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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2021年04月16日(金曜日)更新

第645号 〜歳月は人を老いさせ思い出を残す〜

 去年から酒量がだいぶ落ちた。日々の晩酌が1合前後になり、それが今年は半分に減ってしまった。
 いちばんの原因はもちろんコロナだ。感染防止のため3蜜を避け夜は早めに切り上げるなど、社会全体が"置酒款語"――酒を酌み交わしながら打ちとけて語り合うこと――を自粛するようになったのだから致し方ない。相手のいない酒は量も少なくなるのだ。
 それに私自身の体の不具合も重なった。秋口から左眼の視力が落ちて本が読めなくなり寝るのがだんだん早くなって、酒を切り上げるのも早くなった。
 さらには年齢相応に肝機能も衰えてアルコールの分解力も60〜70代とは格段に違う。要は酒にも弱くなっているのだ。

 おまけに年明け早々まさに青天の霹靂・不整脈の発症である。心臓の動悸が気になって1週間ほど眠れず食べられず、気力体力とも落ち込んでしまった。だが持ち前の楽天志向で気分転換、食欲も元に戻り酒も飲めるようになった。
 だがこの再開酒にワインを選んだのが大失敗だった。久しぶりだから弱いのがいいだろうとアルコール10度の赤にしたのだが、これが甘いのなんのまるで濃縮ブドウ液といった味でお酒らしさは微塵もない。10代の女の子でも飲めるんじゃないかと思ったほどだ。
 しかもこの甘ったるいワインを封を切ったからには……と、1晩半合ちょっとずつ、ほぼ10日で飲みきった私もこと酒には意地汚い。
 そしてこの晩酌半合が日本酒に変わってからも続いているのである。いやぁ弱くなったものだ。

 私は家飲み派である。元々酒は強いほうなので仲間と集まって飲むのも嫌いではないが、そんなこと毎晩できやしないし、馴染みの店に毎晩顔を出すのも平凡なサラリーマンには無理だろう。つまり真の飲ん兵衛は家飲み派なのだ。
 結婚した頃の家飲みはトリスだった。角もオールドも当時の給料では手が出せなかった。こんな思い出がある。
 ある日、帰宅すると家内は奥の部屋で赤ん坊の世話をしており、キッチンのテーブルの上に日記兼用の家計簿が広げたまま置いてある。何気なく読んでみると「今日は奮発して角ビンを買ってきた。よろこぶかな」と書いてあり、思わず頬がゆるんだのだった。私がその家計簿をすぐ閉じて知らん顔をしていたことはいうまでもない。

 あれからざっと60年、可愛いことをいっていた家内も私を時には言い負かすようになり、私は晩酌半合で足りるようになった。
 歳月はまさしく人を老いさせ思い出を残す……である。
 

2021年04月09日(金曜日)更新

第644号 〜老残の身など晒せるものか〜

 先月下旬から衰えきっていた体力の回復を目的にボチボチ歩き始めた。

 子どもの頃から「やせの大食い」といわれ、いくら食べても太らなかった。長じてからも体質は変わらず中年以降もメタボには無縁だった。だからウエスト76センチ体重60キロ前後が若い頃からほとんど変わらなかったのだが、それがこの1月なかばに発症した不整脈のため半月で53キロまで落ちてしまったのだ。まさに激ヤセである。
 いちばん目立ったのが太股だ。以前はピンと張りつめていた皮膚が細かなしわだらけになり内部の筋肉が痩せ細ったことがわかる。その下のふくらはぎは小じわこそなかったものの筋肉に張りがなく、また上部のお尻はわざわざ鏡に映して見るまではしなかったが似たようなものだったろう。

「男の背中には哀愁がある」なんて気障な文句が通用するのはTVドラマだけだ。男性の後ろ姿の魅力は腰から下だ。尻太股ふくらはぎの筋肉が充実しており、ジーパンや細身のズボンなら布地の上からでもわかるものがいいのだ。
 去年までの私がそうだったのだが、半月ほどで一気に老いさらばえてしまった。だから町内会ゴルフ部の四月末のコンペがコロナ感染の急拡大で中止になったのは正直ホッとした。コースの風呂場で老残の身など仲間達にさらせるものか。7月の第2回までには何とか回復してやろう。

 歩きの再スタートは3週前書いたとおり、春分の日に団地内を回遊した。団地は住居棟と管理センターの計10棟が東西に長く3列に並んでいる。それら建物間の道路に隣接する公園や駐車場と周辺の一般道を加えれば東西約900歩のコースが4本とれる。途中にはけっこうな上り坂もありトレーニング再開には手頃だ。
 ここを日差しのある昼下がり、風よけのトレーナーを着て帽子をかぶりマスクをつけて老人の散歩よりはちょっと早足、息が上がらないように気をつけて歩いてみたのである。
 結果は上々、ラストの住居まで4階の階段を休まず上がってもちょっと息が上がったぐらいで動悸が激しくなることもなかった。そしてその後は団地内を何度か歩き、月が変わってからは墓園歩きもやりはじめている。これも当初は家内に車で坂の上まで送ってもらい、私は下り中心のジグザグコースだけだったが、近頃は自分の足だけでやるようになった。
 復活は間もなくだろう。

