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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2019年12月27日(金曜日)更新

第580号 〜背にはり憑いて離れない悪運〜

「ぼくらは幸運には見はなされているけど、悪運には取り憑かれているから」と仲間の一人が口にするのを耳にしたヒロインが思う。
 ――人を絶体絶命から救うのは幸運じゃない。悪運だ。幸運は一瞬で消え去るが、悪運は背中のすぐうしろを一生憑いてくる。死んで楽になることを許さず、何度も現世に引き戻し、痛苦をくり返させる。神仏にすがる気はないけど、この悪運になら少しは頼ってもいい。

『リボルバー・リリー』という小説を読んでいたらこんな一節にぶつかって、「人生まったくそのとおり!」と合点した。作者は長浦京という52歳の新進。初めて読んだ人だが経歴をみると、難病指定の病で闘病生活を送った経験があり、私などよりはるかに苦労しているかもしれない。3年前に出版された500ページ近い書き下ろし長編で、例によってブックオフの100円棚で見つけてきた一冊だ。なかなか面白かった。
 何しろ投資額が100円――店の割引券を持っているのでときには1冊50円以下なんてこともある――とあって、期待ほどには面白くなく途中で放り出しても惜しくないので、こんな新進作家のものも目につき次第買い込んでくるのだ。

 私は古い亡くなった人も含めて有名作家のものは、デビュー当初から読んでファンになった人の作品以外はあまり読まない。直木賞などの受賞作家でも「何でこんなものが?」と違和感を持った人の作品は、いかに版元が力を入れて売り出そうとしても、その後の作品はほとんど読む気になれないのだ。そうした有名作家が私には10人以上いるし、そんな人のものより近年は実力のある新進作家の気合いの入った作品がよっぽど楽しめる。

 私が新進作家の作品を選ぶ基準はまずタイトルだ。内容がひと目で想像でき作家の意気込みが伝わってくるようなタイトルは、長年の経験で何となくわかる。つぎに版元を見る。これはやはり大手の出版社がいい。大手には新進ばかりでなく他の安定した作家を常時ラインナップできる余裕があるし、担当編集者も納得できる内容に仕上げる余裕があるので読みごたえのある作品ができるからだ。その点では私の古巣のF社やミステリーに強いK出版、芸能週刊誌のT書店などはいまいち、また元編集者が20年ちょっと前に創業、たちまちのし上ってきたG社の本など、私は背の版元をチラッと見ただけでパスする。

 さてさっき合点した幸運と悪運だが、西洋の諺に「幸運の女神は前髪しかないのだから、目の前を通り過ぎ後を追いかけてもけっして捕まえることはでこない」というのがある。すなわち一生背中にぴったりくっついて離れないのは悪運であり、われわれにとっては幸運よりずっと縁の深い頼り甲斐もある運なのである。
 
 だいぶ前のことだが、スキー仲間のY君がメンバー中いちばん若いH君をからかっていったことがある。
「Hはいままで運だけで生きてきたようなところがあるな。町を歩いていて、ふと横を見たら500円玉が落ちている。"あ見っけ"なんて拾おうとしたら、目の前にビルの屋上から鉄棒が落っこちてきて、そのまま歩いていたら頭直撃されるところだったなんてな」「何でそんなところに鉄棒が落っこちてくるんですか」「ものの例えだよ。"箱根の山に天から剣"て歌もあるだろ」
 
 これからのスキーシーズンには毎年、石打や安比で滑りまくり、夜は民宿やペンションで他愛ないおしゃべりに興じた仲間たちだ。そしてこの二人は担当していた作品が超ベストセラーになり、社の業績に少なからず貢献し編集者だった。幸運にしろ悪運にしろ強い人間は強いのである。
 私自身もそんな一人だと思っている。
 

2019年12月20日(金曜日)更新

第579号 〜体より頭を鍛える季節かな?〜

 暮も押し詰まってきた。あさって22日は冬至だ。一年中でいちばん日が短い日だが、実際は冬至を過ぎてもまだ大晦日から元旦過ぎまで日の出は遅くなっている。たとえば当地なら今日20日は6時49分、それが31日には53分になる。ただし日の入りが午後4時30分に対し年末には同25分なので、秒単位か分単位かわからないが、やはり冬至はいちばん日が短いのだろう。
 いずれにせよ夜明けが遅く日暮れが早いことは、典型的な昼型人間の私にはつらいというか、やりきれない季節だ。
 
