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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2018年12月28日(金曜日)更新

第530号 〜今年の漢字と百歳の名僧〜

 毎年恒例の今年の漢字を京都清水寺の貫主が大きな筆を揮って書いた。「災」である。
 とにかく今年は災害が多かった。記憶にある大きなものだけでも岡山県倉敷では集中豪雨のため川の堤防が決壊して町ひとつが水びたしになり、台風で流された貨物船が衝突した関西空港の連絡橋が不通になり、北海道では地震で大停電や山崩れが方々で起き、その間には6月末あたりから始まった猛暑が冬の初めまで続いた。
 そしてそのあおりを食ったわけではないが、私たちも1月なかばから私の左眼の視野が半分欠けて本や新聞が読めなくなり、4月なかばには家内が腰を痛める――何十年ぶりかで乗った、しかも乗りなれない電動自転車のせいだ――など想定外の災難に見舞われて年間のスケジュール(主にゴルフだが)がすっかり狂ってしまった。いずれにせよ私たちはもちろん世間様にとってもロクなことがなかった年だったわけで、そんな中私などが唯一快哉を叫んだのが将棋の藤井聡太クンの活躍だけというのもかなりさびしい。

 ところでこれから書くことは本題からいささか逸れる。
 今年の漢字に大筆を揮った清水寺の貫主に私はちょっとしたご縁がある。45年前私は出版部にいて書籍の編集をしていた。そこでたまたま『佛心――現代の名僧をたずねて』という企画を担当することになり、著者の高瀬広居さんに随行して当時
"名僧"と称された方々をたずね歩いた。その中の一人に清水寺の貫主・大西良慶さんがいらしたのである。
 大西貫主はこのときちょうど百歳だった。時は冬、京都の冬は特に寒いが、この日も曇り空からいまにも雪が降ってきそうな天気だった。私たちがお会いしたのは寺院奥の貫主の居間で、十畳ほどの和室に掘り炬燵が切ってあり、私たちもそこに貫主と一緒に足を入れてお話をうかがった。だが私はかつて自分が仕上げた本をいくら読み返しても話の中身はまったく思い出せない。若い頃から宗教にはおよそ無関心だった私はいまだに"縁無き衆生"なのである。
 大西貫主と高瀬さんはこのとき2時間近く話し合っている。傍で聞いている私にもわかる話はけっこうあったはずで、話には加わらなかったものの笑みを浮かべたりうなずいたりそれなりに反応していたと思う。それらはまるで記憶にないのだが、それでもひとつだけ印象に残っていることがある。それは私の臭覚がときどきふっととらえたもので、1メートルちょっと離れた貫主からそこはかとなくただよってくる屍臭である。そして私はこれが百歳というものなんだろうなと、まったく即物的=俗物的な感慨を持っていたのだった。
 清水寺の舞台でお坊さんが今年の漢字に大筆を揮うときは私が"老い"を考えるときでもあるのだ。

 さて「災」は「災いも三年」とか「災いを転じて福と為す」あるいは「口は災いの元」のように下に「い」をつけたり、「災難」「災厄」といった熟語になって一字だけで使われることはほとんどない。文字の意味は上が「川がせき止められた有様」下が「火がぼうぼう」で、すなわち「思いがけず身にふりかかってくるわざわい」、われわれが「忘れた頃にやってくる」ものである。
 その意味では災いは避けようがないといっもていい。ではどうするか? 私はどんな災害でも遭遇したら最後までけっして諦めずに逃げ延びるだけの体力と心構えを身につけておくことだと考えている。体力についてはあらためていうまでもないが、心構えは簡単にいえば「釜石てんでんこ」である。これは7年前の東日本大震災の後話題になった言葉で、地震が起こったら自分勝手にてんでんばらばら高台へ逃げろということだ。釜石では昔からこの言葉が市民一人々々に浸透していたので津波の被害者はゼロだったという。