 ところでいま団地内を歩き回っていても年寄りの姿をまったく見かけない。日差しが暖かい絶好の散歩日和でさえそうだ。この1〜2月は例年になく寒かったし、暖かくなりかけた途端コロナ感染者が急増している。"ひきこもり"になるのも当り前だ。とはいえ年寄りは一度習慣づくとなかなか変えないので先が思いやられる。
 私が心配してもどうにもならないが……。
 

2021年04月02日(金曜日)更新

第643号 〜楽しめる嘘とエープリルフール〜

 昨日4月1日はエープリルフール四月馬鹿の日だった。辞書を引くと「四月馬鹿」の前に「万愚節」とあるから大正時代か、あるいはもっと早くから日本人にも知られていたのだろう。知ってのとおりこの日は他愛ない嘘をついて他人をかついでもよいという西欧の風習である。

 学生時代のこんな記憶がある。
 アメリカでラジオドラマを放送中、番組が突然中断し臨時ニュースが入ってきた。アナウンサーが切羽つまった口調で「いま中南米のどこかの都市が宇宙人の襲撃を受け壊滅状態になっている……」という。これを真に受けた一般市民の多くがたちまちパニックに陥ったというものだ。
 この話を聞いて私が咄嗟に感じたのは「うひゃぁ!アメリカじゃこんなのもありかよ」という驚きだった。幼い頃から「嘘つきは泥棒のはじまり」と叩き込まれる日本人の国民性は、こういうドラマを悪ふざけとしか受け取れないのだ。
 そしてこのニュース・アナを演じたのがオーソン・ウェルズと知って"さもありなん"と思ったのだった。あの『第三の男』で主役を演じた名優である。大勢の人がパニくったのも納得できる。
 昨日は誰かコロナに関する楽しい嘘でもついてくれただろうか?
 
 ところで「嘘つきは泥棒のはじまり」という諺は日本だけのものではない。「嘘つきは泥棒より悪い」(イギリス)「嘘をつくことが好きな者は盗むことも好き」(ブルガリア)「嘘をつく者は盗みもする」(シベリア)など世界中にあり、どれも子どもに対する親の訓戒=しつけだ。小さな悪事が大きな犯罪につながるぞといういましめである。「嘘ついてばかりいると閻魔さまに舌を抜かれるぞ」なんて脅かすのもあった。ところがこれが大人になると「嘘も方便」と真逆の考え方になるのだから世話はない。
 方便とは仏教用語で「お坊さんが凡俗の人々を幸せに導くためのテクニックのようなもの」だという。だが世の中は坊さんだけじゃない。方便は"大人の知恵"であり、子どもにもそれはわかっている。「嘘ついたら針千本飲ます」と指切りげんまんしながら1本も飲んだ子はいないのだ。

 もっとも人は年老いてくれば誰でも多少の嘘はつくようになる。見栄や誇張から自分を飾る嘘もあるし、人間関係をスムーズに保つための気遣いやお世辞もある。
 私などいつも上手な嘘をつきたいものだと思っている。
 

2021年03月26日(金曜日)更新

第642号 〜「神々しい」ほど白い春の空〜

 春分過ぎのいま頃はベランダから空を眺めるのが楽しくなる。
 私たちのマンション団地は広瀬川北側斜面の中腹にある。4階建ての低層集合住宅9棟と体育館や会議室を併設した管理棟がざっと3列に南面しており、背後はJR仙山線、その上はゴルフ場がひとつ悠々と入る広大な市営墓園だ。しかも私たちの1番館は9棟中いちばん高いところに建っており住居も最上階だ。つまり私たちの住居はこの界隈で最も眺望がよいのである。エレベーターがない棟なので4階までの上り下りはたいへんだが、この眺望にはそれを補ってお釣りがくるほどだ。

 20数年前仙台へ転居しようと下見に来たとき、リハウス業者にあちこち案内されていちばん気に入ったのもこの眺望だった。当時市街地で暮らしていた弟二人が「そんな寒いところへ行かなくたっていいじゃないか。海に近い暖かいところがいくらもあるのに……」と口を揃えていっていた。もしもその言葉どおりにしていたら10年前の地震と津波でどうなっていたか? 人の運なんてわからないものだと思う。
 二人とも私たちの住居へ来たことは一度もない。共に永年厄介な持病を抱えて体力もなく、4階まで上がって来られなかったからだ。そして二人ともあの大震災以前に亡くなった。あの世からコロナに戦々恐々している兄貴をどうみているだろうか?
 だんだんグチっぽくなってきた。本題に戻る。

