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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2020年11月13日(金曜日)更新

第625号 〜少年の頃観た戦争映画あれこれ〜

 いま季節は晩秋、あと半月もすれば師走だ。昼間はどんどん短くなり、この頃は4時を過ぎるとベランダのガラス越しに見て右側、西側の空が夕焼けに染まって、私の頭にはいつも同じ情景、同じメロディが浮かんでくる。
 メロディは明治末期から親しまれてきた歌曲『故郷の空』の冒頭「夕空晴れて秋風吹き……」の部分、情景は戦争映画のワンカットである。

 映画はさきの大戦中に台北市内の映画館で観た。アメリカは台湾を無傷で蒋介石に返すため攻撃を手控えたので、私たちは終戦まで焼夷弾に見舞われず、映画も専門館で上映していた。
 作品の舞台は中国戦線で、私が覚えている場面は中支かどこか日本軍の飛行場だ。飛行服姿の二人が西の空を遠く望んでいる。敵の高射砲を被弾してまだ帰還しない友軍機を待っている……といった思い入れである。そのバックに流れていたのがこの曲だった。なかなか哀愁あふれるシーンで、子ども心にもじんときたものだ。
 ところが後年気付いたのだが、この『故郷の空』の原曲はスコットランド民謡、まさに時の対戦国"鬼畜米英"の片割れである。そんな曲を使ってよく平気だったなと思うが、おそらくそんなこと誰も知らなかったか、気にもしなかったのだろう。
 戦争中とはいえ大雑把な時代だったのだ。

 その頃観た戦争映画ではもうひとつ強く印象に残っているシーンがある。題名は
『加藤隼戦闘隊』、はっきり覚えているが、内容はまるっきり忘れた。ただ"隼"が当時陸軍の最新鋭戦闘機であることは軍国少年の例に洩れず知っていたし、思い出のシーンも隼に関することだ。
 滑走路から離陸した隼が左右の脚を翼の下に収納するシーンである。先後がどちらだったかは忘れたが、この両脚を折り畳むタイミングが微妙にズレていたのだ。それはたとえば踊りの名人が決まりきった所作をちょっとはずして見せて、息を詰めて観ている人の緊張感をふっとゆるめてやる……そんな感じだった。"機械のように正確"というが、精密機械の固まりのような戦闘機にはできない芸当だろう。
 私はその"隼"に人間らしさを感じ「格好いいなあ」と思ったのだった。そして後年この映画の特撮を担当したのがかの円谷英二と知って、さもありなんと思ったものだ。

 ところで近年私は映画をまったく観なくなった。最後に観た作品は『アバター』だったか、もう10年以上前になるだろう。原因はひとえに眼だ。老眼、白内障、加齢黄斑変性とくれば長時間の動画凝視はこたえる。
 現役の頃、編集仲間の某がこんなことをいっていた。「映画は世相を写す鏡だ。チャンバラだろうがドタバタだろうが、映画を観ると世の中の動きがよくわかる」この某の言い方からすれば私は物書き失格である。だが私にはそれを十分カバーできる人一倍の好奇心と、それを支える気力体力がある。今回はたまたま話題が古かったが、新しい話題もどんどん書くつもりだ。
 

2020年11月06日(金曜日)更新

第624号 〜二人合算して"エージシュート"だ!〜

 かねて敬愛している故・山本夏彦さんの文章に「並の年寄りは何も自慢するものがないので年を自慢する」という一節がある。

 まったくおっしゃるとおりで間然するところがない。ただし山本さんの言い方は
"これはみっともない"という論調だったが、私は逆だ。"それが相手に好感で迎えられるならOK!"だと思うのだ。
 先日、家内と二人で行ったゴルフでこんなことがあった。コースはかねて行きつけのOに近いセミパブリック、Oより距離もずっと短くOBも少なく、年寄りや女性向きだ。プレーは午前と午後の二部制でいずれもハーフ後休憩なしのスループレー。気楽に回れる。私たちは11時半頃のスタートで前の3人組に続き、いつものように私はレギュラーティから家内はレディスティからスタートした。

