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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2021年09月03日(金曜日)更新

第665号 〜"下り"から始める新1万歩〜

 暗かった夏がやっと終わった。コロナの感染急拡大や停滞前線による相次ぐ豪雨災害でこの8月は暗鬱な毎日だった。私なんかニュースを見るのがイヤになり折角のオリンピックさえほとんどパスしたほどだ。
 おかげでかねてからの早寝早起きが徹底して身についてしまい、日課の1日1万歩も涼しい朝のうちにできるようになった。それもこれまでとは違う方法で……だったのだから私にとっては転機の8月だったともいえる。

 1万歩の手順はこうだ。私が起きるのは5時過ぎ、たいてい1番電車の音で目を覚ます。目覚めの体調は頭のてっぺんから足の爪先まで特に悪いところはない。今年初め頃のように寝てからあれこれ思い悩むこともなく熟睡できるようになったからだ。着替えて朝食の支度を始める。別の部屋で寝ている家内は日中の過ごし方が違うし夜も読書で遅くまで起きているので爆睡中、滅多なことでは起き出さない。その朝メシを食べ終え薬を服み口を洗いトイレに行き血圧を測り、帽子マスクケータイタオル等々用意万端整えて6時半〜7時に玄関をそっと滑り出るのだ。
 さきに書いた"これまでと違う方法"というのはこの後だ。以前は駅前の通りを120歩ほど進んでぶつかったT字路を右折して墓園方向へ坂道を上り始めていたのだが、これを逆に左折して坂道を下ることにしたのである。

 この坂道は下の作並街道つまり仙台市内などから墓園や火葬場へ行く主な通路になっており、そのため道は霊柩車やバスも難なく上っていけるように山の斜面を斜めに切り開いて造成されているが、それでもなかなかの傾斜がある。実際この坂道の100メートルほど横にある斜面途中の住宅地へ直登する道など上に立って見下ろすと、まるでスキーのジャンプ台の助走路のような急斜面で唖然とする。もちろん車なんか通行不可だ。
 とにかく墓園を筆頭に私たちのマンション団地も周辺の住宅も半世紀前はただの里山、作並街道沿いに農家がポツリポツリと点在するだけでJR仙山線も団地傍の無人駅などなく森の中を走っていたのだからしょうがない。墓地周辺に熊が出没するのもその名残りなのだ。
 そしていま気付いたのだが、私が1万歩を下りから始めたのも熊が一因なのだ。家内が「朝墓園を歩くときは熊に気をつけてね」とよく言っていたのを思い出し、「それじゃひとつ下回りで行ってみるか」となったのだ。

 ――というわけで新しい1万歩は坂道下りから始まる。動悸息切れもなく700メートルほどをトットと下って、次は作並街道を西へ約1キロ、広瀬川を越えたすぐ先の大きな交差点に出る。交差点を渡って左折、道路は"仙台北環状線"といい、市の北西部約4分の1をぐるりと回る往復4車線のいわゆる"地方主要道"だ。道は軽い上りになり、さっき渡ったばかりの広瀬川を渡り返してほぼ4キロ、スーパーや大型家電店がある交差点まで上り、墓園を抜ける近道を帰ってくる。
 歩数は1万歩強、実に歩きやすい私にぴったりのコースである。

 いずれにしろ今年は"行楽の秋"などなし、代わりは"自粛の秋"である。そして私には前々回書いた"気合いの秋"でもある。新しい1万歩は気合いの産物でもある。
 

2021年08月27日(金曜日)更新

第664号 〜たまにはいかが ごたくや蘊蓄〜

 先日テレビを見ていたらコロナ関連のニュースでどこかの病院の医師が「たにんごと」といったのが耳に入った。もちろん"とても人事とは思えない"なんていうときの「ひとごと」と同じことをいっているのだが間違いだ。

