2024年04月
01 02 03 04 05 06
07 08 09 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
 
 
仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

ご意見・ご要望をお寄せください

 
ユーモアクラブトップに戻る
<<前へ 123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142434445464748495051525354555657585960616263646566676869707172737475767778798081828384858687888990919293949596979899100101102103104105106107108109110111112113114115116117118119120121122123124125126127128129130131132133134135136137138139140141142143144145146147148149150151152153 次へ>>

2018年04月27日(金曜日)更新

第495号 〜見えなくとも本質は見えているわい〜

 左眼の加齢黄斑変性再発から3ヵ月余り過ぎた。その間、本が読めなくなったことはさておき、やりかけて中断したまま手をつけられないシゴトが2〜3ある。たとえばパンツの仕立て直しだ。
 私は縫製ができる。若い頃人一倍手足の長い体に合う既製服がなかったので、オーダーメイドにおカネを使うよりシャツぐらい自分で作ってしまえと、たまたま家にあった古い足踏みミシンを使ったのがきっかけだ。以来元々器用かつモノづくりが好きだったこともあって、研究努力を重ねて腕も上がり、就職したときは自分で仕立てた白いウールのコートを着て出社したほどだ。われながらかなりトッポイ新入社員に見えたと思う。

この特技はいまでも私の"おしゃれ"を支えている。縫いかけのパンツもその一つで、昨年秋リサイクルプラザの"お譲りします"コーナーで見つけた品だ。型は古いが生地はしっかりしていたし何よりも柄が面白く、サイズも私よりひと回り大きかったので、春物のゴルフパンツに仕立て直してやろうと"志ボックス"100円入れてもらってきた。
 その仕立て直しが股下の仮縫いで中断しているのだ。晴れて明るい日に一度試しにやってみたが、細かい柄合わせがどうしてもできない。やっぱり見えるようになるまでダメかなとあきらめているところだ。

 原因は何にしろこうしたつまずき、行き詰まりは誰にでも起こる。大小にかかわらず立てた目標に向かってまっしぐらに突き進み、大願成就メデタシメデタシなんてのは万人に一人の幸運児だろう。
 大分県耶馬渓の"青の洞門"を舞台にした菊池寛の小説『恩讐の彼方に』など話ができ過ぎだと思う。また、元禄の昔江戸は本所松坂町の吉良屋敷に討ち入り、主君の仇をとった赤穂浪士は大石内蔵助ら47人が有名になったおかげで、途中脱落したその他大勢は忘れ去られてしまった。

 相田みつを風にいえば、つまずいたり転んだりするのが「にんげんだもの」である。その意味では大事業なかばで大きくつまずいて、「是非もなし」(しょうがねえや)と燃えさかる火の中へ消えていった信長のほうが、ヘンに長生きしてボケた挙句誇大妄想に駆られ朝鮮半島に攻め込んだ秀吉より余程「にんげん」らしい。
 われわれ人間にとって何かをつくる作業はたいへん大事なことだと思う。人類が発展してきた要素というか根源というか基礎的なものがそこにあると思うからだ。人類は木から下りて(天孫降臨だ!)二本足で歩くようになり、前足(手)を使うようになり、その手でモノ(道具)をつくり、脳を発達させ、地球上に君臨するようになったのだ。そのわれわれのはるかに遠い祖先が初めて作ったモノは何だろうかと想像すると楽しくなる。高いところの木の実をたたき落とす棒か、水をうまくすくって飲む貝殻か、それとも……。われわれのモノづくりは大は国家や社会から小は子どもの粘土細工まで、50万年もの昔から受け継いできた本能なのだ。

