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2017年12月08日(金曜日)更新
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第475号 〜回虫兵士とミサイル,理解不能の落差〜
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このところ北朝鮮関連のニュースが相次いだ。まず韓国との軍事境界線板門店で北朝鮮軍兵士が、仲間から追跡銃撃されながら南側に逃げ込んで来た。次いで生存者8人を乗せたチッポケな木造船が秋田県の海岸に漂着した。その後も壊れた木造船や白骨化した遺体、あるいは生存者の乗った船などが日本海沿岸で見つかり、そして先月末のICBM発射だ。
これらの後日談で私が興味をひかれたものがある。
銃撃された北朝鮮軍兵士は韓国軍に収容され、救急搬送されて医師の手当てを受け一命をとりとめたが、その際腸内から最大27センチ以下回虫が数十匹も出てきて、医師が目視で一匹ずつ丁寧に取り除いたという話だ。このエピソードはネットで見たもので、地元紙はもちろんテレビでも目にしなかった。もっとも私はテレビはNHKニュースしか見ないので、他の局や番組で放映されたかどうかはわからない。こんな突拍子もないネタは紙でも電波でもどんどん取り上げるべきだと思う。ただし"メシどき"だと辟易もの、抗議殺到かもしれないけど……。
ハラのムシが治まらないことはいまでも間々あるが、腹の中に巣食う虫の話は何十年ぶりかで耳にした。日本は戦後、政府が農産物(特に野菜)生産における衛生管理を病的なほど徹底実施して、回虫をはじめギョウ虫やサナダムシといった腸内寄生虫はほぼ完全に(現在は感染率0.1%)いなくなった。
戦後すぐまで野菜畑の肥料は下肥(しもごえ)が主だったから、寄生虫も卵が排便とともに外に出てまた口から入る生命循環していたのだ。ちなみに下肥とは、人の糞尿を1〜4週間(夏は短く冬は長い)貯蔵して腐熟発酵させたもので、町場の便所などから汲み取ってきた生の糞尿を一時溜めておく施設が肥溜めだ。施設といっても地面を数10センチ掘り下げて大きな桶などを埋めただけで、戦後もしばらくはどこの畑の一角にも必ずあった。またそこへ落っこちたオッチョコチョイの失敗談もそれこそ"腐るほど"聞いたものだ。
この下肥を非衛生的だとして使用禁止にした元凶が、かのマッカーサー元帥だ。腹中の虫ぐらい時々"虫下し"――昔は『セメンヱン』が有名だった――でも服用していれば大事ないのだが、元帥はじめGHQの面々は日本の新鮮で美味い野菜を食べて、何かよっぽど懲りたことがあったかもしれない。
虫下しは韓国では常備薬だという。あちらはまだ日本ほど化学肥料が普及していないのだろう。さらにその先の北朝鮮ではいまだに人糞肥料が主流らしいから、亡命兵士の腸から数十匹程度いまさら驚くにあたらない。テレビなどで見る北朝鮮人は軍人も一般人も皆ヤセているが、これも腹中の虫が原因である。腸内寄生虫が折角口にした食物の栄養を横取りしてしまうのだ。かの国には韓国のような虫下しもなさそうだからしょうがない。
私は子どもの頃「ヤセの大食い」といわれ、いくら食べても太らなかった。虫のせいにされ、虫下しもずいぶん服まされたが体質は変わらず、自慢じゃないが現在も若い頃のスマートな体形を維持している。これでサナダムシなんかいたらガイコツである。いやぁ日本人でよかったよかった。
それにしても解(げ)せないのは、回虫兵士や粗末な木造船が象徴する貧しい国の為政者が、人民とは対極的に顔も体も丸々と太っているだけじゃなく、途方もない大金を浪費してこれ見よがしに新しいオモチャ=ミサイルや核をひけらかしていることだ。あの黒電話――髪型からついた"あだ名"、"ロケットマン"よりいい――はやっぱり三代目だなと解釈するしかなさそうである。
道楽の果ては周りに迷惑かけず自分勝手に潰れてくれ! |
