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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2018年06月01日(金曜日)更新

第500号 〜トボケているが私も相当人が悪い〜

 まずは500号である。この『観察ノート』の前『体力老人のすすめ』(電子書籍になった)から数えると700号は超えているだろう。商業誌なら「面白くない」ととうに打ち切りだったかもしれないが、そこは私的なブログの強み、こうして続けさせていただいている。とにもかくにも有難うございます。

 500回も書いてきて「よくネタがなくなりませんね」と知人からいわれるが、タイトルが『観察ノート』だ。年はとっても好奇心は人一倍だから、いつも野次馬気分(根性ではない)でアンテナを張ってさえいれば奇妙奇天烈は向こうから飛びこんでくる。
 たとえば先月家内が上京中、Mさん夫妻と食事歓談したときのことだ。その1週間ほど前に大学病院で親知らずを抜かれたMさんがこんな話をしてくれた。
「Cさん、親知らずの正しい名前知ってますか?」「いや知りません」「ほら前歯のまん中から三番目、一般には糸切り歯といってる歯を"犬歯"というでしょう。あれと同じようにちゃんとした学術的というのかな名称があるんです」「何というんですか?」「チシです」とMさんは箸袋の裏に「智歯」と書き「カルテをのぞいて知ったんですけどね」と笑った。後日国語辞典を見ると「第3大臼歯、智歯、親知らず」と確かにあった。

 そういえば当団地の管理センター所長Sさんが3ヵ月ほど前、親知らずを4本いっぺんに抜かれたと聞いたことがあった。私みたいにしょっちゅう歯医者の世話になっている者から見れば抜歯など日常茶飯事、そのときは「ふ〜ん」と聞き流していたが、SさんもMさん同様かかりつけの歯医者から大学病院を紹介され、しかも抜歯後1週間も入院していたと聞いて、面白そうだなと思った。そこでSさんの休憩時を見計らって話を聞きに行った。
 Sさんの親知らずは上がかねてから痛んでいたという。痛み止めの薬をもらって服んでいたが全然よくならない。「抜いたほうが楽になると思う」というと「うちでは抜けないので大学病院を紹介します」といい、親知らずでも上顎のヤツは重要な神経がすぐ近くにあるので、熟練した医師や設備がなければ抜けないということだった。
 なるほどそう言われてみれば、さきのMさんが通っていた歯科医は私と同じ近場のY医院である。私が当地に引っ越し早々かかり始めたときは、東京は本郷生まれだというチャキチャキした女先生(私と同世代)が切り盛りしていたが、いまは代が替わって東北大学歯科部(ついでにボート部)出身の息子さんが診てくれる。この息子先生でも親知らずの抜歯は難しいんだなと納得した。
 Sさんのいっぺんに4本は当初は2本だけの予定だったという。ところが全身麻酔をかけられて施術が始まると変更されたらしい。「歯学部長をはじめ沢山の先生やインターンが立ち会っていたそうですから、いい研究材になったんじゃないですか」とSさんは笑っていう。私たちシロウト考えでもそういうことはあるんだろうなと思った。
 施術後Sさんは1週間入院して退院したが、もちろん予後は順調、体調も以前よりよくなったそうだ。それにしても普通の人にはできない体験をしたものだと羨ましくさえなる。

 本項は身辺雑記雑文である。雑文も名のある書き手のものなら読者も一応いるだろうが、私などせいぜい身内や知り合いが私たちの近況確認として読んでくれるぐらいだ。それでもホメるにせよケナすにせよ書き手としては何か一言もらえるとうれしい。
 かつて私の書いたもの(当ブログではない。管理組合広報紙に載せたものだ)を「ひとりよがりに過ぎない」と片付けたヤツがいた。この団地の住人(いまはいない)であり、理事の一員でもあったオカマちゃんだ。彼は元は市役所の職員だったが、そちらの趣味が昂じて退職し、国分町に店を持つようになった変わり種だ。そういう人物なので口は達者で理屈巧者、客あしらいよろしく古手の理事などよくやり込められていた。

「ひとりよがり」という言い方はシロウト批評の代表、印象批評の決まり文句であり、何にでも通用する。それこそ、「来たり、見たり、勝てり」も、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」も、この一言で片付けることができる。さらにいえば論争のきっかけづくりには最適の言葉でもある。勝負なら誘いの一手だ。誘いに乗って「何を!」と土俵に上がれば相手の思うツボ、議論に引きずりこまれてしまう。さすがオカマちゃんだなと私は鼻先で「ふん」と笑って相手にならなかった。こういうのはうれしくない。