 粘土細工で思い出したことがある。小学校5年生のとき太平洋戦争がようやくたけなわになり、学校でもあちこちに防空壕を掘ったり、私たちの教室の前の中庭にもできた。土質が粘土だったので簡単に掘れ、掘り上げた土で周りに土手がつくられたのを見て、私はその粘土で城を作ってみようと思いついたのだ昼休み時間、級友との遊びに加わらずに工作し、高さ10センチほどの天守閣をつくった。
 土手の上に飾ると、級友がつぎつぎとやってきてあれこれ言い、午後の授業が始まる前、担任の林利光(われわれ悪童は陰でリンリコウと呼んでいた)先生もやってきた。何かいわれるかと思っていたが「フン」とソッポを向いて行ってしまった。その天守閣はやがて夕立で流れてしまった。

 パソコンの焼き付き防止画面のひとつに、どこかの海岸に砂で作った「モン・サン=ミシェル」の写真が出てくる。いろんな写真が次ぎ次ぎと変わって長い時間じゃないのが残念だが、あれはいつも楽しく見ていた。(いまはパソコンはほとんど見えない)
 私は人間のシゴトとは本来手や頭を使って何かを作るものだと思う。それが近頃は人やカネ、情報を操ることが主流になりもてはやされるようになった。"鬼十則"
などと昔の軍隊にでもありそうな社是を揚げた会社がギョーカイトップにいるのもムベナルカナなのである。

 ところでつい最近気付いたのだが、私の暗くなった左眼の視野を中心部分の見えない右眼がカバーしているらしい。つまり左眼がとらえきれない対象を右眼の周辺がしっかりとらえているのだ。われわれの体の不思議なところだと思うし、何だまだまだ捨てたもんじゃないなという気になる。
 これこそ「見えなくても本質は見えているわい!」だ。
 

2018年04月20日(金曜日)更新

第494号 〜近頃よく見る異次元の人たち〜

 私たちが日常的に利用しているスーパーで時たま見かける一風変わったバァさんがいる。年齢は60代後半から70代ぐらい。髪や顔は寝起きのままといった感じで服装も小汚なく、何よりも足腰が悪そうだ。いつもショッピングカートにすがりつくようにしてノロノロウロウロと買い物をしているので、カートがまるで病人のリハビリ用の歩行器代わりだ。このため尻が普通の買い物客より後ろへ出っ張ってしまい、動きも鈍いとあって、他の客のカートがよくぶつかるのだが、そのときの反応ぶりがすさまじいのだ。

「ごめんなさいだって? ふん、謝ってすむんならお巡りなんかいらないんだ。どこの何様だか知らないが、年寄りだと思ってバカにするんじゃないよ。あんただっていつかババアになって、誰も相手にしてくれなくなるんだからね……」
 などと相手の顔を見ようともせず、小声で口汚ない文句を憎々しげに長々とつぶやくのである。私も2〜3度聞いたが多分いつも同じ言葉だろう。通りすがりの従業員も知らん顔をしている。

 スーパー周辺は旧市街地からちょっと離れた新興住宅地だ。4車線の道路が通りパチンコ屋をはじめユニクロや家具店、ファミレス、コンビニ、個人病院などが立ち並んでいる。住宅はほとんどが庭やガレージ付きの戸建て、中流層といったところだ。バアさんは車のないところを見ると、そんな一軒家にひとりで住んでいるのだろう。あれほどの偏屈ぶりでは知り合いもできないだろうし、親類縁者も敬遠して近付かないだろう。綾小路きみまろ流にいえば「18歳!のときがあんたにもあったでしょう」である。
 これまでどんな人生を送ってきたか、どんな終盤を迎えるのか、考えれば気になるが所詮他人事だ。下手なストーリーを想像してみるしかない。

 このようにわれわれ一般の常識では"普通の人"の範疇からはみ出した人が、近頃増えてきたような気がする。先頃東京で見かけたのはこのバアさんと正反対の女性だった。
 有楽町駅近くのショッピングビルで、昼下がりの空いている店内をベビーカーを押して歩いていた若い母親だ。隙のないメーキャップとファッション、ベビーカーに納まった子どももそれなりの装いでおとなしくママのアクセサリーに徹している。一体全体何者だろうと首をひねって、はは〜んと気付いた。保育所や待機児童とは縁のない人種がそれをアピールしに、わざわざ足を運んできているのだ。「わたくし皆様とは違いますのよ」である。
 そのとき一緒に食事をしたスキー仲間Y君によると「ああいう若いママがいま多いんですよ」という。銀座の小学校でアルマーニの制服を生徒に着せると同じ感覚である。