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2017年12月01日(金曜日)更新
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第474号 〜老人は体のリズムも幼い頃に戻る?〜
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今日から12月、師走だ。暮は坊さん(師)が忙しく走り回るから"師走"というのであると、もっともらしい解説をよく聞くが、これはウソ。"しはす"は平安時代よりずっと古くからあった言葉で語源不明がホントだ。
さて、この先も冬至(22日)まで日がどんどん短くなる。これが私には寒さが増していくことよりイヤだ。秋の日の"釣瓶落とし"は気が急かされるからイヤだとは以前書いたが、夜明けが遅くなるのも性に合わない。
私が寝ているのは住居の北側の部屋だ。建物の向きが東西南北ほとんどズレがないらしく、秋分を過ぎると朝は窓にまったく日が差さなくなる。窓には遮光カーテンが引いてあるので、夜明けの気配は隙間から洩れるかすかな明るさと、窓の向こう20メートルほど離れた駅のホームをひっそりと発着する電車の音で察するしかない。そんなわけで、日の出が6時半近くなるこの時期は起き出すタイミングに苦労している。
寝るときは全然苦労しない。9時半を過ぎると眠くなり、どんなに面白い本を読んでいてもキリのいいところでやめて寝る支度を始める。これは年間通して変わらないがたまに例外はある。後輩のスキー仲間と温泉に行ったときなどだ。今年は6月に秋保、10月に作並と2度も7〜8人で来てくれて、そのときは夕食後遅くまでみんなの部屋で飲みながら歓談してしまった。
ところで「人は年老いてくると味覚が幼い頃に戻る」とよくいわれる。甘い単純な味に好みが変わり、以前は好物だったウニやホヤ、タラの芽といった大人の味に手を出さなくなるのだという。寿司もサビ抜き、お子様ランチである。
そこから考えてみると、人は年とともに味覚だけではなく体(自律神経?)のリズムも幼い頃に戻っていくのではないかという気がする。この季節、朝暗いうちはなかなか起きられないのもそのせいかもしれない。
人には昼型と夜型があるが、私はまぎれもなく昼型だ。明るくなったら起き、暗くなったら寝るという体内時計が、生まれたときからガッチリ組み込まれているらしく、ちょっとやそっとでは狂わない。若い頃はもちろん40代になってからでも半徹夜した翌朝、出版健保の野球試合に出ていたくらいだ。
その点で私の体や神経は他の人たちよりいくらか原始人に近いようだ。そしてそんな素の部分が年老いて幼い頃に戻るにつれ、これまではなんとかカッコつけていた外面がはがれ落ちて見えてきたのである。
要するにいまの時期日の出前は、私の体も神経もちゃんと覚醒していないということだ。
そういえば、ここ一ヵ月ほどの間に私は朝包丁で2度も指を切った。
私と家内は起床時間が違うので、朝食はそれぞれ別のものをつくっている。私はトースト2枚にチーズ1個と薄切りハム1枚、きざみネギを山ほど入れた納豆、それに大ぶりのコップ1杯の野菜ジュースと紅茶だ。そのネギをきざむ際に切ってしまったのだ。私は子どもの頃から工作が得意で、刃物は使い慣れている。それがタカがきざみネギぐらいで……なんて、傷は小さかったものの覚醒していなかったとしか思えない。
先日、どこでだったか家内に「年寄りみたいな歩き方をしている」といわれた。首を前に突き出すような歩き方になっていたらしい。自分ではまだまだ老化には程遠いつもりでいても、ふとしたはずみに何が飛び出すかわからないのだ。だが、私はそんなときやっぱり年かなと思うよりも、寒かったせいだろうと思うほうなのである。自分から老化を認めていたら、この先季節が変わり日が長くなっても活動できなくなるばかりではないか。 |
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2017年11月24日(金曜日)更新
