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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2023年02月24日(金曜日)更新

第740号 〜簡単な漢字を忘れた私のボケ〜

 このところよく物忘れをするようになって自分でもあきれている。
 つい最近のことだ。1週間前にやったはずの監査の仕事を、まだだと思い込んで管理センターに聞きに行き、職員に怪訝な顔をされた。その場は何とか取り繕ったが、後で「Cさん、ちょっとボケてきたかな……」と思われたんじゃないかと気付いた。ちなみに"監査"といっても私の受持ちは理事会関連の書類に目を通す"業務監査"で、いわゆる"会計監査"じゃない。金勘定なんて何よりも苦手な仕事ができるわけない。

 ところで"ボケ"はいま差別用語扱いされており、われわれ高齢者に関しては特にそうだ。代わりに"認知症"という言葉が20年ほど前から使われるようになったのだが、私はそのおかげでかえって単なる"もの忘れボケ"も病気になってしまったと思っている。
 実際アルツハイマーやレビー小体、血管性、前頭側頭型、アルコール型など医師が病気として扱いたがる症状も高齢者の増加とともに多くなっているだろう。だからそれらの認知症の中には私のように単に脳の記憶再現力が、当人にとっては他のもっと重要なものに埋もれてしまっただけの"もの忘れボケ"も多いと思うのだ。
 とにかく私は"認知症"はあまり使いたくない。

 近年"認知症カフェ"という集まりがあちこちに出来ている。認知症高齢者を地域で支えようというボランティア組織だ。私たちの町内でも2年ほど前からあり時々集まっているが、私は1度も参加したことがない。町内会"老人会々長"には是非顔を出して欲しい集まりだろうが、 認知症だの介護だのという言葉は年寄りの弱みにつけ込むような感じがするので私は嫌いだし、あまりかかわりたくないのだ。

 思い返してみると私の"もの忘れボケ"は数年前からで、そのいちばん身近で代表的な例が"漢字"だ。
 漢字など小学校のときから親しんでいる。しかも私たちの時代は旧字体"学"は
"學"、これからの季節の"櫻"など"二貝の女が木にかかる"と覚えたものだ。3年生か4年生のときだったか、神武から今上(昭和)まで歴代天皇を筆と墨で書いてみようとしたこともある。結局は仁徳あたりで頓挫したが……。
 しかも大卒後就いたのが日々文字や文章を相手にする仕事であり、リタイヤ後もアルバイトなどで原稿を書き、現在も続いているのだ。漢字などほとんど頭に入っているはずだと思っていたが、これがそうでもなくなってきたのだ。
 たとえば"ヒモを結ぶ""吊りヒモ"などの"ヒモ"、漢字は「紐」だがこれを毎回『大きな活字の漢字表記辞典』を引かなければ安心して書けないのである。「矍鑠」とか「顰蹙」など特に難しいものはともかく、けっこう有りふれた字までそうなのだ。脳の再現力の衰えというしかない。

 数字もよく忘れるというか間違える。つい先日も老人会の用件で出かけた先で訪問票に氏名住所自宅の電話番号を記入したが、この電話番号が違っていたのだ。記入しながら「あれ?」と違和感があったが手はそのまま動いてしまい、帰宅して確認してやっと正しい番号がわかったのだからしょうがない。
 だから過ぎてしまったこと、終わったことは日付や曜日もすぐ忘れてしまうのもしょうがないと思っている。昼食に何を食べたかなんて覚えていたって使い古した脳細胞のムダ使いだと思う。

 覚えておくのは先の予定や楽しみだけでいい。そのためにカレンダーがあるのだし、年寄りには生きる励みにもなる。
 とにかくただの"物忘れ"はボケ=認知症とは程遠い。年老いても知力体力気力旺盛なら文字数字日常的なことなど記憶不要なものは、どんどん忘れてしまったほうが身の為になると思う。
 

