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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2018年08月10日(金曜日)更新

第510号 〜地図を見ながら歴史に思いを〜

 私は地図をよく見る。一般人の中ではかなり見るほうだと思う。
 子どもの頃から地理は好きだった。戦前の私たちが見た地図は真紅の大日本帝国がまん中にあり、右側に太平洋をへだててアメリカ、左側には中国からインド、アラビヤ、ヨーロッパ、まん中から下の方にはオーストラリアやアフリカ、南米大陸まで描かれた世界地図しかなかったが、それでもあかずに眺めたものだ。また当時人気のあった吉田初三郎の観光鳥瞰図ばりに台北市街を描いた絵地図もあり、総督府や台北駅、台湾神宮などの向こうに基隆港があり、その先の海の彼方に富士山がポツンと見え"本土"とあるのが、何やらわれわれに「おいでおいで」をしているような感じだつた。

 次いで学生時代に登山とスキーを始めてから5万分の1の地図や鉄道路線図がいつも身辺のどこかにあり、さらに取材先の地図や道路地図など生活の多様化や広がりとともに見る地図も変わっていったが、何かにつけ見ることが習慣になった。
 たとえば災害や事件が起こる。その地名が記憶にあれば「あああそこか」と背景も想像できるが、初めて聞く地名だとそうはいかない。そこで地図を引っ張り出すのだ。一種の野次馬根性だが、そこから想像の羽をひろげたり調べたりすることがさまざまな知識の蓄積につながるのだ。

 私がよく見るのは息子が高校生のとき教材として使っていたいわゆる地図帳だ。奥付を見ると昭和53年発行(版元は帝国書院)とある。ちょうど半世紀前のもので内容は当然ながら古い、カラー印刷全110ページの前半が世界地図、後半が日本地図に分かれているが、世界のほうにはソビエト社会主義共和国連邦やドイツ連邦共和国(西)ドイツ民主主義共和国(東)があり、日本地図では東北新幹線はまだ開通していない。そういえば当時、上野発の寝台夜行で八幡平や八甲田山の春スキーに毎年行っていた。
 息子のトボケた書き込みもある。ヨーロッパのモンテカルロのそばに"モンテカルロで乾杯"、イスタンブールのそばに"飛んでイスタンブール"とエンピツ文字がある。口やかましい親なら何勉強してるんだというかもしれないが、私だってこんなカラフルで楽しめる教材なら"上海帰りのリル"なんて書き込んでしまうだろう。
 とにかくこの地図帳を何かあると本棚から引っ張り出して見ており、そこで「成程なあ!」とあらためて気付くことも多いのである。

先月の西日本豪雨のときもすぐに引っ張り出した。特に気になったのが倉敷市真備町だ。倉敷は元備中、備中は備前備後、美作(みまさか)と合わせて古代、吉備(きび)の国だった。さらに奈良時代の学者でのち大臣にもなった吉備眞備(きびのまきび)でも知られる。この人は若い頃留学生として遣唐使に従って入唐しているが、その留学生仲間に「……三笠の山に出でし月かも」で知られる阿部仲麻呂もいた。真備町はその眞備(まきび)と何かゆかりのある地かもしれない。そんなことを考えながら地図を見ると、町は現在の倉敷市街よりかなり内陸にある。ふうん、そうすると奈良時代の海岸線は現代よりずっと内陸だったのかもしれないなと思ったりした。
 すると真備町のちょっと東のほうにとある地名が目についた高松だ。JRのローカル線が通っているので、すぐにJRの全国時刻表を調べる。岡山から西に向かう吉備線に"備中高松"という駅がある。わかったと私は大いに満足する。

 備中高松は本能寺の変が起きたとき、秀吉が水攻めしていた城だ。信長の死を知った秀吉が城主清水宗治を切腹させるだけで毛利勢と和睦し、急ぎ姫路城にとって返した歴史上有名な城だ。そして周辺に堤防を築くだけで城そのものが水中に浮かんでしまうような地形だった。真備町も含めて地域全体が似たようなものだったのかもしれないなと思うのである。
 地図を見るときさらにその土地の歴史を合わせて考えると、奥が深くなる。その意味で地理と歴史は関連づけて勉強したほうがいい。もう30年以上前になるか、「東北地方にはクマソがいる」といった有名企業の経営者(大正生まれ)がいたが、この御仁など両課目をそれぞれ別個のものとして学んだのではないかな?
 