 大震災を機に広まった言葉のひとつに「自助共助公助」がある。災難に出会ったらまず自分が助かる努力をする。そして余裕があったら身内でも誰でも他の人と共に助かるように努める。しかる後に公共機関に助けを求める……というものだ。私もそれがいちばんだと思っているが近頃は人々の考え方も変わってきてようだ。自助はともかく共助なんてはなから真っ平御免という人が多くなり、はては何かあるとすぐ公共機関に駆け込む輩が増えてきたように見えるのだ。
 これは「人災」という言葉と合わせて、いまの日本のイヤな風潮だと思う。人災には災害の責任をしかるべき人物なり組織なりにおっかぶせて、賠償金をせしめようという卑しい魂胆が透けて見えるのだ。
 自助は病気や体の故障についても同じだろう。病気も故障も災難に変わりない。立ち直るには医療や薬だけでは及ばない部分もけっこうある。医者は悪いところを治そうとあれこれ手を尽くしてくれるし薬はその補助に役立つが、結局モノをいうのは患者自身の意欲からくる自己回復力だと私は思うのだ。医療プラス意欲である。こんなことをいうと精神論を通り越して何やら屁理屈めいてくるが、とにかく計算づくでいかないのがわれわれ人間の体なのだ。

 冬の清水寺に百歳の名僧をたずねてから私はそれまでの倍以上の年を重ねてきたが、毎年暮に"今年の漢字"を見ると「自分は幾つまで生きるだろう?」とちょっとした感慨にふけるのである。
 

2018年12月21日(金曜日)更新

第529号 〜日没後の"たそがれ"がない?〜

 冬至間近のこの時期は日暮れが早いので嫌になる。
 特に私たちが住んでいるこの辺は西側に山が迫っているせいか日没が他所より早い感じだ。しかも住居の立地が谷底とまではいわないが、広瀬川沿いに南北500メートル足らずの平地がやっと開けた狭隘な盆地の中腹とあって尚更なのだ。たとえばこの原稿を書き始めたときはベランダのガラス戸越しに真っ赤な夕焼け空が見えていたのに、ここまで書いて外を見ると黒一色に沈んだ西山の稜線の上にわずかにほの明るい空が細く横たわっているだけなのだ。当然ながらあたりはもう夜である。
 前にも書いたことがあるが、このマンション団地は自然環境は素晴らしいが生活環境はあまり良くない(これでもだいぶ控え目なつもりだ)。日が暮れてからベランダ越しに見える灯りは団地内の要所々々に点される街灯(高圧ナトリウム灯、けっこう明るい)と広い市営駐車場の白色防犯灯(これも明るい)と数軒の個人住宅の薄暗い灯りとポツポツとあるこれも薄暗い街灯と、そして広瀬川の向こう直線距離約1.5キロ先の東北自動車道仙台宮城ICのにぎやかな光群ぐらいしかない。
 ほんと我が家は山の中の別荘マンションみたいなものだ。だからこの時期私も日課の山歩きはなるべく午前中にすませる。日暮れて暗くなった墓地をうろつくなんて私だって気持ちのいいもんじゃない。

 つくづく考えてみると、こんなに日暮れを早く感じるところに住んだのは86年の生涯で初めてだ。生まれ育った台湾台北は都会の一角で台北駅のひとつ南の萬華駅や市きっての名所龍山寺も近くにあった。引揚げて来て落ち着いた仙台の家は駅東側の戦災を免れた市街地、その後も東京川崎横浜などの人口密集地を移り住んで、当地にやって来る前にいた千葉県野田市がやっと都会と田舎半々ぐらいのところだった。30戸ほどまとまった土地付分譲住宅のひとつで東武野田線の駅から5分足らずだったが、土地の人が地名をもじって"尾崎(お先)まっ暗"といっていたから、以前は人家もほとんどないところだったのだろう。
 ただし周辺の見晴らしはここと違って非常によかった。
 野田市は利根川と江戸川にはさまれた醤油の町で、地図を見ると関東平野のほぼ中心部に位置している。周辺に山らしい山はまったくなく、土地の人たちが「山」と呼ぶのは森や林のことだった。だから近くの江戸川の土手に上ったとき、西の方はるか向こうに富士山がポツンと見え、振り返ると東に筑波山が遠望できたのには「なるほどなあ」とちょっと感心した。そしていま頃の日没はその富士山に向かっていくのだったが、あれから20数年経った現在そんな光景も見えなくなっているだろう。