2023年02月17日(金曜日)更新

第739号 〜今年のスタートは散々だったが……〜

 もう2月もなかばを過ぎたが、今年は散々なスタートだった。

 とにかく始まりが新型コロナ感染である。私が暮の26日、家内が28日に陽性と診断され、年明け三ヵ日を過ぎるまで"ひきこもり"だったのだ。それでもラッキーだったのは家内の発症が病院が年末休みに入る前日に間に合ったことだ。これが1日遅れたらちょっと遠い救急医療センターなどへ行かなければならず、マイカーを運転しては行けないなど面倒なことになりかねなかった。
 それでも残念だったことがひとつある。息子が2日から来仙を予定していたのをとりやめさせたことだ。顔を見るのは昨年正月家内の実家で会っているから別にいいが、4日に帰るので3日に折を見て山歩きに連れ出し"90歳の達者ぶり"を見せてやろうと思っていたのだ。家内も昔と変わらぬ"切れのいい"運転ぶりを見せられなかったし……。

 スタートの悪さはコロナの感染ばかりではない。何10年ぶりかというシベリア大寒波の襲来だ。これが北海道から九州までの日本海側に大雪を降らせ各地に被害をもたらしただけでなく、三重県四日市の近畿自動車道を10時間以上も立ち往生させたり、あちこちの雪山でスキーヤーやスノーボーダーを新雪なだれに巻き込んだりし、ここ仙台でも例年になく降雪が多く、せっかくコロナから本復して「さあ歩くぞ!」と意気込んでいた私を萎えさせたのだ。
 1月中の私の"山歩き"の記録(私はガラケーを歩数計目的で持っているのだ!)を見ると、いかに非生産的な毎日を持て余していたかよくわかる。1万歩前後の日が8回しかなく、5千歩オーバーも7日だけなのだ。月の半分ほどはゆううつな顔で外を眺めていたのだ。
 そして同じような天候が月が変わっても1週間ほど続き、その後ちょっと寒さがゆるんだものの……なのである。

 そんなある日、私はふと思い付いて室内運動をやってみた。腕立て伏せとスクワットだ。前者は自分用肘掛け椅子の座面を最低まで下ろし、高さ50センチちょっとになった左右の肘掛けを握っておこなう。両手を床面に置いてやるより楽だし安全、高齢者向きだ。これを13回でワンセット。スクワットは両手を首の後ろで組むのではなく、腰のうしろやひざの上など適当に置いておく。ただし体を上下するときその手で援助はしない。これを15回でワンセット。これらを1組にして某日、朝食後からちょっとした時間の合い間を見ては夕食前までやってみた。回数も1回毎に"正"の横棒縦棒を書き4っで終了した。
 腕立て伏せスクワットとも合計20セット、個々では260回と300回である。だが体のどこも痛みや疲れもなく逆に「ふだんよく運動してるからな」と自信が深まったぐらいだった。

 ところが翌朝起き出すと「おやおや!」とびっくりした。太腿とふくらはぎ、膝の後ろのくぼんだ部位の上と下あたりにほんの少し痛みがあったのだ。要するに歩くのとスクワットは同じ足でも使う筋肉は微妙に違うのである。これから腕立て伏せをするときはスクワットを加えようときめたのだった。

 新型コロナ感染という尋常ならざる事態からスタートし、次いで何十年ぶりという異常寒波に辟易しっ放しという出足散々だった今年もどうやら落ち着いてきたようだ。「1万歩スイスイ90歳」を残雪や凍った足元を気にせずに行けるようになった。近頃私は朝起きるとまっ先にベランダ側のカーテンを開け、朝の明るい日射しが部屋の中まで射しこむのを楽しみにしている。そして青い空や白い雲、対面する青葉山の稜線などをひととおり眺めてから顔を洗うのだ。

 昔の日本人は「春は東からやってくる」と信じていたという。
「東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅の花……」(菅原道真)である。そういえばスキー仲間のイケやんが住居近くの公園でほころび始めた梅の花の写真を送ってくれたのはいつだったか? 山歩きしている墓園の梅もそろそろほころび始めるだろう。
 