 何しろ年をとるとともに、私は寝るのがどんどん早くなってきた。
 夕食後ダラダラと遅くまで酒を飲まなくなったせいだ。忘年会など気のおけない仲間と"置酒款語"を楽しむときは別。飲まない家内に監視されながら飲んでいたって始まらない。加えていまはテレビにも興味なくなったし、本も視力低下した片方の老眼だけでは長時間"灯火親しむ"わけにはいかない。たまにパソコンで藤井聡太の対局を見るくらいだが、これも限度がある。プロの将棋は一手ごとの時間が長くて、私みたいな勝ち負けの面白いところだけ見たい者には終局までなかなか付き合いきれないのだ。
 そんなわけで近年は夏冬とも夜は8時を過ぎると寝る仕度にとりかかるのである。

 ベッドに入ると私はたいてい10〜15分で眠りにつく。夜中トイレに起きるのが2度ほど、それでも8時間眠って5時前後には目がさめる。いまの季節はこれがたいへん困るのだ。
 朝私は自分でメシの仕度をする。この習慣は大腸ガンの手術から回復し、退院したのがきっかけでついた。手術が2001年9月11日、あの同時多発テロ当日だってのでもう20年近く前だ。
 私の朝食はトースト2枚とチーズ1個、刻みネギたっぷりの納豆に大ぶりのコップ1杯の野菜ジュースと紅茶だ。仕度はネギを刻むことから始める。昔、朝餉を仕度するお母さんのリズミカルな包丁の音で目がさめる……なんて庶民生活の風景があったが、わが家はその包丁の主が爺さんなのだ。それに私が使っている包丁はたいへん薄刃でいつもよく研き上げているので、食器棚と壁と押入れをはさんだ部屋で寝ている家内には聞こえない。
 そしてこの朝メシを食べ終え使った食器を洗い、トイレをすませ、毎朝の血圧測定を終わっても、まだ外は白々明けなのだ。ベランダに出て朝の体操をするには早過ぎるし新聞はとるのをやめたしテレビもパソコンもスィッチを入れるほどでもないし……で、こういう状態をまさに"所在ない"というのだろうなとつくずく思ってしまうのである。

 夕方もそうだ。4時半を過ぎると日は西山に沈んで周辺はとっぷりと暮れてしまう。このマンション団地は私がよく自虐的な冗談口をたたくように「自然環境は最高だが生活環境は最低」だから、暗くなると出歩く人などまったくいない。
 したがって私も家の中で、本を読んだり原稿を書いたりが主になるわけだが、あいにく私はいまも両眼治療中なので、日中はともかく暗くなってから読み書きが過ぎると、家内が口うるさいのだ。毎月の診察ではセンセイからいつも「問題ありませんよ」といわれるが言い返すのも面倒なので、そういうときは私も"まあいいや"と、宙をにらんで考えごとにふけることにしている。
 すなわちこの季節は私みたいな人間には、体より頭を鍛えるときだと割り切ればいいようである。
 

2019年12月13日(金曜日)更新

第578号 〜小型化する現代の若者たち〜

 われわれ日本人の平均身長は、明治期から現代までおよそ100年間に約15センチ伸びたという。維新を機に牛鍋やトンカツなど肉食が一般化するとともに医療衛生も発達して、生活環境がどんどん近代化していったおかげだ。中でも私は戦後の伸びが顕著だったのではないかと思う。食生活が欧米風により豊かになったことと合わせて畳の生活から離れ、ひざを折って座ることが少なくなったからだ。
 戦後生まれは石原裕次郎みたいに足がどんどん長くなっていったのである。

 私は高校3年から浪人、学生、社会人として40代なかばまで東急東横線沿線で暮らしていた。近頃話題の武蔵小杉など、駅舎すぐ傍の国鉄(JRになる以前だ)の線路沿いに汚いタメ池があった頃からだ。当時東横線に乗ると、私でも立っている乗客の頭越しに車内の端まで見渡せたものだ。その頃の身長は170センチにやっと届くぐらいだったが、それでも十分に平均以上だった。それが30代にさしかかる頃には若者の背丈が伸びてだんだん見渡せなくなり、40代では目の前にあるのは"マッシュルーム"頭だけになってしまった。その往年の身長が3センチも縮んだいまはもはや張り合う気もない。
 厚労省の国民健康栄養調査によると、2年前20〜40代男性の平均身長は優に170センチ以上、50代でも170センチオーバーだったという。