 ベランダからの眺望が一年中でいちばんいいのが春分を過ぎたいま頃なのである。太陽の軌道が冬場より北寄りに高くなり、それまで陽が当たらなかった山の北側斜面が明るさと輝きを増してくる。だが大気中の春霞のせいで陽光には夏場のようなギラギラ感はない。
 ベランダから正面・真南を見ると約1.5キロ先、私の目線よりほんのちょっと高い位置に青葉山の稜線がある。稜線は高さはそのまま左(東)方向50度あたりまで伸び、そこからだんだん低くなって80度あたりでその向こうに市街地にある東北一高いビルの上半分が見えてくる。一方右(西)方向は30度あたりで東北自動車道などが通る小さな谷間に落ち込んでおり青葉山はここまでだ。だがこの谷間には西から青葉山より200メートルほど高い蕃山の山裾が迫っており、谷間の奥は同じく蕃山の尾根が張り出して屏風のようにふさいでいるので、私のベランダからは青葉山の尾根がそのままずっと西の蕃山へつながり、さらに西へ西へと続いているように見えるのだ。

 すなわち私の眺望は左(東)から右(西)までほぼ180度、青葉山などの尾根とその上にひろがる空になるわけだがこの空がいま頃は冬場よりはるかに白いのである。これは青空の彩度(色の鮮やかさ)を測定した数値でもわかる。冬空の青さが65%だったのに対して春は47%なのだ。
 そしてこうした現象が起きるのは春になると高気圧が多く大気中の微細な水分が増加するためだという。その水分もまだまだ人家の少ないこのあたりは草木の新しい芽吹きから発生するので、市街地のように汚れていないのだ。

 この空の白さをどう表現したものか、私がやっと思い付いたのは「神々しい」だ。そんな白い空を飽きずに眺めながら、私はうららかな春を満喫しているのである。
 

2021年03月19日(金曜日)更新

第641号 〜わが人生二度目の"再スタート"だ〜

 明日20日は春分の日だ。昼と夜の長さが同じになり「暑さ寒さも彼岸まで」である。仙台の気候はまさにそのとおりといってよく、寒さもやわらいでくるので私も歩いたり軽い運動をしたり体調回復にいい季節になってくるはずだ。
  
 私は75年前(終戦翌年)、3月は春分の頃台湾から仙台に引揚げてきた。基隆港を夕方出発して約1週間、東シナ海の荒波にもまれ、紀州田辺に上陸して汽車を乗り継ぎ、3日目の夜更けに仙台駅にたどり着いた。そして母が鉄道電話で隣の長町駅官舎に住む叔母(父の姉)に電話して迎えに来てもらい、その案内で駅から10分ほどの家へようやく着いたのだった。

 その家は夜目にもわかるけっこうな門構えと塀が通りに面した家だった。門を入ると広い庭の奥に2階家が建っていた。その家屋敷は戦時中海軍に従ってジャワに行った父が、どんな仕事でか知らないが、しこたま金を儲けた上に敗戦を見越して軍用機で内地へ飛び帰り、私たちのために買っておいたものだという、当時の金で2千円だったらしい。後に亘理の従兄から聞いたところによると、榴ヶ岡にあった元第四聯隊・留守部隊の偉いさんが妾をおいていた家だったそうだ。ただこのとき父は九州で何か新しい仕事を手掛けていたそうで不在、家には留守居役の叔父夫婦がいた。
 その叔父夫婦に挨拶し、母が後生大事に台湾から持ってきた祖父の位牌と遺骨を渡した。叔父はそれを背後の仏壇に納めみんなで拝んだ。それから私と弟二人はすぐ奥の部屋で寝かせてもらった。久しぶりに揺れないところで体を伸ばし、私はたちまち眠り込んだ。

 翌朝目をさますと、枕元の障子の下の3分の1ほどが明るくなっており、それまでの疲れが半分ほどになったような気がした。起き出して障子を開けると縁側があり、雨戸がすっかり開け放たれてその向こうに庭が見えた。かなり広い庭でいろんな木が植えてありその向こうの塀の下には消え残った雪が灰色に積もり、縁側のすぐ先には枝に点々と白い花をつけた老木があった。初めて見た花だった。
 縁側を回ってきた叔父が「あれが梅だ」と教えてくれた。地球温暖化以前の当時は梅などの開花も現代より一旬から半月ほど遅かったようだ。近くの榴ヶ岡天満宮が梅の名所だということは後日知った。
 いまにして思うと、これが私の人生再スタートの日だった。

 あれから75年、春分の日を前にして私は「これはわが人生にとって2度目の"再スタート"だな」と思っている。すなわちこれからの私は、これまでとはまったく違う体への対処法をとっていかなければならないのだ。心臓にわずかでも不安を感じるような行動は絶対にいけない。すべてその反応を確かめながらの行動である。無理をしないことだ。
 そう考えたら気持ちが楽になったのか、昨夜は久し振りによく眠った。夜7時のニュースが始まる前にベッドに入り夜中小用に1度起きただけ、7時前にようやく目を覚ましたのだった。まるで75年前の夜と同じような眠りだった。
 
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