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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2019年02月08日(金曜日)更新

第535号 〜降る雪や戦後も遠くなりにけり〜

 ここ「仙台は雪国ではないが北国である」という一節をかなり以前地元紙のコラムで読んだ覚えがある。季節はいま頃だったか、それとも三月下旬いわゆる"南岸低気圧"に向かってシベリアから寒波が吹き込み季節はずれの雪を降らせたときだったか、とにかく当市が大雪に見舞われたときだ。その"北国の雪"が今冬は例年よりずっと多そうな気配なのである。
 おまけに私たちの住居は仙台駅から見ると8キロほど西北西方向、元はM群M町だったところで、青葉区とはいっても500メートル下の作並街道をわずか30キロも行けば分水嶺の奥羽山脈を貫くトンネルがあり、その先は山形県だ。北日本上空の気圧配置が西高東低の冬型でしかも等圧線の間隔がせまいときには強い北西風が日本海上空の水蒸気を大量に運んできて蔵王山などの樹氷を大きくさせるだけでなく、降り残した雪を山脈を越えてこちら側まで持ってくるのだ。そしてそれは仙台市街地ではほんの小雪でもこのあたりでは数センチの積雪をもたらすのである。
 雪を持ってくる風はベランダ越しに見ていてもすぐわかる。風と寒気の双方が強い日に右手広瀬川の上流から雲とも霧ともつかぬ白っぽい気流がサーッとやってきて対面の青葉山にベールをかけてしまう。と見る間に右の方からほとんど水平に近い角度で雪片が舞い始めるのだ。私なりに精一杯の表現をすれば"冬の妖精"というしかなく、家内などうっとりと眺めている。

 ただこのあたりで積もるのは真夜中から丑三ツ時にかけて降り始めた雪だ。前夜ベッドに入るときは(近年は早寝になって8時〜9時)降りそうな様子もなかったのに、朝起きて外を見ると一面まっ白ということがよくある。雪は周辺の物音を吸い取るのか、私が寝ている部屋とほとんど同じ高さで20メートルぐらいしか離れていない仙山線の電車の響きもまったく聞こえない。まさに、
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」(三好達治)の雰囲気そのままである。

 だがせっかく積もった夜来の雪も10センチ程度だと、昼前にはあちこちが黒々としたコンクリートの地面に変わってしまうので、雪国情緒にひたるひまもない。何しろこのあたりは以前"村"だったとはいえ現在は100万都市の郊外新開発住宅地域の一角なのだ。ベランダの先に広がる約5百坪ほどの広い市営駐車場にしても、まだ暗いうちから通勤の車が積もった雪をそそくさと払い落として出て行き、車列と車列の間にタイヤ痕がどんどんひろがっていく。これが道路となると尚更で、仙山線の向こう側は一山全体墓園でも中を通る道路はどこかへの近道や経路になっているらしく、濡れた路面がすぐムキ出しになる。
 私みたいに戦後間もない頃の寒い冬を身にしみて経験している者にとっては文字どおり"味気ないことおびただしい"限りだが、これが発達した現代文明の賜物というのなら「快適な世の中になったものだ」と受け取るしかない。

 とにかく私が戦後台湾から引き揚げて来た頃、昭和20年代の仙台はいまよりずっと寒かった。私たちが住んでいたのは駅の東側歩いて10分足らずのところだったが、雪が降ると坂道で手づくりの竹スキーができたほどだ。
 青葉城大手門下の五色沼が凍結してスケートリンクになったこともよくあった。ちなみにこの沼は旧制二高の学生が日本初のフィギュアスケートをやったところとして岸辺に記念碑が立っている。また、いまは通り全体にアーケードをかけて雨も雪も"どこの世界?"といいたげな顔をしている東一番町も、当時は雪が降ると近所の未舗装地域からゴム長をはいた人達がやって来てたちまち泥んこ道になり"仙台田んぼ"といわれたものだった。

 雪景色を眺めているといろんなことを思い出す。
「上さ見れば虫っこ、中さ見れば綿っこ、下さ見れば雪っこ。」というのもそのひとつだ。言葉づかいから見て東北地方のわらべ歌の類いだと思うが正しい由来はわからない。ネットで検索したら、岩手県の酒蔵"S"が冬場限定で販売している活性原酒「雪っ子」のCMが出てきたから、知る人も少なくなったのではないか。
 そしておそらくここ仙台のいまの子どもたちは霜焼けやあかぎれも知らないだろうと思う。
 今冬の雪がいくら多くなっても暮らしはさして変わりなさそうである。
 