 ところがここ2年間の同じ調査で、18〜19歳男性の平均身長が170センチに達しないという由々しき結果が出ているのだ。すなわち50代のおっさんより若者のほうが低いのである。厚労省だけではない。文科省の学校保健統計調査でも似たような数値が出ている。2005年と2018年を比較すると、18年の17歳男子が05年の同年より低いのだ。その数値内容は155センチ〜170センチが増え、171センチ〜180センチが減っているのだという。
 そしてこうした近年の若者の小型化の要因を厚労省は、栄養不足運動不足睡眠不足としている。早くいえば塾通いやゲームに時間をとられ、せっかくの成長期に体にとってマイナスの生活をしているからだというわけだ。
 しかしその一方では、ここ40年ほど日本の新生児が小さくなっていたことが影響している、という国立成育医療研究所の見方もある。俗にいう未熟児――"低出生体重児"という専用語がある――が原因ということだ。
 昔「小さく生んで大きく育てる」という言葉があったが、現代の小さな赤ん坊はそんなもっともらしい考え方が元にあったわけじゃない。母体つまり女性の"やせ志向"や"喫煙歴"が関係して早産や胎児の生育不十分を招いたのだ。世界的にみると低出生体重児は、その国の経済状況を反映して発展途上国に多いという。つまり日本は特異なケースなのである。

 しかも近年は出生数も激減している。今年1〜9月をみると前年同月比5,6%の減少で、この数値が5%をオーバーしたのは1987年以来なんと30年ぶりだという。つまり毎年100人につき5人ずつ減りつつあった新生児の数がもっと減少しそうな気配が見えるのである。少子高齢化は益々すすんでいくことだろう。
 こうなるとただでさえ社会のお荷物扱いされて、暮らしにくくなってきたわれわれ年寄りはなお肩身が狭くなる。その上、町中で出会う若者たちが自分より小さいときたら居心地だって悪くなるばかりだろう。
 それこそ「何とかしてくれぇ」と叫びたくもなるんじゃないか。
 

2019年12月06日(金曜日)更新

第577号 〜トンカツの正しい食べ方とは?〜

 トンカツは揚げたものを,食べやすいように切り分けてテーブルに並ぶ。レストランをはじめ食べもの屋はもちろん一般家庭でもそうだ。スーパーなどでは揚げたのがそのまま惣菜売り場に並んでいるが、それを買っていった奥さんたちにしても余程のモノグサ手抜き主婦でもない限り、一応包丁を入れてテーブルに並べるはずだ。 焼きたてがゴロンと出てくるハンバーグとは逆に、それがトンカツの常識といっていい。
 これはトンカツの、大袈裟にいえば歴史が背景にある。トンカツは明治なかば銀座の洋食屋・煉瓦亭が考案した日本独自の洋食だ。洋食なので客はナイフとフォークで食べさせられた。だが衣をつけて揚げたものは皿の上でよく滑るし、時代的にナイフやフォークを扱い慣れない客も多いとあって、料理を床に落っことしたり女客の着飾った衣装に油汚れをつけたり散々だった。そこで厨房でも考えた末に、はじめから切り分けて出すようになったものだ。

 さて、こうして目の前に出てきたトンカツに、われわれ日本人はどこから"箸(フォーク?)をつけるか?"を調査した物好きというか奇特な人が先頃いた。こういう面白い発想はいつも"楽しくやろうぜ"と思っている前向きな人の頭から出てくるもので、私なんか一も二もなく魅かれてしまう。
 それによると、まず食べる人の7割近くが端から箸をつけるという。その半分以上全体の4割弱が右端から、3割弱が左端からだそうだ。そしてまん中からというのが1割ちょっと、残る2割が端から2番目だった。

 あらためて考えるまでもなくこれは当然の結果だ。戦後も70年以上過ぎてわれわれ日本人の食生活はかなり豊かになったとはいえ、トンカツは依然としておかずの主役の一角にある。サラリーマンがお昼に食べるトンカツ定食にしろ一般家庭の夕食にしろ、トンカツの皿は食べる人の目の前だいたい中央に並べられる。右手に持った箸が右端に向かうのは自然の流れなのだ。
 左端からというのもわからんでもない。われわれ日本人のおかずには刺身もよく出るが、これは切身をまん中から取る人はいない。右にしろ左にしろ端っこからだ。それで左端からが癖になった人はトンカツも左端に箸が出るようになってしまったのだろう。
 しかしまん中からというのはどうもわからない。料理は何でもいちばん旨いところから食べようと思っている人、たとえば肉食獣が獲物のはらわたから食べ始めるのと同じような習性がある人などは、トンカツもまん中が旨いと思い込んでいるのかもしれない。それとも子どもの頃からちゃんとしたしつけを受けずにわがままいっぱいに育ち、料理でもケーキでもまん中にフォークを突き刺してしまうような人物なのだろうか。いずれにせよあまり付き合いたくない相手だ。

