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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2019年10月18日(金曜日)更新

第570号 〜年老いても欲深いのがいい〜

 昨日、私は目出度く満87歳を迎え、家内と例の松島のリーズナブルな温泉ホテルに行って祝杯をあげた。ただし300mlの日本酒1本だけだからささやかなものだ。
 それに私は10年ほど前から、年齢を満ではなく数えでいうことにしている。子どもの頃に戻ったというより喜寿や米寿などの賀寿は、本来数え年で祝うものだからである。「来年の誕生日で満88歳、米寿になります」なんて間の抜けた言い方より、「当年とって88歳の米寿です」のほうが余程スッキリしている。というわけで今回の誕生祝いは簡単なものだった。

 日本人が満年齢で勘定するようになったのは戦後の昭和25年、「年齢のとなえ方に関する法律」によってだ。条文に「……数え年でいう従来のならわしを改めて……」とある。だが実はその77年前の明治6年、それまで使っていた大陰暦を欧米と同じ太陽暦に改めるのに伴い、数え年も満年齢にせよという太政官布告が出ているのだ。だが一般国民はそんな文明開化のお達しなど知らん顔、長年使い慣れてきた数え年を明治大正昭和と使い続けてきたのだった。
 それが戦後5年から一気に変わったのは民主主義になったせいではない。当時の配給制度が数え年では不備不公平が出てきたからだ。たとえば2歳の子どもにキャラメルの配給がある。数えでは12月の末に生まれても新年を迎えれば2歳、1月生まれとは1年近い差がある。不公平じゃないかとなったわけだ。要するに単純な欲がらみで満年齢が人々に浸透していったということだ。
 いずれにせよ私は数えで育った世代である。年老いて自分の年齢ぐらい「当年とって米寿です」とちょっとばかり胸を張り"ドヤ顔"して見せたっていいだろう。私みたいに愛嬌に欠ける仏頂面がそんな顔をしたって、相手によっては小憎らしいだけかもしれないが、当人はなかなかいい気分なのである。ちなみにいま数え年でいわれているのは賀寿以外は厄年だけだ。

 ところで87年も生きてきてつくづく感じるのは「われわれ人間の欲にはキリがないな」ということだ。
 私などほかの人から見ればずいぶん恵まれているほうだろう。年齢も最新(といっても2017年発表のものだが)の日本人の平均寿命――男性81,09歳女性87,26歳――に比べれば6年も長生きだし、脳力体力とも日常生活では不自由するところはない。いやそれ以上に周りの同年から見れば憎らしいぐらい達者だろう。それでも"もうちょっと……"といいたい欲が出てくるのである。たとえば――。
 もう少し懐に余裕があったら、ゴルフも旅行ももっと楽しめるのに……とか、もうちょつと眼がよければ、本ももっと読めるしテニスも上手にできるのに……とか、現役の頃ぐらい胃腸がタフだったら旨い酒がもっと飲めるのに……とか、あと5キロ筋肉がつけば20ヤード遠くに飛ばせるのに……とか、等々である。いかにもちっぽけな小市民的欲望ではあるが、これも年寄りならではだろうなと思う。
 クラーク博士の「Boys,be ambitious」や「こころざしをはたして いつの日にか帰らん」(唱歌『ふるさと』)なんてのは青春時代だけだと思う。そういえば私が終戦の年に入学した台湾台北第一中学校の校歌の一節に「我日東の大男児 使命尊き前途かな」というのがあり「俺だっていつかは……」と胸躍らせたものだった。

 大志にせよ些細卑近な望みにせよ、人生に欲を持つのは悪いことではない。気持ちが前向きに明るくなる。われわれ年寄りも「大欲は無欲に似たり」などと気取らず、ほんの少し頑張れば実現できそうなちっぽけな欲をいつも持っていることが精神健康の面でもプラスになるのである。
 

2019年10月11日(金曜日)更新

第569号 〜自分の老け顔に面喰ったこと〜

 朝起きると着替えてから顔を洗う。
 洗い終わった顔を鏡に映して、全体から部分まで一応チェックする。といってもあちこち細かく点検するわけではない。目が見えにくくなっていないかなど異常さえなければいい。何しろその後すぐに自分のメシの支度にとりかからなければならないし、さらには日課の1時間ほどの自己流体操が控えている。朝はけっこう忙しいのだ。そうしてチエックする顔は毎度おなじみ「十年一日の如く」変わりない。今日も元気だなと思うわけだが……。
 
