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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2019年03月15日(金曜日)更新

第540号 〜"行雲流水"を楽しめる余裕〜

 もう30年近く前になるか、水越けいこというシンガー・ソングライターに『波に寄せて』という曲があった。歌い出しは「淋しくなると、/この海に来て/夕暮れ待ちながら/ただひとり……」だった。
 大ヒットを飛ばし大人気を博するような派手さはなかったが、詩も曲も歌唱力もかなりレベルが高い感じがする歌い手で、隠れファンも多かった。実は息子がそんな一人で、アルバムからテープに録っていたものを家内が気に入り取り上げてしまった。そしてゴルフなどで遠出するときに持って行くお気に入りラインナップに入れていたので、私もいつの間にか覚えてしまった。女性の歌だし大声を張り上げて腹ごなしに歌えるような曲でもないので、カラオケでやったことはないが頭の中にはちゃんとインプットされているから口ずさむぐらいはいまでもできる。
 実はこの曲が記憶からなかなか薄れない妙な理由がある。さきの歌い出しの第2節が私には"弁慶ぎなた読み"に聞こえるのだ。"弁慶はな、ぎなたを持って"という読み方だ。つまり"この海に来て"が"このウ、見に来て"と聞こえてしまい「ウは鵜か?」とツッコミさえ入れたくなる。われながら妙なところを……と思うが気になるのだからしょうがない。

 ところで、私はここ何年か海を眺めていない。"眺める"というのはこの水越けいこの歌の続きにあるように、寄せては返す「波のひとつずつ/想いめぐらす……」ことだ。かの東日本大震災以前は私たちも北は志津川湾、南は通称"浜通り"を北茨城あたりまでよく走った。海辺のホテルに泊まって朝風に吹かれながら露店風呂に漬かったり、塩屋崎の灯台に上って沖ゆく船を数えたりしたものだったが、大震災以降は特に福島第一原発の事故もあって、そうしたことはほとんどご無沙汰になった。せいぜい松島のリーズナブルな温泉ホテルに息抜きに出かけるか、この団地で親しくお付き合いしているMさんの新築した別宅(かつては松島湾と石巻をつなぐ運河沿いにあったが、大震災の津波で流されて高台の新しい駅の傍に移転した)にお邪魔するくらいだ。
 波のリズムに気持ちを委ねて、とりとめもない思いにひたる……なんてことはほとんどなかったのだ。

 海の波にしろ川の流れにしろ、大自然の単調な水の動きをただぼんやりと眺めていると、心の中の世事雑事などいろんなしがらみがどうでもいいというか、くよくよ考えることないやというおおらかな気分になってくる。その波や流れは「春の海ひねもすのたりのたりかな」(蕪村)の丹後ののどかな海でもいいし、「最上川逆白波のたつまでにふぶく……」(斎藤茂吉)激流でもいい。要は大自然がつくり出すリズムだ。

 73年前のまさにいま、私は怒涛逆巻く東シナ海をちっぽけな引揚げ船に乗って台湾から内地(台湾や朝鮮で暮らしていた日本人は北海道〜九州をこう呼んでいた)に向かっていた。基隆港の埠頭を離れ奥深い湾内を航行していた小1時間ほどはほとんど揺れなかった船が、湾口から外海に出た途端いきなり縦横の大きなピッチング、ローリングを始め、床も壁も鉄板の船倉に詰め込まれた引揚げ者のほぼ全員がひどい船酔いになった。しかも大きなうねりに乗り上げるときは船首が空に飛び出すほど高く上がり、うねりとうねりの間に落ち込むときは船尾が海面から随分離れて、スクリューが空回りする重い轟音が船倉の鉄板を震動させるのだ。引揚者には難破の不安もあっただろうと思う。
 そんな中で私はまったく平気だった。船にどれだけの人数が詰め込まれていたかわからないが、酔いもせず3度のメシを余さず食べていたのは私一人だけだっただろう。日中は小雨と強風の甲板に出て一面灰色の空と海を飽かず眺めているだけだったが、誰にも会わなかったし言葉を交わした人もいなかった。おそらく灰色の荒海をただ眺めているだけで、何も考えていなかったのではないか。
 まさかの敗戦に遭遇した中学1年生の少年など、環境の激変についていくのが精一杯で将来のことなど考える余裕なんかないのが普通だろう。あえていえば、あの荒海の1週間の私は"行雲流水"―物事にこだわらずただなりゆきに任せる―そんな気持ちだったと思う。
 一人だけ船酔いしなかったのも、何か意味があったのではないかという気さえしてくる。

