2024年04月
01 02 03 04 05 06
07 08 09 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
 
 
仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

ご意見・ご要望をお寄せください

 
ユーモアクラブトップに戻る
<<前へ 123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142434445464748495051525354555657585960616263646566676869707172737475767778798081828384858687888990919293949596979899100101102103104105106107108109110111112113114115116117118119120121122123124125126127128129130131132133134135136137138139140141142143144145146147148149150151152153 次へ>>

2021年01月29日(金曜日)更新

第635号 〜視力低下して一番残念なこと〜

 昨年夏、突然左眼の視力が落ちて以来、ボーッと外を見ている時間が多くなった。ボーッといっても頭の中は空っぽというわけじゃない。新しい原稿のことを考えたり、明日病院へ着ていくものをコーディネートしたり……けっこう忙しい。

 では目が不調になる以前、このボーッとしている時間には何をしていたかというと、約3分の1は読書、約3分の1は考えごと、そして残り3分の1は趣味というか得意の手作業である。
 読むのは本邦もの翻訳ものに限らず面白いもの、エンターティンメントが主だ。世間ではいかに著名な人気作家でも、一度面白くないと決めつけたらけっして手を出さない。「龍は読むが春樹は読まない」のだ。そして合い間に"言葉"や"歴史"に関するザックバランな専門書、敬愛する人生の達人のエッセイ集などを読む。つまりは只の乱読である。
 ただしこの乱読が職業柄若い頃から身についてしまった、一言一句おろそかにしない読み方なのでけっこう時間がかかる。つまらない作品を初稿再稿と読まされたせいだが、おかげで自分の興味がある事柄についての知見は人一倍豊かになったと思う。

 だから家内をはじめ私の日常をよく知っている人たちは「見えなくなっていちばんつらいのは本が読めなくなったことだろう」と思っているようだが、それは当たらない。読書は私にとって"楽しめる時間つぶし"なのだ。
 本を読んでいて何か調べたい項目に出会うと、私はたちまち本文そっちのけで漢和辞典を引いたりパソコン検索を始めたりした。この癖はいまも続いており、先頃はボンヤリ考え事をしているとき、"斎藤別当実盛"の最後が知りたくなって家内にパソコン検索をしてもらった。この先いつか原稿に書くはずだ。

 次にあげた"考えごと"の内容は種々雑多、書くほどのものはない。というわけで見えなくなっていちばん残念なことは、細かい手作業ができなくなったことなのだ。
 私は裁縫の特技がある。半袖シャツやズボンなど簡単なものはもちろん、ラグラン袖のコートから真夏用の一枚布地ジャケットまでたいていのものは仕立てられる。これは私の体型が少年の頃からヨーロピアンタイプで、体に比して手足が長く、当時の既製服が体に合わず、それなら自分で作ってしまえ!となったのがきっかけだ。以来天性の器用さがプラスしてどんどん上達したわけだ。

 私の得意技はズボンの仕立て直しだ。
 裏の墓園に隣接して市営のゴミ処理施設がある。付属の温水プールまである大きなもので、その一角にリサイクル品展示コーナーがある。市民がゴミとして持ち込んだ品々の中からまだ十分使えるものを分別し、展示して希望者に提供するのだ。品目は和箪笥などの家具から子供服まで多彩、家具などは月毎の抽選で、服などはその場で頂戴できる。原則タダだが寸志を寄付するのが暗黙のルールだ。

 そこで気に入って寸志100円で手に入れ、仕立て直したズボンが1着ある。生地はフラノ、ちょっと濃い目のベージュ地に黒、グリーン、橙の3色で、1模様7センチ角ぐらいの格子柄を織り込んだいわゆるタータンチェックだ。こうした文字だけ見るとえらく派手な印象だし、また元のスタイルがサスペンダーで吊ってはく乗馬ズボンだったので、私が見つけるまで誰も持って行かなかった。
 これを私は今風の細身のスポーティなパンツに仕立て直し、ちょいちょい着として愛用しているが評判はなかなかいい。視力が落ちていちばん残念なのはそれができなくなったことである。
 毎月の診察では特に悪い指摘もないのであせらずに回復を待とう。
 

2021年01月22日(金曜日)更新

第634号 〜油断!車の雪下ろしで腰を痛める〜

 先週「90歳になったがまだまだやれるぞ!」と胸を張ったが、その後すぐ冷水を浴びせられた。前日から降り続いた雪が20センチほど積もり、家内が「買物に行かなければ」というので車の雪下ろしをしたところ、肩痛と腰痛で数日閉口する羽目になったのだ。

