』で冒頭お俊という女が口にする有名な言葉だ。この「聞こえませぬ」は「納得できません」という意味で、家内もそれは心得ており私がちょっと理不尽なことをいうとこれでやり返される。
とにかく60年以上も一緒に暮らしていれば、お互い見えない聞こえないでも意思疎通はちゃんとできるのだ。この先幾つまで生きられるかわからないが、お互いわがままを控え仲良く楽しくやっていきましょう。
よろしく! |
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