 このところ海を見に行くのが少なくなったかわりに、私は空の雲をよく眺めている。雲も波や流れと同じで千変万化、眺めていても飽きることなく気持ちをあずけることができる。そうしていつのまにか「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢゃないか……」とつぶやいてみたり、「淋しくなると/このウミに来て/夕暮れ待ちながら/ただひとり……」と口ずさんだりしているのだ。
 こんなぼんやりした時間が持てるのも、達者で生きていればこそだ。
 

2019年03月08日(金曜日)更新

第539号 〜"置き去り老人"が増えている!〜

 私たちは週に2度ぐらいお昼を外食する。行きつけの店の半分以上は丸亀うどん、あとはファミレスだ。何しろ老夫婦二人だけの食事は調理、つまり家内の手間がかからずおカネもかからないのがベストなのだ。
 本題に入る前に参考のためわが家の日頃の食事ぶりを説明しておこう。
 まず朝はそれぞれ別だ。早寝早起きの私が自分流のメニューで自作自演(食)し終わった頃、家内が起きてきてこれまた自作自演する。昼食は前述のように3分の1の外食以外は作り置きのカレーやチャーハン、焼うどんなど家内の手慣れたもの。そして夕食はたまの外食以外はたいてい家内の手料理だ。50年以上一緒に暮らしてきて二人とも年齢不相応に達者でいるのを見れば、この食生活は完璧とはいわないまでもまあまあ理にかなっていたのだろう。

 さて、今回のテーマは"年寄りの昼食"である。週2度の外食の際に近頃、それも主に丸亀うどんで気付いたことがあるのだ。年寄りの男性(女性はまず見かけない)が一人だけでやってきて黙々と食べている光景が増えてきたのである。これまで見たところでは5人以上はいる。
 その店は30年ほど前に開通した市北西部の幹線道路沿いにある。周辺は通りに面した側こそさまざまな店舗や病院、会社、事業所などの建物が並んでいるが、1歩裏へ入れば戸建てやマンションばかりの新開発住宅地だ。だから丸亀うどんもお昼時はそれらのカイシャ員たちでいっぱいになるものの、それ以外の時間帯は家族連れなど近所の住人風が大部分で年寄り男性もそんな一人に違いない。実際に知り合いらしい誰かと目礼を交わしていた人もいた。
 彼らの年の頃は私よりひと回り若い70歳前後だろう。こいうところへ一人で食べに来るほどだから生き別れか死に別れか連れ合いがいない"男やもめ"だ。自分ではロクな仕度もできない不器用で融通のきかない独居老人である。

 そういえば2〜3年前あたりからイオンなどの食料品売場で寿司や弁当、出来合いの総菜のコーナーをカートを引きながら物色している一人きりの年寄り男性が多くなった。彼らは10年以上も前に話題になった"ワシも族"とは違う種類で、むしろ一人でお昼を食べにくる近頃の男やもめの仲間だ。そうした"出来合いの食事"物色年寄り男性も近頃は以前よりずっと多くなったように見える。
 だが独居老人の数は男性より女性のほうが圧倒的に多い。私たちの町内会老人会のいろんなイベントに出席する数を見ても女性は男性の1.5倍はいる。ところが丸亀うどんの老人男性ように一人ぽっちでお昼を食べる老女はまったくいない。その理由は考えるまでもない。女性は年老いても食事にしろお茶にしろちょっとでもあらたまって出かけるときはたいてい誰かと一緒なのだ。一人だけで行くのは通い慣れたスーパーへ食材の買い出しに行くときぐらいしかない。
 家内など親しくしている若い知り合いと二人で、馴染みのファミレスで4時間もおしゃべりしていたことさえあるらしい。われわれ男性は5〜6人で酒でも飲まない限りそんな芸当はとてもできない。友好的というか家庭的というか"とかく女性は群れたがる"のだ。