 この"たにんごと"と言うのは私の手持ちの辞典を見ると、30年ほど前から増えてきたような感じがする。60年前刊行の古いほうには「ひとごと=人事」とあるだけなのに30年前の新しいほうには「ひとごと=人事・他人事」とあるからだ。60年前なら私が社会人になって数年後、高度経済成長が始まった頃だ。人々は日々仕事に振り回されて古くからあった慣用語のことを考えるゆとりなど誰もなかっただろう。それが30年経って暮らしにゆとりが出来ただけでなく、単に"人事"と書いたのではサラリーマンにとってはより重大な"人事異動"と混同しかねないと"他人事"になったのだろう。そんな経緯を知らない人が"たにんごと"と読むのも"宜(むべ)なるかな"というしかない。
 余談だがさきの新しいほうの辞典に人事の使用例として「人事言わば筵(むしろ)敷け」という古諺が出てきた。意味は"噂をすれば影"と同じだが、これで人事が見知らぬ他人だけではなく知人も含んでいたのだとわかる。

 いろは48文字だけじゃなく沢山の漢字まで使う日本語の文章ではこうした読み間違いはよくある。しかも漢字には音訓とり混ぜていろんな読み方がある。一筋縄ではいかないのだ。
 たとえばつい2,3日前家内が私の聞き違いをとらえて「から耳だわ」といった。"そら耳"の間違いだ。両方とも漢字は"空"、そこでこんな考えが頭に浮かんだ。家内も"ソラ"といいかけた途端、日頃の私の"空威張り"や"空元気"が頭をよぎってそらに引きずられたのではないかというものだ。
 しかも漢字の音読みはいま日本の大部分で行なわれている"漢音"以外に"呉音"や"唐音"もあるし、日本独自にできた"百姓読み"や"重箱読み"その反対の"湯桶読み"そしてこれは冗談だが、"弁慶読み"なんてのもある。

 ここでちょっと触れておきたいことがある。漢音呉音に関することだ。
 仙台は藩祖政宗が臨済禅に学んだことで伊達家の菩提寺は臨済宗、中には松島の瑞巌寺のような観光名所もある。この臨済宗の日本の開祖、栄西を一般には"えいさい"と漢音でいい辞典にもそう載っている。だが臨済宗のお坊さん達は"ようさい"とわざわざ呉音を使っているのだ。
 そして臨済宗にはもうひとつ他宗と異なるところがある。葬儀の焼香をふつうは3度つまむが同宗で1度でいいとしているのだ。これは私もそうしている。仏教に関する本を担当したとき誰か有名なお坊さんが1度だけつまんでいたのを見て"簡単でいいや"とそうなっただけで他意はない。

 とにかく間違って脳にインプットされた言葉は年老いてくるにつれて次第に直らなくなる。私にもそんな失敗はいくつもある。"世迷い事=よまいごと"を"よまよいごと"と言っていたことなどその代表だ。「小人過ちを文(かざ)る」という言葉がある。小人はあやまちを改めず逆につくろって良く見せようとすることだ。だから私は辞典をよく引くのだ。
 これだけ書くにも何度引いたことか。
 

2021年08月20日(金曜日)更新

第663号 〜"気合いの秋"で復活スタートだ〜

 今年の夏は暑かった。日本中あちこちで40度近い"危険な暑さ"が続出した。そんなある日ニュースを見ていたらこんな突拍子もない言葉が飛び出した。「私は8月生まれだから暑さには強いはずなんだけどね」猛烈な暑さを記録したとある町で街頭インタビューに答えたお爺さんのセリフだ。思わず「そんなバナナ!」苔でも生えていそうな古いダジャレまで飛び出した。

 ついでに「こちらだって台湾生まれの台湾育ちだぞ」と言いたくなったがやめた。半世紀以上も昔の子どもの頃の記憶をいくらたどっても台湾の夏は決して暑くなかったのだ。午後になると必ずスコールがやってきて町全体に打ち水をしてくれ涼しい夕どきを迎えられた。暑さで寝苦しかった夜など全然なかった。
 要するに台湾の夏は5月から各学校のプールが開いたように季節的に内地よりかなり早かっただけで特別暑かったわけじゃない。私も暑さに強いことはない。

 ここ仙台も似たようなものだ。当地へ転居して間もない頃「暑さも七夕がピークお盆を過ぎたら風が涼しくなりますよ」とよくいわれたものだが、大震災以来年々暑くなってきたように感じる。それに今年はクーラーが新しくなったこともあってよく使っているのだ。
 このエアコンは去年の9月末、家内がイオンの"季節外れバーゲンセール"で見つけ、前のオンボロと格安で取り替えたものだ。その取り替え作業に来た業者がことのほか無愛想な感じの悪いヤツで、私たちが何かたずねても「とにかく使ってみて下さい」というだけ。帰った途端「あんなんでよく仕事やってられるな」と言い合ったぐらいだ。だがそれでも暖房では冬場しっかりはたらいていたしクーラーもよく効いている。

