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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2023年05月05日(金曜日)更新

第750号 〜ピーナッツバターは"救いの神"か!?〜

 近頃、朝食のトースト2枚のうち1枚にピーナッツバターを塗って食べるようになった。もう1枚は以前同様チーズだが、このピーナッツバターから思い出したことがある。50年ほど前に読んだアメリカの小説のワンカットだ。
 といってもヘミングウエーやスタインベックなどの有名な作家のものではない。
「ハヤカワ・ミステリー」など通俗的な作品だ。内容はこうだ。

 ビルか何かの作業現場で昼食時間になり、作業員たちがそれぞれの場所で自分の弁当を開き始める。1人の作業員が包みを開いてサンドイッチをひとつ取り出し、重ねてあるパンを開いて中を見、匂いを嗅ぎ「ちぇっピーナッツバターか」といって傍のゴミ箱に投げ捨てる。そして次のサンドイッチを取り出して同じことをする。
 隣で食べていた同僚作業員が声をかける。
「あんた、ピーナッツバターが嫌いなのか?」
「ああ、大嫌いだ」とその男。同僚が重ねて聞く。
「あんた、奥さんはいないのか?」「いる」
「だったら奥さんにそういって、別のものを作ってもらえばいいじゃないか」
ピーナッツバター男が答える。「これは俺が作ったんだ」
「えっ?」と同僚、数秒間相手の顔を見つめ、自分の弁当をしまって立ち上がり、無言で首をかしげつつその場から遠ざかる……という一節だ。

 作者も書名も記憶のカケラさえ残っていないが、この1節だけはヤケにはっきり頭の片隅に残っており時折ひょっこり思い出す。だから内容もまったくこのとうりだが、それが作品の本筋とはまるで関係なく挿入されているのである。だから私はこれは作者が執筆中に小耳にはさみ、面白いからちょっとメモしておこうとタイプライターをたたいたのではないかと想像したものだった。
 この一節を読んだときはもちろん私もすぐ笑った。そして"成る程アメリカには評判どうり恐妻家が多いんだな"と納得したものだ。

 ところが先日の朝トーストをかじりながらさきの一節がふと頭に浮かんできて、ちょっと面白いことに気付いたのだ。「これは俺が作ったんだ」という恐妻間抜け男のセリフは「……俺が作らされたんだ」と受動体にしたほうが男のキャラも際立つのでは……である。
 そして作家ならそのくらいすぐ思い付くだろう、原作はどうだったんだ?とまで考えたのだった。

 こうして半世紀も昔のことを思い出してあれこれこねくり回すのも、元々持っている私の癖だ。目が不自由になって本が読めなくなったせいばかりではない。子どもの頃から私は妙に理屈っぽいところがあったので、それが老いるとともに際立ってきたのだろう。私はこれは悪いことではないと思っている。誰かに迷惑かけるわけではないし脳のトレーニングにもなるからだ。こうして遊んでいればけっしてボケないだろうし、不自由な目も十分カバーできる。この先どんなことを思い出すか楽しみにしているくらいだ。

 ところでトレーニングといえば先日の"心臓バクバク"以来2週間ほど私は歩いていない。歩くどころか所用で住居の階段を上り下りする度に"下半身すべてだいぶ弱ってるな!"と思うし、ちょっと動悸息切れもする。強風の中を無理してダメージを受けた体は、心肺機能も足腰も回復にはまだまだ程遠いようだ。
 だからこんなとき50年も前のことを思い出したのも"人生は長いのだ、ボチボチやれよ"という神様の思し召しかもしれないなと思う。これから季節もよくなることだし、あせらずのんびりいこう。
 