 ここにちょっと興味深いデータがある。いま日本では空き家が820万戸を超え。13戸に1戸以上で住人不在の家があるのだという。ここ仙台でもそうだが首都圏を除く地方の大都市では郊外の新開発住宅地、いわゆるニュータウンから若い世代がどんどんいなくなって残っているのは老人ばかり、市街地のマンションは年々老朽化が進んでこれまた老人主体の住人では建て替えもおいそれとは行えなくなっているのである。
 実際の話、私たちがいまとりあえずは快適に暮しているこの住居も、それほど遠くない将来私たちが住まなくなったらどうなるか見当さえつかないのだ。そんなことを考えると、私たちはこれまで生きてきた過程のどこかで将来の設計を間違えていたんじゃないかという気がしてくる。私たちでさえそうなら、お昼を丸亀うどんで一人ポツンと食べている年寄り男性なんか尚更だろう。

 この人たちに名付けるとすれば「置き去り老人」とでもなるだろうか。そして現在のような"東京一極集中"が続く限り地方で暮らしている年寄りは誰でもそうなる可能性があるのだ。圭角が多くしかも他の人たちより長生きしそうな私など、特に気をつけなければと心しているところである。
 山歩きの際は精いっぱいにこやかに誰彼かまわず挨拶しよう。
 

2019年03月01日(金曜日)更新

第538号 〜車について"昔の人"の意見〜

 交通事故の際、その事故を起こすいちばんの原因になったドライバー、つまり事故のきっかけになる最も重い運転ミスを犯した人物を警察用語で「第一当事者」という。たとえばカーブで先行車を追い越そうとしたとき対向車線をよく確認せずにはみ出して対向車が事故ったときのはみ出した車のドライバー、アクセルとブレーキを踏み間違えて急発進して横から来たトラックに衝突され重傷を負ってしまったドライバーなどだ。これがいわゆる"ヒヤリ、ハッと!"だけですめばいいが死亡などの重大事故につながるケースも多い。警察庁の集計によると、昨年全国で75歳以上の高齢者ドライバーがこの第一当事者になった交通死亡事故は一昨年より42件多い466件あり、全死亡事故の15%弱に達し、これまで最高の割合を記録したという。
 しかも交通事故全体も死亡者も発生件数は前年より減少しており、中でも75歳未満の件数はこのところ減少傾向が続いている。そして75歳以上も一昨年までは下がり続けていたのだが、昨年一転して増加したのだ。75歳以上の免許保有者は年々増加しており、この先団塊の世代が高齢者層に入ってくることから、警察庁では「さらなる対策が必要」といっている。
 
 以上は2週間ほど前の新聞記事から要点を抜粋したものだが、読んでまったくそのとおりだと思う人も多いだろう。
 75歳といえば私よりちょうど10年若い。敗戦は3歳のとき、まだ何も知らない幼児だ。633制の民主々義教育を受け、社会人になってからは高度経済成長の波に乗って普通に勤めてさえいれば欲しいものはたいてい手に入り、身の程知らず分相応な欲さえかかなければ老後もとりあえずは無難に過ごせそうな世代、言い方を変えればたいていのことが"人並み"にできると思い込んで疑問などこれっぽっちもない世代だ。だから運転免許にしても仲間や同僚が取得すれば"俺だって…"とすぐさま教習所に通い始め、マイカーもその延長で買い込んだことだろう。そしてこうした"人並み意識"は上は私たちの世代から下は成人になりたての若者まで、いまの日本人すべてに共通してあるのではないかと思うのだが?