 そういえば私はこれまで海に沈む太陽を見て感動したことは一度しかない。
 東日本大震災の翌年だったか"JR東日本5日間乗り放題"の切符で五能線の深浦に泊まったときだ。季節は梅雨入り前、晴天続きの空には一点の雲もなく視野いっぱいにひろがった水平線を金や真紅に輝やかせながらどんどん沈んでいく夕日は、いつも「花より団子」で即物人間の私も感動した。まさにかの有名なA・ランボォの詩「また見つかった/何が、永遠が/海と溶けあう太陽が」だった。

 ところでこの原稿を書きながら何となく思っているのだが、冬至をはさんだほぼ1ヵ月ほどのこの時期、私たちが暮らしているような狭い谷間(あい)にはいわゆる"たそがれ"(黄昏=薄暮)どきはほとんどないのではないか。何しろ西側に立ちはだかるさして高くもない山に日が落ちはじめると空に残る照り返しが谷間まで届かなくなって、あっという間に暗くなってしまう。薄暗がりの中で「あれはだれかと見分けにくくなって"誰ぞ彼"とたずねる」ような幻想的な雰囲気はまるでないのである。

 このことに気付いたきっかけは昔仲間とよく滑っていた石打丸山スキー場のエピソードにある。
 もう半世紀以上も前のことだが、私たち家族三人は毎年暮から正月休みにかけて親しくしていた石打の民宿に泊り込んでいた。そこに会社の仲間がつぎつぎと参加してくるようになり、部屋も複数確保するようになってときには10人を越えたこともあるし、雑魚寝でスペースがないときは押入れの上下でも寝たものだった。
 スキー場はたいてい山の北斜面につくられるし、当時はいまほどナイター設備も十分ではなかったので、日が落ちると暗くなるのも早かった。正月休み頃は特にそうだ。だから夕暮れが迫ってくると、グループの中で「そろそろ引き揚げましょう」と声があがる。それがいつもいちばん若い、したがってスキーの腕前もちょっと落ちるH君だった。その声を聞くと「ほらHの帰りましょうが始まったぞ」と誰かがからかい、みんな下りにかかるのだった。

 こうしてみると私はこれまでいろんなところで暮らし、さまざまなものを見、多様多彩な経験をしているなと思う。これもひとえに86年もの間達者で生きてきた証しに他ならない。何はともあれ生きるからには日々達者がいちばんなのである。
 さあ、これを書き終えたら山歩きに行こう。
 

2018年12月14日(金曜日)更新

第528号 〜"知ったこっちゃない"ことだが〜

 日課の山歩き、墓園のウォーキングをしていて思い付いたことがある。墓とは単なる容れ物じゃないかということだ。
 何しろゴルフ場ひとつがすっぽり入るほどの大きな墓園だ。園内には百万市民の火葬を一手に引受ける斎場もあるが、歩き回っていて目に入るのは元里山だった名残りと墓石しかない。余程変わった墓石でも一度見たらあとは目印変わりに脳の地図にインプットするだけだ。とはいえただ闇雲に歩数を稼ぐつもりもなくあれこれ考えたり観察したりする。たとえば墓石に刻まれる文字が以前は「やすらぎ」が多かったが、あの大震災以降は「絆」に変わってきた……などだ。
 そして墓域のあちこちにはまだ墓石が立ってない区画もあるし、墓園のおよそ右半分を占める市内から寺院の墓地を移転したところでは「墓地分譲中」の立看板も目につく。墓は容れ物だなと漠然と考えたのはそんな分譲中の区画をのぞき見たのがきっかけだ。

 そこは斜面を横切って造成した細長い墓域で車が1台通れるくらいの道に沿っていた。その道を歩きながら見やると墓石が立っている区画と区画の間に何ヵ所か1坪ほどの更地の区画があり、そのまん中あたりに穴があいている。私は墓石の下のつくりがどんなふうになっているかよく知らなかったので興味をひかれ、あたりに誰もいないのを見すまして傍まで行ってみた。穴は手を拡げて測ってみると50センチ×60センチぐらいの縦長で深さ50センチほど、全体をけっこう厚そうなコンクリートで固めてある。というよりこの大きさのコンクリートの箱を埋め込んだといったほうが正しそうだ。
 それにしてもこの遺骨を納める空間は大き過ぎるんじゃないかと私は思った。いったいどれだけの人数を入れようというのか。核家族化に加え少子化まで進行中の現代日本にはおよそそぐわない空間ではないか。しかもその空間も含めて近頃建立される墓の立派なことといったら……。
 墓園を歩き回っていて気付いたもうひとつがそれだ。
 
