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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2018年03月23日(金曜日)更新

第490号 〜それにつけてもカネの欲しさよ〜

「暑さ寒さも彼岸まで」で、3月も下旬に入るとこのあたりも春の気配が濃くなってくる。この書き物をしている机から顔をあげ、椅子をグルリと廻してベランダのガラス越しに空を見ると、それがよくわかる。
 何よりも空の感じが違う。冬場はいつも西風が強く吹いていたから空はあくまで高く青く、雲も大小さまざまなカタマリが絶えず形を崩しながら「オーイ、どこへ行くんだ」と呼びかけても振り向きもできないスピードで右から左へ流れていた。その西風がおさまって空はカスミがかかったようになり、雲もゆったりとたゆたい、東風(こち)吹かば……という感じになるのだ。ちなみに"こち"には春風の意味があり、西風の"ならい"は漁師用語で、山から吹き下ろしてくる風のことだ。

 さて、こうなるとゴルフの虫が騒ぎ出す。私は練習場の雰囲気が性に合わないので、余程の事情でもない限り行くことはない。練習はラウンド前にコースの練習場でするのと、毎朝の自己流体操の後4キロのダンベルをスィングすることで十分こと足りる、と思っている。ゴルフなど土台の足腰がしっかりして理にかなったスィングさえできれば、そして分不相応に欲張った結果さえ求めなければボールは思ったとおり飛んでいくものなのだ。
 というわけで昨年12月18日のラウンド以来、私はクラブを全然握っていないのである。

 そういえば去年の冬も長いことやっていなかったな……と日記を調べると案の定である。初ラウンドが4月13日、前年のラストラウンドが12月19日だからほとんど4ヵ月空いている。去年も寒い冬で週イチで雪が降り3月下旬になっても降った。しかも今年は雪が去年より日数も積もる量も多く、車の雪おろしも多かった。関東でも積もり、当クラブの支配人氏がケガしたほどだ。この分だと去年同様初ラウンドは4月で4ヵ月ぶりになるだろうと覚悟している。
 それでも数えてみると去年のラウンド数は17回になる。(家内は町内会のコンペに参加しないのでちょっと少ない)4ヵ月の休みがあるので月2回平均だ。まあ年からいえば頑張っているほうだ。

 とはいえ5年前10年前にくらべると、回数は減ってきている。10年前なら年間50ラウンド、5年前でも25ラウンドはこなしていたからガタ減りだ。減少した理由は体力的なものではない。意気込みというか気合いというか、精神的なものだ。思い返してみるとあの東日本大震災以後、遠出をしなくなったのが大きい。福島第一原発から30キロ圏内に私たちのお気に入りのコースがあったのだが、クローズして行けなくなったのだ。コースは歯ごたえがあり練習場などの付属設備も整っており、それに併設のホテルがゆったりして気持ちよく泊まれた。往路はかつての陸前浜街道をのんびりと走り、帰路も早いスタートをとっておけば余裕をもって帰ってこられた。(註・常磐道は原発付近以北はまだ開通していなかった)
 それをきっかけにコースも近場だけですますようになり、ゴルフに対する気合いも何となく薄れてきたのである。

 そのあたりは私たちがスキーをしなくなったのに似ている。ここ仙台に転居した数年後から、私たちはスキーに行こうという気がまったくなくなった。スキー場が近いところに引っ越したのだから以前より行く回数が増えるだろうという予想とは正反対だ。首都圏にいた頃は早々と予定を立て、それに何が何でも従っていたが、近場に来ていつでも行けるとなるとかえって面倒くさくなってしまうのである。
 スキーなんか水泳や自転車と同じで、動きは体が覚えている。誰か誘ってくれれば二人してカッコいい滑りを見せてやれるんだが……なんて思いながら何年も過ぎてしまったのだ。(ちよっと言い過ぎか?)

 さて最後になったが、私たちのゴルフ行きが少なくなった一番の原因はカネだ。私も年金生活者だ。収入には限りがある。これまではあれやこれやヨロクがあり多少の余裕はあったが、それもだんだん底をついてきた。加えてこのところ何かとモノイリも増えてきたとあって、以前のように「来週行こうか?」「いいね」というわけにはいかなくなったのだ。
 私が近頃よく思い浮かべるのが、本項のタイトルに使った有名な下の句だ。この句はどんな上の句にもぴったりくっつく。さきの春風にちなんで「東風吹かば匂いおこせよ梅の花/それにつけてもカネの欲しさよ」なんていったら菅原道真公が目をむくかもしれないが、ぴったりはぴったりだろう。ほかのよく知られた歌と合わせてみるといい。
 カネは"持てる者"も"持たざる者"も、それにつけても……なのだ。
 