2023年02月10日(金曜日)更新

第738号 〜思い出が詰まった「布団の日」〜

 本日2月10日は"ふとんの日"だそうだ。単に"2"と"10"の語呂合わせで、どこか布団産地がきめたのだろう。ちなみに"団"を"トン"というのは唐音で、おそらく布団が日本に入ってきたのが遣唐使の盛んな頃だったのかもしれない。

 布団からすぐ連想するのは明治40年、田山花袋(たやまかたい)が発表した小説『布団』だ。自然主義文学の方向を決定づけたといわれる日本文学史上有名な作品だが、実は私は読んだことがないし、これからも読む機会はないだろう。ワセダの
"文学部国文学科"卒のキャリアがどうたらこうたらいわれようが、読む気にならなかったものはしょうがない。
 布団は辞典風にいえば「布製の袋の中に羽毛や木綿(もめん)綿や化学繊維綿、ワラなどを詰め込んだ寝具」とでもいうか、われわれが赤ん坊のときから世話になっている日用品だ。敷布団と掛布団の上下でひと組、40〜50年前われわれ日本人の日常生活は畳の部屋つまり和室にこれを敷いて寝るのが普通だった。
「床(とこ)を取る」という言葉がある。部屋に敷布団掛布団を敷いて寝床をしつらえる(これも古い言い方だ)ことをいう。畳敷きの部屋が多い古い旅館でも、いまこんな言い方はしない。去年松島のホテルで聞き耳を立てていたら「お布団を敷かせていただきます」なんて言っていた。ベッドメイクである。
 余談だが近頃主婦のパート仕事にビジネスホテルなどのベッドメイクが多いそうで時給もちょっと高いという。だが経験者によると、中腰のけっこう力仕事なので腰から下にヒビクという。老後を考えてその人はすぐにやめたそうだ。

 布団は中に入れる綿によってピンからキリまである。いや現代は綿に代わって化繊の綿が主だからキリのワラ布団など過去の話だろう。ただしピンの羽毛布団は私たちも使っているからいまは掛け布団の主流だろう。
 この羽毛布団は40年ほど前、二人で買いにいったものだが、そのとき店の主人に
「一生ものですよ」といわれた高級品で値段もかなり高かった。実際私のものはどこにも損傷はなくちゃんと機能しているが、家内のものは中の羽毛が片寄らないように表と裏地を通してあちこち縫い止めてある"もの"が幾つか切れたらしく、中の羽毛が片寄っているという。よくたたいて羽毛を生き返らせているせいだと家内はいっている。
 この羽毛布団と同時に買ったのがベッドでこれも現在使用中だ。住居の近くにあった製造所から買ったので格安だった。

 畳に布団という寝方がいいのは部屋の定員を無視して雑魚寝できることだろう。
 前回も書いたが私たちは息子が幼稚園に行くようになってから、毎年暮から新年にかけて会社が休み期間中、石打丸山スキー場の民宿「本家N」に滞在するのが恒例だった。そして私たちの滞在中会社のスキー仲間が入れ替わり立ち替わりやってきては私たちの部屋で一緒に泊まり、何日か一緒に滑って帰って行くのだ。多いときはその八畳ひと間に8人が寝たこともあり、このときは布団部屋からひと組もってきて一番若かったハヤシ君に押入れで寝てもらった。
 それがいまは民宿はすたれてペンションになり、客はベッドで寝るようになり、滑るのもスノーボードが半分以上になったのだから変われば変わるものだ。