 昨年は暖冬だったが今冬は例年以上に寒い。当地の初雪も12月13日と早かったし、年末には豪雪で関越自動車道に何百台もの車が立ち往生した。このあたりも暮から年明け1週間以上戸外はまっ白だったほどだ。
 だから車の雪下ろしにも体は慣れている積りだったが、このときは雪そのものがベタッと重かったとか体がちょっと疲れ気味だったとか、さらに何かあったのかもしれない。

 翌朝起きていつもどおり朝食と体操を済ませたところで、突然左肩に違和感めいた痛みを感じたのだ。けっして強い痛みじゃないが筋肉がズレたような妙な感じがある。早速手持ちのロキソニンテープを貼ったが、違和感はちっとも消えないし痛みも治まらない。
 こういうときは医者に診てもらうのがいちばんだと、行きつけの整形外科に行った。ひじを掴まれてあちこち動かされ、レントゲン撮影をされたが、結果は骨にも筋肉にも異常なし。考えられるのは腱の炎症だから、2〜3日ロキソニンテープを貼っていれば痛みも治まるでしょうということだった。

 ひとまず安心して帰宅し、すぐ患部に新しいテープを貼り、いつもどおり夕食後に酒1合をゆっくり味わって7時半にベッドに入った。
 そして翌朝、肩の痛みはケロリと消えていたが、入れ替わりにやってきたのが腰痛で、それも痛みの中心が腰の左側にある。ハハーン、これも車の屋根の雪下ろしが原因だな、しかしいくら高いところの作業をしたからって痛みまで律儀に上から順に来ることないじゃないか、と我ながらボケた反応だった。

 だが痛みは相当なものだった。両腕両手を使ってやっと体を起こしてベッドに腰かけ、ひと息ついてからやっと立ち上がり、スリ足で居間に行ったものの、そこでまた着替えがたいへんだった。とにかく痛みで腰が曲げられないので手が足へ届かないのだ。太腿やすねを持ち上げるのもうまくいかないとあって、パジャマの下は何とか脱げても代わりのズボン下やトレーナー、靴下を身につけるのに、いつもの倍から3倍もの時間がかかった。

 顔を洗うのもたいへんだった。腰を曲げられないので洗面台の上まで顔を持っていくことができない。そこでひざを深く曲げて両ひじを洗面台の手前の縁に乗せ、顔を蛇口の傍まで突き出して洗った。家内には見せられない図だが"窮すれば通ず"である。

 それでも病院へは行かなかった。はじめ肩を診断されたことで症状が見当づけられたからだ。あのとき同様骨にも筋肉にも問題はなく、痛みは腱の炎症なのだ。つまり痛みを貼り薬などでやわらげながら無理せず回復を待てばいいのだ。よってロキソニンテープをベタベタ貼っただけでなく、今回は錠剤も毎日1錠ずつ服んで、2日目には家内の誕生日祝いの食事に出掛け、3日目の朝には軽く体操ができるようになった。

 年老いてくると疲労や故障に対する体の反応も鈍くなる。ゴルフの疲れが2〜3日経ってから出てくるのはよくあることだ。その原因は新陳代謝の衰えによる回復力の低下だろう。
 白くなった髪や手の甲のシミや小じわはけっして元へは戻らないのである。いくら私が中年太りや足元の覚束ない老人には程遠い体形や筋肉を維持しているとはいえ、体の新陳代謝能力は現役晩年の60代にさえ及ばなくなっているのだ。
 近頃の私は日常の行動がかなり用心深くなってきている。墓園をウォーキングしていて車道を渡るときは必ずやってきた車が通り過ぎてからにしている。ちょっと早足になれば十分渡れる余裕があってもだ。
 
 しかしどれほど用心に用心を重ねても、かねてより勝手知ったる場面にたまに出会うと、つい油断をするのが人間なのである。オモシロイものだと思った。
 

2021年01月15日(金曜日)更新

第633号 〜「俺は90歳だぞ!」と胸を張る……〜

 数え年90歳になって半月過ぎた。"米寿"(これは満で勘定した)がつい3ヵ月前だったのでちょっと早い気もするが、90なんて大台に乗っても心身達者、気力脳力充実、好奇心旺盛なことは往年と変わらないので、これからは遠慮なく90歳と言うことにする。

 お祝いは元旦の朝二人だけで「新年お目出度う」と言った。前々からの予定では大晦日から二日まで、東京の義兄や姪夫婦と一緒に、松島のホテルに2泊することになっていたのだが、コロナの影響で流れたのだ。姪が去年の正月からホテルを予約し、私と同年の義兄も90歳になるはずだっただけに残念、まったく迷惑千万なヤツである。