 無視されるのは平気だ。私は悪口をいうのが好きなので、イヤな嫌いなヤツのあれこれは遠慮なく書いている。前に横綱白鵬の顔の特に小ぶりな口元が、自分を英雄視して周りに集まってくる単細胞頭の手下に悪いことをけしかけ、自分は裏で糸を引いて知らん顔をしている一見優等生の顔だと書いたことがあったが、案の定だった。そんな悪口の対象は別に有名人ばかりではない。ふだん周辺にいる人も槍玉にあげる。
 相手は自分の実力や器量におかまいなく、座の中心人物や長老然と振舞いたがる人物だ。巧言令色、詮索好きの不勉強家でもある。近頃は相手も書かれていることを知ったようで、会っても顔を合わせようとしない。無視しようとして無理しているなとトボけている私も相当人が悪い。

 以下まったく別の話、日大と関学のアメリカンフットボールの試合がニュースになったとき、NHKのアナウンサーが「カンセイガクイン……」といっているのが耳についた。家内に聞くと「そう聞こえるんじゃないの」という。確かめるとやはり「カンセイガクイン……」だった。明治時代は漢字を"漢音"でいうのが主流だったので"セイ"になったという。ちなみに"関"の漢音は"クァン"だが発音は"カン"だ。
 目はちょっと不自由になっているが、耳は達者なのである。501号から先もネタには不自由しないだろう。
 

2018年05月25日(金曜日)更新

第499号 〜頭も体もまだまだ使えるようだ〜

 左右両眼とも不自由になり、新聞も本も読めなくなってから4ヵ月を超えた。当初これじゃ原稿のネタ集めに苦労するか……と心配したが、いまのところどうやら無難に乗りきっている。長年あれやこれや頭の片隅に溜め込んだ有象無象の中から何か見つけ出しては、こうして一編にまとめているのだ。85年余りダテに生きてきたのでもムダに好奇心旺盛だったわけでもないなとあらためて自信(何の?)を強くした。
 それにしても、いい年をして口を開けば毎度同じこと、それも自慢話の類しか話せない人って、いったいどんなものを読み、何から知的刺激を受けているのだろうか?と思う。

 本が読めなくなってからも、私はときどき家に一つだけある本棚を眺めている。それは高さ2メートル以上、巾90センチ、ガラス戸つきのいわゆる家具調で、リビングボードと並べて置いてある。私は愛書家蔵書家じゃないので、中に入っている本も長年保存してきたものは10冊足らず、それも愛読書というよりいつか何かの参考になるだろうととっておいたものだ。たとえばエッシャーの画集や青木功(プロゴルファー)のスイング写真集、山本夏彦、開高健、向井敏などがボチボチ、あとは国語辞典や漢和辞典、古い知恵蔵などだ。新刊本はブックオフなどで買ってきたものを読み終わったらまとめて売り……しているので棚に並んでいる期間は短い。それも近頃は家内が読んでいるものが多くなった。
 したがってこの本棚の空きスペースには関係のない品物があれこれ並んでいる。新潟銘酒の焼き印を押した一合升、かの大震災のとき念の為買い入れておいた乾電池を詰め込んだカン、封を切っただけのメキシコ産テキーラ、ディズニーキャラクターのフィギュア……などだ。
 そんなものを眺めながら「はて?この本棚はわが家に実際必要なものだろうか」なんて考えるのである。

 同じことは他のインテリアについてもいえる。本棚と並んで住居のメインルームにデンと納まっているリビングボードなどその代表だろう。中央上部の見開きガラス戸の内部にあるのは滅多に使わないちょっとしたブランドのティーカップセットや、私が「これで飲んだら酒も美味いだろうな」と衝動買いした酒器類が主だし、その下のテレビ収納スペースは近年薄くなった画面のせいで裏側のガランドウ空間がまるで小さな子どもの隠れ場然とあるだけなのだ。
 そのほか食器棚には老夫婦二人には多すぎる食器が並んでいるし、他のサイドボードや洋服タンスも似たようなものだ。容れ物があったからモノが増えたのかモノが増えて容れ物が必要になったのか、議論はタマゴとニワトリ同様堂々めぐりだろう。とにかく本が読めなくなったのをきっかけに本や本棚をはじめいろんなものが目につきだしたのである。皮肉なことだ。