 実はあるところで、たまたま鏡に映った顔を見て「これが俺か!?」と、かなり面喰ったことがあったのだ。
 先月末、月例の定期診察で日赤眼科に行ったときのことだ。待ち時間に小用でトイレに行き、用をすませて手を洗い、その場を離れかけながら何気なく振り返って鏡に映っていた顔を見た瞬間、ビックリしたのである。目尻はたれ下がり口元はしまりがなく顔中に深いしわが刻まれ肌にはあちこちシミが浮いて汚れ、見るからにボケ老人といった顔がそこにあったのだ。周りを見回したが私以外には誰もいないし、その顔はどうも私らしい。
 だが私は入口のドアに手をかけたところだったし、改めて見直すのもいささか不気味な感じを受けたこともあって、「妙なことがあるものだな……」と思いながら待合スペースに戻ったのだった。

 考えてみると、これはやっぱり妙だった。鏡に映っていた顔は対象を左斜め後ろから見た映像で、合わせ鏡でもしない限り私が私の顔を見ることは物理的にあり得ない。ということは、あの映像は私の脳内のイメージが無意識に振り返った瞬間、鏡に投影したものだと考えるしかない。そうだそうだと私は納得した。
 
 病院内で見かけるのは老人が圧倒的に多い。日赤なら産婦人科や小児科もあるが、そこにやってくる若い世代や子どもたちも、周辺の老人多数に埋没してあまり目立たなくなってしまう。眼科も7〜8割は老人だ。先日私と同じ時間帯に待っていた患者の中には、ボランティアの付添人(これまた老人だった)つきの車椅子に乗った老人もいた。
 診察を待っている間、私はそうしたいわば仲間の老人たちを観察している。
 この人はかなり年老いた感じだが実際は私よりひとまわりは若いな……とか、ジーンズなんかはいてるけど太股は細いし歩き方もヨタヨタ、この人はリタイヤしてから10年ぐらい、まだ後期高齢者じゃないな……など、悪趣味な視線を誰彼なく投げているのだ。そしてこうした観察は面と向かってはできないので、みんな斜め後方からになる。そのイメージが無意識下で私自身の脳に蓄積され、同じ病院内という場でトイレの鏡に出てきたのだと解釈した。
 
 こうして分析してみると、われわれ人間の考え方やイメージは周囲の影響をけっこう受けているのだなとあらためて納得できる。まさに「朱に交われば赤くなる」だ。したがって年老いても心身達者、元気でいようと思ったら、日頃から若い元気な人たちと積極的に接すればいいのだ。私がゴルフやテニスを続けているのは正解なのである。
 ただし、それには気をつけなければならないことがひとつある。間違っても年寄り風を吹かせないことだ。私は自分でも相当自我が強い方だと思っているが、それをおさえるのも年の功だろう。
 皆さん、これからもよろしくお願い致します。
 

2019年10月04日(金曜日)更新

第568号 〜日々柔軟に生きる「融通無碍」

 今年の異常気象はまったく異常だ。当地も9月下旬になってやっと秋らしくなってきた。
 仙台は昔から「お盆を過ぎたら秋風が立つ」といわれており、例年残暑の盛りを過ぎた9月はじめには「あかあかと日はつれなくも秋の風」(芭蕉『奥の細道』)といった感じが濃くなるのに、今年は連日真夏日。わが家も夜はエアコンを点けなければ寝られなかった。7月はじめの九州豪雨を皮切りに、7月中は夏がどこかで足踏みしているような梅雨寒が続き、8月に入ると一転して連日の猛暑、それが9月なかば過ぎまで続いたのだ。
 私の季節感もすっかり狂ってしまった。

 私は80歳を過ぎた頃から"明るくなったら起きる、暗くなったら寝る"を心がけるようになり、ここ2〜3年はほぼ身についていた。簡単にいえば"8時就寝、5時起床"である。そして3度の食事をはじめ外出や運動、読書、原稿書きなどの日常活動はすべてその睡眠時間をメインに回るようになっていたのだった。こじつけめいた言い方だが"原始人的生活"である。
 私は元々「運動部系昼型人間」なので夜はあまり得意じゃない。若い頃はそれでも成りゆきで徹夜麻雀などもやったが、遊びはともかく仕事に寝る時間をとられることはできるだけ避けた。そのかわり夜になって暗くなればどんなシチュエーションでも眠りに就けた。
 いまから74年前、昭和20年夏の敗戦間近の頃、中学1年生だった私はこんな経験をしたことを覚えている。
 当時、私たち一家は台北市郊外の新店という田舎町の奥に疎開していた。ある日私は自宅に何か用があって一人で行き、疎開先へ戻るのが遅くなって、新店まで行く軽便鉄道(通称"新店ポッポ")の終列車に乗った。ところが気が付いたのは翌朝明るくなってからで、私は列車最後尾の貨車の中で赤レンガを枕に熟睡していたのだ。戦時中とあって駅員の数も少なかっただろうし、彼らもまさかそんなところで子どもが寝込んでいるなんて思いもせず、調べもしなかったのだろう。
 
