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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2023年01月20日(金曜日)更新

第735号 〜コロナ感染も長生きの元だ〜

 この冬は暮の12月なかばからいきなり寒くなった。日本海側では大雪、その雪を降らせた雲、つまり寒波が奥羽山脈を越えて仙台平野にまで下りてきて「わざわざ運んできたんだぞ」と残りの雪を振り撒いたり、冷たい西風を吹かせたりした。

 その頃NHKTVの天気予報士が「冬至冬中、冬始め」という言葉を紹介していた。古くから言われていた気象成語だ。冬至は太陽が地球上のいちばん南、南回帰線・南緯23度27分にあるので、太陽と地球の位置関係だけ見れば"冬の真ん中"、ただし地球をおおう空気のおかげで暑さ寒さに時間的ズレができるから"冬の始まり"というわけだ。
 ちなみに北回帰線は台湾の嘉義(かつてはカギ、現在はチャーイ)を通っている。これより南へ行くと南十字星が見えるが、台北で育った私は見たことがない。

 しかも前回書いたように暮から松の内へかけて私と家内は新型コロナに感染して
"ひきこもり"生活を余儀なくされている。思い返せばこんな"病人暮らし"は一昨年の正月なかばに不整脈と胃炎を発症して1ヵ月間、夕食はシラス干し入りおかゆだけで過ごして以来である。あのときは前年の9月はじめから左眼を失明した気力減退が体力にも相当影響していた。利き目が見えなくなったことでテニスもゴルフもできなくなり、先の楽しい予定が全部スッ飛んでしまったのだ。
 今回も年明け早々コロナで寝込んだことで、いわゆる気勢を削がれてしまっただけで、実態はそれほど大袈裟なものじゃない。他の人へ感染させないように薬を服みながら治るまで外出を控えていただけだ。折から年末年始で特に外出する用もなかったし、二人でゆっくりと久し振りに骨休めができた。

 とここまで書いて、「そうか! これからはのんびりいきゃいいんだ!」と気が付いたのだ。
 昨年10月なかばに私は"満90歳"の誕生日を迎えた。しかも人一倍達者な"男"としてだ。少子高齢化がすすんだ現代日本でもそう多くはないだろう。400世帯近いこのマンション団地でも女性が一人いるだけ、男性はいない。そんな背景もあって私はこれまで「何も自慢するものがない年寄りは歳を自慢する」という皮肉めいた言葉に逆らって、わざと歳を自慢してきた。
 90歳になり"今年から自分では年をとらないことにしよう。何年たっても私は90歳なのだ"と広言していたのも、そんな自慢の裏返しに過ぎなかったと思う。逆にいえば自分をあえて水際に追い込むようなもので、気力体力旺盛ならともかく90歳オーバーの年寄りがやってみせたって顰蹙・噴飯ものかもしれないと思ったのだ。
 すなわち"年寄りは何事もすべからく目立たぬように控え目にすべし"なのだ。

 こうしたことに気付いたのも新型コロナ感染のおかげといっていい。暮から新年にかけて世間が休んでいる期間に、私たちも治療のために世間とは没交渉の生活をしながら、新年らしく将来のことをあれこれ考えることができたのだ。
 毎日を楽しく生きるコツは"先に楽しい予定を立てておくこと"と私は思っている。明日でも来月でも来年でもいい。将来に楽しみが待っていると思えば、どんなにつまらない日々も乗り越えていけるのである。私はそんな楽天家だったおかげで90歳過ぎまで人一倍達者に生きてきたのだと信じている。
 それをこれからも続けることはいうまでもない。
 