 さて8月も明日から下旬、残暑もそろそろ終盤である。夕食後例によって酒をついだワイングラス片手にベランダに出ると、かなかなの鳴き声がかまびすしい。夕日も盛夏の頃はもっと北寄りだったのでお隣りに遮られて見えなかったが、いまは釣瓶落としが見える。風にも秋の気配が感じられる。"芸術の秋""スポーツの秋""食欲の秋"はそこまで来ているのだ。
 そして私には"気合いの秋"である。

 昨年の9月はじめから私は左眼の視力を急速に失っていった。心臓内科で新しく処方された薬と、かねてから服んでいた眼科の薬がバッティングしたのだ。残った視力0.3の右側だけでは本も読めなくなり、テニスもできなくなった。さらにはこの1月なかばの"思いがけぬ病臥"以来、私らしくもなく多分に気弱になっていたのだ。
 だがあらためて考えてみると私には他人から羨まれるものがけっこうある。この年で1万歩スイスイ歩けること、本は読めなくても大きな虫眼鏡片手に辞典を調べて読むに耐える原稿を書けることなどだ。体力も脳力も同世代のあの人この人よりはるかに上だ。まだまだ落ち込むには早過ぎる。もったいないではないか……と気付いたのだ。
 「明けない夜はない」「止まない雨はない」が私のモットーだ。先日小雨の中を傘をさして歩きながら思ったら目の前が明るくなった。おかげで胃の調子もどんどんよくなっている。
 「病は気から」とは実に"言い得て妙"、名言だと思う。
 

2021年08月13日(金曜日)更新

第662号 〜夕涼みよくぞ男に生まれけり〜

 タイトルの句は蕉門十哲の筆頭といわれた宝井其角の作である。芭蕉の没後師風を離れ洒落風に傾いたといわれるが、句は内容から見てその頃のものだろう。夕涼みのとき男は両肌脱ぎ自慢の倶梨伽羅紋々を見せびらかすこともできるが、女にはそんなはしたない真似はできない。男に生まれてよかったなあ……というのである。

 夕涼みとは夏の夕暮れ外に出て涼むことだ。『枕草子』にも「いみじう暑きころ夕涼みといふ程のもののさまなど……」とあり日本では古くからあった風習だが、現代はテレビで気象キャスターが「……冷房を適切に使って熱中症に気をつけましょう」というようにエアコン生活が普通になり夕涼みなんて誰もしなくなった。
 おそらく"縁台"もいまの50代以下はほとんど知らないだろう。「細長い腰かけ用の台。庭や露地に置いて、夕涼みや月見などに使う。木製・竹製などがあり、上面はすのこに作られているものが多い」と手持ちの辞典にある。将棋ファンなら"縁台将棋"でわかるだろう。
 こんな話がある。かの坂田三吉がとある夏の夕どき大阪の裏町を散歩していると縁台将棋に出会う。立ち止まって盤面に見入るが対戦している二人は三吉に気付かない。手が進み片方がいい手を指す。三吉が思わず声をあげる。「なかなかの手や。初段は固いな」その声に顔をあげた二人、坂田三吉と気付いてあがってしまい続いて指す手がボロボロ。すると三吉「さっきの初段取消や」と言い捨てて行ってしまう……。

 坂田三吉はともかく、縁台を中心に隣り近所が何となく集(つど)うこんな夕涼みの光景は戦後10年、昭和30年代中頃までは大阪東京ばかりでなく日本中の"町"ならどこでも見られたものだ。だが私たちが結婚した昭和35年頃にはほとんど見なくなった。アパート暮らしのような仮住居、あるいはその頃から普及し始めた公団住宅――つまり鍵1本で外と遮断できるような生活には近所付き合いは必要なかったのだ。
 あれから60年余、個人主義に徹してきたわれわれは一応快適な老後を"寂しく"送っているのである。