 ところがこうした原始人的暮らし方も、夜明けが早い夏場はいいが次第に夜が長くなっていくこれからは、あまりうまくいかない。というのは先月の彼岸の入りあたりから5時起きできずに、ちょっとずつ寝坊するようになってきたのである。何しろ9月下旬の日の出は5時半過ぎだ。私の目覚めもそれに従わざるを得なかったということだ。
 しかしよくよく考えてみれば、睡眠時間さえしっかり確保しておけば、就寝や起床の時刻にはそれほどこだわる必要もないなとわかる。とにかくこれから秋も深まるにつれて日の出はますます遅くなり、今月末には6時頃になる。
 しかも日本には四季がある。秋は"灯火親しむ可き候""夜長の季節"だ。6時に起きようと思えば夜はゆっくりできる。朝起きは原始人でも夜は文明の灯を大いに楽しめばいいのだ。そうすれば本ももっと読めるし、この季節限定の美味い"ひやおろし"もゆっくり味わえる。
 年老いるにつれて頑固になるのはしょうがないが、一度決めたからといって金科玉条にすることはない。人は頭も体も死ぬまで柔軟なのがいい。年老いたら「融通無碍」な生き方がよさそうである。
 

2019年09月27日(金曜日)更新

第567号 〜家内がゴルフにカムバック〜

 先週、家内が1年半ぶりにラウンドした。
 もちろん私も一緒で、コースはかつて月2回は行っていた私たちがお気に入りのOゴルフ場だ。一昨年の12月にラウンドして以来だから、ほとんど2年ぶりである。さっき1年半ぶりと書いたのは、その後、昨年4月はじめにこれもお気に入りのJUNへ泊りがけで行っているからだ。

 家内がこれほどゴルフから遠ざかった理由はいくつかある。
 まずは昨年初めから家内の実家の義姉が入院して、4月に亡くなるまで10回近く上京を繰り返したこと。3月下旬から私の左眼が急に悪化したため、それまで私がやっていたパソコンへの原稿入力を家内に代わってもらったこと。義姉が亡くなった後、実家で家内が慣れない電動自転車で買物に出かけ、転倒して腰を圧迫骨折したこと。加えて元々のひざ痛と相まって、ゴルフどころか一時は歩行さえ困難になったこと……などだ。要するにさまざまなアクシデントが重なって、ゴルフができなくなってしまったのだった。

 特に二人でよく行っていたOゴルフ場にはすっかりご無沙汰してしまい、昨年6月初めの本欄には、
「……コースの支配人やフロントの女性たちは『元気そうだったけど年が年だったからなぁ』『何かあったのよね、きっと』なんて噂しあっているんじゃないかな……」などと書いている。
 ただプレーできなくなったのは家内だけだから、私はその間も町内のコンペに参加したり、仲間から誘われたりして、ポツリポツリとプレーしていた。

 とはいえ家内自身も、このままゴルフを諦めてしまおうとまでは考えていなかったようだ。何しろ義姉がが亡くなった後、姪から「叔母ちゃん、これ使ってみて」と贈られた1番から9番までの新しいウッドクラブ5本のセットがあり、JUNで筆下ろしに使ったらミドル以下の距離が前のアイアンよりはるかに打ち易く、「これならまだ5年以上はできるわね」と喜んでいたのだ。だから診療を受けている整形外科のセンセイに「そろそろクラブを振っても大丈夫ですか?」とたずねたり、特にリハビリ治療を受けるなどして、カムバックの努力はしていた。
 何しろ家内もキャリアは私とほとんど同じ、45年を越える。それに当地に転居してから二人ともスキーから何となく遠ざかるようになり、私につられて始めたテニスもひざ痛でできなくなったとあっては、これから一緒に楽しめるものはゴルフしかなくなったといっていい。松島にリーズナブルな温泉ホテルを見つけて時々出かけたり、久しぶりにカラオケを歌ったりしているが、何となく物足りない。私たちはやっぱりアウトドア派なのである。