 ところがこの前の3人中の1人が初心者でプレーに無駄な時間がかかる。コースの右側からボールを打って左側のカートに戻り、クラブをバッグに入れてからカートに乗り込み、右側のグリーンに向かう……といった具合だ。他の二人もそれを注意するでもないばかりか、グリーンでしゃがんでラインを読んだりしている。毎ホール待たされて私などだんだんうんざりしてきた。

 私たちの後ろは男性2人組、2人とも40代〜50代で私よりひと回り大きく、しっかりしたスイングをしており、ミドルとロングのフェァウェイまん中に立ててある230ヤードの目標抗をオーバーしてくる。だから私たち以上に各ホール待たされる感じも強かったんじゃないかと思い、ハーフを折り返した3ホール目のパー3のティグランド、前の3人がホールアウトするのを待っている間に話しかけた。
「こう毎ホール待たされたんじゃ、いい加減うんざりしますよねぇ」
「ええ、まあ」とか「いや、それほどでも」とか、突然話しかけられた二人は戸惑い気味だが、かまわず話し続ける。「私みたいな年寄りは気も短くなっててすぐイライラするから、ミスショットも多くなって困りますよ」これに対して、
「年寄りなんて、とてもそんな風には見えませんけど……」とでも反応すればもうこちらのペースだ。「それじゃ私は幾つぐらいに見えます?」と問いかけ、「70代ぐらいかな」と首をひねる二人を「満88歳、先月"米寿"になりました」とびっくりさせ、「それじゃ残りのホールも頑張りますのでよろしく」と別れたのだった。
 こういう年の自慢はあってもいいと思う。

 おかげでその残りのホールを私たちは気分よく回って、2人とも"44"の好スコアが出た。合算して"88"は、はからずも私の"エージシュート"である。その後1週間ほど管理センターやテニスコートで、気心の知れたゴルフ仲間をつかまえては吹聴したのだった。

 そして、こうした年の自慢のできるのは、気力体力とも充実している達者な年寄りなのである。だが昨今の人口高齢化はそんな達者な年寄りが占める割合をどんどん少なくしている。人々がわれわれ年寄りを軽視するようになってきたのも当然の成り行きだろう。その背景に昭和後期の経済成長偏重があることはあらためていうまでもない。
 私の自慢話もまだまだ相手を選ぶ必要がありそうである。
 

2020年10月30日(金曜日)更新

第623号 〜秋の夕暮れと老境の感慨〜

「三人いて一人魚食ふ秋の暮」という古川柳がある。
 内容が謎かけになっているが、有名なのでご存知の向きも多いだろう。三人のうち一人だけ魚を食べている、つまり残る二人は殺生戒を持った出家・法師だ。そして背景が秋の暮とくれば和歌について多少知識があれば「あれか!」と推測できるだろう。『新古今集』の有名な"秋の三夕"三首で、以下のとおり。

 さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮
 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行
 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家

 川柳の第一句「三人」は「みたり」と読む。人を数えるのに「ひとり、ふたり、みたり、よったり」という言い方が昔あった。東京下町では戦後もしばらく残っていたそうだ。家内は戦後疎開先から目黒に戻り小学校に上ったが、家人が「よったり」というのを聞いている。台湾で生まれ育ち、仙台に引揚げてきた私は、長じてものの本で読むまで知らなかった。

 この第一句を「三人で」と書き替えて「三夕」を解説した文章をネットで見た。書き手は「みたり」を知らなかったのか、「さんにんいて」では字余りになるので直したか、それともこの人が見たのが元々間違いだったのか。いずれにせよ古い言葉はこうして"死語"になっていくのだと思う。
 私としてはこれが近頃の女性たちがよく口にする「さんにんでぇ」と語尾を押しつけがましくやたら高く上げる言い方にならないことを願うだけだ。

