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2023年03月31日(金曜日)更新
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第745号 〜90歳からの生き方を考える〜
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明日は4月1日、役所や会社学校などでは新年度のスタート、ピカピカの1年生の新生活が始まる。私もこのマンション団地の管理組合理事会で監事(業務監査)をもう1期・2年務めるので新しいスタートだ。理事会も管理センターもいまの私ならあと2年ぐらい平ちゃらでしょうと見てくれたのだ。92歳を越えるが目がちょっと不自由なだけで内臓には特に疾患はなく脳も足腰も達者、不慮の事故にでも遭わない限り問題ない。
ともかく昨年10月なかば目出度く90歳の誕生日を迎えてから4ヵ月ほどは私も妙に年齢を意識していたし、さらには体も動作もけっしてその年には見えないことも意識していた。
何しろかの有名な杜甫の「人生七十、古来稀なり」より20年も長生きなのだ。少子高齢化がどんどん進んでいる現代日本でも男性の平均寿命81.47歳を10歳近くもオーバーしている。しかも私は「1万歩スイスイ歩く90歳」である。体力知力気力とも実年齢よりはるかに上だという自信がある。
そしてこの90歳を自慢したい気持ちに駆られて、私は昨年秋口から「自分が幾つぐらいに見えるか?」と、見知らぬ人によくたずねるようになった。たとえば山歩きの途中に出会う工事現場の交通整理をしている人や、墓地の花壇の手入れをしている人などで、それも話好きそうな相手が手持無沙汰でいるタイミングを狙って話しかけ、気さくな雰囲気になったところでたずねるのだ。
そして皆が皆「70代から80代初め」というのを聞いて、何となくいい気分になったものだ。
こうした自慢ができ自信を持てることはけっして悪くないと思う。かの三島由紀夫がボディビルに精を出し「貧弱な体に宿る思想は所詮貧弱なものでしかない」といったように、老いさらばえた肉体から出てくるのは"若さ"への妬みと羨みでしかない。
そして私は只今"これからどう生きるか?"思案中なのだが、ところがこれがけっこう難問なのである。
いままでどうりやりたいことをやり、誰にも束縛されず、羨ましがられるような楽しい日々を達者に積み重ねるだけでは済まない……というより、何やら不十分という気がするのだ。せっかくこの歳まで永々と、いや永過ぎるほど生きてきたのだから、もうちょっとカッコいい工夫があってもいいじゃないかと思うのだ。
現在私のいわゆる係累(自分が世話をしなければならない家族たち)は家内と東京にいる息子の二人しかいない。身近な肉親4人のうち1番早く亡くなったのは父で60代なかばだった。この父とは縁が薄く私たちの結婚式にも出席しなかったし、家内が顔を合わせたのは息子が生まれて間もないJR南武線沿線のアパート暮らしのときで、それも10分足らずだった。
次いで母が70代はじめ。まだ新幹線開通前で家内は臨終まで何度も往復している。次いで下の弟のときは私たちもここへ転居しており、死後彼が留守番代わりに住んでいた親の遺産の家屋敷を私が処分して兄弟3人で分けた。
そして上の弟が10年前逝った後、私はそれまで私たちが台湾から引揚げて以来、父を除く家族全員の大きな負担になっていた本家や親戚との付き合いを断ち、家内と二人これ以上はないと思うほど悠々とのんきに生きているのだ。
つまりは"これまで以上に達者で楽しく二人で老後を送りたい"のである。
欲張りだろうか!? |
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2023年03月24日(金曜日)更新
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第744号 〜私の"のんきで長生き"の元〜
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先週に続いて太平洋戦争末期、台湾の小学5〜6年生の思い出を書く。
6年生の担任だった叶(かのう)先生は熊本出身だった。珍しい姓だが同県には多いそうで、後年これも熊本に引揚げていた級友の小早川君がいっていた。
ところで近年やっと気付いたのが、私は叶先生の下の名前をまったく知らないのだ。小学6年生だった頃はもとより、その後も1度も誰かに訊いたり調べたりしようとはしなかった。そしてあらためて考えてみると先生の名前がほとんど全部そうなのだ。1年と2年で担任だった宮田先生、3年生の時の女の貞先生、4年生では中川先生……他のクラスに至っては校長先生も含めて名字さえ覚えていないのだ。