 とはいえ一度身辺に置いたものはオイソレとは処分できないのもわれわれ人間なのだ。老人は特にそうだと思う。これは眼が不自由になったこととはあまり関係ないが最近気付いたことがある。年寄り男性の服装のことだ。
 とにかく型が古い。特にジャケットがそうで、ファッション的には一時代どころか二時代は古い。肩にパットが入って体の実際の肩のラインより2センチほどはみ出して肩山が下がり(その分袖丈が短くなっている)、襟幅も広い。最近のファッションが肩幅にピッタリしたタイトなラインだから違い(古さ)がなお目立つ。もっともあのタイトなファッションは貧弱な体型には似合わない(着こなせない)と私は思っている。動きにともない小ぶりのパッド入り肩先だけ浮き上がって胸の薄さを感じさせるのである。
 そんな古めかしいジャケットを"ちょいちょい着"(限りなくふだん着に近いよそいき)にしている年寄り男性がけっこういるのだ。ただし一見型は古いが素材は上等だし仕立てもしっかりしている。だから逆にいえば処分しきれなかったモッタイナイ品なのだなとわかる。物持ちがいいといえばまさにそのとおりだが、私などにいわせれば「なんだかなあ……」である。
 ちょいちょい着が通用したのは、お古お下がり仕立て直しが普通だった時代だ。いまはモノ余り、ちょっとでも古くなったものは新しいモノに入れ替わる。ちょいちょい着だって相応の品を用意したほうがカッコいいのだ。近頃はハードオフもあちこちにあることだし、年寄りだってその気になればオシャレはできる。
 ただしいかに時代遅れの品だろうが周囲の眼を気にせずに着ていられるのは喪服だけだ。黒服を最新のファッションでキメていいのは祝儀不祝儀ともいつ何時出会わすかわからないその筋の人だけだ。

 現代はモノ余りの時代だ。情報も同じである。必要な情報は本を開き新聞を見、テレビやパソコンをスイッチオンすればすぐに手にはいる。だがその代償としてわれわれは考えることをあまりしなくなった。
「モノが読めなくてもネタはあるわい」と私がいうのは強がりではない。考えることの重要さをあらためて認識したのだ。私の頭も(体も)まだまだ使えるようだ。
 

2018年05月18日(金曜日)更新

第498号 〜人生イライラ爺だってイ〜ライラ……〜

 前回に続いてまたタイトルが一時代前の古い言葉で申し訳ない。美空ひばりに次いで昭和を代表する女性歌手、島倉千代子のヒット曲のモジリだ。昭和どころか平成さえなくなろうというのに……だが、やはり一世を風靡した言葉は記憶に強く残っているものでしょうがない。
 それよりも、いま私が書いた「申し訳ない」である。このところこれをよく聞く。政治家が言い、官僚のトップが言い、会社のお偉方が言い、芸能人が言い、記者会見で深々と頭を下げる「申し訳ありません」のオンパレードだ。 
 考えてみればこれはおかしな言い方である。"申しわけ"とは"言いわけ"つまり"弁解である。「申し訳ありません」は「弁解のしようがありません」と言っているのと同じだ。するとその後に続く言葉は「だからお詫びいたします」か「だからそちらで勝手に解釈して下さい」かどちらかだろう。私にはどうも後者のような気がする。責任逃れもいいところなのである。
 謝る気なら最初から「心よりお詫びいたします」と言えばいいのだ。要するに当事者には謝る気は全然なく、形だけ頭を下げているのだ。ちなみに私の"申しわけない"は"別に弁解しませんのでご自由に"ぐらいだ。

 ところで近頃何かとイライラすることが多くなった。年老いて気が短くなってきたせいではない。元々気が短いほうなので若い頃はどん臭い奴を見るとイライラしていたが、老いるとともに少しは人間もできてそういうこともあまりなくなった。だから近頃のイライラは年寄りが原因、高齢化社会のせいだ。義姉が亡くなって東京へ何度も行ってきたことで尚一層そう思う。
 東京での行動範囲は目黒から東京までの山手線がほとんどだったから、目にするのは男も女も現役世代が大部分だ。動きも早くムダがないので、こちらもイライラすることがない。