2018年08月03日(金曜日)更新

第509号 〜猛暑で"夏やせ""足つり"をした〜

 人並みに"夏やせ"である。先月なかば過ぎからシャワーを浴びた後など鏡に写った裸の上半身の筋肉が何となく薄くなってきたように見え、自宅の半分壊れた体重計でも1キロほど減少していた。
 あの頃西日本一帯に豪雨災害があり、気温も何年ぶりかで40度越えを記録するところがあるなど全国的に猛暑が続いていた。それでも仙台はましなほうで35度をやっと越えたぐらいだったが、やっぱり体にはこたえる。加えて私の場合冷たい水の飲み過ぎもあったようだ。土日のカンカン照りのテニスコートで断熱ボトルの氷水をよく飲んだせいで、お腹がゆるくなった。まさに"年寄りの冷や水"だ。この冷や水は水浴びや水練など年に似合わぬ危険な行為のことだが、この際氷水の飲み過ぎも入れておこう。

 また今夏は足がよくつるが、これも猛暑と間接的な関係がありそうだ。
 たとえば先月なかばのことだ。午前10時から12時過ぎまでテニスをした後、帰宅してシャワーを浴び遅いお昼をすませて体を休め、4時から理事会に出席した。理事会は管理センターの洋室(広さ20畳ほど)で行なうが、日中かなり暑かったので冷房を十分に効かせており、おまけに私は短パンだった。それで開会して30分も経った頃いきなり足がつり始めたのだ。それが両足しかもふくらはぎだけでなく太腿裏側の大きな筋肉までピリピリ痙攣して痛みも相当なので内心大いに動転し、叩いたりもみほぐしたりしたがどうにもならない。「ちょっと失礼」と部屋を飛び出しロビーのソファでセンターの若い職員さんに手伝ってもらいながらひざを思いきり伸ばしたり足首を強く反り返らせるなどしてようやく治まった。
 いやはやあのときは本当に仰天した。私は夜眠っていて足がつることが時々あるがこれほど大規模なのは初めて、これ以上ビックリさせられる筋肉痙攣は突然心臓にきてAEDのお世話になるぐらいしかない。

 専門家のよると、こうした足つりも軽視はできないそうだ。太腿あたりならまだしも腰より上にくると生命にかかわることもあるので即救急車を手配し、発症者をシャワールームなどへ連れて行って到着までの間、患部に熱目のお湯をかけてやらなければならないのだという。つまり捻挫など炎症を伴う症状とは反対、冷却スプレーなどもってのほかなのだ。この年になってまたひとつ勉強になった。

 こうした足つりが起きるのは運動後に筋肉をケア、クールダウンしないせいだ。プロやトップクラスのアマはトレーナーがいて、試合や練習の終了後にはマッサージなどで強張った筋肉をもみほぐしてくれる。われわれだってちょっとはやったほうがいいのだが、ほとんどはプレー前のウォーミングアップはやってもクールダウンはいい加減だ。それが急に冷やされたときなど突然つりになって出現するのだ。そうと気付いた私は以来、シャワーを浴びた後ふくらはぎや太腿裏側をよくもみほぐすようになった。
 幼稚園から小学校低学年ぐらいの子どもがいる人なら、腹這いになって太腿やふくらはぎを子どもに足踏みしてもらう"仲良し親子の図"もいい。それで思い出した素っ頓狂な動画があった。脱線ついでに書いておこう。
 大きなソファでパパがあお向けに寝そべっており、その背もたれの上でいかにもイタズラっ子といった小さな女の子が立ち上がろうとしている。昼寝まっ最中のパパは気付かない。立ち上がった女の子がワンツースリー、はずみをつけて飛び下りる。小さな両足が狙ったのはパパの急所。たまらず跳ね起きるパパ。キャッキャッと逃げ去る女の子。股間を両手でおさえてへっぴり腰で追いかけるパパ……こんな動画だ。2チャンネルの投稿にあったものでアメリカ人の家族らしかったが、とにかく大笑いしながら見たのだった。
 しかしいまはパソコンを見るのも眼のために控えており、残念だがしょうがない。