2023年04月28日(金曜日)更新

第749号 〜プレーはやめても人の縁は大切〜

 前回久し振りに仲間達との"飲み会"のことを書いたが、今回はその"久し振りの飲み会・第2弾"である。

 内容は町内会ゴルフ部の今年第1回コンペの成績発表&懇親パーティなのだが、その会場を何年ぶりかで町内の管理センター洋室に設けたというのだ。しかもそのパーティにはプレーをしなかった者でも会費500円で参加できる。近年は年齢より目のせいでゴルフから遠ざかっている私も久し振りに、メンバーの顔を見、話を聞きに参加しようと思っている。

 この町内会のゴルフ部が発足したのはもう20年近くも前だ。私が大腸ガンの切除手術を受けた翌年で、手術したのが例のニューヨーク・テロの当日(2001,9,11)だったのでよく覚えている。
 その発足当時はプレー後のパーティもコース内の施設でやっていた。それを団地の管理センター洋室に変えたのが、いまは亡きI氏だ。その頃I氏は団地の管理システムを現在の自主管理に変えたり、外周道路外側の法面を利用して第2駐車場をつくるなど、行動力発言力とも団地きっての実力者だった。そのI氏が「こんなパーティなら団地へ帰ってやったほうが安上がりだし、終わった後もすぐ帰宅できていいじゃないか」といい出し、以来そうなったのだつた。

 I氏は秋田出身でパーティへはよく秋田の銘柄酒を持ってきた。その容器がビンではなく焼物の瓶(かめ)だったことがあった。濃い焦げ茶色の時代的な容物で上の大きな口は油紙を何枚も重ねて封をしてヒモでグルグルと縛ってあった。そのヒモをほどきヒシャクで中身をぐい飲みやコップに移して飲んだが、いまはその銘柄も思い出せない。
 この容器の瓶を家内が欲しがって、お酒が空っぽになった後いただいて持ち帰り、現在もキッチンの流し下の奥にあるはずだから、本稿を読んで何かいい使い道を思いつくかもしれない。またI氏はあの大震災の翌年亡くなっている。

 このプレーには不参加でもパーティに参加OKを決めたのは私自身なのだ。せっかく住居のすぐ傍でやるのだから、何か事情があってプレーはできなかった人でも時間があったら顔を出して仲間と一緒に楽しんだらいいじゃないかと思ったのだ。ただしその裏には将来の自分自身を考えて……ということでもあった。つまり私だっていつまでもプレーできるわけじゃないのだから、できなくなったときでも楽しめる場をつくっておきたいという欲張り根性だ。
 そしてこの新しい試みは大成功だった。第1回目から当時股関節を手術してプレーから遠ざかっていたTさんが毎回顔を出してくれるようになり、他にも当日仕事で昼間外せなかった人などやってくる人は絶え間もなかったのだが、それを一変させたのがコロナだ。
 私が眼の疾患でゴルフ部の部長を現在のNさんに交代して間もなく、コロナの感染拡大予防のためパーティなど大勢の集まりを自粛するようになり、プレー後もクラブハウスの片隅で成績発表だけささやかに行うようになって、管理センターのパーティも消えていたのだ。

 そのパーティが数年ぶりに再開されるのである。場所は住居のベランダの左斜めの眼の下、直線距離なら20メートルもない。反対側のドアから階段を下り建物をグルッと回って行っても5分とかからない。
 私も家内も昨年なかばあたりから「ゴルフはもうできない、やらない」と内心諦めていた。そして先月二人のクラブ一式をハードオフに持って行って処分し、気持ちにしっかり踏ん切りをつけた。しかしプレーとは縁は切れても、ゴルフを介して得た人との縁は大事にしたいと思う。年老いれば尚更だろう。
 