 人は誰でも「私は違うのよ」と自慢したがる。いちばん手っ取り早い自慢のタネは出自だ。日本には昔"士農工商"、明治維新後はそれが"士族""平民"などと戸籍に記されるようになり敗戦まで続いた。だがそれを自慢のタネにする人は昭和の後年までいた。
 私の下の弟が縁あって九州出身の女性と結婚することになったときだ。娘を連れて仙台までやって来た両親――これが旦那の方が10歳ほども若い何やらいわくありげな夫婦だった――の母親が「うちは士族です」と殊更げにいってきたことが記憶にある。
 お隣の朝鮮民族には"両班(ヤンパン)"という特権階級があり、李王朝の文武高官を独占していた。前代の国連事務総長・藩基文は自分がその両班出身であることをいつも自慢していたという。

 戦後のアメリカによる徹底的な民主々義教育によってそうした身分制度は消え失せ、「元を正せば侍育ち」とか「世が世なら三尺下がって畏(かしこまり)……」などの言葉だけ残った。もちろん歴史の浅いアメリカにそんなものはない。彼らが身分を決めるのは実力、昔は二丁拳銃であり現在は経済=カネである。そして70年余りひたすらアメリカに追随してきた日本人は"カネ=身分"に目覚めたのだ。有楽町で見た若いママや銀座の小学校の制服はその表象だと思う。
 そしてまたはじめにあげた憎々しげなバアさんはその対極、すなわち「世が世なら……」の表象なのではないか。両者ともマコトに現代的なジコチュー、他の人をこれっぽちも斟酌しない点が共通している。
 若い頃同僚や後輩から"金星人"と呼ばれていた私にしても、こうした女性は"異次元"の人間に見える。われわれ年寄りは世の中の変化や人々の変容を理解しようとしたり、ついて行こうとしたりせず、あれは別の世界なのだと達観しているのが一番だと思う。。
 

2018年04月13日(金曜日)更新

第493号 〜外股でも内股でも格好いい歩き方〜

 花見騒ぎも一段落し、歩くのにいい季節になってきた。この時期特に気になるのが、自分自身も含めて"人の歩き方"だ。
 まず男と女では基本から異なる。男は踏み出す足の爪先が外向き、外股であり、女は逆の内股だ。これは誰かに習ったわけではなく子どものときからそうなるようで、おそらく体の構造のせいだろう。とはいえ広い世間にはこうした基本に従わない変人もけっこういるから面白い。

 先月義姉の病気見舞いに上京したときのことだ。地下鉄でたまたま隣に坐っていた50代ぐらいの男性がそうだった。時間は午後3時頃、車内は空いており、男性は足を高々と組み、英字新聞を広げて赤ペンでチェックを入れていた。そして新富町で下車して行ったのだが、その歩く後ろ姿を見て私は思わず目が・になったものだ。まるで和服姿のご婦人のような内股である。ブランド物らしい革靴が白足袋に見えたほどだ。あれほどの内股で歩く男性は私も初めて見た。
 軽い内股で歩く男性は多い。いまは引退したがアメリカの超有名なプロゴルファーJ・ニクラウスがそうだった。テレビで見て「ふ〜ん」と思っていたが、サントリーオープンに来日出場したとき実物を見て納得した。そういえばJ・ニクラウスは声も少しカン高いほうではなかったか。どうもそんな気がする。

 新富町周辺は広告会社が多いところだ。あらゆる噂は人々の口から口へすぐ広まっていくから、こうした人物はたちまち地域の有名人になる。本項を読んで「あの人か」と気付く方もいるだろう。気が向いたら当クラブまでご一報下さると有難い。私が見たのがマボロシじゃない証拠になります。