 さて、夏やせだがせいぜい2キロ足らずで心配するほどの数字ではない。私は20代なかばから体重58キロを1キロ前後増減するぐらいでほとんど変わらず、ウエストもベルトの穴が滅多に変わらない。体質が肥満には程遠く、これで胸や腕に肉がついていたら……と思わないでもなかったが、三島由紀夫が自衛隊に体験入隊した際、訓練担当の下士官からすぐ下半身のひ弱さを見抜かれた話を聞いて以来、見てくれの筋肉づくりはしないことにしている。私の体づくりは足腰中心、歩くことがメインなのだ。たいていの運動は足腰の土台さえしっかりつくりあげておけば、あとは持ち前の器用さと反射神経で対応できるという考え方でこれまでそこそこやってきたのだから、変えようなんて思いはさらさらないのである。

 食欲も変わらないし、猛暑の間も例年より冷房をよく使って夜もよく眠れた。ここ仙台は月遅れの七夕祭りが終わると秋の気配が濃くなる。1キロ前後の夏やせなど気が付けば元に戻っているだろう。
 これから気を付けなければならないのは実は"秋バテ"なのである。暑さに負けまいと頑張っていた神経の緊張が季節の移ろいを感じてゆるみ、油断が生まれ、体にちょっとした無理をさせる。それが病気や故障持ち、体力の衰えた老人には重大な結果を招きかねないのだ。気を付けよう。
 

2018年07月27日(金曜日)更新

第508号 〜本は読めないが眼は回復している〜

 我ながら驚いたことに、近頃原稿を書くときしょっちゅう辞典をひいている。私が使っている『大きな活字の漢字表記辞典』(三省堂・昭和56年刊)は古いものだがとても見やすい。意味ではなく文字を確認するだけなので十分こと足りる。ただしひく言葉がたとえば"赦免"や"落款"など頭に入っていて当然の字とあって驚き呆れてしまうのである。
 これはまぎれもなく本を読め(ま)なくなったせいだ。小説にしろエッセイや論文にしろ出てくる漢字や熟語の意味は、余程めずらしい初めて出会うようなものじゃない限りほとんどわかるし、前後の文章から察しがつく。また初めて見て興味をひかれた言葉はすぐ漢和辞典をめくって意味など調べるが、そんなめずらしい言葉に出会うのは年に一度あるかないかだ。つまり読書とは書き手の論旨やストーリーを楽しみながら文字を形として脳にくり返しインプットする作業なのだ。そのインプットが途切れたのだから、日常あまり使わない漢字が日を追って脳の引き出しから消えていくのだ。海で難破して無人島に一人だけたどり着いた者が言葉をだんだん忘れていくのと同じだろう。
 この先「……」(ここにはある慣用句が入るのですがそれは本項末尾あたりまで御預け)もっと簡単な字さえ辞書が必要になるんじゃないかと心配になる。