2019年02月01日(金曜日)更新

第534号 〜楽観を勇気に次の目標へ〜

 10日ほど前、冒険家三浦雄一郎さんが南米大陸最高峰アコンカグアの登頂を断念した。本人は自信満々だったらしいが、同行の医師から「高所での活動は年齢的に心不全を起こすおそれがある」と勧告されて従ったという。残念だっただろうけど背に腹は替えられない。
 三浦さんは私とほとんど同じ昭和7年10月生まれの申年"当年とって88歳の米寿"である。満80歳のときにはエベレスト登頂に成功しているが、冒険は30代に入った頃から始めて世界キロメーターランセ(スキーで急斜面を直滑降し定められた区間のスピードを競う)に出場したり富士山頂付近から直滑降したり、さまざまなことをやってきた。
 実は私も45年ほど前『週刊大衆』のインタビユー記事の取材で会ったことがある。今回のアコンカグア挑戦に同行している次男豪太さんがまだ幼児だった頃で、スキーのスラローム感覚を身につけさせるため彼を乳母車に乗せて近所の公園の中の道路を走り回ったという話など聞いたものだ。
 とにかく今回は残念だったが「再度チャレンジしたい」といっているそうで、次の目標も胸のうちにはあるのだろう。

 この三浦さんに関連して思い出した言葉がある。いまから100年ちょっと前に活躍したイギリスの南極探検家A・シャクルトンの「目標がなくなったら次の新しい目標を目指せばいいんだ」というものだ。
 シャクルトンは本業船乗り、航海士だ。その縁で南極探検には4回行き(はじめの2回はメンバー、後の2回はリーダー)4回目のチャレンジ途中、47歳で遭難死した。その4回の探検行でもっとも有名なのは1914年の3回目、彼が40歳のときだ。27人のメンバーと共に南極大陸横断にチャレンジしたが、船が流氷に閉じ込められて沈没、遭難する。だがそれから1年半もの間、彼はメンバーを取りまとめ励ましながら1人も死なせずに救出され、生還に漕ぎ着けたのだ。そしてそのリーダーシップが世界中で評判になり、彼自身も時のイギリス国王ジョージ5世から"サー"の称号を贈られたのだが、さきの「目標……」という言葉がこのときのものかどうかはわからない。
 というのもシャクルトンは生来一攫千金屋で、南極探検行の合い間にはさまざまな事業に手を出しては失敗し、亡くなったときは途方もない借金を抱えていたからだ。つまり「目標……」はそうした一攫千金狙いから出てきた言葉という感じが多分にするのだ。そんなわけで彼の言葉では「楽観は真の勇気だ」というほうが私にはピッタリくる。
 よく考えてみれば私自身"勇気"はせいぜい人並みだと思うし、一方"楽観"は人一倍だろうから、こういう言葉には一も二もなく納得してしまうのかもしれない。とにかく人生たいていのことは楽観するに限る。

 ところで話はまったく変わる。
 冒険家探検家と並べてみて、私は"面白いな"と思ったことがある。両者の違いではない。これは簡単だろう。文字どおり冒険は"危険をおかすこと"探検は"危険を探ること"だ。したがって前世紀なかば頃まで地球上あちこちに人跡未踏の危険なところがあったときは探検家が主流、それらが探検し尽くされてからはいかに困難な条件下でそこに挑むかを"楽しむ――アピールする"冒険家の時代になったわけだ。
 私が面白いなと思ったのはもっと単純な言葉のことで、そういうことをする人を示す"家"という言い方についてだ。英語ではたとえば"冒険=adventure"という単語の語尾に"er"をくっつければたいていのケースで"……をする人"がすぐできあがるが、日本語では一筋縄ではいかないのだ。私見だがこれは明治維新後の文明開化で新しい職業がどんどん増えたせいだと思う。つまり明治以前"士農工商"と身分がはっきりしていたときは外見だけで侍か百姓か職人かお店物か見当がつき、それぞれ相応の呼び方もできていたのが、時代が変わって男はみんな"散切り頭"職業も多彩になると、下にくっつける字も多様にならざるを得なかったのである。"家"以外に思いつくままあげると、師、士、者、員、人、手……などがある。手なんかあるかといわれそうだが運転手騎手などすぐ出てくるし、野球では審判と打者走者以外グランドにいるのはみんな〇手だ。