ただ一人だけ例外がいた。5年生の担任・林利光先生だ。この先生を私たちは陰で「リンリコウ」と音読みしていた。「ハヤシセンセイ」より字数も少ないし、リズムもよく呼びやすい。"愛称"みたいなものだ。ただし面と向かって呼ぶことはさすがになかった。
下の名前を知らない、あるいは忘れるのは「○○先生」だったからだ。先生は職業名であると同時に"敬称"であり立派な"肩書き"でもある。「岸田総理」と同じようなものだ。そして実際にいま私は岸田総理の下の名前を思い出せない。
そんな中で"リンリコウ"先生だけ音読みだったのは"場所柄"もある。台湾人の名前はすべて中国名、漢字3字の音読みだ。私たちのクラスにも以前ここに書いたことがある張世銘君をはじめ蒋君や王君(二人とも下の名前は忘れた)など台湾人の子が数人いた。ただし金(キム)君や朴(パク)君はいなかった。リン先生もいつの間にかそう呼ばれるようになったのだろうし、級友の中にもいつの間にか音読みになった1人がいたのだ。
林泰昭(はやしやすあき)君だ。二年生のとき本州(東京)から転校してきた生徒で、言葉が私たち台湾育ちとは違うちゃんとした標準語をだったので、国語の時間にはいつも読本を朗読させられていた。彼が「リンタイショウ」と呼ばれたのだ。何しろ当時の子どもなら誰もが知っている"乃木大将"と同じなのだ。彼自身も"気に入っていた"と後年いっていた。
人付き合いもよく、クラス会へは毎回出席していたし、クラスの仲間たちで行った台湾や長崎への旅行も私などと同じく奥さん連れで参加していた。また数年前(新型コロナ感染拡大以前)にはこれもご夫婦で東北旅行の途中、私たちの住居へ立ち寄ってくれた。
2年前この林君の訃報が届いた。家族に見守られながら笑顔で逝ったそうで、あやかりたいなと思った。
そしてこの後すぐ電話で消息を確かめ合った級友が2人いる。千葉県在住の清瀬君と埼玉県在住の桜井君だ。二人とも当地へ転居する前、家内も一緒にゴルフをやったことがあるし、桜井君とは志賀高原でスキーもやった。
ただしその後の2年間はお互いに全然やりとりがないので、恐らく生きてはいるのだろうなと思うだけだ。
この小学校後期から引揚げまでの数年間は、これまで生きてきた90年間でいちばん"のんき"に日々を送ることができた"かけがえのない"ときだったと思う。暦はまぎれもなく戦時下だが、アメリカが戦後台湾を蒋介石に無傷で返すために攻撃を控えたのだ。
そしていま私は人一倍心身達者な90歳である。これからも"のんき"に日々楽しく過ごしていこう。 |
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2023年03月17日(金曜日)更新
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第743号 〜6年生の担任と級長・森谷君の話〜
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3月なかばのいま頃になると毎年必ず思い出の中に登場する人物がいる。小学6年生のクラスメート森谷五郎君と担任の叶(かのう)先生だ。森谷君とは成人してからも何度も会っているが、叶先生とは台湾から本土へ引揚げて来た後は1度も会っていない。他の級友の話によると私たちが30代の頃にはすでに亡くなっていたらしい。また森谷君もすでにあちらの人だ。
私たちが東シナ海の荒海にもて遊ばれながら引揚げて来たのが77年前のちょうどいま頃、歳月は実に長いのである。
森谷君は6年生のとき級長だった。しかも卒業式では"生徒総代"だった。これだけ見れば優等生である。
私たちの南門小学校は1クラス50数人が各学年男女とも3組ずつある、いまでは想像もできないマンモス校だった。しかも1年生の入学から6年生までいまなら常識の"組替え"がなく、全員同じ顔ぶれだった。だから全員が級友のことを子どもなりにちゃんと知っていたし、誰が6年生の級長や総代にふさわしいかもそれぞれ自分なりに判断があったはずだ。
おまけに私たちのクラスは5年生から6年生になって担任が変わった。普通は中学受験を控えた大切な時なので変わらないのだが、戦時下でもあり、また叶先生が私たちの担任終了後、私たちが進学した台北一中(台湾第一の名門中学校)の体育教師になったところを見ると、それなりの理由があったのだろう。
この叶先生とともに森谷君がとりわけ記憶に残っているのは、私が高校2年生のときから始まった国公立大学の共通一次テスト"進学適性検査"(進適)がきっかけである。これは後年小学校でも行なわれるようになったIQ(知能指数)テストのいわば"はしり"だ。予習などできない"ぶっつけ本番"であり、私にはピッタリのテストだ。
私はこれで当時県内トップクラスの進学校だった仙台一高の2,3年生全員中2番、その後転校して行った神奈川の高校では学校そのものが二流校だったので断トツのトップだった。いまのIQに直せば150程度か?