 ただしわれわれは意識だけいくら人並みであろうとしても、体までそうなるものではない。老化は誰にも平等に起こるわけないのだ。
 現に私が罹患した眼の病気=網膜静脈閉塞症は50歳以上の約50人に1人にしか発症しないし、脳や筋肉の衰えにしても個人差がある。したがって脳力筋力を土台にした理解力判断力や反射神経運動機能などもそうだ。加えて車の運転には当人の性格や考え方もモロに反映するはずだ。生来慎重な人は年とともに益々用心深くなるだろうし、女性蔑視やジコチューといった性癖も年老いるとともにあらわれやすくなるだろう。
 この団地の住人で私より5歳下だったS氏(故人)がそうだった。元銀行員らしい温厚な紳士的風貌とは裏腹に短気でキレやすく、自己主張の激しい乱暴な運転ぶりで時々警察の厄介になっていた。リタイアして間もなく離婚したとかでうっ屈するものがあつたのかもしれない。いささか迷惑な人だった。
 
 私は運転免許を持っていないし、教習所へ行ってみようと思ったこともない。友人や同僚後輩たちが取得したり習い始めたりするのを横目に「俺はいいや」と思っていた。その頃の教習所は指導員がやたら威張りくさって口汚く、習いに行った人たちから一様に「Tさんなんか絶対ケンカになるから……」と釘を刺されていたことや、家内が結婚して息子が生まれるとすぐ取得してしまい、私の出る幕がなくなったことなどが理由といえばいえる。
 しかしいまあらためて考えてみると、これは私の生涯で最も賢明な選択=いちばんの正解だったなと思う。何しろ私は酒飲みであるとともに相当な自信家でもあるからだ。運転にはまったく不向きな性癖なのである。そのかわり私はナビゲーターや整備士として家内の運転を十分サポートしてきたと思っている。かつて4駆のRV車に乗っていたときは夏冬のタイヤ交換を私がやっていたし、8人乗りの後部補助椅子を取り外して(車検違反、お巡りに見付かるとうるさい)広い荷物置場にしていたこともあった。

 家内の運転は息子がいみじくも「女性の範疇にはいらない」と評するほど達者である。私も東京でタクシーの運転手だって勤まるだろうと思っているし、いまでもその腕はさして衰えてはいない。去年暮に受けた高齢者講習でも教員から「いいですね」と褒められたといっていた。"もらい事故"でも遭わない限りまだ2〜3年は大丈夫だろう。

 日々の暮らしにとって車は便利なものだとつくづく思う。だから免許を持っていてマイカーがあれば歩いて行けるところでもつい使ってしまうだろう。年老いて足が弱ってきたら尚更だ。そしてわれわれ人間はその便利さに一旦寄り掛かってしまうと、それが無かった昔には戻れないのだ。高齢者の事故も増えるわけだ。
 
 私は意地でも"昔の人"でいたいのである。
 

2019年02月22日(金曜日)更新

第537号 〜私流"読み書き力"が衰えない方法〜

 近頃、簡単な漢字がすぐには書けなくなって往生している。
 たとえばタテヨコの"タテ"や道順をいうケイロの"ケイ"などだ。前者は糸偏(このヘンも竹冠かな?と迷った)にシタガウだがその"従"がなかなか出てこず、後者は彳偏(ギョウニンベン)だったか糸偏だったか確信が持てず、結局辞書を引いてしまうのだ。しかもその辞書『大きな活字の漢字表記辞典』(三省堂刊)の見出し文字が12ポの教科書体でかなり大きく、さらに字数が複数になると字間をわずかに空けてあるのでたいへん見やすくつい頼りにしてしまう。
 実はこの辞典は自分で買ったものではなく貰い物だ。奥付けに「1981年5月1日第1刷発行」とあり、貰ったのはその頃だ。入社したとき私の下にいて後に他の出版社に移ったK君が、私が老眼になり始めたことを知って「これ使ってみて下さい」とわざわざF社まで届けてくれたのだった。以来40年近くいつも私の机の傍にある"有能な祐筆"である。
 辞典には漢字で約5万語が収録されているが、文字だけで意味は書いてない。ただし虎杖(いたどり)とか盂蘭盆(うらぼん)娘を誑(たら)し込むといった、ふだんほとんど使うことのない文字もちゃんとある。辞典にはかの「明解さん」(明解国語辞典、これも三省堂)のように読んで楽しめるものもあるが、この「大きな活字の……」など見て楽しくなる辞典といっていい。