2023年04月21日(金曜日)更新

第748号 〜やっぱりな無理は禁物90歳〜

 コロナもだいぶ収まってきたし、そろそろいいんじゃないかということで先日、久し振りに仲間うちの"飲み会"をやった。町内会老人会の会長=私以下世話人8人が管理センターの和室(10畳)に集まったささやかな集まりだ。作並街道沿いにある小売りと配達専門の寿司店(味には定評がある)から人数分をとり、飲み物は幹事役が適当に用意して格安会費1500円、6時〜8時まで十分に楽しんだ。
(註・8時というのは管理センター職員の勤務時間がそれまでなので、日頃から私たち役員とは親しくしているからちょっとはオーバーしたかもしれない)
 実はこの"飲み会"私はいささか不安でもあった。
 その理由の第1が開始時間だ。私たちは年齢のせいばかりじゃないが、朝昼晩三食とも開始がかなり早くなっている。朝は起床時間が違うので別だが昼は11時過ぎ、その後おやつに何か口にするものの夜に至っては5時には食べ始める。6時だとすでに食べ終わり晩酌を始めているのだ。つまり胃袋がまったく空っぽの状態でいきなり「乾杯!」も心配だったので、おやつ用の小さな甘食をひとつ胃におさめてから出向いたのだったが、席に坐った途端会費を忘れたことに気付いたのだ。
 そこですぐに飛び出して住居の棟まで駆け戻り、4階まで階段を往復して財布をポケットに席に戻ったのだが、間近な距離とはいえ階段まで含めて我ながらまだまだやれるなとあらためて実感したものだ。

 会そのものも楽しかった。数人はもちろん1対1でも飲む機会がなかったのだから当然だ。
 アルコールもいつもより多く飲んだ。私はこうした席には晩酌用のぐい飲みを持って行く。席で飲むために用意してあるのはコップだけなので日本酒オンリーの私には大き過ぎるからだ。それでも差されるまま注がれるまま口にしていたからけっこう飲んだと思う。用意してあったのは新潟の初めて目にした銘柄だったが、なかなかいいお酒だった。他のメンバーがホッピーを主に飲んでいたので、その四合ビンの半分近くは私が飲んだろう。食べ物もすしをはじめ笹かまやカラアゲ漬け物など目の前に並んだものはほとんど腹に収めたし、気心の知れた仲間同士話もはずんで、帰宅した途端まさに10年ぶりで"パタングー"だった。

 私がまさに"身も世もあらぬ"へたばりかたをしたのは翌日だ。ただし前夜の酒のせいではない。朝はいつもどおり起きて朝食もちゃんと食べている。その後風速10メートルを超える強風にモロに向かってほぼ1時間以上も歩いたのがこたえたのだ。買物に出かけた家内と落ち合ってお昼を食べるためだったが、とにかく想定外の災難だった。
 しかし後で考えてみると、この強風下のヘタバリが私を救ったといっていい。つまりその動悸息切れが前から感じていた体調不良の明らかな兆候であり、それが私の胸奥に居座って放っとけなくなり、水曜日の朝病院へ行き心電図、レントゲン写真、血液採取などされ、センセイから診察を受けて「肺に随分水が溜まっている」とのこと。その水を抜く薬を処方され、今後の注意などを聞いて帰ってきたのだ。

 "やっぱりな無理は禁物90歳"だとつくづく思う。その90歳もちょうど半年過ぎたところだ。これからも楽しく生きるためには、自信もほどほどにしなければである。
 しっかりと肝に銘じておこう。
 

2023年04月14日(金曜日)更新

第747号 〜学びたい人生終盤の楽しみ方〜

 もう……というより私たち年寄りにとっては"やっと"といったほうがよさそうだが、とにかく4月もなかばいい季節になってきた。寒さに耐えながら春到来を待ち望んでいた人たちには尚更だろう。他人事ながら「花見はお済ですか?」といいたくなる。

 花見といえばかの東日本大震災の前だったからもう15年ほど経ったが、この季節F社の後輩の中村キンパク君(名前の音読み)が夫婦で来仙し、市内のビジネスホテルに泊まって私たちと一緒にテニスをやったことがあった。私たちの団地に自前のコートがあり町内会テニス部もあって、私たちもプレーしていると知って"お手合わせ"に来たのだが、その帰途がまた彼らしかった。
 新幹線ではなくわざわざ在来線の鈍行に乗って白石川沿いの"一目千本桜"を車窓から(列車もゆっくり走る)楽しみ、さらには郡山で磐越東線に乗り換えて国の天然記念物"三春の滝桜"をたっぷり鑑賞して帰京したという。