 つい先日のことで、市内の古い寺の墓地を移設したところにあった8基の墓石だ。それまで何度も傍を通り過ぎながら全然気付かなかったのは、先週書いたように視線を足元にばかり向けていたせいだ。その視線を前方遠くの高いところに据えるようになって、それまで見逃していた墓地の中に立っている高札――時代劇に出てくるお尋ね者の人相などを知らせる立て札――が目に入ったのだ。「何だろう?」と中へ入り込み文面を読むと、8基は江戸時代古くは寛文(1600年代)から幕末近い天保(1830年代)まで伊達家に仕えた藩士の墓だった。政宗公が開府して以来明治維新まで250年余を平穏に送ってきた当市の下町は空襲も免れて古い寺院があちこちに残っているのだ。
 ただ私が瞠目したのはそんな古さではなく、墓石の小ささと見すぼらしいといってもいいほどの素朴さだ。古いものは自然石の表側だけ削っておくり名などが刻み込まれ、高さも私の股下まであるかどうか。天保のものは一応角柱になっているがそれでもテッペンは平たい四角錐になっているだけで、いまの墓石のように丸みのあるつくりにはなっていないし高さも1メートルもないぐらいだ。しかもそれらの8基が下に台石らしいものもなく地面に直に立てられているのである。
 高札には墓の主の経歴も書いてあった。それぞれ勘定奉行や天文方、藩主の侍医、小姓頭、検断役などを勤めており、重臣とはいえないまでもけっこうな身分だ。そんな人物の墓がこの程度かと思うのは、私がいま目の前にある新しい墓と見くらべているからだとすぐわかった。
 そして、墓も所詮容れ物に過ぎないということだなと思ったのだった。

 われわれの生活は容れ物なしでは成り立たない。体を容れる(包む)着衣に始まって住居や乗り物など暮らしに必要なものはほとんど全て何かの容れ物だ。しかもそれらの容れ物はわれわれの生活を快適かつ便利にしてきた――文明の進歩に寄与してきたとともに、個人の力の象徴つまりステータスシンボルにもなってきたのだ。エジプトのピラミッドや秀吉の大阪城がそうだったし、現代の最高級ブランドファッションもその仲間だ。したがって逆に考えれば容れ物が時を経るとともに豪華に贅沢になっていくのも当然なのである。
 そういう目で見ればこの墓園の新しい「〇〇家之墓」や「絆〇〇家」と刻まれた墓石は庶民の精一杯のステータスシンボルと見えないこともない。自分たちのことを差し置いていうのも多分に気が引けるが。
 さらにいえば、社会全体のシステムがどんどん変化している現在、これらの墓そのものの寿命(墓の寿命というのも妙な感じだ)がこれから先どれぐれいあるものかもいささか気になるのである。私たちの寿命を考えれば"知ったこっちゃない"ことだが……。
 

2018年12月07日(金曜日)更新

第527号 〜病気もケガも楽しく治そう〜

 先日家内が,4月末から腰痛治療で通院しているK整形外科のセンセイに、そろそろゴルフを始めてもいいかたずねたという。センセイの返事は「本格的に再開するのは来年春まで待ったほうがいいでしょうね。その前にまず練習場で打ってみることをおすすめします。ただしそのときは腰にコルセット(治療のため体に合わせてオーダーメイドした)をしっかり装着するように。それと、そのためにもできるだけ歩くようにして……」だったそうだ。
 K整形外科は家内より私が先にかかり始めた。
 10年ほど前、行きつけのOゴルフ場でプレー中に突然左足かかとに刺すような痛みが走り、ようやくラウンドを終えての帰途、病院の前を通りかかったらまだ診療時間中だったので急遽飛び込んだのだ。以来首筋や肩腰など痛みが起こる度に診てもらうようになり、ここ数年は毎月1度行ってロキソニンテープを処方してもらう常連患者になった。そこへ家内も同じく数年前から慢性的なひざ痛を診てもらうようになったのである。