 よく知っているはずの漢字がすぐには思い出せなかったり書き間違えたりするのは、ひとえに年老いたせいだ。記憶を検索する回路のはたらきが鈍くなり目標になかなか辿り着けなかったり、違う目標に着いたりしてしまうのだ。おまけに私など昭和ひと桁生まれが成長期に習得した漢字は旧字体であり、現在のような新字体に変わったのは高校生になってからだ。知識欲吸収力とも旺盛な成長期の脳に一度しっかり収まった記憶は、新しい代用品がいくら簡便なものでもそうたやすくは入れ替わらないのだ。そしてそうした古い記憶は老人の味覚が幼児期に戻るのと同じように、年老いるほど表に出てくるのだと思う。
 いま私は"戻る"と書いたが旧字体では"戸の下に犬"だ。すなわち"犬が戸をくぐって帰ってくる"のであり、私などつい大に点を打ってしまう。こういうこんがらかり方が老化現象なのである。

「この世をばわが世とぞおもふ望月の……」と詠んだ平安時代中期の実力者.藤原道長の日記『御堂関白記』(国宝)は第一級史料として知られるが、その記述に誤字当て字が多いことでも有名だ。辞典などなかった時代だし他人に読ませるものでもないからしょうがないけれども摂政関白太政大臣ともなれば細かいことなど気にしなかったのかもしれない。私もあやかりたいものだが現代では無理だろう。ネットをちょっと覗いてみればわかるように、何かあると誰も彼もいっぱしの評論家ぶってひと言いいたがる世の中とあれば、誤字当て字などもってのほかだろう。

 一方そうした"書く"ことに対して"読む"ことはほとんど復旧した。とはいえ依然日赤の女医センセイの診察治療を受けている身では無理はできない。文庫本のような小さな活字は読まないし、夜も8時半前後にはベッドにもぐり込む。酒も控え目だ。これは飲むのが眼によくないというわけではなく、単なる年のせいプラス相手がいないせいだといっておこう。
 ところで"読む"といえば対象はまず本や新聞雑誌、範囲を広げてもチラシやDM,町内会報ぐらいが一般的なところだろう。もっとも近頃はネットの書き込みを常時チェックしているマニアも多いが。
 だがわれわれの周辺にはそうした"読みもの"以外の"読めるもの"があふれている。ざっとあげても看板、ポスター、案内、注意書き、うんぬんかんぬん……まったくきりがない。私は本が読めなくなってから、歩いているときにそれらを意識して読むようになったが中にはけっこう面白く楽しめるものがあるのだ。たとえば以下のように。
「ギョーカイ最高の音質でカラオケ歌いませんか」――場末の居酒屋みたいなJRの踏切傍にあった飲み屋の店先の貼り紙である。建物は元は普通の住宅らしい平屋の一戸建て。旦那か奥さんかがリタイヤ後の退屈しのぎか小遣い稼ぎに始めたような店だ。周辺は8割以上普通の住宅とあって客筋も常連ばかりだろう。そんな店にこの呼び込みとは……と首を傾げたが、そうか踏切を通り過ぎる電車の響きに負けまいという主人の心意気だなと納得した。
「トイレは心の鏡/あなたの使い方が映ります」――いつも歩いている墓園のトイレの貼り紙である。10ヵ所ほどのすべてに貼ってある。"鏡"だから"映る"ときたわけで作者の苦労工夫のほどがわかる。こうした公共の場のトイレをきれいに使ってもらおうとする側はたいへんだなと思う。以前あるところの男性用に「半歩前へ、きみのはそんなにデカくない」なんて脅迫めいたものもあった。

 とにかくよく"書き"よく"読む"ことは考え方を前向きにしてくれる。できる限り続けたいと思っている。
 

2019年02月15日(金曜日)更新

第536号 〜酔狂だから"うなり坂"も登る〜

 近頃は雪と寒さでゴルフはもちろんテニスもあまりやってない。
 ゴルフ場は積雪さえなければオープンしているだろうが、寒風の中着ぶくれてスィングしたってボールは思うように飛びやしない。それに私のプレーはドライバーが当たりさえすれば80パーセント満足、スコアなんか二の次といった"いまだに初心者"スタイルなので体があちこち縮こまってマン振りできないこの季節は行く気になれないのだ。
 一方テニスはコートがダメだ。団地内のコートは住人はいつでも格安に使えるがとにかく日当たりが悪い。
 団地には4階建ての住居棟が9棟ありコートは棟と棟の間にはさまれている。棟は全戸南向きの設計なので東西に細長く、したがってその間の空きスペースに辛うじて設けたコートもプレーの軸を東西にとるしかなく、このため太陽が低いこの季節はコートの南側の縦半分が建物の陰になってしまうのだ。雪なんか降り積もると数センチでもなかなか解けないし、解けても滑って危ないのである。だから本格的にプレーできるのは3月までおあずけだ。