 そういえば先日、町内の老人会で「認知症の講座」があつた。ある総合病院の臨床心理士(女性)がやってきていろいろと教えてくれたのだが、その中に効果的な予防法として「社会的な活動をする」というのがあった。たとえば地域の集まりにすすんで参加したり、友だちと定期的に会っておしゃべりを楽しんだりするのだ。逆にいえば独居老人になって情報をシャットアウトすると認知症になりやすいということで、漢字を忘れる程度なら大丈夫だろう。
 この講座のラストにちょっとしたゲームがあった。前のボードに写し出されるかな文字を並べ換えてちゃんとした言葉にする一種の頭の体操だ。たとえば「みひうの」を「海の日」にする。はじめは4文字とやさしいがだんだん字数が増えて難しくなる。こういうのは私は得意だ。他の人たちが「う〜ん」と首をひねっているのを尻目に答えて講師をはじめ皆をびっくりさせたが、そうした点でも本が読めなくなったことは残念なのである。

 読書は子どもの頃から好きだった。われわれの子ども時代、遊びといえばかけっこやチャンバラ、メンコ、釘さし(五寸釘を地面に投げてさし図形をつくる)ぐらいしかなく、それにあきると自分ちや隣り近所にある面白そうな本や雑誌を読み漁った。だから内容は幼い好奇心の赴くまま一貫性などまるでなかった。
 もしこれが明治期の文化人の家みたいに、親が子どもに漢籍の素読(そどく、意味を考えずに文字だけを追って声を出して読むこと)など習わせようなんて気でもあったら……と思わないでもない。かの幸田露伴大先生のごとく「俺なんざ七つ八つの頃には六韜三略を諳(そら)んじていたよ」とまではいかないだろうが、相当な知的素養・基礎教養が身についたと思う。もっとも東北の片田舎出身の両親にそれを望むべくもなかったが。
 そのあたり私にはちょっとしたコンプレックスがあるのかもしれない。さきの露伴のような話を「どうだ!」と言わんばかりに書き込むのがそのあらわれだ。この癖(へき)はなかなか治りそうにない。どうかご寛容下さい。

 私の読書のし方はかなり丁寧だ。斜め読みなどまったくしないし『速読術』なんてものは新聞記事に応用してくれと思っている。その本は「面白そうだな」と私のセンサーに引っかかったから買って(借りて)きた一冊なのだ。目を皿はオーバーだが一言半句も粗略に扱わないようにして楽しむ。そうして読みながら私なりのアンテナに触れた文字なり言葉なりを、読むのを中断してまで調べるのが更なる楽しみなのである。最近調べたものでは「置酒款語」を一年ほど前書いたが以来ひとつもない。読めない無念さをここでもかこっている。

 そんな読み方なので作者が何気なくというかあまり意識せずに使っているらしい言葉も気になる。特に近頃ある若手の警察もので目についたのが「下手すると」という言葉だ。こういういわゆる"手垢のついた"言葉は口癖と同じで、おしゃべりなり文章なりに調子をつけるのにはいいが、ともすると耳ざわり目ざわりにもなりやすい。一冊に一ヵ所ぐらいならまだしも複数ヵ所出てくれば文句も言いたくなる。前にお預けにした「……」もおわかりだろう。
 かつて週刊誌のルポライターで何でも「ビックリ」と書く奴がいた。所轄署で話を聞いてビックリ、事件現場を見てビックリ、関係者に会ってビックリ……。「お前がビックリしているだけじゃしょうがないだろ。読者がビックリするような記事を書けよ」とよく言ってやったものだ。

 私の左眼はルセンテス注射(眼球に直接打たれるのでとても緊張する)のおかげで視野はだいぶ広くなった。だが視力が元に戻らないので本を読めるまでには至らない。それこそ「下手すると」このままかもしれないが、それでもゴルフやテニスは一応できる。原稿もこのとおり書けるしそれなりの回復である。前向きにいこう!
 