 結句が「秋の夕暮れ」は百人一首にも二首ある。これまた寂蓮の「村雨の……」と良暹の「寂しさに……」だ。
 これらの五首に共通する"秋の夕暮れ"の印象は"寂しさ"だ。そしてこれらの和歌に長年親しんできた私も、この季節の夕暮れには何となく寂しさを感じるようになった。今年のように米寿の誕生日を迎えたり年が明けると"数えで90"なんて老齢をいやでも意識させるファクターがあると尚更そうなる。
 たとえばゴルフ場からの帰途、つるべ落としの夕日は西山の向こうに沈んで赤々と残光を残すだけ、道路の先のマンション群のあちこちには部屋の灯りがポツリポツリと灯り始めている……そんな時間帯を走っていると、"日暮れて道遠し"というちょっと詩的な気分になるのだ。
 
 そういえばゴルフを始めて間もない頃、会社の仲間何人かと家内の名義で栃木県矢板の近くのコースのメンバーになった。当時のビッグ3の1人杉本英世が監修したコースで、コースそのものはなかなかよかったが何せ遠かった。当時は東北道の起点がまだ岩槻だったので、前泊していくら早いスタートをしても荒川を越えて都内へ入る頃は夜道、横浜日吉の自宅に帰りつくのはたいてい10時過ぎだった。
 今にして思えば運転していた家内はよくへこたれなかったと感心し感謝する。と同時に二人とも若かったのだと納得する。

 "日暮れて道遠し"なんて感慨は老人のものだ。若いうちは日が暮れたって楽しいことは沢山ある。その意味では私たちだってまだまだだ。"ひやおろし"などこの季節限定の旨い酒はあるし旬の美味にもこと欠かない。帰宅してくつろぎそれらを味わえば「さあ明日はあれを片付けよう」という気にもなるのだ。
 年齢は重ねても前向きの気持ちがあれば、心身まで老い込むことはない。
 

2020年10月23日(金曜日)更新

第622号 〜達者なほどコロナ要心で長生き〜

 新型コロナウィルスの感染はまだまだおさまる気配はない。ここ仙台でも近隣都市を含めて毎日10人近く感染者が発生している。"GotoTraveL"だ"GotoEat"だのと政府あたりは何とか人々を動かそうと躍起だが、われわれ年寄りは怖くて動けるもんじゃない。先週の私の"祝米寿"も初夏に姪から貰ってとっておいた越後の「雪室貯蔵酒」を開けて、家内の手料理で楽しんだ。

 ところが先日見たニュースによると、中国では国慶節だかの休日に全国で何億人もの観光移動があり、コロナ発祥の武漢市では有名な観光施設に人々が殺到して、三蜜どころか通勤電車並みの雑踏だった。
 かの地では感染はもうおさまったとしか思えない。それとも弱い者は皆死んでしまって、体に免疫を備えた者だけが残ったんだろうか。そういえばこんなブラックジョークを思い出した。
 米中が戦争を始めた途端、毎日1千万人の人民軍兵士が捕虜になる。1週間後、人民軍首脳部から米軍首脳部に提案があった。「いかがですか?そろそろ停戦交渉に入りませんか?」
 いずれにしろアメリカの単細胞大統領ならずとも「賠償請求してやる!」と息巻きたくなる。

 いまの"コロナ自粛"は私にとっては一種の拷問である。このような状況下では思うように行動できない事情が私にはあるからだ。
 "咳"だ。私はのどの奥のほう、食道と気管が分かれるあたりに"咳の核"というか、反応ポイントみたいなものがあり、たとえばワサビなどがそこを刺激すると激しくせき込んでおいそれとは止まらなくなってしまうのだ。もちろん外気の変化にも敏感に反応する。冷気は当然、暖気にもだから自分でも対応しようがない。これは幼児期に左耳の中耳炎を手術したせいで、左耳の掃除をするとせき込みが特に激しい。だから咳をおさえるのど飴はいつも持っているし、特にバスなど乗り物の中ではいつもビクビクしている。
 ちなみに町内のゴルフコンペに去年から参加するようになったYさん(60代そこそこ)がやはり幼児期に中耳炎の手術経験があり、同じ悩みを抱えているとのことで、前回一緒に回ったときは、プレーそっちのけで話が盛り上がったものだ。