 しかし90歳ともなれば、体中どこもかしこも万全じゃないことはいうまでもない。老化や故障はいくつもある。
 筆頭は眼だ。昨年夏、同じ日赤の循環器内科で処方された薬が眼科の治療薬に干渉し、高価な眼球注射などによってせっかく治りかけていた眼底静脈から"ドバッ"(主治医の女医センセイの言葉)と出血して一時はかなり視力が落ちていたのだ。
 だがすぐに内科の薬を服用停止して視力は徐々に回復しつつある。毎月の診察で眼底を撮影した写真を示しながら女医センセイが「素晴らしい回復力ですね」といってくれるのがうれしい。

 もうひとつ、私は昨年12月から新しく泌尿器科を受診している。秋口頃から足元がちょっと冷えてもすぐ尿意を催すようになり、就寝中に起きる回数も増えてきたのだ。義兄をはじめ同級生、後輩に前立腺を手術した者も多く、自分もそろそろかなと思っていたところ、歩いて40分ほどのスーパーの隣りにけっこう大きな泌尿器科医院があるのを知ってすぐ飛び込んだのだ。
 そして初日は尿検査と下腹部のエコー検査と問診を受けたが、特に問題点はなく7日分服み薬を処方されて帰宅。7日後の2回目は前回の検査にプラス、肛門からセンセイに指を突っ込まれる触診が加わったが、これも問題点は見当たらず14日分の薬をもらって帰宅。その14日後、年末間近の3回目は尿検査だけされて「膀胱にも前立腺にも特に問題ないですね。次は血液の精密検査をしましょう」といわれ、朝晩1回ずつ30日分の薬をもらって帰宅したのだった。
 つまり自分で気になるほどにはどこも悪くないのである。

 こうした私のしっかりした基礎体力は、よく歩くことからつくられると私は信じている。下半身には体の中でも大きな筋肉が集まっている。それをフル稼働させることで、下半身に溜まり勝ちな血液を積極的に心臓に押し上げ、脳をはじめ五臓六腑や体の末端の血流血行をよくするのだ。
 そんな理屈を知ったのは中年以降だが、とにかく私は子どもの頃からよく歩いてきた。おかげで30代で腹が出ることもなかったし、いまは同世代の冷ややかな視線を浴びながらゴルフやテニスができるのである。
「俺は90歳だぞ!」と胸を張りながら……である。
 

2021年01月08日(金曜日)更新

第632号 〜祝!去年今年貫く棒に淀みなし〜

「去年今年貫く棒の如きもの」
 高浜虚子の名句である。年の変わり目を詠んだもので除夜の鐘の音でも聞こえてきそうだ。賀状に使う人も多く、俳句に無縁な人にもよく知られている。この句を私はいままで"去年今年=こぞことし"という言葉遣いなどから、戦前詠まれたもの、中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(昭和6年)と同じ頃ではないかと思い込んでいた。
 ところが今回、本年最初の原稿に書こうと調べてまずちょっとびっくり、次いで思いもよらぬ一致に呆気にとられたのだった。

 虚子はこの句を昭和25年の暮近くに詠んでいる。翌26年新春のラジオ放送用にだったという。びっくりしたのはそこだ。昭和25年はポツダム宣言受諾から5年しか経っていない。しかも6月なかばには朝鮮戦争が勃発している。明治7年生まれの虚子は70代なかば、若い頃の日清日露戦争をはじめ、この国の浮き沈みをすべて見ているのである。
 こうした詩人の感受性がとらえた昨日から今日へいささかも変わらずに存在する
"棒"って、いったい何だろうと思うのだ。

 もうひとつの呆気にとられたことは、虚子が句を創り発表したのと私の少年時代の転機がピッタリ同じだったことだ。私の貫く棒はひん曲がったのだったが……。
 私は昭和21年3月なかば台湾から仙台に引揚げてきて、4月から始まる仙台一中の1年生に転校入学した。
 私は終戦間近の前年4月に台北一中に入学し、1学期は疎開して登校しない日もあったが、9月からはしっかり授業を受けていたのだ。内容には微分積分三角函数だのまったくわからないものもあったが、教える先生のほうもおかまいなしだった。それが「留年するなら入れてやる」である。おそらく県か市の指示だったのだろう。後年他の地域に引揚げた同級生に聞くと、そういうところは少なかった。市内に旧帝国大学(現在の東北大学)や旧制第二高等学校を擁する東北地方第一の学園都市という意識が、土地にも住民にも根強くあるのだろう。

 昭和25年、私が1年足踏みして入った仙台一中は新制の一高に変わり、私は進級して2年生になっていた。年齢は満17歳、体は細かったが悪いところは特にないし運動能力もそこそこあったが、同い年に上級生面されるのも業腹だし、運動部や文化部のどこへも入らず好きなことをしていた。
 特に熱中していたのが映画のポスター集めだった。映画館の廊下、駅や繁華街の掲示板などに張り出してあるのを、人目のない時に引っぺがしてくるのである。そういう収集癖のある4人が組んでどんどん集め回った。悪事を働いているという意識は誰にもなく、いたずらの延長のような気分だった。
 