 〆くくりに布団が舞台の江戸小咄をひとつ。
 客と同衾していた女郎がすかしっ屁を放つ。女郎は片足を掛け布団の外へ出し端を持ち上げ、臭いを逃がそうとする。客が気付きそちらを見る。女郎は咄嗟に「あれ、あそこに帆かけ舟が……」とうまくゴマ化したつもりだったが客もさる者、
「俺ァ肥舟かと思ったよ」
 昭和40年代なかば過ぎまで東京都内でもトイレは汲み取り式が多かった。業者が汲み取ってきた糞尿を積み込んで海まで捨てに行ったのが"肥舟"だ。平べったい大きな船で、もちろんエンジン付きだった。古臭紛々たる話で失礼いたしました。
 

2023年02月03日(金曜日)更新

第737号 〜90歳の挑戦・三浦雄一郎氏のこと〜

 昨年末、地元のNHKローカル局の番組で三浦雄一郎さんの近況をレポートしていた。知ってのとおりプロスキーヤーかつ冒険家として有名な人だ。富士山の頂上近くから滑降したり、満80歳でエベレストに登頂したりしている。この最高齢登頂記録はまだ破られていない。

 それでも"なぜいま頃近況レポートか?"というと、ひとつは彼が地元青森県出身であること、もうひとつは私と同年同月生まれということだろう。つまり90歳を迎えたばかりなのだ。そして何か新しい冒険を計画しているらしい。レポートしたくもなるだろう。
 だが彼は長年の過激な運動で特にひざを痛め、いま治療とリハビリの最中だという。その撮影シーンを見ると患部のひざには銀色のサポーターがかぶせてあり、それを頼りにといった感じでひざの曲げ伸ばしをやっていた。

 レポートの最後にスキーヤー姿を見せたが、これが何とも痛々しかった。
 八甲田山だったかゲレンデ最高所のゴンドラ駅を出た緩斜面で、背後に弟子達を従えて先頭に立っている彼は身につけたファッションやスキーなどこそキマッテいるものの、左右のスキーを"ハの字"に開く初心者のボーゲンスタイル。しかも腰にロープを巻きつけその端を後方の体格のいいスキーヤーが握っているというモノモノしさなのだ。つまり転倒した際そのまま滑落する危険を予防するためであり、実際あの故障中のひざでは思うようにスキーをコントロールできなかっただろう。
 まさに「麒麟も老いては駑馬に劣る」だと思ったのだった。

 こんなひと月も前のことを書いたのはスキーについて書きたくなったからだ。いまスキーシーズンまっ盛り、当地へ転居してから私たちは遠ざかってしまったが、以前この季節はスキー場暮らしが休日のほとんどを占めていたほどだ。何しろ一人息子が幼稚園に行き始めた頃から正月休みは石打丸山の民宿にいたのだ。カナダやアメリカで滑ったこともあるし、スキーに関する思い出話は山ほどある。

 まずはそのひとつ。カナダへ行ったときはイソやんとクミちゃんも一緒だった。前者は私より干支でひと回り、後者はふた回り下の同じ申年だ。また二人とも現在も元スキー仲間として親しく、コロナの感染拡大以前は毎年1度はどこかの温泉場で会っていた。
 このスキー仲間達とは八甲田山や安比へも何度か行った。まだ新幹線が開通する前で往復夜行だったから安比からの帰りは盛岡で名物の冷麺を食べるのが常だった。
 また八甲田では酸ヶ湯温泉の旅館が古い頃で、大きな風呂場が更衣室は男女別だが浴室は一緒だった。それと知らず着衣を脱ぎ裸で浴室に入った家内がビックリして足を滑らせたという話もあった。

 そしてこうした仲間達をまとめているのがヨネやんだ。彼には息子の媒酌人をお願いするなど随分お世話になっている。昨年はじめ上京したときは東京駅に仲間を集めて見送ってくれたし、私の90歳では各地の銘酒や名品を沢山贈ってくれた。私たちがいい仲間に恵まれているのも彼のおかげだと思う。