 反対に外股の女性は多くはない。だが私がよく見かける同じ団地の一人は実に堂々たるものだ。私は毎朝ベランダで体操をしながら下の通りを駅へ向かう人たちを眺めている。女性はその一人で20代なかばぐらいか、服装は地味目だが活動的、いつもリュックを背負い、雨の日以外両手は空いている。その両手を振って外股で歩いてくるのだが、それが男性顔負け、白いスニーカーなんかだとまさにノッシノッシという感じなのだ。4階の高さから見下ろしているので顔はよくわからないが、あれで可愛らしかったら職場でも人気者だろうなと思う。

 外股でも内股でもなく爪先をまっ直ぐ踏み出して行くのはなかなか難しい。過日雪が道路に薄く積もった日に試してみたが、自分ではかなり気を付けてまっ直ぐ歩いているつもりでも、足跡を見るとけっこう外股なのだ。ほぼ85年この歩き方だったのだからおいそれと直るわけないのだ。そこで近頃は道路脇の側溝にかぶせた蓋の巾40センチ弱から靴がぜったいはみ出さないように歩くことを心掛けているが、これだけでもずいぶんまっ直ぐ歩けるはずだ。

 手の振り方も大事だ。もちろん体に沿って前後にまっ直ぐがいいのだが、男性は外股と同じようにともすれば斜め前方に振り出されている。このような「そこのけそこのけ」といった威張った歩き方は後ろから見るとすぐわかる。降り戻された手がいわゆるケツペタのあたりまでくるのだ。尾てい骨あたりまできて交差するような人はさすがにいないが、そんな歩き方を見ると追い越して顔を見たくなる。

 老人の歩き方の典型は踏み出した足のひざが曲がっていることだ。このため重心点の腰が前へ移動せず、体を前方へ傾け頭を突き出して体重移動をはかるのだ。ではひざを曲げないようにするにはどうすればいいか? 足首を伸ばして地面を蹴ることだ。つまり若々しくカッコよく歩くには足首の強さが必要なのであり、それはふくらはぎの筋肉からふともも腰へとつながっていくのである。

 半月ほど前の新聞に、「足の衰えを感じている方へ」「筋肉づくりに間に合います!」という筋肉成分の1ページ全面広告が載っていた。味の素が開発した、日本初の「歩行能力を改善する機能性食品」だそうだ。
 こういうものを見て「しめた!」と思う人も多いだろう。だが私はそんなものよりいますぐ立ち上がって爪先立ち20回やるほうがよっぽど効果があると思う。
 

2018年04月06日(金曜日)更新

第492号  〜本が読めないのはつらいが代わりに〜

 年明けの1月なかば、突然左眼視野の右側半分ほどが暗くなって見えなくなり、同時に左肩が異常に凝って「これは心臓がやられたか!」と不安になったことはすでに書いた。さいわい心臓は無事だったが左眼はいまだに完治していない。

 発症からこれまで約80日間にはもちろん診察も治療もちゃんと受けている。発症の3日後がちょうど日赤眼科の定期診察日だったので主治医の女医さんに診てもらった。症状を説明すると、眼底の断層写真などを何枚も撮られ「新しい出血や水漏れがありますが、急激に悪化する症状ではないので、しばらく様子を見ましょう」といわれた。5年前の加齢黄斑変性の再発である。そして症状は特に悪くも良くもならないままほぼ40日後、2度目の診察を受けて「注射による治療を行いましょう」となったのだった。

 この注射は眼球に直接打つもので約1ヵ月おきに3回でワンセット、5年前にも受けている。
 ただしこのときは今回とは症状が違い、左眼が急にホワイトアウトし始め、日々症状が悪化してどんどん見えなくなっていったのだった。それで日赤から急遽東北大学病院眼科の医師――女医さんいわく「いま網膜の治療では日本のトップクラスのセンセイです」を紹介され、手術によって回復したのだった。同じ加齢黄斑変性でもいろんな症状があるらしい。現に私が日赤で渡された小冊子には『網膜静脈閉塞症』という病名がついていたが、中身は5年前大学病院でもらった加齢黄斑変性のものと同じだった。