 ところが仙台はどこへ行っても年寄りが多い。市中心部の繁華街一番丁通りでさえそうだ。昼間通りに面したファミレスに入って2階から見下ろしていると、爺さん婆さんがひっきりなしに通っていく。それもヨタヨタウロウロと他の歩行者の邪魔になりそうな足取りなので、なおさら目立つ。全体の半分ほどもいそうな感じだ。私などとてもじゃないがあのヨロヨロノタノタを縫って歩く気になれない。
 昼間のスーパーのレジも年寄りが多い。私は女の買物にはとても付き合えないので滅多に行かないが、たまに行くと「よくまあ皆さんガマンして並んでいられものだ!」と感心する。だから私は止むを得ず自分で買い物(酒など)をするときはレジでモタモタしないように工夫する。先日はこんなことがあった。
 翌朝ナットウに加えるネギがないので、一人で歩いて(往復約7千歩以上)買いに行った。品物を持ってレジに並ぶと前にいるご婦人が私の手元を見て「ネギだけですか?」という。「ええ」「それじゃお先にどうぞ」と順番を譲ってくれた。彼女のカートのカゴには買物が山積みだった。私は礼を言い、彼女の前に出ながら「これで勘定もすぐすみますから……」と、もう一方の手に握っていたネギ2本1束213円の小銭を見せた。彼女も顔をほころばせてうなずいてくれた。
 そして考えてみると、こうした工夫は自分の楽しみでもあるのだから、他の人のタメではなく自分のイライラの解消になるのだ。

 ゴルフ場の年寄りプレーヤーもイライラの元だ。どう見ても私よりひと回り以上若い老人たちがシルバーティからモタモタとプレーしている。彼らは特にグリーンで遅い。ボールをマークしにしゃがむと立ち上がるのにひと苦労するし、短い簡単なパットを「お先に」とホールアウトもしない。しかも全員ホールアウトしてもグリーン上でモタモタとスコアの確認まで始めたりする。待っていると本当にイライラする。
 こうした老人ゴルファーは大部分が会社仲間や接待仲間の延長だろう。自分では健康の一助になっている積りかもしれないがなるわけない。毎日1時間あるいは30分でも家の周りを散歩したほうがいいくらいだ。会うたびにお互い体の故障を自慢しあっている仲間が一人欠け二人消えていけばいずれは姿を見せなくなるだろう。ついでに彼らのおかげで何とかやってきたチャチなコースも潰れてしまうだろうと思っている。

 私は気は短いほうだがのんびり育ったことと、現役時代好き勝手なことをやってきたおかげで、70代に入るまでは日常イライラすることも少なかった。さきに書いたようにどん臭い奴を相手にしたときぐらいだ。大は一国のマツリゴトから小は身辺雑事まで「よきにはからえ」で事足りるお殿様はイライラすることはない。第一線から退き世間の雑事から遠ざかった年寄りも殿様みたいなものだ。それがイライラするようになったのはひとえに世の中が変わってきたせいだ。急激な高齢化社会の到来である。
 ここ仙台のような地方都市にいるとそれがよくわかる。イライラ解消に役立つのはユーモア=笑いだ。年寄りほどユーモアセンスを磨いたほうがいい。
 

2018年05月11日(金曜日)更新

第497号 〜世の中に寝るより楽はなかりけり〜

 上記タイトルの上の句に「浮世のバカは起きて働く」と下の句が続く。出典はよくわからないが、こんなザレ歌を子どもの頃お袋がよく口にしていた。
 お袋は仙台から北へ1時間ほど汽車に揺られ、さらに軽便に乗り換えてトコトコと1時間以上走った北上川に近い田舎の農家生まれである。学歴は尋常小学校卒、明治後期の一般家庭の子弟と同じだ。ただ他の者よりちょっと利口で知識欲があったようで、その後もあれこれ"ものを知る"工夫をしたという。いわゆる耳学問である。そうした知識を私たち子ども相手に披瀝していたのだ。