 それにしても"家"をつけるとまずはその分野の権威、実力者と認められるから妙だ。これが冒険屋や探検員だったらそのへんにいる日曜ランナーやその他大勢のスタッフになってしまう。作家と文士の違いである。もっとも文士は"三文々士"につながるから嫌われるので、武士に対する文士という意味ではなかなかいい呼び方ではないか。
 私が大嫌いなのは"者"をつける呼び方だ。近年の"者"は体に故障のある人に対するいわゆる差別用語を"〇〇障害者"などと言い換えたもが多く、そこからの連想で高齢者や有識者にも虫唾が走るのである。年寄りや老人、後者にしても"その問題にくわしい人"でこと足りるのだ。仰々しく古い言葉を持ち出してくることはない。

 われわれ男性はたいてい冒険や探検が好きだ。だから三浦さんの残念さもよくわかるし、一方いまの自分に引きくらべて羨ましいなとも思う。しかし今更どうなるものでもなく私は私の生き方に徹するしかない。
 せいぜい楽観的に新しい目標を目指そう。
 

2019年01月25日(金曜日)更新

第533号 〜新元号"金運元年"はいかが?〜

 30年を越えた"平成"も余すところ3ヵ月余でピリオドが打たれ、新しい元号はその1ヵ月前4月1日に公表されることになった。前にも書いたが私は平成に変わって以来"年"は公的なものでやむをえないケースを除き西暦を使ってきたので、新しい元号についてもそれほど興味はない。ただ世間には商売柄こうしたものは大歓迎という人も多いだろうから人並みの関心は持っている。
 そんなわけで先日、新聞の折り込みチラシで「金運元年」という字句を見たとき思わず「これはいいや!」とひざをたたいてしまった。持っているだけでお金がザクザク入ってくる"世にも不思議な"財布の広告である。「2019年を金運元年に!」というキャッチコピーがその財布の写真の上にドカンとうたってあり、金運元年の4文字が他は黒字にはさまれた金色の影付き活字でひときわ大きくなかなか目立つ。落語のうっかり者なら新しい元号が早くもスクープされたかと勘違いしかねない――実をいうと私も一瞬そう思いかけた。
 チラシによるとこの財布は、素材に欧米で金運や幸運のシンボルとされる馬蹄の紋様を細かく刻印した合成皮革を使用し、「一粒万倍の泉」で全国の宝くじファンに知られる(私はあまり買わないので知らなかった)熊本県の宝来宝来神社の宮司に特別祈祷してもらった有難いご朱印付きというたいへんな縁起ものだ。価格は税送料込みで5千円をちょっと切れる。"験かつぎ"の好きな御仁ならいっちょう買ってみるかと前のめりになるかもしれない……と思った。

 こんどの新元号は、7世紀なかばに日本で初めて制定された「大化」から数えて248番目になるという。平成までの247個――正しくは"元"と数えるが"個"のほうがわかりやすくていい――の中には南北朝時代(14世紀中〜後期の約60年)北朝が制定した18個も入っている。その点では私などが小学校で習った「日本の天皇陛下は神武以来万世一系」はウソだったし、だいたい歴史とはウソを教えるものだ。
 その247個には"金"や"運"はもちろん"幸"さえ入っていない。かろうじて"福"が1度使われているだけだ。どうも昔の為政者はわれわれ民草が金持ちや幸福になるのを望まなかったようで、これからはそんなことはあるまい。
 1979年(昭和54年)に制定された元号法によると、元号は、
「国民の理想としてふさわしい、書きやすく読みやすい漢字2文字で、過去に元号や贈り名(諡号)に使用されていない、俗用されていないもの」
 が必須の条件だという。要は抽象的なわかりやすくめでたい漢字をふたつ並べることで、事物をあらわす具象的な文字は避けるのである。だが古い時代には"雉"をはじめ鳥、雲、銅、亀、国、などが使われていたし、亀にいたっては織田信長が生きて大活躍していた時代の元号"元亀"にもなっている。昔はそんなルールもけっこう大雑把だったのだろう。
 247個中いちばん多いのは"永"で29回、次が"天"の27回だ。ただし"永"は2文字の上にも下にも付けられるが、"天"は上だけだ。これが地元プロ野球チーム"楽天"や私たちが時々行く手頃な居酒屋"凡天"のように下にも付けられたら逆転だ。