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第473号 〜二組でささやかながら祝結婚記念日〜
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おととい11月22日は語呂あわせで「いい夫婦の日」だったが、さらに団地で私たちのもっとも気の置けないお友達・Mさん夫妻の結婚記念日でもあった。そして今日11月24日は私たちの同じ記念日だ。Mさんたちは、娘さん息子さんともすでに結婚して子ども(つまり孫)もいる。だから記念日は"真珠"か"珊瑚"あたりだろうと思うけれど、私たちはもう"金"を越えた。
そこで昨晩は近場の海鮮酒場で、ささやかながら二組のお祝いをした。
ちなみにMさんは石巻にある私立大学の教授でまだ現役だ。ここからの通勤は時間体力とも大変なので、普段は学校から近い仙石線沿線に新築した別宅――以前は海の傍だったが大震災の津波で駅も線路も住宅地も流され、その後順次高台に移転新設された――に単身赴任(?)している。一方、奥さんのN子さんはこの近くに住んでいる小さな孫たちの面倒見で、これまた平日はかなり時間をとられるという。そんな多忙なお二人のお誘いとあっては、私たちに「否や」はない。
食べて飲んでおしゃべりしてゆっくり楽しんできた。
この店は私たちも前々から知ってはいたが、一度も入ったことはない。Mさん夫妻もひと月かそこら前、初めて"お昼"に入って「けっこういいじゃないか、今度はCさんに声かけて夜来てみようよ」となったのだという。
店は昼間は海鮮ものがメインの食事どころ、夜はアルコールが入って酒どころになる、一口でいえば"安直な店"だ。団地からだとウォーキングコースの市営墓園を抜けて行けば私の足なら30分ほど(ただしずっと上り坂)、車だとちょっと遠回りだがそれでも10分とはかからない。だからこれまでしょっちゅう店の傍を通っているし、新聞の折り込みチラシも見ている。私など何度も「一度入ってみないか」と誘ったが、家内が頑として受け付けなかったのだ。
それはチラシに「飲み放題!」という文字が大きく派手に踊っているせいで、家内は"私×酒"をいつも警戒しているからだ。だがMさん夫妻が一緒の昨晩は警戒心もだいぶ薄くなっていたようで、私はいつかまた機会をつくって来てみようと思いながら飲んでいた。
話はいきなり変わるが、いま数ある外食チェーンの中でもっとも内容がよく、人気も高いのが"丸亀うどん"だそうだ。もちろん私たちにも異存はない。
実はこの丸亀うどんの店を教えてくれたのもMさん夫妻だ。あの大震災の翌年だったか、県北の観光地にちょっと遅めのお花見ドライブに出かけた帰途、夕食どきになり「何か食べて行きましょうか」と案内してもらったのだ。それを機に店は私たちの食事スケジュールにしっかり組み込まれてしまった。
とにかく安くて早くて味も量もそこそこ、それなりに満足できるのがいい。これでもっと近かったら文句なしだねと二人でよくいいあっている。
こうした海鮮酒場にしろ丸亀うどんにしろ、一見安直だが内容のしっかりした店を、気取りもてらいもなくすすめてくれるのがMさん夫妻のいいところだ。大概の人はちょっと食事でもというと、普段あまり行かないような店――たとえばこのあたりなら"農家レストラン"などに案内したがるが、そうしたつまらない見栄がまるでない。私などはたいへん羨ましい。
私たちのような単細胞人間が年老いても気兼ねなくお付き合いできるのも、そんなお二人の飾らないホンネを受け取っているせいだと思う。
この年になると他人のホンネやタテマエがなんとなく見えるようになる。ホンネを見せない裏側には"見得"や"虚栄"が潜んでいるし、こちらをうかがう"気配"がある。だからホンネで接してくる相手にはこちらも開けっぴろげになり、信頼してしまう。Mさん夫妻はそんな信頼できるお友達なのである。 |
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2017年11月17日(金曜日)更新