2018年03月16日(金曜日)更新

第489号 〜偉大な先人を顕彰するのは大切なこと〜

 きのう3月15日はヨーロッパ人、特にイタリア人にとっては特別な日だそうだ。BC44年、つまりいまから2060年ちょっと前、かのユリウス・カエサルが殺された日、「ブルータス、お前もか」という史上もつとも有名ないまわの言葉が生まれた日なのだ。
 ところでいま日本では"ユリウス・カエサル"という本来のよび方が普通になっているが、私たちの50代なかば(30年前)あたりまでは"ジュリアス・シーザー"という英語読みのほうが一般的だった。彼が日本人によく知られるようになったのは、まずシェイクスピアの悲劇を通してであり、さらにはハリウッド映画からだったのだからしょうがない。いまでも私など同世代の中には"カエサル"と聞いてキョトンとしている人がいる。明治の頃の川柳「ギョェテとは俺のことかとゲーテ言い」と何やら共通するものがある。

 このような日本語と横文字といった異質の言葉の間ならともかく、同じ横文字同士の間で起きた誤訳がこのカエサルがらみでひとつある。妊婦の産道を胎児が通り抜けられないときに行なう緊急手術「帝王切開」だ。元は"切り刻む"というの意味のラテン語"シーザー"をドイツの医学者が間違えて"カエサル……"と訳語をつくり、明治期医学といえばドイツ様々だった日本の医学者がご丁寧に"帝王"と翻訳したものだ。
 もっとも一説によると、カエサル自身がこの手術によって生をうけたからだともいわれ真偽のほどはわからない。ついでながら彼の七月生まれは月名(英語でジュライ)をユリウスからとったことではっきりしている。ついでのついでに8月はカエサルの後継者でローマの初代皇帝になったアウグストウスからとられた。

 ローマ帝国はヨーロッパの歴史の始まりである。「ローマを見て死ぬ」という諺もある。その創業者をめぐるあれやこれやがドラマチックな最期が人々に語りつがれていくのは当然だろう。そんな語り部の中には有名な日本人女流作家もいるほどだ。

 歴史上の人物で、亡くなった日付けまで後世の人々にしっかり記憶されているのはたいへんなことだと思う。日本歴史には残念ながらちょっと見当たらない。
 たとえば織田信長だ。時代を改革した業績といい、部下の裏切りによる死に方といい、カエサルに似た悲劇の英雄として日本史上では人気者の筆頭である。だが本能寺の変は知っていたも、それが天正十年六月二日に起きたことまで知っている人は専門家かよほど歴史マニアだろう。

 故人の亡くなった日にその人を悼み業績やありし日を偲ぶことは、その人を顕彰すること、つまり褒めたたえ自慢することでもある。小は家族だけの小じんまりしたものから大は民族国家をあげてのものまで、その目的は変わらない。さらにいえばその故人の縁につながる自分たちのアピールにつながる。
 そのもっとも単純なあらわれが、世界中のいかなる民族も持っている神話だ。そこでは民族発祥の荒唐無稽、無邪気な原点が語られる。「どうだ、俺たちはこれほど偉大なご先祖様を持っているのだぞ、恐れ入ったか」である。他愛ないルーツしかない日本人の私など恐れ入るばかりだ。

 われわれ日本人がカエサルのように後世の人々に顕彰されるような人物を持たなかったのは、日本歴史そのものに要因があるのではないかと思う。日本の歴史はヒミコ以来(高天が原以来といったほうがいいか?)明治維新まで、この小さな国土と民族の中だけで完結し、他の民族や国と本格的な関わりはまったくなかったからだ。人にしろモノにしろアピールしようにも相手がいなかったのである。そして一旦外に目を向けた途端、こんどは独善的かつ無器用なアピールしかできずに世界中から袋叩きにあい、いまはアメリカの傘の下で周りをうかがいながら、無気味にうずくまっているのだ。
 人付き合いの下手な私がいうのもなんだが、われわれ日本人は外交感覚をもっともっと磨いたほうがいいと思う。
 

2018年03月09日(金曜日)更新

第488号 〜私のドラマチックな「一番列車」〜

「早寝早起き」を生活の基軸にしているので、目が覚めるのもずいぶん早い。私が寝ている4階の部屋から30メートルの空間をはさんだ先にJR仙山線の駅のホームがあり、ひっそりと発着する始発電車の音をベッドの中で聞いているほどだ。ただしそれが5時半とあってはいまの季節、起き出してもやることが何もないので、小用をすませるついでにリビングのファンヒーターに点火した後ベッドに戻って30分ほどうつらうつらしている。