 この歌の解釈は「寝る間も惜しんで働くのはバカ正直者のすることで、利口な者は楽して稼ぐ」というのが一般的なところだろう。だが私は根が田舎者のお袋が本気でそんなことを信じていたとは思えない。こんなことを考えるのはむしろ親父のほうだ。
 県南のちょっとした地主の分家の跡とりに生まれた親父は一応中学まで卒業している。だが自分の頭の良さに自信満々、仙台で始めた商売に忽ち失敗し、外地で一旗挙げようとお袋を連れて台湾へ渡った。そして始めたブローカー業がウケに入って、軍の仕事までするようになり、かの大戦中はジャワ島のスラバヤにまで行った。したがって私たち子どもの養育はお袋まかせ、私など物心ついた頃から家に落ち着いた親父をほとんど見た記憶がない。
 この親父が「自分は一を聞いて十を知る利口者だ」と思っている一種の自信家だった。自信家は改めて勉強することはないから間違えて知ったことでも平然と口にする。たとえば大本教の出口王仁三郎を"ワニサブロウ"(正しくはオニサブロウ)というようなものだ。なぜ間違えていたかは日本歴史に興味のある人ならすぐ見当がつくだろう。
 だからさきのザレ歌も元は親父が口にしていたのだろうなと考えると納得がいく。つまり私にとっては格好の反面教師でもあるのだ。もっとも私たちが戦中戦後を通してカネに不自由しなかったのもこの親父の稼ぎのおかげだから、そのへんは感謝しなければなるまい。

 実は目が悪くなってからこのザレ歌が何かというと頭に浮かんでくるのである。私は10年ほど前からテレビはNHKニュースしか見なくなったので、本が読めなくなった近頃は夜も早寝が習慣になった。7時ニュースを締めくくる天気予報が始まると寝る仕度を始め8時頃にはベッドに入る。はじめの頃は家内もなかばとまどっていたようだが、近頃は我関せずで本なんか読んでいる。そうしたベッドの中で「寝るより楽はなかりけり」なんてことはないなと思うのである。
 とにかく夜布団にくるまって「あぁ楽ちん楽ちん」といえるのは、昼間頭や体をフルに使ってひと仕事やり終えた満足感のある人で、40過ぎて出戻ってきた娘や減りつつある体重の心配などしていてはそうはいくまい。さらにいえば満足感とともにうつらうつらしながら、明日は何ができるかなと考えることができれば最高だろう。その点でも私は本が読めず細かいことはできずとも、やりたいことはいくらでもあるし、これからも工夫してつくり出していけるから安心だ。

 早寝だと朝の起床も当然早い。私は一般の高齢者男性並みにちょっと前立腺肥大気味だが、夜中小用に起きるのはせいぜい1度、2度目が明け方で就寝からおよそ8時間後、この季節晴れていれば外もだいぶ明るい。起き出して着替え、朝食の仕度にかかる。メニューは食パン2枚と刻みネギを山程入れたナットウ、薄切りハムと小さなチーズ1コ、大きなマグカップ1杯の砂糖入り紅茶とこれまた大き目のグラス1杯の野菜ジュースだ。ネギはもちろん自分で刻む。専用の薄刃の包丁があり前々からやっているので慣れたものだ。目が不自由になってからはネギの白さとマナ板の区別がつきにくくなってはいるが、自分の指に刃を当てたことは一度もない。高齢者の朝食としては栄養面でもまあまあだろう。
 朝食後は新聞がかつてのパターンだったが、いまはその購読もやめた。近頃の新聞は中高年対象のトクホや得体の知れない民間薬のデカい広告ばかり目立つて、読むところがほとんどない。2〜3年前からやめようと思っていたので、目が不自由になったのはいい機会、家内もすぐ賛成したものだ。
 そこでいまはちょっとした食休みの後ベランダで体操を行ない、そして日中は原稿を書いたり、翌日の外出用のシャツにアイロンをかけたり、裏の墓園を歩き回ってきたり(1万歩前後)して、要するに"貧乏暇なし"で働いている。親父のような人間から見ればまさに"浮世のバカ"だが、私にとってはこれが一番"人間らしい"生き方なのだ。
 

2018年05月04日(金曜日)更新

第496号 〜人生塞翁が馬、私は宝くじチャンス〜

 先月までいろんなことが連続して起こった。
 私の左眼が悪くなったのを皮切りに家内は耳がちょっとばかり遠くなり、東京の家内の実家の義姉がだんだんいけなくなって、家内は上京したまま2週間近く居続け、その間一人暮らしの私は義歯"ギシ"(読み方は同じでも家内とは大違いだ)が下から上と順番にこわれて、三日をおかず医者通いの挙句、やわらかいものしか食べられなくなり、その義姉が亡くなって月下旬には通夜葬式に家内と私両名分の喪服一式を持って上京し……といった具合だ。

 その間よくこの原稿を毎週途切らせずに続けられたのは、家内が上京する前に何本か書いてストックしておいたのと、それを早目々々に送ったのを、支配人氏がうまく交通整理してさばいてくれたおかげで、この場を借りてあらためて御礼申し上げます。