2023年01月13日(金曜日)更新

第734号 〜二人だけのコロナ感染&年越し〜

 本来のローテーションなら本稿は1月6日が更新日なのだが、お正月休みをいただいたのでこれが今年初の原稿になります。まずは、
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」
 とご挨拶して、さて新しい年の目標は……などとなるのがパターンなのだが、今年はそうはいかない。実は昨年クリスマス明けから私と家内は仲良く新型コロナウィルスに感染し、医師から処方された薬を服みながら10日間――"松の内"前後あたりまでか?――の自宅療養、すなわち"ひきこもり"生活を余儀なく送っているところなのだ。
 昨年最後の原稿(12/30更新)に私は「実り多い1年でした」と書いているが、こんなオマケまであるとは想定外だった。

 発症したのは25日(日)だと思う。前日大粒の氷雨と強い北寄りの風で歩けなかったのを取り返そうと午前中1時間ほど歩き、午後もと思っていたところ、家内が私の様子から何か感じたらしく熱を計れという。計ると37.5分ある。私の平熱は36度2〜3分なのでこれは高い。午後の歩きをとりやめ住居でグズグズしていた。
 ところがこの熱がちっとも下がらず夕方には38度まで上がったのだ。日曜日とあって病院は休み、家内が救急医療センターに電話したがラチが開かず、結局急ぎ薬局から買ってきた解熱剤を服んで寝た。

 翌朝熱は少し下がったものの依然37度オーバー。これはやっぱり病院で診てもらったほうがいいなと、家内の車でかかりつけの内科医院へ向かった。駐車場に車を停め私ひとり病院へ入ると、いつもより可也り空いている。妙だなと思いながら受付で昨日からの症状を話すと、受付嬢は私がまず車で来ていることを確認してから、「それではお車の中で待機していただけませんか? 必要なことは看護師や先生がお車まで出向いて行います。コロナ感染防止のためですのでよろしくお願いします」といったのだ。「わかりました」と私は早々に車に戻った。

 それから2時間余り、はじめは女性看護師がやってきて前々日あたりからの症状をメモしてゆき、次いで男性看護師が感染検査キットを携えて来て、両方の鼻孔の奥までメン棒を突っ込んでサンプルを採取したり指先に金具をはさんで酸素濃度を計るなどし「これから詳細に検査をしますが私の印象では陽性ですね」といった。

 それからしばらくして馴染みのセンセイがカルテ片手にやって来て、「まぎれもなく陽性です。薬も処方しておきました。新しく認可された薬でよく効きます。それから地域の保健所にもあなたの住所もケータイの番号も連絡しておきますので、これから1週間容体を電話でたずねます。よく効く薬ですからそれで感染もなくなります。なお薬は後ほど薬局からお宅に届けますので、このままお引き取り下さい」
 長い話だったがよくわかった。そして帰宅すると間もなく薬が届いたが、それも呼び出しのチャイムを鳴らし私が出ると「薬をドアノブにかけておきます」という念の入れようだった。

 濃厚接触者の家内に症状が出たのは2日後、病院が年末年始の休みに入る前日に同様の診察を受け、私より2日遅れ回復した。

 つらつら考えてみると私が感染したのは38度の高熱が出た3日前、日赤眼科へ恒例の診察を受けに行った22日だろう。途中から乗り込んだ地下鉄が年末とあって青葉山の東北大学キャンパスへ向かう学生達でいつもの倍ぐらい混んでいたのだ。ほかには日赤の院内か? とにかくふだんの私は家内の買物に付き合ってスーパーなど人が集まる所へは行かないようにしているのだ。
 ともかく今回の感染が家内と二人だけで4階の住居におとなしくひきこもっていればすむ、誰にも迷惑をかけないものでよかった。
 