 何しろ病院が私たちにはたいへん都合のいい場所にあるのだ。マイカーでも市バスでも団地下の作並街道を市中心部へ向かって広瀬川沿いにくねくねと10分足らずだし、私の足なら歩いても45分ほどでいい足ならしになる。だから家内が腰痛で週イチ通院になってからは、私はなるべく天気のいい日に歩いて行くようになり、こうした別行動を病院のスタッフには「歩くのが趣味だから」といっておいた。
 とはいえ家内の回復状況はいやでも気になる。そんなところへ冒頭のような前向きの報告を聞けば、私だって「いいじゃないか」と少しはうれしくなろうというものだ。

 これはウロ覚えで確たる自信はないが、「病気」という言葉を最初に言った(用いた)のはかの貝原益軒ではなかったか? 「病は気から」という俗諺もそこから出てきたのだろう。ただし中国最古の医学書『黄帝内経素問』(こうていだいけいそもん、紀元前4世紀)に「万病は気より生ず」という記述があり、それが原典だという向きもある。だが私は中国医学の"気"は人体を構成する三要素「気、血、水」のひとつなので、われわれがふだん気安く使っている"気"とはまるで別の概念だと思っている。つまり現代中国はわからないが、近代化以前の中国には"病気"なんて言葉はなかっただろう。

「病は気から」はまったくそのとおりだと思う。病気にしろケガにしろ当人の気の持ち方が症状の良し悪しや苦痛の程度、回復具合にかなり影響するのだ。
 ……病気で入院している娘が病室の窓から見える木の落ち葉に、自分の命を重ね合わせている。季節は晩秋、葉は日毎に少なくなっていく。「最後の一枚が散ったとき私の命も終わるんだわ」と娘は思う。ある夜、強い風が吹く。だが翌朝、窓から見た木の枝先に一枚だけ色づいた葉が残っている。「頑張ったんだ!」と娘も気力をふるい立たせる。その一枚は娘に想いを寄せる若い画家が前夜、風の中で病室の向かいの壁面に描いたものだった……という古い短編小説などその具体例にぴったりである。
 
 かつて私と同年代のある有名作家が「あらゆる健康法は気休めに過ぎない」と書いていたが、まったくそのとおりだ。ただしその気休めを本人が"やらないよりマシだから"と思っているか、"ちょっとは体のためになるんじゃないか"と思っているかで成果は相当違ってくるのではないか。
 そしてさらに「お正月には東京からやって来る孫に元気なところを見せなくちゃ……」とか、「来年は俺もパパになるからな……」などと将来に具体的な目標があれば効果はまた一段と上がってくるはずだ。家内が積極的に歩き始めた目標がゴルフというのもその意味では"実にいい"のである。

 ところで歩くといえば昨日、家内が「あなたの歩き方がこの頃年寄り臭くなってきた」といった。自分ではわからないが背中を丸めて首を突き出すような歩き方になっているらしい。ちょうど日課の山歩きに出かけるときだったので歩きながら考えて「ああ、そうか」と思い当たった。
 山歩きの際、私は前方遠くを見ずに足元から5〜10メートルほど先の路面に視線を落としている。年寄り臭い歩き方になったのはそのせいで、根本原因はもちろん眼が不自由になったことにある。左右とも視力0,3に加え右眼中心部分が見えないため遠近感までないのでは、遠くにあるものはすべて平べったく対象の実体がつかめないのだ。たとえば樹木の枝葉の間に見える白っぽい空間を車と間違えたことが何度もあった。それで足元を見るようになった――車などを確認するときはもちろん遠くを見る――のだが、これはいかんと思い、すぐさま遠くに視線を据えて歩くように直した。
 体形やファッションをいくらつくろっても老いはちょっとした動作の端々にあらわれるのだ。家内も積極的に歩き始めたことだし、気をつけよう。
 

2018年11月30日(金曜日)更新

第526号 〜58年目の感慨とこれから〜

 先週、私たちは58年目の結婚記念日を迎え家内の提案でファミレスでささやかな祝いの食事をした。
 とにかくこれだけ回数を重ねると私など殊更な感慨もわかない。忘れたわけじゃないが金銀婚のような節目ならともかく、ただの記念日なら毎年イベントを設けることもなかろうと思うのだ。男だからとか性格のせいとかではなく、単に年老いたせいだ。ハローウィンに仮装して渋谷に繰り出すのは若いときしかできないのだ。
 その点、女は違うらしい。結婚記念日にしろ身内の誕生日にしろ頭の中にちゃんと入っている。聞いてみるとこれはわが家だけではないので、女性一般特に女房族に共通の傾向だろう。以下は私の勝手なこじつけかもしれないが、女房族は自分がいる場所を機会ある毎に確認しなければ安心できないんじゃないか。