 ところがこれが警察沙汰になり学校に知られて、昭和25年の暮から26新年の冬休み中に4人とも退学処分になったのだ。
 そして他の3人は県下の別々の高校に転校したが、私はさっさと仙台から離れ、当時川崎の武蔵小杉に住んでいた母方の叔父の元へ身を寄せ、土地の二流高校へ転入させてもらった。しかもその二流校で生涯親友付き合いをする4人に出会うのである。その4人中3人が1人は大連、2人は満州と場所は違うが同じ引揚者だったのも奇妙な縁だった。

 その後私の"棒の如きもの"は去年今年を71回貫き、棒には昔ひん曲がった痕跡などどこにもなく、私は今年数え90歳になった。
 だが私には自分の手で片付けておかなければならない仕事がまだいくつか残っている。棒にもあと2〜3回は年を越してもらわなければならない。まあいまの心身達者なら安心していいだろう。
 そんなことを話しながら新年の盃を家内と傾けたのだった。
 

2020年12月25日(金曜日)更新

第631号 〜欲張りこそ達者で長生きの元〜

 今年最後の原稿である。
 こうした原稿は普通、その年に身近で起こった出来事の始末や反省を書いておくものだが、今年はダメだ。コロナのためたいていのことがスッ飛んでしまったからだ。たとえば高校時代からの親友の一人が亡くなったが、神奈川までお別れには行けなかったし、町内のイベントもすべて中止になった。
 よって変則だが、今年の〆くくりは"来年も続けたいこと"を書く。

 まず、毎朝の自己流体操だ。私は朝は5時に起き出す。冬場は外はまだ真っ暗なので遮光カーテンを開けて外を見る。20メートルほど離れた駅のホームが点灯していれば5時だ。起きて朝食の支度をして食べ終わるのが5時40分頃、義歯や口を洗いトイレを済ませ、血圧を測る。血圧の数値なんか日々達者なこととあまり関係ないと私は思うのだが、加齢黄斑変性と診断されたのを機に降圧剤を処方され、「血圧管理手帳」を持たされて習慣になってしまった。
 体操はその後始める。相撲の股割り姿勢でひざを大きくひろげて腰を落とし、両ひじをひざの手前あたりに置いて、体重を左右交互に移す運動を60回。次に両足を肩巾より広めに開き両手を腰のうしろで組んでスクワットを110回プラスα、3番目は両足両手を同じ姿勢で上半身の前屈後屈を同じく110回プラスα。この110回は11、22、33……など途中で休みを入れる区切りが勘定しやすいからだ。そして仕上げは上体の横曲げとひねり、首の横曲げ、左右ひねり、回転である。
 時間は小1時間、前屈後屈が終わる頃、前夜10時頃寝た家内が起きる。またいまは寒いので屋内でやっているが、春から秋は余程悪天候じゃない限りベランダが舞台だ。季節の変化を肌で感じながらやっている。

 歩くことも続けたい。これは今年夏の猛暑を機に、目標を1日1万歩から週5万歩に下げて気持ち的に楽になり、前にも増して楽しんで歩けるようになった。
 しかも住居の周辺に平らな道はほとんどない。ゆるいのから急なのまで坂道ばかり、130段近い大階段まであり、その時々の気分や体調に合わせた歩き方ができる。そして仕上げは4階の玄関まで階段上りだ。きついが素晴らしい歩き方ができると思っている。

 もうひとつ是非続けたいのがこうして書くことだ。といっても清水寺のお坊さんが年の暮にやっているパフォーマンスのようなものではない。タカがこの程度とはいえ自分なりの意見を盛り込んだ文章をつくり、1人でもいい誰かに読んでもらうことだ。そしてこの作業は脳をフル回転させなければならないから、年老いても好奇心満々、いつも前向きの気持ちでいるためには、うってつけの楽しい仕事(ゲーム?)なのである。
 当クラブの支配人氏はじめスタッフの方、読者の皆さん、そして家内(原稿打ち)に感謝します。来年も精一杯楽しくやる積りですので、どうぞよろしく……。

 ところで私には続けたいこともまだいくつもある。
 ゴルフとテニスはプレーだが、それ以上に気のおけない仲間と時々置酒款語できるし、同じ理由で管理組合の役員や老人会の代表もだ。こうしてみると私は相当な欲張りだ。
 そしてこの欲張りこそが私を”達者で長生き”させてくれるのだと思っている。
 
ユーモアクラブトップに戻る
 


ページTOPへ