2022年12月30日(金曜日)更新

第733号 〜実り多い1年でした。来年もよろしく〜

 今年も残すところ大晦日1日だけになった。恒例に倣って私もこの1年を振り返ってみよう。

 ひとことで言って私たちにとって「実り多かった」1年だった。
 まずは昨年暮から上京して目黒の家内の実家に2泊、年明け2日の午後帰仙した。その間、上京当日の夕食はなつかしい"肉の万世"で義兄や姪夫婦と落ち合って軽く宴会。元旦はその"万世"で誂えたおせち料理をつまみながら年賀挨拶にやってきた息子夫婦も交えてにぎやかに新年会。
 そして二日は朝大崎まで姪夫婦に送ってもらい東京駅へ。構内の有名な待ち合わせ場所"銀の鈴"でかつてのスキー仲間達6人と落ち合い、Yやんが前もって手配していた小奇麗なレストランに場所を移して食べながら歓談、文字どおり"久闊を叙"した。
 スキー仲間は1番の年長者が私より干支でひと回り下、まだまだ若い。コロナさえ収まればまたどこか温泉で会えるのだから、私たちも元気でいたいし皆もそうあって欲しいと思っている。
 またこれらの新年旅行はコロナ感染がたまたま一段落していたときだったので、それほど神経過敏になることもなくラッキーだった。

 義兄や姪夫婦とは4月にも会津東山温泉で会った。義兄は私と同年生まれだが数年前連れ合いに先立たれて外出がめっきり減った。それを姪夫婦が気遣ってよく食事や旅行に連れ出しており、会津もそれで私たちにも声をかけてくれたのだ。
 実はその前に家内が車を替えている。それまで乗っていた車が年齢不相応のハイパワー車で維持費もたいへんなので手離すときめ、ならばいっそ運転そのものもお終いにしようと思ったらしい。それを姪に伝えた際の声がよっぽど情けなく聞こえたようで、同情した姪が義兄に話し、義兄が「適当な中古車でも買えよ」とスポンサーになってくれたのだ。会津行きはその車のお披露目でもあった。
 車はいまトレンドの小型ハイブリッドで燃費も安く、年寄り二人の小旅行には最適だ。それで会津から帰ってすぐ決めた次の行き先が気仙沼だ。ここは同じ宮城県内でも足の便が悪く、私は1度も行ったことがない。何しろ石巻や女川原発がある牡鹿半島(先端東側の島が金華山だ)から北はリアス式の三陸海岸が連なり、道路も鉄道も不便だったのだ。
 それが去年、三陸自動車道が開通し、しかも松島から先は通行料金もタダとあって行ってみようとなった次第だ。時は5月なかば1泊だけの旅だったが往復とも天気は快晴、町はどこへ行っても観光地ズレしたところがなく素朴さをゆっくり楽しめた。

 そして梅雨、盛夏、残暑と夏場を無難かつ特にイベントもなく過ごして迎えたのが私の満90歳である。"卒寿"という言葉はもちろん知っているが賀寿とは逆の縁起でもない言葉なので使わないことは何度も書いた。
 だいたい私自信がこんなに長生きするなんて、まってく思いもしなかった。身内は父が60代はじめ母が60代なかば、弟2人も上が70代はじめ下は60代はじめだ。そこから考えれば私も精々平均寿命の81歳ぐらいだろうと思っていた。

 それが90歳まで達者でいられるのはほぼ2年前、つまり昨年1月はじめから2ヵ月近く半病人生活を送ったことが逆に立ち直りのきっかけになったと思う。不整脈に胃炎が重なり、前年9月から左眼失明した精神的ダメージが加わったせいだ。
 そこから復活できたのは、ともすればくじけそうになる私の気力を奮い立たせ、この原稿を曲がりなりにも書き続けさせてくれた家内をはじめ当クラブの支配人氏や元スキー仲間達、そして家内を介して何かと頼りになってくれる義兄と姪夫婦の無言の励ましのおかげである。あらためて感謝します。