 そんな家内がふた月ほど前、突然「練習に行こう」といったのだった。前日本欄の原稿を仕上げ、当日は予定がなく、お昼に丸亀うどんを食べてブックオフでものぞいてこようかなと思っていたところだった私も「まあいいか」とOKした。私は練習場にはほとんど行かない。ラウンド前にコースの練習場でひととおり打てば、体にしみついたスイングは目をつぶっていても再現できる。そのへんは夫唱婦随だから二人とも久しぶりの練習場だった。
 ともかくそうして行った練習場で40球ほど打った家内は「何とかやれそう」といい、見ていた私も「歩くことさえできればラウンドできるな」と思った。それからひと月半ほど、家内は自分なりに選んだコースへ、天気予報とにらめっこしながら予約とキャンセルを2〜3度くり返した末に先日ようやく、かつておなじみのOゴルフ場でコースカムバックを果たしたのである。

 結果はまあまあだった。
 打ったボールは一応空中をファウェイやグリーンに向かって飛んで行ったし、後続組をイライラさせることもなかった。何よりよかったのは、18ホールをきちんとホールアウトできたことで、家内はプレー終了後「やっぱり芝生の上を歩くほうが楽だわ!」とうれしそうだった。フロントの女性スタッフやスタート係の若いS君が久しぶりの私たちを覚えていてくれたのもよかった。
 そんなこともあってプレー翌日には、家内は早速来月のプレー予約をした。とにかくこの年になっても夫婦とも達者でゴルフができることを、素直に喜びたいと思った。またしばらく楽しみが増えた!
 

2019年09月20日(金曜日)更新

第566号 〜年寄りは増え敬老会は消える〜

 さきの日曜日、町内会主催の"敬老昼食会"があった。
 集まったのはこのマンション団地に居住している町内会加入者で、満70歳以上の希望者だけだったが、それでも50名近い人数になった。だから理事会やゴルフコンペ後のパーティなどで使う約20畳の洋室ではキャパシティ不足、体育館を使用した。記憶では体育館を使うのは一昨年からで、少子高齢化の進展はこんなところからもわかる。
 
 ところが団地の全住人中70歳以上は200人以上もいて、参加者はその4分の1にしかならないのだ。会の案内はもちろん有資格者全員にポスティングする。しかし参加・不参加の返事を期日までしてくれるのは半数をやっと越えるぐらい、残りは文字どおり"梨の礫"だという。いや中にはポスティングする町内会の役員を見て「どこからこんな個人情報(年齢)を入手したのだ?」とクレームをつける者もいるらしい。
 この団地のような都会の新興住宅型マンションには「老後を気ままに暮らそう」と考えて住処を選んだ住人たちも多く、そういう人たちは隣り近所や町内の行事には一切関わろうとしないのだ。ただし参加を拒否する人たちがすべてそういう"マイウェイ型"というわけではない。いまの日本の高齢者は女性が圧倒的に多く、それも大部分は主婦として家を守ってきた女性たちだ。人好き合いが苦手というのもしょうがない。

 私自身はこうした集まりに参加するのは嫌いではない。元々野次馬の目立ちたがりはこの年になっても衰えないのだ。といっても座の中心になって振る舞うようなことはしない。
 当地には昔から"仙台時間"といって、偉ぶった御仁は皆より遅くやってきて空いている奥の席につく習俗があるが、私は自分でもタイプじゃないと思っているから間違ってもそんなことはしない。いつも定刻よりちょっと早目に行って席に着き、傍の人とおしゃべりを楽しんでいる。ただし話し相手は気の合う人が主で、いわゆる"反りの合わない"御仁は向こうから近付こうとはしないし、またそんな相手を避ける意味でも早目に行くのである。

 ところで、区切りの70歳は戦後のベビーブームのはしり、団塊の世代の始まりだ。新生日本を支える原動力として大切に育てられた、私たちから見ればキラめくような世代である。近頃の若者ほどではないにしても、私たちとは価値観も考え方も異なる人たちが多いと思う。彼らにとっては敬老会など優先順位4〜5番目、他に予定がなければ行ってみようか、という程度ではないか。
 一方われわれ年寄りのほうにも問題児は多い。かつて曽野綾子さんが書いていたように、「いまの年寄りはワガママで甘ったれ」だから、既得権ばかり声高に主張し、弱者ぶって世間の厄介になるだけ。どうひいき目に見ても"嫌老"侮老"の対象にしかならないのだ。

 というわけで、私は当日"敬老会"も"敬老の日"も近いうちに消えてなくなるだろうなと思いながら出席していたのだった。
 
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