 三浦氏に戻る。彼は自分を冒険に駆り立てているものを"好奇心"だといった。私はすぐ納得した。私もこれまで好奇心から始めたことがいくつもある。私も彼のひざと同じように眼にハンディキャップを抱えている。それを何とか克服できたのは
"歩くこと"や"書くこと"に楽しみを見つけたからであり、その発端は"こうしたらどうだろう"という好奇心だった。
 好奇心は"気力"が原点である。三浦氏もこれからあのひざでもできる"楽しみ"を見つけるだろう。
 

2023年01月27日(金曜日)更新

第736号 〜先の楽しみより今日が大切〜

 今日は満90歳を迎えてから102日目になる。
 
 余談だが私の親類縁者の中で90歳を越えたのは、知っている限り母方の叔父一人だけだ。明治末期の生まれで若い頃には召集経験もある。90歳で亡くなったが、とにかく長生きだったのは一人だけ、あとは皆平均寿命まで生きたかどうかだ。私にはこの叔父と同じ遺伝子がいくらかあるのだろう。

 本題に戻る。その100日余の間、私の頭から四六時中消えなかったことが"これまで長生きできた要因は何だろうか?"ということだった。そしてどうにか辿り着いた答えが"運"である。私が90歳まで達者で生きてこられたのは何よりも運に恵まれたからで、運以外のもの――たとえば人並み以上に健康な体をはじめ、その体を維持するために続けている山歩きなどは要素の10%もないだろうと思ったのだ。
 私が脳から五臓六腑以下体の隅々までまったく問題なく達者だといくら胸を張っても、それは年齢不相応にというだけのことで、いわば「年に似合わずおしゃれね」といわれるのと似たようなものなのだ。

 長寿の元は単に"運次第"と気付いたのは町内のさる御仁がヒントである。私と同学年だが体はふた回りほど小さく外見同様非力で、生来の"胃弱"から酒は飲めず、私などとは"水と油"の人だ。去年の秋、体育館の合板張りの床でピンポンのプレー中に滑って尻もちをつき脊椎を圧迫骨折したそうだから、運動脳力も年相応にだいぶ衰えているようだ。とはいえ私と同学年は相当な長寿である。
 この御仁の長寿の元が運と用心深さではないかと思うのだ。

 とにかくこの御仁の用心深さといったらあきれるほどだ。何しろ暦が12月に変わりちょっと寒くなってきたなと思った途端戸外で姿をまったく見かけなくなるのだ。住居にひきこもり1歩も外へ出ずに寒気をやり過ごそう、風邪など死んでもひくものかと決めているとしか思えない。
 この途方もない用心深さを愛(め)でて神様も生命運をいくらか加算してくれたのだろうと思う。

 そんなわけで私はこれから先、自分の生命運がどれぐらい残っているかまったくわからないが、先々の考え方生き方をこれまでと幾分変えてみようと思っている。たいしたことではない。来年や半年先の予定を立てないでおこうと思うのだ。
 いくら心身達者とはいえ年齢は動かせない。台湾台北市新富町五丁目二十九番地で産声をあげてから90年も生きてきた体なのだ。いつ何が起こるかわからないではないか。近頃は私もそのあたりは一応心得て用心すべきところは用心おさおさ怠りなくしている。道路を歩くときは必ず歩道の車道からもっとも離れた側を歩くし、横断歩道を渡るときはどんなに急いでいても青信号が点滅していたら立ち止まる。

 そして日々そうした用心をするようになった結果、先々の楽しい予定もせいぜい1ヵ月先まであれば十分じゃないかと思うようになったのだ。だいたい私たちの楽しい予定なんて近頃はちょっとした食事ぐらいしかない。当日の朝決めたって十分間に合う。
 さらにいま私は"今日を楽しく無事に過ごせれば十分だ"と思っている。たとえば朝目を覚ましてベッドの中で「今日はどんな予定だったかな?」と考える。そしてその日の天気予報を思い返し、出かける予定だったら服装をあらためて上から下までチエックし直したりするのである。

 こうして今日を大切に生きていれば思い悩むことは何もないだろう。
 
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