 とにかく今年も楽しく実り多い1年でした。
 来年もよろしくお願いいたします。
 

2022年12月23日(金曜日)更新

第732号 〜国語辞典の楽しい読み方を見つけた〜

 私のいまの愛読書は国語辞典だ。普通の本は並んでいる活字は辞典よりはるかに大きいが、1行の字数も長さも辞典の倍以上あるので、私の視力0.3の片目では読めないのだ。いま読んでいるポイントから視点をちょっとでも離した途端そこへ戻す、つまり元のポイントを見付けるのに四苦八苦するからだ。
 だが辞典なら1行4センチちょっと、字数20しかない。大きな天眼鏡を使っても一目で入る。視点を他所へ移してももとへ戻るのに苦労しない。かくて私の愛読書はAB版2,300ページ、箱入りハードカバー、重さ5キロほどの国語辞典になった。

 辞典を読むことで面白いなと思ったのは、これまで世間の慣習どおりまったく疑問ゼロで使っていた言葉が、実際の意味はこれまでとは真逆のものだと気付く(教えられる)ことだ。10号ほど前に書いた満90歳を祝う「卒寿」が実際は"寿命を終える"という意味で、長寿を祝う賀寿どころじゃないなんてのがその代表例である。

 この辞典の中で私が特に楽しみにしているのが、項目の単語を用いた成句だ。たとえば"男"の項目を引くと「男が廃(すた)る」を筆頭に19成句が並んでおり、中に「男は松、女は藤」というのが目についた。意味は「マツにフジがからみつくように、男は女から頼りにされることのたとえ」という。私は初見だったが知る人ぞ知る言葉だろうなと思ったものだ。

 今回こうした成句を並べてみようと考えたが、いま私が選ぶならやはり"目"だろう。目はさすがに成句も多く100項目を軽く超える。そこから私なりに選んで解説ならぬ蛇足を付けてみた。ちっとは退屈しのぎになるだろう。

目が据わる――酔って目玉が動かなくなる状態などをいう。F社に同期入社したIがそうだった。Iは加えて顔も白くなる不気味な酔い方をした。
目から鼻へ抜ける――抜け目なくすばしっこいこと。当クラブの支配人氏が女性新人社員を北海道弁で「はしこい」といったことがあった。意味は同じだろう。
目で見て物を言え――軽々しくものを言うなということ。
目に一丁字もない――無学文盲のこと。F社の数年後輩がこういう小難しい言葉をよくひけらかしていた。そうした衒学趣味に加えて、彼は人一倍のデブだったので女性社員すべてから嫌われていた。だが無神経な彼は周囲のそんな空気におかまいなく、40代後半にある女性社員に結婚を申し入れた。彼女はすぐ断った。後に彼女が「私のほうこそせつないわよ」といっていると聞いて私は気持ちが理解できた。 若い頃は魅力的だった彼女も30代後半。そんな男しか寄って来なくなったかと、自分がつくづく可哀相になったのだ。

目の上のたんこぶ――自分より地位も実力も上、何かにつけて邪魔になる人のことだ。年老いてもそういう人間関係はなきにしもあらずで、私など自分がたんこぶ視されているのを楽しんでいる。
目の正月/目の保養――いずれも良いものを見て楽しむこと。対象は景色、芸術作品、スポーツなど多彩、片目のわたしだってできるが、いま一番見たいものは?といわれれても咄嗟には思いつかない。見るべきものは見てしまったというほどじゃないのに……。「眼福」ともいう。
目が寄る所へは玉も寄る――"類は友を呼ぶ"と同じく"胡散臭い奴"の周辺には"食わせ者"が集まるのだ。

目病み女に風邪ひき男――眼病で目がうるんだ女は色っぽい、風邪をひいている男は粋だという昔の言葉だが現代に当てはまるか? コロナとインフルエンザの予防で男も女もマスク顔では色っぽいも粋もないのだから、われわれは早く収まってくれと願って用心するしかないのだ。
 ところで"目"には"眼"もある。で〆くくりは……。
眼(がん)をつける――不良やヤーさんが相手の顔に目を据えて言いがかりをつけることだ。当地へ転居する前に住んでいた千葉県野田市では同じ地区に、関東では名のある一家の親分が住んでおり、若い者がよく電車に乗っていた。私はそういう相手とはできる限り顔を合わせないように注意したものだった。