そして当時東大をはじめ国公立大学の入試はこの"進適"で一次のフルイをかけていたので私も1度受験したが、二次の筆記試験の問題を見て、「こりゃダメだ」とすぐワセダに切り替えたのだった。
戦後になって森谷君に最初に出会ったのがそのワセダ在学中、神宮球場早慶戦の応援スタンドだった。私がセーターなどのラフな格好だったのに対し彼は学生服姿で襟に"商学部"のバッジを光らせていた。ただしキャンパスでは1度も会わなかった。彼が授業すべてに欠かさず出席していた勉強熱心な学生だったか、夜間部の生徒だったかもしれない。
さきに書いた"進適"の話をしたのは二人とも社会人になり、年1度のクラス会で会うようになってからだ。私が話題にした途端、彼がさえぎるように「あんなもの無駄なテストだったな」といったのだ。私はすぐ「彼には苦手なテストだったんだな」と気付いた。そして子どもの頃から人一倍勉強する努力家だったのだろうと思った。また叶先生も同じような努力家だったから彼を"ひいき"にし、級長や総代にしたのだろうな……と思ったのだった。
森谷君はワセダ卒業後、ある大手製薬会社に就職したが勤め先では目が出なかったようで「ボクは反逆児だから」とよくいっていた。そして遊びらしい遊びも趣味らしい趣味もなく60代なかばで亡くなった。
小学5,6年生の頃は思い出すことがまだまだ沢山ある。年老いて忘れないうちに次回も書いてみようと思っている。 |
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2023年03月10日(金曜日)更新
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第742号 〜二人とも耳はだいぶ遠くなったが〜
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前回書いた"子どもの頃歌ったこと"からの連想だが、この2〜3年私も家内もほとんど歌っていない。コロナ感染拡大以前は親しい仲間との食事後などカラオケ店に行ったりしたものだが、それもまったくなくなった。
さらには私も家内もここ2〜3年で耳がだいぶ遠くなってきた。私は年齢相応の経年劣化だが、家内の聞こえなさは年齢以上だ。何しろ「歌っても自分の声がはっきり聞きとれないので、ちゃんと歌えているかどうか自分ではわからないからつまらない」のだそうだ。
自分の声を聞きとる仕組みは"骨伝導"による。声が頭の骨などを伝わって内耳に達し、そこから脳に伝わるのだ。家内は自分の声ばかりでなく外の声も聞き取りにくくなっている。電話をかけていて「もうちょっと大きな声で話していただけませんか」とよくいっている。聴覚全体の老化が私より進んでいるようだ。
それにくらべると私の耳は年齢相応だ。山歩きの際ズボンの尻ポケットに入れているケータイの呼出音も、後方から近付いてくる車のエンジン音もしっかり聞こえる。車の音など聞こえなければ危なくて歩けない。目が悪くなった上に耳まで……では"事件"だが、そのあたりは"もうしばらく生きて楽しめ"という神さまの思し召しだろう。
こんな老夫婦二人だけの住居は日々静かなものだ。私が元々口数の少ない方だったし、家内も私に合わせて少なくなってきた。昨年暮だったか上皇陛下のお誕生日に、テレビが美智子様とお二人のお暮しぶりを「静かに穏やかに規則正しく」とレポートしていた。わが家も規則正しくはないが静かで穏やかではある。
60年以上も一緒に暮らしていれば、たいていの事柄は「あれ」「それ」「これ」で通じる。たとえば当日出掛ける用事があっても、急なものでない限り前日お互いに予定を確認しあっているのでそれぞれのタイミングで行動を起こすだけ、会話の必要は少ないのだ。
おまけにこの2〜3年は私たちも住居にいることが多くなっている。いちばんの理由はコロナ禍だが続いて発生した私の左眼失明がそれに輪をかけた。ゴルフをやめてしまったのでそれから派生していた小旅行もどんどん減ってしまった。
そのため一昨年秋の終わり頃には家内もそれまで乗っていた車を手離すことを考え始めたくらいだ。排気量の大きい馬力のある車だったので遠出にはいいが維持費がかかり過ぎる。老夫婦二人のマイカーには不向きになり"家計のやりくり天才"を自認する家内もいささか持て余すようになっていたのだ。車は幸い姪の口添えで義兄がスポンサーになってくれ、小型のよく走るエコカーに買い替えることができ、以前と同様に家内の日常行動の支えになっている。