 年代を西暦で考えるようになったとはいえ、私は元号を無視しようと思っているわけではない。むしろ日本歴史を勉強するツールとしてこんな重宝なものはないと思っているほどだ。元号を冠した歴史上の事柄を頭に入れておけば日本史はだいたいつかめるのだ。
 たとえばこうだ。大化の改新に始まって天平の甍、承平天慶の乱、保元平治の乱、文永弘安の役、建武の中興、応仁の乱、慶安太平記、安政の大獄、慶応義塾、明治維新、大正デモクラシー、昭和恐慌……あっという間に私が生まれた頃まで来てしまった。これらの言葉はその時代を象徴する出来事を簡潔に言い表わしているから、これを端緒に調べていけば関係する人物や時代背景、前代からの流れ後世への影響などもどんどんわかってきて面白いのだ。
 さらに元号に関して私はこんな記憶もある。
 そのひとつは司馬遼太郎さんのエッセイで「京都人が『うち(家)が焼けたのは先の戦争以来ですわ』という戦争とは応仁の乱のこと……」という話。もうひとつは大江健三郎の『万延元年のフットボール』は"桜田門外の変"を題材にした作品だろうと長年思っていたことだ。何しろ私は彼の作品をまったく読んだことがなく、万延元年とくれば三月三日、雪降る中の井伊直弼暗殺事件しか頭に浮かばないのだ。こんなこと他人に話さないでよかった。とんだ恥をかくところだった。
 ほかにも"明治は遠くなりにけり""昭和元禄"なんてのもある。前者は中村草田男の俳句で昭和6年作、第一句"降る雪や"に続くもの、後者は昭和43年時の自民党幹事長福田赳夫の発言だ。いずれも時代の雰囲気を感じさせてくれる。

 いまネットには新元号の予想があふれている。競馬予想みたいに本命対抗なんてうたっていたり人気順に並べてみたりさまざまだが、支持の多いものをあげると、安延、永明、安化、建和、弘永……といかにも元号らしい。もっとも中には平和、自由、希望など俗用されているもの、大和(まさか、"やまと"と読ませる?)や羽生(はぶ?はにゅう?)なんてものもあり、お遊びもいいところ。
 こうなると、"金運元年"もありだなと思ってしまう。
 

2019年01月18日(金曜日)更新

第532号 〜歩くと新しい発見に出会う〜

 先日、1万5千歩オーバーをちょうど2時間、ほとんど休みなしで歩き通した。距離は約10キロだ。
 お昼を例の"丸亀うどん"で食べようということになり、11時開店に合わせて私は9時10分前に家を出た。家内は車で後から来る。裏のいつも山歩きをする墓園の途中から市の清掃工場(温水プールやリサイクル品の展示&無料提供コーナー、見学コースなども付随した大型ゴミ処理施設)の前を通って仙台北環状線に出たら、後は4車線道路をとっとことっとこ歩いて行った。ただし地元で"北環"と呼ばれるこの道路は東京の"環7"のように平坦ではない。陸奥(むつ)と出羽(でわ)つまり太平洋側と日本海側を分ける奥羽山脈から張り出してきた尾根が仙台平野まで達しており、道路はその台地を越えていくので、前半は墓園からの延長で上り後半はおおかた下りになる。
 この台地は旧市街地から見れば"はるか郊外の山"である。実際に"北山"や"国見"(おそらく伊達政宗あたりが領地の仙台平野を見下ろしたところではないか)という地名とJR仙山線の駅もあり、いずれも私たちの住居より、また当然ながら北環よりも市街地に近い。それが高度成長期に入って宅地としてどんどん開発されるとともに、幅員も十分ある幹線道路も整備されていったのわけだが、民間業者の開発に比して役所のやることは遅いのが常で、この北環が全線開通したのも昭和が平成に変わる間際だった。だから私たちも転居してきた当初はここにそんな道路があり沿線にイオン(当時はジャスコだった)をはじめSCがいくつかと、パチンコ屋、車の販売店、ガソリンスタンド、ファミレス、コンビニなどがひしめき合っているとはまったく知らず、下の作並街道を広瀬川沿いにくねくねと市街地のはずれまで走って買物に行ったものだ。