 発症から50日後の先月初旬、1回目の注射を受けて症状はいくらか落ち着いた。で、2回目が来週だがその後はどうなるかわからない。

 それにしても発症から1本目までの50日間はわれながら面白かった。何しろ視野が半分しかないのだ。朝起きて……顔を洗いに洗面台の鏡に対したときだ。台の上方に蛍光灯がついておりスポットライトになっているが、それを受けた自分の顔が文字どおり"一つ目小僧"になって鏡に写っている。視野の右側半分が見えないので、顔の中心線より右が消え失せた状態になり、いくら右眼のあたりに視線を集中しても何もなく、顔の輪郭をおぼろに想像すると、はっきり写っている左眼だけの"一つ目小僧"の私になってしまったのだ。
 もちろんいまはちゃんと両眼そなえた私が写っている。
 ただ視野半分になった50日間も生活が激変することはなかった。当クラブの原稿も毎週欠かさず書いていたし、毎朝自分のメシは自分で仕度して食べ、ベランダの体操もテニスも歩くことも以前と同じペースで続けていた。義姉の見舞いに上京したし、お酒も付き合った。
 とにかく私の顔かたちや行動を見るかぎり「だいぶ目が悪そうだ」と気付く人はゼロだと思う。家内でさえ「あなたを見ていると本当に見えないのかしらと疑ってしまう」というほどだ。私の眼疾を一目で見抜けるのはかの"ゴルゴ13"ぐらいだろう。――古い作品だが、"ゴルゴ"が初対面のボクシング世界チャンピオンと並んで歩きながら、チャンピオンの片眼が微妙に視野狭窄しつつあることを指摘するカットがあった。

 私には自分の体の故障を隠そうという気持ちは毛頭ない。ましてや加齢……なんてものは隠したってしょうがないだろう。年月を経ればコンクリートだって鋼鉄だって劣化する。体も同じだ。昔から「目歯マラ」というではないか。それにケースによっては故障をおおっぴらにすることでメリットもあるのだ。先週書いたように
「私は暗がりにいる方や影の薄い方(皮肉である)はほとんど見えませんので、気付かずに失礼するかもしれません。その際はどうぞご勘弁下さい」
 といっておけば、嫌いな相手を無視することもできるのだ。
 とはいえ内心つらいこともある。私の場合はいちばんの問題は本が読めなくなったことだ。私は第一感で面白そうだなと思ったものはジャンルを問わず目を通したくなる"乱読派"だから、それこそ研究論文以外は何でもござれだった。その楽しみがなくなったのは矢張りつらい。眼球注射を受けてからは、直径10センチに近い拡大鏡を使って何とか読めるようになったが、読むスピードは3分の1に落ちたし、一度読んだ個所をすぐ読み返すのがたいへんだ。
 結局読書量は大巾に減ったが、その分体力の維持増強に回せると思ったら、まあいいか……である。
 

2018年03月30日(金曜日)更新

第491号 〜自己紹介はなかなかオモシロイ〜

 先日、マンション管理組合の年度総会があり、終了後続けて理事会を行なった。理事会は監査2名を含めて約20名だが、こういう地域の世話役的なシゴトは、積極的に引き受ける人は多くないのが普通だ。私みたいにヒマをもて余し好奇心から引き受けて何期もつとめる者は稀だろう。半数ほどは順番でやむなくという人だから、理事は初めての人もいる。というわけでそれぞれ自己紹介を行なった。

 私の自己紹介は以下のとおりだ。

 1番館(4階建ての棟が9番館まである)の4階に住んでおります仲達です。ここに引っ越してきてもう20年を越えました。管理組合の理事も何年もつとめておりますから、顔見知りの方も多いですが、初めての方もいらっしゃるので簡単に自己紹介させていただきます。
  