 先日そんなぼんやりした時間を過ごしていて、ふと「この駅から始発電車に乗って行く人がいるのだろうか?」と気になった。
 この駅は当マンション団地を建設した業者がJRに要請して自前でつくったいわゆる"請願駅"だ。駅の設備としてあるのは単線レールの片側だけにあるプラットホームとそこに登る50段近い階段、乗車券販売機、それと物置きみたいな小屋だけ。ホームには5人も入ればいっぱいになる小さな待合室とアナウンス設備、それに雨を防ぐ屋根が20メートルほど申し訳程度についているが、階段は雨ざらし、トイレもない。
 おまけに駅周辺にはコンビニさえない。私たちのマンション団地以外は、知的障害者をウィークデーの日中だけ預かって世話する施設が1軒と、以前からの住人の家が4軒、去年できた消防署の分室が1軒、そして団地から作並街道に下りて行く途中左右の道をそれぞれ入ったところに団地より古い分譲住宅群があるぐらいだ。さらにいえば、仙山線をはさんだ団地の向こう側は一山すべて市営の大きな墓園なのである。
 早くいえばこの駅は山間の無人駅と似たようなものなのだ。1日の乗降客数が300人というのもうなずけるし、その約半分は団地の住人、もしかすると3分の2がそうじゃないかと思っている。

 というわけで、こんな駅から早朝の始発に乗る人物をひと目見たくなったのである。季節もだんだん暖かく夜明けも早くなってくることだし、いつかチャンスがあったらベッドの足元の窓から双眼鏡で確かめるなり、朝の散歩などを装って駅の入り口あたりをうろつくなりしてみよう。

 思い返してみると、私は始発や一番列車に乗ったことがほとんどない。学生時代は上野や新宿発の夜行列車でスキーや登山によく行ったし、現役時代は仕事柄終電に乗ることもしょっちゅうあった。だが朝まだ暗いうちに起き出して早い電車に乗ることはまずなかった。そんな私がたったひとつ覚えている一番列車の経験がある。72年前のちょうどいま頃のことだ。

 昭和21年3月(日は忘れた)台湾からの引揚船で紀伊田辺港に上陸した私たちは、体の隅々までDDTの粉まみれにされ、1人10円ずつ支給されて、目いっぱい背負った身の回りの物と一緒に東京行きの列車に乗り込んだ。それから東京までは乗り替えた記憶はないから、これは関東以北に行く人たちの引揚者用特別列車だったのだろう。敗戦後の混乱の中で国鉄はそんな特別ダイヤを組むなどずいぶん働いてくれたなと思う。
 東京到着はだいぶ暗くなってからだった。省線に乗り替えて上野に行くと、東北本線の仙台より先へ行く列車はなく、翌朝の一番列車まで待つことになった。いまも当時とほとんど変わらない正面改札口前のコンコースの隅で、荷物を囲んでうたた寝した。周りを浮浪児がうろついていた。
 一番列車は「小牛田行」の鈍行だった。当時は急行なんて走ってなかったのだろう。仙台の先の「こごた」という駅だと母がいった。台湾の基隆(キールン)や満華(マンカ)花蓮港(カレンコウ)などと違うずいぶん田舎くさい駅名だなと思った。小牛田はかつては陸羽東線や気仙沼線の乗り替駅として県内の主要駅だったが、いまは新幹線駅を古川に持っていかれてだいぶさびれている。
 その一番列車が仙台に着いたのは夜の8時頃だった。駅は中も外も暗かったが人はいっぱいいた。ただ話している言葉(東北弁)は、断片的にしかわからなかった。

 考えてみると、この「上野発小牛田行」一番列車は私にとって特に強烈な思い出になったようである。何しろその前に東海道線の車窓から見たはずの富士山の記憶が全然ないほどなのだ。それはおそらく台湾から内地への引揚げが私の人生の大きな節目だったからであり、「小牛田行」はその旅路の締括りだったからではないかと思う。 
 それにくらべれば、この無人駅からの一番列車などタカが知れている。終点仙台まで20分足らず、乗って行く人だって1人いるかどうか、ドラマなどあるはずもないだろう。しかし私はどんな人が乗って行くか見てみたい。
 達者でヒマな年寄りはのべつ野次馬精神を持て余しているのである。
 