 そのイオンの少し手前が丸亀うどんまでのだいたい中間点で、北環の最高地点、家からずっとゆるい上りだ。
 そしてイオンのすぐ裏にホテル付き27ホールのゴルフ場と、高さ100メートルのコンクリート製観音像が立っている。いずれも同じ業者が建設したものでオープンしたのは平成3年だ。市内から近いのでひと頃はにぎわったようだが、近年名称が変わったところを見ると経営も変わったのだろう。何しろ27ホール中の9ホールはドライバーを使えないホールがいくつかあるような狭くて短いコースだ。それに練習場が鳥籠だけという中途半端な"つくり"なのだ。バブルの頃あちこちで乱立した会員権で一攫千金狙いコースと似たようなものだろう。また有難い観音様も付近の住民には「夜帰って来ると不気味な感じがする」と悪評さくさく。要するに"バブルのシンボル"みたいな施設といっていい。

 私はイオンまでもイオンからも時々歩いているが、イオンから先の北環は車から眺めていただけで歩くのは初めて、これがけっこう楽しかった。
 道路は相当な下りになる。元は狭かった道を拡張したらしく、左側の歩道の横にはコンクリートや模造石で固めた背丈より高い壁面が続いていたり、右側歩道の横には幅10メートル足らずの粘土の空地にふた抱えもある大きな石がゴロゴロと転がっており、その空地の奥はこれも粘土質の崖といってもいい急斜面なのだ。こういう個所は"切り通し"で道を拡げたのだなと察しがつく。
 急な下り坂が一目瞭然でわかるところがあった。道路の右側にある市営住宅団地だ。5階建て部屋数50戸ほどの集合住宅が10棟ほどまとまっており、うち4棟が北環に面しているのだが、その前の歩道を下りながら観察すると、いちばん手前では1階だった部屋が棟の中ほど手前で2階と同じ高さになっているのだ。つまり傾斜地に横長の建物をつくると両端では同じ高さでも階数が違ってくるのだ。住んでいる人はそれをどう数えるのだろうとちょっと興味をもった。そういえば欧米では日本の1階を"グランドフロア"といい2階から上を"1階2階……"というからここでもそういってるのかなと思ったりした。

 坂を下りて平坦な道を500メートルほど進むと、同じ4車線が交差する大きな交差点に出る。右へ行くと市の中心部、左へ行けばバブル期に開発された大規模文教住宅地区、泉パークタウンだ。ここは県立大学をはじめ県立図書館、中高一貫の有名な私立お嬢さん学校、日韓ワールドカップのときイタリア選手が宿泊したホテル、規模は小ぶりだがアウトレットモール、ちょっとばかり高級なゴルフ場などがある。中でも住宅地の奥まったあたりM山地区は建ち並んでいる家々のほぼ3軒に1軒が凝ったデザインの3階建てという高級住宅地で、住人は「山の手」と自称していると聞いたことがある。
 そして交差点の先道路の両側には田んぼが広がっており、左側には納屋や作業小屋、車庫などとともに2階建ての住居もあり、30メートルほど離れたところにはそれより新しそうな別棟の2階家も建っているのだ。つまり親世代と子世代が別居という構図であり、この田んぼもいずれは形を変えてしまうのだろうと思った。

 家内と待ち合わせた丸亀うどんはそこからもうひとつ低い丘を越えた先で、私のほうが少し早く着いた。
 こうして歩いてみると車で通っているだけでは気付かないさまざまなものが見えて、なかなか面白かった。ただ面白さにつられて歩いたので着いたとき膀胱が満タンになっており、うどん屋の隣のSCのトイレに慌てて駆け込んだ。途中に生協などもあったのだから次にどこか遠くまで歩くときは気をつけよう。
 