 それで連想したのがこんな話だ。何で読んだのだったか原典はまるで記憶にないが、面白い話だったので内容は頭に残っている。
 江戸時代大名家の当主、すなわちお殿様は毎朝早く仏間にこもるのが大切な仕事だったという。そこで先祖代々の諡号(しごう、おくり名)をとなえ、特に命日にあたるご先祖様には念入りに祈りを捧げなければならなかった。簡単にいえば、その家の初代以下歴代すべての諡号や命日をちゃんと覚えていなければお殿様は勤まらなかったのだ。ちょっと考えてもこれはたいへんなことだ。戦国時代末期に夜盗から成り上がったような家ならともかく、源平の昔「我こそは恒武天皇九代の後裔……」なんて名乗った荒武者が始祖だったりしたらなかなか覚えきれるもんじゃない。本物のバカ殿様では勤まらない仕事だったのである。
 当時のお殿様なんて政治経済外交など重要な仕事は家来に任せて、自分は子づくりに専念すればよかったのだから、もの覚えのいいのが第一条件だったのだろう。余談だが、幕末長州藩毛利家のお殿様は家来が言上する案件に「そうせい」と答えるのが常で、高杉晋作や桂小五郎など藩士は陰で「そうせい公」と呼んでいたと司馬遼太郎さんの著作にあった。
 お家安泰のためにはこれが名君だったのだ。いささか強引と思わぬでもないが、こうしたお殿様のお仕事はよくできた女房の仕事と似ているように見える。すなわち去年と同じ今年、昨日と同じ今日だ。そしてそうした内助のおかげで男は外で夢を追うことができるのだから、私もそこはひそかに感謝しているところだ。

 一方男が自分がいる場所――ひと頃大流行した言葉なら"アイデンティティ"を確認できるのはやっぱり力である。金、権力、見てくれ、舌先三寸、頭の出来具合……など力にもさまざまあるがいちばんわかりやすいのは体力だ。年老いても人並み以上に歩けて運動できることはアイデンティティの表明にたいへん効果的だと思う。家内はそんな私を「やり過ぎは年甲斐もないと反感をあおるだけじゃないの」と批判めいたことをいうが、私にいわせればそんな反感は現実を認めたくない小人(しょうじん)のやっかみでしかない。無視するだけだ。
 このあたりは女と男のアイデンティティのあり方が根本から違うのだろうと解釈するしかない。要するに女が拠り所にしているものを男は自分に置き換えて考えることができないのだ。それができる男は余程柔軟な頭の持ち主、別のいい方をすれば自分は何も考えようとしない主体性のない「そうせい公」のような人物だろうと思う。

 したがって当然のことだが、60年近く暮らしていてもお互いを完全にわかっているなんてことはない。他人から見れば絵に描いたような円満な夫婦かもしれないが内実は衝突絶え間ないのである。いや双方年老いた昨今は多くなったくらいだ。性来短気な私は些細なことでカンシャクを起こすことが増え、家内は4月に腰を痛めてから思うように動けなくなったことも手伝って以前にまして口うるさくなってきたからだ。
 こうしてみると、男は年老いたら体には大きな病気もないままボケておとなしく(無気力に)なり、女房をはじめ周囲の言いなりになってしまうのが世間さまにも本人のためにもいいんじゃないかと思ってしまう。身近に先例がある。私の父方の従兄だが、彼は若い頃から親や先生に「右向いてろ!」といわれれば一日中右を向いていると評されるような人だった。そしてボケてから亡くなるまでの2年ほどは文字どおり"好々爺"だったという。私などにとってはまさに"雲の上の人"だ。

 いずれにしろ私たちがこの先どんな生き方をしていくか、興味はあるが予想はつかない。お互い達者でいくらかずつでも穏やかになって(ボケて?)いけばいいかなと思うぐらいである。 
 
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