 私は子どもの頃から"やせの大喰い"といわれてよく食べたがちっとも肥らなかった。生まれ育った台湾は元が中国だから、料理も油を使った肉っ気が多い。引揚げ後もわが家の食事はその傾向が変わらず、そうした成長期の食生活が体の基礎にスタミナをつけたのだと思う。さらにいえば私の肝臓が人一倍頑丈なのもそのせいかもしれない。何しろ私はこれまで何10回やったかわからない血液検査で肝機能の数値が正常範囲をはみ出したことが一度もなく、普段だるさや倦怠感を感じたこともほとんどないのである。

 こんな私がコロナなんかに感染するわけないではないか、と以前は思っていた。だがいまは違う。この年まで達者で生きてきたからには、コロナ如きに感染してはいけないのである。
 日々もっと注意をはらって暮らしていこう。
 

2020年10月16日(金曜日)更新

第621号 〜よく歩いて祝!"達者な米寿"〜

 明日17日は私の満88歳・米寿の誕生日だ。
 いかに世界有数の高齢化社会とはいえ、88歳は相当な老人だ。平均寿命をはるかにオーバーしているし、当団地の全居住者700余人のこのマンション団地でも最高齢者は93歳、私と同世代以上は男女合わせて10人前後だそうだ。

 もちろん私も年相応に体のあちこちが老化している。俗にいう男性の「メハマラ」そのままである。
 まず目は40代なかばからの老眼に始まり60代で白内障にすすみ、70代で加齢黄斑変性……その後は先週書いたとおりだ。歯は子どもの頃からムシ歯が多く、現役の頃は口内あちこちにブリッジがかかり、いまは自前の歯は3分の1足らず、上下にガッチリ義歯が入っている。そして"マラ"も古川柳の「朝立ちも小便までの用となり」果てたのが四半世紀前だといっておこう。種馬やAV男優じゃあるまいし、こんなもの例の"千人斬り"と同じで老人の話題には品下がる。
 耳も遠くなった。家内も同様なので会話はまるで討論だ。そのうち出先で周囲に他人がいるときなど筆談になるかもしれない。

 他にも年老いたなと自覚することは多々ある。外見では顔や手の甲に小じわやしみが増え、頭の中程まで後退した髪や薄いヒゲも白くなった。元々肉づきの薄いふくよかとは程遠い顔なので、首から上だけ見れば年相応だろう。
 また家内によれば歩き方も年寄り臭くなったらしい。腰を曲げ背を丸め首を突き出し……なんてほどではないだろうが、若いスタスタ歩きじゃないことは確かだ。気をつけよう。
 そういえば咄嗟に駆け出すこともほとんどしなくなった。横断歩道の青信号が点滅しそうなときは必ず止まるし、信号のない歩道で車が停まってくれても慌てて横切ったりせず、そちらがお先に……と合図する。

 そうだ! 肝心なヤツが残っていた。小用が近くなったことだ。日中は太股が冷えると行きたくなるし、夜も2〜3回起きる。これからどんどん寒くなるので気にはしている。

 とはいえこれら老化を示すさまざまは、私にとっては笑いながら話題にできる枝葉末節である。大切な眼もそう扱っておけば話が深刻にならずにすむ。スコアカードの細かい字は読めなくても、プレーは人並み以上にできるのだから……。
 
 80代なかばから私は歩くことをそれまで以上に意識してきた。腰から下の大きな筋肉を鍛えることが全身の血流を活発にし、脳や内臓の働きをよくして、ボケない痩せない肥らない簡単にヘタばらないようになるのだ。
 老化防止にはいちばん手っ取り早くて安上がり、必要なのはやる気と根性だけだ。行き会えば必ず「いつも元気だねぇ」と羨み半分イヤ味半分で声をかけてくる町内の同世代には到底無理なことだろうけど……。
 ところで"米寿の祝い"だが、いまのところ予定はない。行ってみたい店もあるが、コロナのことを考えると繁華街へ出かけるのはどうも……なのである。
 
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