 いずれにせよ国語辞典はなかなか面白く読める。
 

2022年12月16日(金曜日)更新

第731号 〜90歳の顔に"老い"を捜す〜

 片目が不自由になってから、近頃特に「参ったな」と感じていることがある。

 自分の人相や表情がわからなくなったことだ。よく考えてみると、これは一大事である。ちょっとぐらい見えなくても気分はいつも若く前向きで……が私のモットーだから、ここへきていきなり老いさらばえた顔など見せられないではないか。
 そうしたことに気付いたのはつい先日のことだが、きっかけは顔そのものではない。手である。

 その日の午後いつものお茶の時間に、私は椅子に腰を下ろし足を組んで家内が淹れてくれるコーヒーを待っていた。そして視線を戸外から室内へ戻したとき、組んだ太股の上に置いた左手の甲に気付いたのだ。はじめは「随分年寄りじみた手だな」と軽く思いながら目の前にかざしてよく見ると「いやはやこれは!」唖然とさせられたのだった。
 淡い褐色に日焼けした深いシワだらけの皮膚に指につながる骨と青い静脈が浮き出し、ところどころに斑点のような赤黒いシミがある。まさに老いさらばえた90歳老人の手である。
「なるほどなぁ。いくら体つきや所作でカバーしようとしても、実際の年齢は体のどこかに現われるものだな」と私は納得したのだった。

 そしてすぐ「顔はどうなんだろう? お日様にも手以上に当たっているのだからもっと年寄りじみているんじゃないか」と思ったのだ。私はすぐ洗面所へ行き鏡に写った顔をしげしげと観察した。
 だがこれがよくわからないのだ。見えるのが片目、しかも視力0.3しかない右眼だけのせいである。すなわちこの右眼だけで鏡に写った顔を見ても確認できるのはたとえば口なら上は鼻孔のちょっと上、下はあごの先端はムリ、両側は口角の外側が辛うじて……ぐらいの狭さなので、他の部分と見くらべることができない。では両眼を鏡から離して顔全体を見ようとするとどうなるか? 細部がまったく識別できなくなるのだ。
 つまりはじめに書いたように、自分の人相や表情がわからないのである。

 それにしても左眼が見えなくなってから2年3ヵ月も過ぎて気付くなんて、我ながらいささか間の抜けた話ではないか。それも90歳というきっかけがあってのことだから尚更である。
 だがそれも私がこれまで頭から爪先までの身体全体を強く意識してきたからだと思えば納得できる。気力脳力体力がバランスよく健康に老いていくのが私の望みなので、顔なんか他人と識別するためにありさえすればいいのだ。

 私は若い頃から顔より全身を、鏡やガラスに写して見ることが多かった。顔は目なり口なり各部品が揃っているか確かめるだけで十分、それよりも全身のコーディネートのほうが重要だったのだ。「男は顔じゃないよ、心だよ」といったのはフーテンの寅さんだったか、私には「……顔じゃないよ、体型だよ」なのだ。

 さて本題に戻る。自分の顔がいまどうなっているか? だ。とにかく鏡ではわからないのだから写真で見るしかないが、その写真がまったくないのだ。家内のスマホにはあちこち出先で撮った記念写真が山ほどたまっているはずだが紙焼きが1枚もない。あれこれ捜してやっと気付いたのがマイナンバーカードだ。この6月登録したもので、天地2.5センチのよく撮れた顔写真が貼ってあり、虫メガネで見ると人相も表情も一目瞭然だった。
 髪が頭頂まで後退しているものの眉毛以下の造作はすべて気迫十分、愛嬌こそないが老いはたいしたことない。これなら当分死神も呪いもつけ入る隙はないだろう。

 私は、人生まだまだ楽しめそうである。
 
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