 家族は家内と二人暮らしです。
 1番館は皆さんご承知のとおりエレベーターがありません。(あるのは5番〜9番館の5棟)したがって私も家内も外に用があるときは、ゴミ出しだろうが郵便をとりに行くのだろうが42段を上り下りしています。おかげで足腰はへんな言い方ですが年甲斐もなく達者です。

 私はリタイヤして26年になります。生前は、いや現役の頃は東京の出版社に勤めており、かなり軟派系の雑誌を編集していました。出版新聞電波などのいわゆるメディアは軟派硬派押しなべて、あることないことを言ったり書いたり、要するに他人の悪口をいうのがシゴトです。トランプ大統領がよくいう"フェイクニュース"ですね。おかげで私も少しは言えるようになりましたが、根が単純でマジメ人間なので、なかなかウマくなりません。もっとも「おべんちゃらより悪口いわれるほうがホンネがわかっていい」という人もいますから、あんまりウマくならないほうがいいのかもしれませんね。

 私は両親とも地元出身で、うちの本家は阿武隈川の近くにあります。ただし私自身は台湾で生まれて、昭和20年8月15日の敗戦のときは中学1年生でした。翌年ここ仙台に引揚げてきて、高校2年の冬、私だけ神奈川県川崎市に転校し、そのまま大学から就職、結婚などちょうど50年間東京で暮らして、ここに戻ってきました。ですから本籍も分家であるうちの墓も阿武隈川の近くにそのままあります。

それにしてもここ仙台はおもしろいところですね。私みたいに50年ぶりに戻ってきてあらためて住み着く者もいれば、まったく縁もゆかりもないよその土地の人がやってきて"終の住処"にしてしまう。この団地にも東京はもちろん北は北海道から南は沖縄までは大袈裟ですけど、名古屋京都大阪神戸など、仙台よりずっと大都市出身の方がいます。生まれ故郷によっぽど住みにくい事情でもあったのかな、というのは冗談ですが、逆に仙台はたいへん住みやすいところなんです。冬はそんなに寒くないし夏はあまり暑くない、食べ物もお酒もバラエティ豊かで美味しい、病院や学校など暮らしを支える施設も十分以上にととのっている、海も山も近いし、有名な温泉地も近い……東京生まれの家内も大層気に入っています。

 趣味は歩くことです。というと徘徊老人かと思われるかもしれませんが、あれは背中を丸めてただウロウロしているだけ。私はこうシャンとした姿勢で格好よく歩くことを心掛けています。歩くことの延長としてゴルフとテニスも町内会のクラブに入って仲間と楽しんでいます。

 ただし、このところ頭と内臓と筋肉以外の体の部品が二ヵ所、年齢相応に経年劣化が進んできました。早くいえば目と耳の機能が衰えてきたわけです。目は特に動くものと、暗がりにあるものが見えにくく、また遠近感がありません。ですからテニスではしょっちゅう空振りしています。その点ゴルフはボールが止まってますから平気です。飛んで行く先はインパクトしたときの感じでわかるし、一緒に回っている仲間もよく見てくれていますから……。

 そんなわけで、この団地の中で顔見知りの方に出会ってもわからないことがよくあります。相手の雰囲気というか日頃の様子を知っている方は、私も動物的カンで感じ取れますからそれなりにご挨拶できますが、こちらが明かるいところにいて先様が暗がりにいたり、影の薄い方などは気付かずに失礼する場合もないとは限りません。そんなときはどうぞご勘弁下さい。

 とにかく老人は、自分ではまだまだやれると思っていても実際は周りの方々の足手まといになることが多いものです。私もそのあたりは十分心に刻み込んでつとめていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 有難うございました。

(こうしてみると自己紹介はなかなかオモシロイものだと思う。だが実際は名前と住んでいる番館と、年齢をちょっと匂わせる話だけでお茶を濁した。せっかく気合いを入れて用意したのに残念!)
 
ユーモアクラブトップに戻る
 


ページTOPへ