一方私も目以外はすべて達者である。この冬は例年にない寒さ続きで雪も多かったので"歩くこと"が少なかっただけで、その他の楽しみ"書くこと"はこうしてしっかり続けているし、先日雪に降りこめられたときは朝食後から夕食前まで、空いている時間に"腕立て伏せ"と"スクワット"をやってみたりした。90歳を超えても気力体力知力ともまだまだ旺盛なのだ。
原稿を書こうと机の前に腰を下ろしたはいいが頭には何も浮かんでこず、椅子を回してベランダのガラス戸越しに視界いっぱいに広がる空を眺めながらたゆたう白いかたまりに向かって「おーい雲よ/バカにのん気そうじゃないか」と胸中でつぶやくなんて私らしくないだろう。そんな無為無聊をかこっているより明日病院へ着ていくものを上から下までコーディネートしているほうが私らしいのだ。
家内にしても「自分の声が聞こえない」といいながら、夜ベッドで歌っているのをドア越しにときどき耳にする。二人だけならカラオケだって歌えないことはないだろう。機会をつくって行ってみよう。 |
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2023年03月03日(金曜日)更新
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第741号 〜子どもの頃のあの歌この歌〜
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本日は"雛祭り"童謡「あかりをつけましょぼんぼりに/おはなをあげましょもものはな……」がどこのスーパーでも今日は店内に流れている。曲が発表されたのは昭和10年、以来90年近く人々に親しまれてきたはずだが、残念ながら子どもの頃の私は知らなかった。
これまで何度も書いているように、私は戦前の台湾で生まれ育ち、敗戦の翌年初めて本土の地を踏んだ引揚者である。しかも男ばかりの三人兄弟だ。戦前の台湾で雛祭りや端午の節句(五月五日)を行事にしていた家など稀だったろう。
尚「ひなまつりのうた」の作詞はかのサトウハチローである。だがレコードなどでは"山崎三郎"になっているが、ペンネームにした理由はわからない。
子どもの頃覚えた歌でいまもよく思い出すのは唱歌と軍歌が多いが、紀元節・天長節・明治節など国家の祝日の歌もけっこう記憶にある。そのひとつ紀元節の歌の一番。「雲にそびゆる高千穂の/高嶺おろしに草も木も/なびき伏しけん大御代を/祝う今日こそ楽しけれ」。ニニギノミコトの"天孫降臨"を歌ったもので、これが"神武東征・大和建国"へつながるのだ。
折から紀元2600年(昭和15年)とあって、こんな神話もわれわれは「さもありなん」と思っていました。ハイ!
唱歌では「元寇」が"お気に入り"だつた。鎌倉時代中期に起こった「文永・弘安の役」を歌ったものだ。「四百余州を挙(こぞ)る十万余騎の敵/国難ここに見る弘安四年夏のこと」というのが一番の歌詞だ。すなわち当時中国にできたばかりの大国・元の初代皇帝フビライが日本に入貢(貢物と臣従の使者)を求めてきたのを時の幕府の執権北条時宗が拒否したので、元と高麗の連合軍が北九州に来襲したのだ。
その最初が文永11年(1274)二度目が弘安4(1281)年だ。
しかし鎌倉武士はグループ戦を知らない。「やあやあ我こそは……」と名乗りをあげるところを元軍の火矢に射られ、ひるむところを寄ってたかって討たれてしまう。そして何人か討つと全員さっさと舟に引き揚げてしまう。こうして少しずつ戦力を削いでゆき、手薄になったところで全員一気に上陸しようという腹なのだ。
この国難を救ったのが季節の台風だ。折からシーズンとあって南からやって来た台風が、ひと固まりになっていた元高麗軍の船を衝突させ打ち壊し、海に投げ出された兵士も大半は荒れる海に呑まれた。そして辛うじて助かった少数が壊れた船の残骸にすがって朝鮮半島まで帰ったのだろう。
しかもその7年後にまた同じことが起こったのだから、われわれ日本人の大半が台風を"神風""日本は神の国""いざというときには神様が助けてくれる"と信じたのもムリはない。
「元寇」に関しては660年後、実にバカバカしい余談がある。時は昭和16年末から17年にかけて、太平洋戦争勃発間もない頃のことだ。巷ではこんな話が流布していたという。「元寇のとき北から来た敵をやっつけたのは"北条"だった。今度の戦争は東から来る敵だから"東条"が勝つ」時の首相・東条英機に期待したわけだが、こうなると"神頼み"どころか"名前占い""方位占い"である。
子どもの頃の歌は他にも軍歌や流行歌もある。それらの話はまたの機会にしよう。 |
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