2018年03月02日(金曜日)更新

第487号 〜古い"しきたり"は教育の基本だ

 明日3月3日は"桃の節句"。女の子のいる家では雛人形を飾り成長を祝う。デパートやSCでは2月初旬あたりから店内の目立つ場所にきらびやかな段飾りをしつらえて、「あかりをつけましょボンボリに……」と歌を流している。いまの時代あんなものを家の中に飾る一般家庭なんかあるか、と思う人も多いだろうが、これが伝統ある形式というものであり、またそうした"しきたり"の中に人々や生活にプラスすることも多いのである。
 ただし私はまったく縁がなかった。

 私は男ばかり3人兄弟、女の子のいない家で育った。しかも時代は「男女七歳にして席を同じぅせず」が徹底していた頃で、私が通った台北の小学校など、校門さえ男女別々だった。もちろん校舎も中心線の左側は1年〜6年までの男子の教室、右側は女子の……となっており、その中で唯一大小2つのプールが(予算の都合か)混浴だったのはご愛嬌だった。

 その頃の日本の一般家庭で、親が子どもの学校や遊びに関心を持ち、口を出すことはあまりなかった。女の子はともかく男の子は放ったらかし"親はなくとも"勝手に育ったものだ。その女の子にしても家で雛飾りをする家はまず中流以上、いわゆるインテリ階級だった。

 その点でも私の両親はともに仙台から離れた郡部の出身、地元言葉でいう"ザイゴタロウ"田舎者だ。基本的なしつけはうるさかったが、学校の成績や家での学習については子どもまかせ。父親の仕事がうまくいってカネはあったらしく、海水浴や温泉など遊びにはよく行ったが、節季毎に家で何かするということはなかった。だいたい父親がのべつ家を留守にしていたのだからしょうがない。もっともそのおかげで私たちは終戦後当地に引揚げてきてからも衣食住に不自由することはなかったわけだが……。

 そうした子どもの頃をふり返るたびに、私には「なるほどなあ」と特に強く感じることがひとつある。わが家に"百人一首"がなかったことだ。その類の遊びはトランプも花札も封を切っていないものがあったし、碁将棋はひと通り揃っており、象牙の麻雀牌まであった。百人一首ぐらい買えなかったはずもない。つまりは子どもにそれをさせようという発想が両親ともなかったということだ。まさか知らなかったとは思えない。

 後に高校で親しくなった友人の一人がやけにくわしいので、いつ覚えたのかたずねると、子どもの頃から自然に覚えた、きょうだいが女ばかりだったからだという。以下は別に聞いたのだが、彼は終戦まで旧満州の新京(いま長春)で育ち、父親は満州国政府の官吏、冬はオンドルの効いた部屋で家族や隣人と百人一首などの室内ゲームをすることが多かったそうだ。そういえば、スケートが得意で、エッジの長いスピード専用の靴をはき、手を後ろに組み上体を前傾させて滑っていた。私のところとはまるで違うインテリかつハイカラな家庭だったんだなと思わされたものだ。

 子どもの頃からそうした伝統文化に親しむことは大切だと思う。後に知識や教養を身につける基礎になり、知性の土台になるからだ。イギリス人がシェイクスピアに親しみ、イタリア人フランス人がラテン語を学ぶのと同じだ。
 明治維新後、日本が驚異的なスピードで欧米先進国に追いつくことができたのは、国民全体の知的レベルが高かったことが大きな要素だが、その基礎は江戸時代を通して寺子屋などで行われた庶民教育「子ノタマワク」にあったというのが定説だ。寺子屋だけではない。方々のお寺では坊さんが折にふれて説話を行い、村役鳶役肝いりどんではないが村々では故老がためになる見聞を語り、芝居講談などの娯楽も知識教養の底上げに役立ったはずだ。上位の武士階級には藩校もあった。
 そして、それら基礎学習の原点が各家庭にあった節季のしきたりだったと思うのである。百人一首を遊びながら日本文学の古典や漢字やかなの使い方を知らず知らず学んでいたのだろうと思う。自分のことと思い返してみると、家に"百人一首"はなかったが山ほどあった講談本を読みあさって、ステレオタイプながら正義や勇気は心得ていたと思う。
 たなみに、さきの友人に刺激されて百人一首は高校3年から遅ればせながら覚えはじめ、いまでも平均以上の知識はあると思う。

 話を戻して"桃の節句"も同じことだ。雛飾りはいわば1千年前『源氏物語』の世界であり、そこから学ぶことも大いにある。右大臣から菅原道真を引き出し、学問の神様天神様の由来や、桃の花と桜の花の違いは花びらの先を見ればわかるなんて話に飛んでもいい。こういうことが、受験技術しか教えないいまの学校教育より、知的常識人として成長するのにプラスになるはずだ。
 