2019年01月11日(金曜日)更新

第531号 〜米寿でも元旦から山歩き〜

 年の始め……ということでまずはご挨拶。「本年もよろしくお願いいたします」松の内は過ぎたが、1月11日なら数字も目出度いことだしまあいいだろう。
 
 私は今年"米寿"すなわち数え年で88歳になった。
 こうした賀寿/年祝(としいわい)はやっぱり満年齢はそぐわない。数ある賀寿のうち満年齢でもよしとするかは還暦だけだ。これは十干十二支(えと)で年齢を勘定すると60年で一巡するので、数え年61歳で生まれた干支に戻ることからできた。つまり満60歳になると再び赤ん坊に返って赤いちゃんちゃんこを着せられたりするわけだ。ただし還暦は江戸時代になって祝われるようになった賀寿でいわば新顔。それ以外の賀寿は数え年が対象だったのである。
 年齢を満でいうになったのは敗戦後だ。戦前も昭和ひと桁生まれの私など、小学校入学を"八つあがり"(遅生まれ)や"七つあがり"(早生まれ)なんていっていた。それが"満6歳"に変わり、私自身もいつしか満年齢に慣れて古希(70歳)を越えてしまった。だが古希にしろ喜寿(77歳)にしろ満年齢で考えるとどうもピンとこない。「俺もこの六月には古希だよ」なんて胎児の月数を勘定するような言い方より「年が明けたら古希だからな」といったほうが年寄りにはふさわしいではないか。胎児はともかく、史上最年少で100勝達成などの記録じゃないのだから、古希を過ぎた年寄りがO歳Oヵ月なんてチマチマと年齢を勘定するのはおかしい。
 というわけで今年から私は数え年で自分の年齢を考え、誰かにたずねられたときもそう答えようと思っている。「当年取って88歳、米寿になりました」なんてカッコいいではないか。

 ところで年齢と縁の深いのが元号(年号)だ。しかしその元号も"平成"に変わってからは私には面倒なだけになってしまった。これは裏返せば私にとって元号は昭和だけということだ。たとえば自己紹介で「私は昭和ひと桁生まれの申(さる)年で……」といえば、大まかな人物像ぐらいイメージしてもらえるんじゃないか。つまり昭和は私にはたいへん重宝な元号であり、したがって大正も明治も私から見れば近代史や古典の中のもの、平成にいたっては存在しないも等しいのである。
 
 昭和64年1月7日、私は家内と二人で電車で買物がてら柏まで出掛けて、駅ビルの中のすし屋で遅い昼食をとっていた。そこでたまたまテレビに映っていたのが当時の内閣官房長官・小渕恵三さんの新元号発表のシーンだった。「ふ〜ん、平成ね、軽い感じだな」と思ったぐらいであまり印象に残っていない。後年首相になった小渕さんが"ボキャ貧"とあだ名されたのと相まってか、とにかく"平成"には"昭和"に感じていたような重みはなかったのだ。そして私は「これからは西暦がいいな」と漠然と思い、以来ずっとそうしてきたのだった。
 とにかく日本にしか通用しない元号と西暦の2本立て、いやわれわれの世代は昭和と切っても切れなかったのだから3本立てだった。よく使い分けたものだと感心する。これで4月に新元号が公表されれば4本立てになる。イヤハヤ……
 先日、家内がこんなことを言い出した。「昭和が平成に変わったのは89年だったから昭和って随分長かったわね」
 私はすぐ反論した。「だったら俺はいま110歳を越えてるよ」家内も負けていない。「だって1月7日は私の誕生日なんだから、あの小渕さんの発表もちゃんと覚えています」覚えてはいても家内の頭の中では西暦と昭和がこんがらかっていたのである。3本立てでさえこれだから、4月以降はもっとこんがらかるだろう。

 もっとも数え年にしろ元号にそっぽを向くにしろ私の勝手、あえていえばカッコつけである。他の人や世間に迷惑をかけるわけじゃない。私自身がいささか不自由なだけだ。たとえばこれから間もなくやってくる税金の確定申告など書面そのものから付随させる細かい領収書まで日付はすべて平成で記載されている。こちらがいくら西暦を主張しても受付けてくれない。こうしたちょっとした不自由さは"長いものには巻かれろ"でいくしかないのだ。

 こうしてみると私はまだまだ自己主張の強い、いわゆる"好々爺"には程遠い"生臭爺い"だなと自覚する。そしてそんな自分流をいつまで続けられるか楽しみでもあるのだ。"米寿"のすぐ先には"卒寿"(90歳)があり、そのずっと先には"白寿"(99歳)がある。ただ近年は自治体の首長がやたら表彰したがるせいで"百寿"(昔はなかった)の祝いが多くなった。いずれにしろいまの調子なら卒寿までは自信がある。それには当然ながら頭も体も達者であることが第一なので、私は元旦から恒例の山歩きをしている。これは年末に大晦日まで数日間雪が降り続いて歩けなかったからでもある。とはいえさすがに元旦から墓園をうろつくような物好きはいないらしく、よく出会う常連もまったく見かけなかった。
 年とともに「独り舞台」も増えていくようである。
 
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