2018年07月20日(金曜日)更新

第507号 〜山の彼方は知らないほうがいい〜

 戦後の新作落語に「山のあなあなあな……」というのがあった。外題は『授業中』演者は三遊亭歌奴(のち三代目円歌・故人)。吃音(どもり)をネタに笑いをとったもので、いまなら間違いなく放送禁止、席亭でも演目にのせないだろう。私なんかこうして遠慮や思いやりと差別の境い目が曖昧になっていき、「和尚打傘」の連中が増えていくと思っているのだが、そのへんは口に蓋が身の為だろう。なお「和尚打傘」について知りたい方は『お言葉ですが…(7)漢字語源の筋違い』(高島俊男・文芸春秋)の「孔子さまの引越」をご参照下さい。

 この落語の元はあらためていうまでもなくカール・ブッセ(上田敏・訳)の詩、「山のあなたの空遠く 幸住むと人のいふ」
 である。明治38年に発売されて以来100年有余、われわれ日本人青少年の異郷への憧れをかり立ててきた。少女はカッコいい王子さまが自分を待っていると思い、少年は人々を苦しめる悪者を退治して英雄になることを夢みたのだ。少年少女ばかりではない。いい大人だって金のなる木を想像したはずで、仙台の在から台湾へ渡って行った私の両親もそんな一人だったと思う。
 ところで"あなた"という指示代名詞の"遠称"は昭和生まれにはどうもなじめない。だから"かなた"と書きたいところだがそれも自分勝手が過ぎるので、以下は"彼方"と書きます。読み方はご随意に。

 山の彼方は私も子どもの頃から憧れていた。私が生まれ育った台北は台湾第一の都市だったが、それでも周りには山が迫っていたなという感じがある。中でも市の西にあった大屯山の印象が強かった。小学校々歌にも歌われていたし、山麓には台湾神宮、中腹には北投温泉などがあり市民の憩いの山だった。
 私が小学校に入学した冬だったか、この山のてっぺんに雪が降って遠目にも山頂が白く見えた。私たちの向かいの茶山ユウジさんが登山し、ハンゴウ(飯盒)に詰めてきたが、私たちが見せてもらったときはただの汚れた冷たい水だった。当時ユウジさんは台北一中の一年生だったが、そんな少年でも一日で往復できたのだから高さもたいしたことなかったと思う。それでも山頂まで登ると市の南側を流れる淡水河の河口から台湾海峡、基隆港、東支那海まで遠望できたそうで、そういうものがつまりは"山の彼方"なのではないか。

 余談だが"茶山"という姓は珍しい(その後80年近く私は一度も出会ったことがない)ので記憶に残ったが、ユウジというありふれた名前はどんな字だったかまったく覚えていない。またユウジさんは台北一中から陸士に進み、終戦時は19歳だったはずだが、消息はまったくわからない。"山の彼方"どころか茫々たる時空の彼方である。

 だが現代はこうした"山の彼方"に対するロマンやファンタジーの感覚も人々からかなり薄れたようだ。地図と道路とクルマのせいだ。戦後の土木建設と自動車産業の発展は"山の彼方"をその気になればすぐ行けるところにしてしまった。

 10数年前、私は道路地図を見ていて「あれっ!?」と思ったことがあった。20代なかばの週刊誌記者のとき、私は新潟県の国鉄(当時の名称)飯山線から5キロほど入った清津峡というひなびた観光地に取材に行ったことがあった。上野を最終の夜行で発ち上越線をトコトコ走って翌朝越後川口で飯山線に乗り替えて信濃川沿いに小1時間、越後田沢という駅からバスで揺られて行ったところだ。取材をひと通りすませ、さて帰ろうかなと地図を取り出してみると何てことない、清津峡とは私が冬スキーでよく行く石打と尾根をはさんだ反対側なのだ。たずねると道も一応あるという。取材先のことを考えて私はそのときちょっとした登山もできるような身なりをしていたので「これはいいや」とすぐ峠越えにかかり、1時間ほどで石打駅に着き越後湯沢で上り急行をつかまえてまだ日のあるうちに帰宅したが、往路はまったく考えもしなかった発見に満足したのだった。