 このキンパク君は私の10歳下で酒もあまり飲まず麻雀もしなかったが人付き合いがよく、私が盲腸の手術で入院したときにはJR南武線武蔵新城駅近くの病院まで見舞いに来てくれた。また会社の労組委員長になったときは組合主催のスキー旅行を計画し、バス1台をチャーターして草津温泉1泊のツアーを行った。
 これが非労組の社員も参加OKとあって、私は家内とまだ就学前だった息子も連れて参加、当時の名所・振子沢を滑って見せて評判になったものだ。いまのスキー仲間のヨネやん達が入社する前だが噂は耳にしているかもしれない。

 キンパク君が亡くなったのはその来仙から2年ほど後だ。奥さんからの電話(よく聞きとれなかったが)によると生来の持病が悪化したのがきっかけだそうだ。そういえば彼は私より体がひとまわり小さく、一見ひ弱な感じだった。
 つまりテニスなんかに熱中し、わざわざ仙台までやって来たのも、奥さんの助言もあっただろうが、彼自身1日でも長く生きて人生を楽しみたいという強い気持ちがあったからだろうと私はあらためて思う。そのあたりは近頃の私と似ているなとつくづく感じるのだ。

 このように"名残の人生"を精いっぱい楽しみ逝った人をもうひとり知っている。2年前の夏亡くなったSさんだ。
 Sさんは大震災の翌年、勤めをリタイヤしてこの団地へ転居してきた。勤め先は大手スーパーイオン、そこで培われた経験が人付き合いの良さにモロに出ていた。転居してすぐ誘われるままゴルフをやり始めテニスに手を出し、そば打ちクラブに入り卓球部にも首を突っ込み、管理組合理事会のメンバーにもなったのだ。おまけに住居の専用庭を開墾して野菜畑にしたから体は幾つあっても足りなかっただろう。
 しかもその熱心さとは裏腹に彼の運動能力は大甘にいって平凡、テニスでしょっちゅう空振りしていたから、これは現役時代は仕事オンリーで遊びには無縁だったこと、加えて後年命取りになる疾患が体にあることを自分でも知っていたのではないかと思う。

 とにかくSさんは人生の終盤を目一杯楽しんで、2年前腎臓ガンで亡くなった。年始めに血尿があったのを機にゴルフをはじめ付き合いを整理し、自宅と病院の療養生活を半年送って亡くなった。生前に用意していた墓が裏の墓園内の"樹木葬"の中にあり、私は傍を歩くたびに「よろしく」と片手で拝む。

 キンパク君を思い出すきっかけになった滝桜はすでに終わり、季節はどんどん進んでいく。両人にくらべれば私たちははるかに長生きだが、人生終盤であることに変わりはない。両人を参考に"これからも楽しい日々を……"と思っている。
 

2023年04月07日(金曜日)更新

第746号 〜私たちの"老い"はまだ先だ!〜

「妻を娶らば才長けて見目麗わしく情あり」と始まる有名な歌がある。与謝野鉄幹作の『人を恋うる歌』1番の前半である。後半は「友を選ばば書を読みて六分の侠気四部の熱」これまたご存知の方が多いだろう。詩は16番まであるが大方が知っているのは恐らく2番ぐらいまでか。私などその2番さえ細部はあやふやだ。
 ちなみに鉄幹がこれを作ったのは明治30年24才のとき、李氏朝鮮の京城(ソウル)に於いてだったという。日本が"眠れる獅子"清国との戦争に勝った2年後、日露戦争の6年余り前で、日の出の勢いの日本人は滞在しやすかっただろう。
 なお鉄幹が後年"歌人"として彼以上に名をあげる晶子と不倫をきっかけに結婚に至るのはずっと後。彼は3度目の結婚だったが、これを晶子の"掠奪婚"という人もいるから鉄幹はなかなか"もて男"だったようだ。