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第472号 〜時折"老い"に気付くのはいいことだ〜
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下の作並街道から私たちの団地の傍まで上がってくる市営バスが、ウィークデーは3本(土日祝日は2本)ある。バスと地下鉄はわれわれ高齢者市民は1割負担なので、市内などへ出かけるときはほとんどこれを利用する。日に3本しかなければ行き帰り同じ人と顔を合わせることも多い。
特に帰りは下の停留所から団地まで,500メートルを越えるけっこうな上り坂だ。広瀬川の先まで通学している中学生でさえ、うんざりした顔でノロノロと上がってくるほどだから、家内などバスとタイミングが合わないと、わざわざ電車賃を払って仙山線に乗ってくる。だが私は3時間に1本のバスに自分を合わせたり、電車に乗ったりしない。ありあわせのバスに乗り下から歩く。いずれは上まで行くバスに合わせるようになるかもしれないが、まだまだ先の話だ。
ただし坂を登るスピードは以前よりだいぶ落ちた。つい先日のことだ。
停留所で下車して歩道を歩き始めると、すぐ後ろで軽快な足音がして道路を斜め横断し始めた人がいる。ちらっと振り返ると買物袋を下げた、小柄な30〜40代の女性だ。バス停から横断歩道がある交差点(坂道の入り口)まで100メートル弱、私もいつも車の途切れを狙って斜め横断している。「ちぇっ、女に先を越されたか」と彼女を追って行った。
私より数歩早く渡りきった彼女はどんどん先へ行き、坂を上り始めた。遅れて私も上りにかかったが、彼女の足の運びはテンポよくしっかりしており、私との間隔は開くばかり。うしろ姿を観察するとジーパンのお尻からふとももにかけてが、いまふうの小ぶりな頭部や上体に比してガッチリしている。あのタクマシサは中学高校を運動部で鳴らしたものだな、こりゃ到底かなわないやと諦めた。そして団地へ
の角を曲がるときには随分離されていたのだった。
老人の歩き方を見ればわかるとおり、年をとるとどうしても足の運びがスタスタとはいかなくなる。歩幅が小さくなりすり足になるせいで、その一番の原因は筋力低下でひざが高く上がらなくなるからだ。
女性を追いかけて坂道を上りながら気付いたのは、自分もそんな歩き方になってきたなということだ。坂道では踏み出す足先の方がほんの少し高いのだから、その分ひざを上げないと突っかかる。突っかからないようにするには歩幅を小さくするしかない。だが小幅な歩き方ではスピードは出ない。それで私は女性に置いてかれたと気付いたのだ。
一瞬これが階段だったらあんなに置いてかれなかったかな、と考えたのは負け惜しみだ。階段なら筋力的に歩数がダウンするから、やっぱり置いてかれた。女性とはいえ相手は年齢的には私の半分の若さだ。斜め横断からつい対抗心を燃やしてしまったが、はからずも自分の"老い"に気付いてしまったようだ。この機会に、年なりにカッコいい坂道の上り方を研究すべきだなと思った。
あらためて考えてみれば、時折こうして自分の"老い"に気付かされるのはいいことではなかろうか。私なんか特にそうだ。元々"目立ちたがり屋"とあって、周囲から"スーパー爺"とオダテられてはつい調子に乗ってしまうのだ。家内がそんな私をみると「カッコいい年寄りになるのもなかなか難しいわねえ」と、ちょっと嫌味ったらしくいいたがるのもわかる。それぞれイメージしている"カッコいい年寄り"が違うのだからしょうがない。
要は、折にふれ時につけ心身の老化具合を見極めながら、自分なりのカッコよさを表現していけばいいのだ。まずは、背筋はいつも自然に伸びていることだ。 |
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2017年11月10日(金曜日)更新
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第471号 〜片眼見えずともテニスぐらいOK!〜