 ――と、実は以上は前置きで本題はこれからなのである。
 近頃私は一人で夕涼みを楽しんでいる。夕食後小ぶりのワイングラスに好みの酒を6〜7分目ぐらい注いでベランダに持って出、日中よりいくらか涼しくなった風に吹かれながらチビリチビリ飲むのだ。私たちの夕食は5時頃からと早い。朝昼とも年とともに別に生き急いでいるわけじゃないがだんだん早くなっていったのだ。ゆっくりと食べ終わっても外はまだ明るい。2年ほど前から晩酌を食後にやるようになっていた私はそれで"夕涼みで一杯"を思い付いたのだ。
 酒は日本酒か赤ワイン、量もせいぜい1合ぐらいだ。それをすすりながら目の前にあるものを眺めて漫然と過ごすだけだ。"心にうつりゆくよしなしごと"などあるようでない。
 我ながらいいことを思い付いたなと思う。あとひと月は楽しめるだろう。
 

2021年08月06日(金曜日)更新

第661号 〜「毎日1万歩」を続けて心身回復〜

「毎日1万歩を目標に歩いています」と時々口にする。相手はたまたま行き会った団地の顔見知りや、毎月1度診察を受けている眼科と整形外科のセンセイなど。まあ他愛ない自慢話みたいなものだ。敬愛する山本夏彦さんの文中に「並みの年寄りは何も自慢するものがないので年を自慢する」という一節があるが、私の1万歩もその裏返しといえる。私自身歩きながら「これで数え90だからな」と内心つぶやいているのだから……。

 これまで何度か書いたように私はこの1月なかば思いがけなく体をこわし、2ヵ月ほど療養生活を送っている。まさに季節はずれの鬼の霍乱(カクラン・日射病のこと)でその間運動は休み、ウォーキングをぼちぼち再開したのは3月末からだった。そして6月なかば懸念していた胃がカメラの診察で何でもないとわかり意欲百倍、1万歩を目指すようになったのだ。
 1万歩はたいした運動量ではない。きちんと測ったことはないが私の足だと1時間40分、ちょうど100分だ。一見かなり早足だがこれは歩いているところが坂道が多く足の運びが小刻みになっているせいだろう。本格的なアスリート、たとえばアマチュアのマラソンランナーが目標にしている"サブスリー"達成者から見れば"子どもの遊び"みたいなものだろう。ちなみに"サブスリー"とはフルマラソンを3時間以内で走りきること、息子がかつて狙っていたらしい。この親にしてこの子ありというべきか。

 ケータイの歩数計の記録を見ると矢張り胃カメラ診断を機に1万歩越えが増え始めている。特に今年は梅雨明けが早かったこともあって7月に入ってからは2日に1度、さらに10日以降は今原稿を書いているこの時点まで20日連続である。それも単に1万歩以上というだけでなく午前午後と歩いて1万5千歩を越えたのも何度かあった。何しろあの鈍足台風8号が石巻に上陸した時でさえ前日当日と歩いているのだ。
 家内は「やり過ぎるのは体に良くないんじゃないの」と口うるさいが私はやり過ぎだとはけっして思わない。私自身のルーツ自体がド田舎、どこへ行くにも何をするのも歩くしか手段がなかったところなのだ。両親とも生まれ故郷へ行くには最寄りのJRか軽便鉄道の駅から1里(約4キロ)以上歩いて行かなければならなかった。台湾から引揚げてきて初めて訪ねたとき、私は「なんだ、戦争中疎開していた新店(台北市郊外の軽便の終点)より遠いじゃないか」と思ったものだ。
 つまり人一倍達者な私の足腰はザイゴ太郎(仙台弁で田舎者)の両親を通じて先
祖代々受け継いできた遺伝子のおかげなのである。大事にしなければ……と思っている。

 考えてみれば私のこれまでの生き方は"歩くこと"を中心に成り立ってきたといっていい。本稿の前に書いた「体力老人のすすめ」で私は「人の生活は歩くことが基本。よく歩いて足腰の大きな筋肉を使えば下半身に溜まり勝ちな血液が常に心臓に還流され、全身の血行がよくなり、脳をはじめ内臓のはたらきも活発になる」といっており、自分でも実践してきた。その実践がこの1月、ちょっと行き過ぎたのは皮肉であり、家内じゃないが「やり過ぎに注意」という神さまの警告だったのだろう。
 そうした反省を踏まえていまは一時の"落ち込み"からも回復し、新しい"歩き"へ踏み出したところだ。体のあちこちも変わっていくだろうと前向きに期待している。
 
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