 トンカツから発展したのがカツドンだ。トンカツにタマネギを加えてしょうゆ味の割下で煮込み、卵とじにして丼メシにのせた、まぎれもなく日本料理だ。大正時代ワセダ大学近辺のソバ屋が考案したという。
 このカツドンの面白いエピソードがある。昭和27年四国の高松一高から西鉄ライオンズに入団し、三原監督の下で稲尾、豊田、大下たちと共に黄金時代を築いた中西太選手のことだ。入団が決まって上京してきた中西を三原が銀座に連れて行きカツドンを食べさせたとき、中西が「世の中にこんな旨いものがあったのか!」と感激したというものである。
 昭和27年私は学生だったが、日本はようやく戦後の復興から経済成長に転換し始めた頃だ。カツドンはまだまだ庶民の口には遠かったのである。いまはやはり恵まれているというべきだろう。
 

2019年11月29日(金曜日)更新

第576号 〜さあ"置酒款語"を楽しもう〜

 今年も残りひと月になった。これからは私もお付き合いで飲む機会が多くなる。
 まずあさって1日は町内ゴルフ部の忘年会、来週は老人クラブの昼食会(といっても酒はある)、次の週は理事会終了後"1年間ご苦労さま"と1杯……などが控え、その後も何かとお声がかかると思う。
 それにしても、この年になってもまだあちこちからお誘いがあるのは、それだけ達者で"置酒款語"の相手にふさわしいと認められているわけで、私としてもたいへんうれしいことだ。

 とはいえ私も酒はだいぶ弱くなった。というより近頃は往年のような大酒ができなくなってきたのだ。
 私は中年後期頃から日本酒が主になった。若い頃はフトコロ具合もあって安い強い焼酎やトリスなどをよく飲んでいたが、高度経済成長とともに日本酒そのものが旨くなってきたのに合わせて好みも変わっていったのだ。アルコール度といい味といい私の口に合うようだし、洋酒や焼酎みたいに飲むまでに面倒な手間がないのもいい。ついでにいえばビールは乾杯のときちょっと口をつけるだけだ。

 近頃よく飲んだなと覚えているのは、10月なかば町内ゴルフ部のコンペのパーティだ。会では毎回部が用意する1升ビンのほか、メンバー有志の持ち込みもあっていろんなボトルが多彩に並ぶが、このときは有名な"獺祭"をはじめ銘柄酒がけっこうあった。4合ビンをを合わせると6升はあっただろう。それを20人足らずで空っぽにしたのだ。ほかにビールや焼酎もあったし、下戸や中〆で帰った人もいたから、お開きまで残っていた5〜6人は5合平均平均飲んだんじゃないかと後日誰かがいっていた。
 
 私の飲み方は差されれば受ける、注がれれば飲む……というスタイルで、家内にいわせると「自分から盃を伏せることがなく際限なく飲んでいる」だらしない、もっと言えば"意地汚い"飲み方らしい。性格的に「もう十分です」と断ることができないのだ。
 それにこの年になると酒席ではみんな私より若い。グラスが空きかけているのを見ると、誰彼なく「どうぞ」とすすめてくれるのだからしょうがない。
 それでも自慢じゃないが、いままで酒席で前後不覚になったことはないし、大きな失敗も若い頃に1〜2度あっただけだから、アルコールに対して基本的に強かったし、それを支える体力も運も十分あったわけだ。

 もっともこれから先は私のそんな飲み方も、おのずとおとなしくなっていくだろうと思う。現にその準備とでもいったらいいか、近頃は晩酌も寝酒に小ぶりのコップ1杯をゆっくり味わうぐらいになっている。いくら酒好きでもアル中でもない限り、年老いれば体力に見合った飲み方楽しみ方になっていくのである。
 というわけでこの季節になると、誰からもお誘いがかからず"置酒款語"を楽しめない御仁は気の毒だなとつくづく思う。
 
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