2018年02月23日(金曜日)更新

第486号 〜静かなのが不気味マイナンバー制度〜

 前々回、私は所得税の確定申告をしていると書いたが、そのとき気になったことがあったのを思い出した。マイナンバーを書き込む欄があり、それが申告者の私だけでなく配偶者の欄まであったのだが……。
 私たちのマイナンバーは、通知カードが役所から送られてきただけで、それに自分の写真を付けて送り返す――その結果、写真つきの本物(?)のカードを持つ羽目になるような七面倒くさい、別の言い方をすれば"行政の手に乗る"ようなことはしていない。

 私なんかその通知カードさえ紛失してしまった。ただ数字は覚えていたし、家内は通知カードを持っていたので申告書に記入することはできた。
 だいたい周辺の人たちに聞いてみると、役所のいうとおりの手続きをやって本物のカードを持っている人は半分ほどしかいない。それもほとんどが現役世代で勤め先から必要だといわれたということだった。給料の支払い、つまり天引きされる税金のためで、「じゃぁほかに使うことはないんですか?」と聞いてみると「あまりないですね」といっていた。

 はじめに"気になったことがあった"と書いたのはそのことだ。申告書のマイナンバーを書き込む欄に「※個人番号は複写されません」と書いてあるのだ。つまり申告書に書いたマイナンバーは税務署に行ったきり、手元の控えには残らないのだ。こちらは本人だから控えなどなくても別に問題ないが、税務署はいったい何に使うのだろうと思ってしまう。私たちなど年金の通知書やその年金が振り込まれる銀行の通帳その他、おカネに関係ありそうなものをいくら思い浮かべてもマイナンバーとはつながらないので尚更怪訝というしかない。それとも私みたいな年寄りがウッカリして控えをどこかに置き忘れたりすると悪用されかねないので、その用心のための親切心か? まさか!

 ただしあらためて調べてみると、去年も同じ書式だった。それが今年のように気にならなかったところをみると、何か他のこと(たとえば医療費控除など)に気をとられていたのかもしれない。それに今年は個人情報保護法が改定されたことで、そちらの方面に敏感になっているせいもある。

 昔々年金制度を発足させた官僚がこんなことをいったという話がある。
「これで将来にわたって財源は確保できた。日本が滅亡して国民がいなくならない限り金は間違いなく入ってくる。それに年金として支払いが発生するのはずっと先のことだから、入ってくる金は効率よく使ってしまおう」
 そして病院やら会館やら頭に"厚生年金"がつく各種公共福祉施設をはじめグリーンピアOOなどのレジャー施設までつくり始めたというのである。はやく言えば将来の天下り先の確保だ。
 そのデンでいくと、いまは鳴りをひそめて静かにしているマイナンバー制度も将来どんな化物に変わるかわからない不気味さを感じる。

 たとえば、われわれ日本人は買物はほとんど現金払いが習慣になっている。いつも財布の薄い私でさえそうだ。カード払いが普通の中国人は不思議がるが、これが彼ら同様カード払いになり、そのカードにマイナンバーもくっ付いており、買物すべてに内容金額とともに記録されることになったらどうだろうか。誰がどこでどんな金の使い方をしたかはもちろん、入ってくるおカネも口座をチェックすればわかってしまうのだ。つまり個人情報が一切合切その筋に握られてしまうのである。税務署どころか為政者だってこれは大歓迎だろうし、われわれにとってはたまったものじゃない。
 マイナンバーはそんな危険をはらんだ制度だと私は思う。

 ところで、さきに私は自分のマイナンバーを覚えていると書いたが、それは数字が頭に入っているという意味ではない。いかに私でもこの年になれば、脳の記憶容量はほとんど満パイだ。新規に12桁の数字など詰め込めるわけない。何しろ自分のケータイの番号さえ知らないので、家内がどこかに予約の電話をして「それじゃケータイの番号をいいます」とスラスラ並べるのを感心して聞いているほどだ。だから数字ではなく文字で覚えたのである。
 やり方は簡単、数字の「1から0」までを「アカサタナハマヤラワ」に当てはめて、並んだ12字を暗唱するだけだ。たとえば「2212 1329 8274」なら「カカアガ アサカラ ヤカマシ」(4をそのまま読んでシャレでもある)というわけだ。ま、全部がこううまくできるとは限らないが、数字を覚えるよりは簡単だろう。

 気楽なことをいっていられるのもいまのうちか。
 
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