 私がやもめ暮らしを始めて間もない頃、かねてより昵懇にしているMさん夫妻と例の手頃な店で飲食歓談した。私が食事に不自由しているだろうと誘ってくれたのだ。その席で「こんなにいっぺんにあれこれ起こると、何かいいことだってあるかもしれない……」という話題になり、「宝くじでも買っておきましょうか」といったがまだ買っていない。いや実際地震は続けて起きたし、森友加計学園、イラク報告書問題、財務省次官のスキャンダル辞任、など政権をゆるがす問題も続けざまに起きているのだ。個人の禍福だって同じだろう。やっぱり何か買っておこう。

 やもめ暮らしは10日足らずだったが、その間はよく歩いた。何しろ私たちの団地周辺にはスーパーがない。コンビニでさえバス通りを500メートルほど下って作並街道まで出なければないのだ。一番近い小ぶりなスーパーでさえ私の足で片道45分、もっと大きなショッピングセンターだと1時間近くかかる。それもけっこうな坂道を歩いてだ。JRの駅は目の前だが、その他の生活関連施設は何もない。ゴルフ場がひとつすっぽりおさまる大きな公園墓地があるだけである。

 団地ができあがって間もない頃は周辺環境の素晴らしさが人気を呼んで、価格もどんどん上がったそうだが、一旦天井をうつとたちまち値下がりし始め、私たちが入居したのは築9年目だったがすでに売り出し価格の半値だった。人間はやっぱり生活の便利さが第一、環境は二の次なのだなと思う。私自身にしてもいまはいくらでも歩けるからこうした評釈も口にできるが、歩けなくなったらどうなるか。人間なんて所詮わがまま勝手なものなのである。

 歩く、といえばこんなことがあった。義姉の見舞いに行ったときのことだ。
 義姉が入院していたのは東横線中目黒駅に近い公立病院だ。中目黒は私たち家族にとつても思い出のある地だ。東横線で一つ先の祐天寺に4年間住んだことがあり、息子は中目黒小学校に1年生から4年間通っていた。

 病気見舞いに行っても何もすることがない男は手持無沙汰なだけだから、私は周辺をよく歩き回った。半世紀近い昔暮らした祐天寺あたりがどうなっているか見にも行った。お寺も小学校も都立目黒高校も以前と同じ場所にあったが、よく通った銭湯は影も形もなかった。病院に戻ってケータイの歩数計を見ると7千歩を超える数字が出ていた。家内が義姉にその数字をいうと「たいしたことない」とあっさりいわれた。
 義姉は私より4歳年上、昭和ひと桁生まれでも"片手シングル"5年より前である。こうした年代の人たちにとって歩くことはごく普通のこと、どこに住んでいようが関係ないのである。7千歩なんてたいしたことないのも当然、この程度で自慢顔するなんてチャンチャラおかしいのである。

 ゴルフにも行ってきた。先月末、町内会ゴルフ部の本年第一回コンペにエントリーしたのだ。もちろん18ホールちゃんとラウンドし、後のパーティにも参加した。このコンペのパーティは団地内の施設で行われるのがミソである。1番館から9番館までの居住棟とは別に体育館や洋室和室、スカッシュコート(いまはまったく利用する者がなく、子どもたちの遊び場になっている)、管理センターなどを備えたコミュニティ棟があり、テニスコート同様居住者は格安で利用できるのだ。
 パーティでは私の目が見えないことがひとしきり話題になった。「本当ですか?」と半信半疑な人が多かったが、そこはテニスを一緒にやっている人が「目の前のボールをよく空振りしていますから本当ですね」と証明してくれた。いずれにせよ目の下にあるボールは視野の隅に見えているし、動かないのだからまともにスィングしさえすればいい。しかも打ったボールが飛んで行く方向はクラブヘッドに当たった感触でわかる。何しろキャリア45年オーバーだ。どうせ見えないのだから飛んだボールを追ってヘッドアップすることもない。去年12月以来4ヵ月ぶりのラウンドだったのでスコアはまとまらなかったが、プレーは楽しめたし、まだまだ大丈夫という自信もついた。

 とにかく人生は「万事塞翁が馬」なのだ。いいことも悪いこともないまぜなのである。目が悪くなった代わりに道路を渡るときは左右を以前よりよく確かめるなど用心深くなったし、何よりも足腰がはるかに達者になったと思えばオツリがくるではないか。
 
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