 ところが10数年前あれっと思った地図には、私が越えた峠にトンネルが貫通し、石打から清津峡まで車で20分足らずになっていたのである。便利になったのはいいがその分何かが失くなっているのだなと思うと、ちょっと淋しい気がする。

 山の彼方はたとえ知ってはいても知らぬ積りで眺めているほうがいい。われわれは自分の明日は想像はしても知らないほうがいいのである。私はそう思いながらいつもベランダから青葉山や蕃山を眺めている。
 

2018年07月13日(金曜日)更新

第506号 〜サラブレッドは手首が細い〜

 子どもの頃からスリムだった。"ヤセの大食い"といわれながらよく食べたが、ちっとも太らなかった。背が高いほうとあってヒョロがなお目立った。それでも高卒あたりまでは、夏場もそんな体を平気でさらしていた。
 特に身長の割に手足が長く、にもかかわらず手首足首が細く、しかも手が(足はごく平均的な大きさなのに)人一倍大きかった。だからその手で手首を握ると親指が中指の第一関節まで覆ってしまうし、足首も親指と中指の先がくっつく。簡単にいえば手の大きな足長爺さんだ。電車の座席なんかで並んで坐っている若い男が私より顔の位置が上にあったのに、立ち上がると私のほうが背が高く、「あれ?」という表情で足元を見られることがいまでも時々ある。人気タレントの誰かさんじゃあるまいしこの年でシークレットブーツなんか履くわけないだろ。

 腕や手首の細さにコンプレックスを持つようになったのは大学に入った頃からだ。当時全盛のアメリカ映画を観ると一見やさ男の主役がマッチョなのに驚きと同時にやっかみを感じたものだ。ワセダの空手部にいた級友が「ヤツらの筋肉は肉を食ってつくりあげたもので見た目はいいが持久力がない。俺たちは魚と野菜でつくるんだ」といっていたのを聞いて、よしこれからは肉をよく食おうと思ったりした。
 一方ボディビルに精出す若者も増え始めたが、自分向きじゃないと思っていた。体は細くても運動能力には自信があったからだ。

 そんなわけで私は40代なかば頃まで夏も仕事の場では長袖のシャツが多かった。また細い手首を目立たせるので腕時計もほとんど着けなかった。何しろ高度経済成長時代だ。たいていの場所は冷房完備、視線の先にはちゃんと時計があったからさして不自由はなかったのだ。
 それが変わったのはある先輩ゴルファーにこんなことを言われたのがきっかけだ。
「Cさんの長い腕や大きな手はわれわれ普通の体格の者から見れば非常にうらやましいですよ。何しろグリップがしっかりできてスィングアーク(弧)が大きくなるから、普通に振るだけで飛ばせるんです」
 当時私は某社会評論家が主催するプライベートコンペの幹事役を引受けていたが、その先輩はコンペの常連メンバーでかつてはシングルだったというベテランだ。年齢は私より20ぐらい上、いつも飄々とプレーを楽しんでいた。

 先輩はまたこんなことも教えてくれた。
 掌を上に向けて両手を前に出す。ひじは突っ張らずに軽く曲げて、内側(静脈があるほう)を掌同様上に向ける。私がそのとおりにすると、先輩は両ひじ内側の上にコインを置き、「そのまま手首をひねって掌だけ下向きにしてご覧」と言った。
「はい」掌だけくるりと下向きになり、コインはピクリともしなかった。
「お見事」と先輩はコインを取り上げ、「これができる人はダウンスィングに入ってからひじが体から離れないので、ヘッドの軌道が安定するんですよ。Cさんは実にゴルフ向きの体をしている。サラブレッドだな」といってくれたのだった。
 
 とにかくサラブレッドといわれたのはうれしかった。イギリスで誕生したこの競走馬のエリート種は、足首が細くいかにも速そうだ。以来私は夏になっても手首足首を隠さなくなった。
 さらに老いてもサラブレッドであるためには日々緊張と訓練は欠かせないと思っているところである。
 
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