 そんなわけで近頃の私の運動は歩くことしかない。とにかく機会と時間さえあれば歩く。その一例が先月ここに書いたような家内と昼を丸亀うどんで…と決めたら私だけひと足先に店まで歩いていくことだ。だから毎月1度通院している整形外科など、センセイに会ってロキソニンテープと睡眠薬を処方してもらうだけなので予約も不要、月末になると天気のいい日を選んで歩いていく。これなんか自慢じゃないが"半端ない"のである。
 往路はたいしたことない。団地からほぼ500メートル下った作並街道を広瀬川沿いにくねくねと約45分、旧市街地のはずれになる大崎八幡宮まで行く。病院は街道の反対側赤い大鳥居の対面だ。ちなみにこの八幡宮は坂上田村麻呂が現在の岩手県水沢に勧請した由緒あるお宮で、その後奥州管領大崎氏が守護神として祀り、大崎氏滅亡後伊達政宗がここに祀ったものだ。仙台城の乾(いぬい)の鎮守であり、本殿などが国宝建造物になっている。
 半端じゃないのは復路だ。赤い大鳥居から約250メートル街道を戻ると右側に急坂の狭い道があらわれる。作並街道への開口部は車がすれ違えないほど狭く、朝は街道に合流するのが一苦労という通勤難所だ。しかもその入り口からすぐに急な上りが1キロ近く直登しており、地元では"うなり坂"と呼んでいるほどである。そしてその急坂が途中からダラダラ上りになって団地裏の墓園裏口(これが火葬場の入り口になっている)まで続くのだが、経路そのものは別に往路より近くなるわけでもない。つまり常識的に考えればこんな道をわざわざ帰る必要などこれっぽっちもないので、我ながら"物好きな!"というしかない。

 したがって世間一般の極々普通の人たちの反応も見当がつく。「何を酔狂な」に始まって「若くないんだから」「自信過剰」などから、トドメは「ビョーキじゃないの」である。私にいわせればこれらはいずれも「当たらずといえども遠からず」で中でも"ビヨーキ"は自分でもそうかなと思わないでもない。
 いわゆる"ランナーズハイ"の一種、早くいえば中毒や依存症の類である。

 しかしこの年になって「ウオーキング依存症」なんてカッコいいではないか。いや少なくともアルコール依存症や徘徊老人、さらにいえば毎日いろんな薬を服んで体温血圧脈拍血糖値などの数値に一喜一憂している人たちよりはマシだろう。もっといえば前のめりに首が突き出て腰が落ち、踏み出す膝が曲がったままの老人歩きにならないだけでもいいじゃないかと思っているのだ。
 余談だが、いま"アル中"という言葉は差別用語だそうだ。したがって若者が一気飲みなどやって体調が悪くなる急性のものを"アルコール中毒"、四六時中酒びたりでいないと心身障害を起こす慢性のものは"アルコール依存症"と言い替える。言葉だけ変えても何だかなあ…だが、とにかく何かといえば"人権"を持ち出すのがいまの風潮だからしょうがない。
 余談の余談だが、いまは"老婆"さえ差別用語で、そのうちには"老人"も"老醜"も"老骨"も使えなくなるかもしれない。"ご老体"なんて尊敬だけでなく控え目な賞賛を含んだいい言葉だと思うけどね……。

 ところでさきの大崎八幡宮あたりから広瀬川を越えた先に通称"地獄坂"という急坂がある。青葉山に上っていく坂で東北大学の学生が名付けたそうだ。私には十分歩ける範囲なのでここも遠からずトライしてみるつもりだ。4年前地下鉄東西線が開通して上った後の帰りは楽になったことだし……。
 
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