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この秋口からまたテニスをやり始めた。
10年前、眼底出血の手術により右眼中心部分が見えなくなったことに加えて4年前、今度は左眼まで失明しかかったこと、折から部長になったYと何かとソリが合わなかったことで、しばらくスリーピングメンバーを決め込んでいた。そのYが昨年暮から体調不良でプレーできなくなり、部も新体制に代わったとあって、また土日の練習に参加し始めたのだ。
私が身を入れてテニスを始めたのは12年前だ。理事仲間のKさんに「教えて下さい」と声をかけ、「Cさんの運動勘は人並み以上ですね」と褒められつつ簡単な手ほどきを受け、ついでベテランのYさん(Kさんご推薦の部でいちばん上手でクセのないプレーヤー,先述のYとは別人)の動き方打ち方を一所懸命真似して基本を練習し、そして3年後には市営コート主催のちょっとした大会で,Yさんとペアを組んで優勝までしてしまった。
F社のOB会でそんな話をすると、後輩のN君が夫婦でわざわざお手合わせに来仙したこともある。N君は私より十ぐらい下、プレーキャリアもずっと長かったから、お手合わせというより"お手並み拝見"という気持ちだっただろうが、それでも互角に打ち合った覚えがある。
それがよんどころなく中断していたわけだが、何といっても私は体育会系人間である。口先だけで「高校時代はセカンドで2番バッターだった」と自慢するような"俺も昔は……"老人とは"カラダのデキ"が違う。それにこの年になればゴルフをはじめたいていのことはウィークデーがメインだから土日は空いている。しかも中断前に買ったニューファッションのシューズもまだピカピカ……というわけで猛暑が収まった秋口から再チャレンジしたのだったが。
やはり4年ものブランクは致命的だった。ボールに対する足の運びと体や腕の動きは自分でも、かつてのプレーとほとんど変わってないという感覚はあるのだが、何しろラケットにボールが正しく当たらないのだ。特に体の正面からほんの少し右側に飛んでくるボールに対応できず、ノーバウンドでもワンバウンドでもフレームに当てるならまだしも空振りすることさえある。これにはビックリするより我ながらアキレタ。
つくづく考えてこれは眼、それも左右両眼が原因だなと気付いた。
まず、右眼はまったく見えないのではない。見えないのは中心部分だけ、くわしくいえば、眼球奥の中心窩(か)という視神経が集中する箇所の出血を手術治療した後遺症である。だから中心から外れた周囲の視力はあり、視力検査の際は黒目を目標の左斜め上にずらし、視野の右下隅で目標をとらえて「上」とか「左」とか返事をする。それでも視力は0.2あるし、外見にもヘンなところはなく日常生活にも運動にもまったく支障はなかった。
そこに突然、左眼の失明寸前が襲ってきたのだ。これは幸運にもいい医師にめぐりあって事なきを得たが、潜在的恐怖感は残ったはずだ。それが以前は視力0.2の右眼を難なくカバーしていた左眼に作用して、右側は見えないという意識が強くなってしまい、かつてKさんが指摘した「勘だけでボールに対応している」私のラケットさばきを鈍らせているのではないかと思うのである。
対策は見当がついている。体の左側にきたボールはバックハンドでちゃんと打てているし、サーブも上へトスしてしっかり叩いている。"見える"と意識できるボールにはミスなく対処できているのだ。要は右側へきたボールも左眼できちんと見ていればいいのである。近頃はコートにちょっと早めに行って、体の右側にバウンドさせたボールを顔を右に振り向けてしっかり見ながら、フォアハンドで打つ練習を重点的にやっている。成果はいずれあらわれるだろうと思う。
人生はさまざまなハンデを背負わされる。中でも年老いてからのハンデは、つまるところ「身から出た錆」だ。楽しみながら付き合っていれば、やがてはプラスになるんじゃないか。 |
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