 1世紀を超える昔のものだが、この詩はけっこう人に知られている。人生の一大関心事"妻選び"が冒頭にあるからだろう。これは男も女も関係ない。万葉集の昔は夫も妻も呼び方は同じ"ツマ"だったのだ。
 それにこの詩は年齢もあまり関係なく親しめると思う。私など若い頃はたとえば
"サルトル"や"エデンの東"同様、これも知っておいたほうがカッコいいと思うようなところがあったから当然だが、そうしたペダンチックな趣味はいまの実年世代や若者にもあるんじゃないか。その対象にこの詩はぴったりだし、ここでは省略するが2番まで加えると尚更だろう。

 語調もいい。いわゆる"七五調"だ。和歌俳句川柳など昔からある韻文をはじめ唱歌軍歌流行歌などによく使われてきた、なじみの深い語調だ。すんなり頭に入る。思いつくままいくつか並べてみよう。
「春高楼の花の宴」「汽笛一声新橋を」「屋根より高い鯉のぼり」「見よ東海の空明けて」「ここはお国を何百里」「みどりの丘の赤い屋根」「背伸びして見る海峡を」「ひとり酒場で飲む酒は」……時代を問わずジャンルを問わずだ。

 ……と長々と書いたが、以上は実は本題の前置きなのである。本題は冒頭にあげた与謝野鉄幹の詩を、長年連れ添った家内にあてはめてみることだ。
 私が家内と初めて会った(見知った)のはワセダを卒業してF社に入り、初出勤した当日だ。家内は高卒からなので社歴は私の1年先輩だった。"いいコがいるな"と一目惚れし、あれこれ苦労した末2年8ヵ月後ようやく結婚に漕ぎ着けた。金婚式もとうに過ぎ11月24日に63回目の記念日を迎える。

 その家内の"才長けて"は何にもまして"分を超えない"のがいい。いわゆる"女賢くて牛売り損なう"ようなところ、小賢しい=当クラブの支配人氏なら"はしこい"ところがないのだ。その代わり自分が自信のあるもの"金勘定"や"運転"などは積極的にやる。20年ほど前町内会の理事になった際は会計を引受け、そのとき親しくなった仲間とはいまでも時々ランチを楽しんだりしている。気取りのなさ平凡さが同性にも好かれるのだろう。

 続く"見目麗しく"は"明眸皓歯""情あり"は"いろんなことに積極的"と言い替えればいいだろう。"明眸…"は"澄んだ目とまっ白い歯"で古くからある美人の表現だが、家内にピッタリなのは"皓歯"だけ、若い頃は近眼のメガネをかけていた。
 ただし歯は家内も自慢で84歳のいまも親知らずまで上下32本虫歯ゼロ、見事に並んでおり県から金メダル表彰された。

 さらには人一倍好奇心旺盛、いろんなことに積極的だ。車の運転免許など歩き始めたばかりの息子を連れて教習所へ行き、その息子を教習車の後ろに乗せて習ったので指導員も口うるさいことがいえなかったそうだ。運転歴も60年を超え私はいまだにのんびりと助手席だ。
 さらにはその運転"力"と積極性がスキーやゴルフにつながり、これまで私たちがそれら=人生をどれだけ楽しんできたか? かつてスキー仲間のクミちゃん(私より干支ふた回り若い女性)がはからずもいった「二人がスキーやゴルフをしてなかったら、いま頃お城が建っていたわね」をあげれば察しがつくだろう。

 そして二人ともけっこうな歳である。だが人生毎日を楽しもうという気持ちはともにいささかも衰えてはいないし、"いい相手に恵まれた"と思っているはずだ。
 これからも一緒に楽しく生きていけるだろう。
 
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