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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2017年08月25日(金曜日)更新

第460号 〜よく観れば変人奇人怪人がいっぱい〜

 私たちの住居は4階建ての低層マンションが1番館から9番館まで9棟まとまった、総世帯数400を超える大規模団地だ。これだけ大勢の人間が暮らしていれば、当然中には常識はずれの変人奇人怪人も少なくない。
 
 最近耳にしたのは"異臭紛々たる"部屋だ。6番館2階、私たちと親しいMさん宅の隣である。奥さんのN子さんによると、7月中旬の猛暑日頃から何か饐(す)えたようなイヤな臭いがしはじめ、やがて玄関から外廊下までしみだしてきて、遊びに来た幼い孫がベランダに出た途端「くちゃい」と顔をしかめて中に戻ってくるほどになったという。
 もちろん近所の住人も気付いており、苦情が寄せられた管理センターでもすぐさま、「季節柄、近隣の迷惑になる悪臭の発生にご注意下さい」という警告文を、当の部屋を中心に上下左右10数戸に配布した。そして当座は臭いもだいぶおさまったようだが、半月ほどたつと再びただよいはじめたという。
 その一家は管理センターによると、数年前に賃貸で入居した夫婦と子ども2人の4人家族だそうだ。旦那は普通のサラリーマン、奥さんは専業主婦でたまに買い物などに出かけるくらい、子どもは上が19歳の娘でこれも普通のOL、下は男で高校生。そして外出するときはみんな一応ちゃんとした格好をしているという。つまりどこにもあるごく普通の家庭だ。
 N子さんによると「おいしそうな料理の臭いがしたこともあった」そうだから、家族全員臭覚に難があるわけでもなさそうで、ただ鈍感なだけなのだろう。それに7月なかばの猛暑日続きから一転して、ジメジメした冷夏になったことも影響しているかもしれない。
 
 マンションは"ドア1枚キー1本"で簡単に外と遮断できる。昔の長屋ならそんな臭いぐらいお節介なヤツが「何とかしろよ」としゃしゃり出て、向う三軒両隣で元凶を片付けてしまったところだが、プライバシーだの個人情報だのとうるさくなった昨今はそうもいかなくなった。管理する側も困っている。

 1階の住人が、室内からベランダを越えて専用庭まで"ゴミ置き場"にしていた部屋もあった。庭は通行人や上階の人からも丸見え、管理センターの職員によると、室内も玄関から見える限り物が山積み、「まさにゴミ屋敷だった」そうだ。
 ところが奇妙なことに、この部屋の奥さん(50歳前後)が天気のいい日によくゴミトング(別名火バサミ、ステンレス製の簡単な道具)とビニール袋を持って、団地内の道路や駅の階段やホームのゴミを、ちょっとばかりこれ見よがしに拾い集めていたのだ。どうもやってることがわからなかった。
 この人は3ヵ月前引っ越して行き、いまはゴミ屋敷もキレイになっているが、あらためて思えばゴミを集めているという点では、この人の考え方にも行動にも一貫性はある。われわれ凡人には理解できないが。

 9棟のうち1〜4番館は建物内部に入っていく階段の両側各階ごとに部屋を設ける構造でエレベーターなし、5〜9番館はエレベーターつきで棟の両端に外階段、各部屋の前が外廊下になっている。ちなみに1番館の私たちは常々4階まで上り下るして足腰を鍛えている。えへん!
 
 8番館の外階段でときどき野グソをたれる爺さんがいるという。去年の秋頃から始まって月に2〜3度あった。もちろん管理センターではどこの誰か正体もつかんでおり、警告も何度かおこなってきた。だが当人にとってはよほど気分よく満足できる営為(いとなみ)なのか、いまだにときたまあるそうだ。
 爺さんといっても私よりだいぶ年下、ボケてもいない。だからひょっとするとこれまでずっと"和式で用足し"しかしなかった人かもしれない。なにしろ山形市あたりではいまでも和式しかない小中学校があり、切羽詰った子どもたちの中には家まで帰ってしまう子もいるらしいのだから。

 5〜9番館エレベーター内の監視カメラのレンズ全部に、目隠しのガムテープを貼り付けた中年男性がいた。レンズがとらえたその顔が広角のせいでメチャクチャ間延びした間抜け面に写っており、テープを再生した途端全員思わず吹き出してしまったものだ。
 この中年男性には、時々酔っ払って遅い時間に帰ってくると駅から自宅までの道のりで、わけのわからない奇声をあげながら駐車場の車のタイヤを蹴飛ばしていく奇ッ怪な習性もあるそうだ。変人でもあり"奇声人"でもある。

 駐車場で自分のスペースの左側ギリギリまで車を寄せて停め、左側のドライバー(女性だ!)が運転席側から乗り込めないように、陰湿な嫌がらせをするリタイヤ男もいる。この男は以前、些細なことをタネに管理センターにイチャモンつけにきては「お前らの給料誰が払ってると思ってるんだ」と、30分は怒鳴り散らしていく名うてのクレーマーだった。その後われわれ理事が対応するようになって鳴りをひそめたなと思っていたら、こんな鬱憤晴らしをしていたのである。

 好奇心満々で観察していると人間も世間も実に面白い。まだまだ長生きしたいものだ。
 

2017年08月18日(金曜日)更新

第459号 〜生まれた家で人生完結、幸せな終末〜

 迷走台風5号が北陸から日本海をウロウロしていたとき、本家の又従兄が亡くなった。お互いの祖父が兄弟、彼は私と同年だが早生まれなので学年は一つ上だ。2年前に胃ガンの手術(腹に二つ穴をあけて内視鏡で切除したという)をし、それが肝臓や肺に転移して、去年から抗ガン剤治療を受けていた。春の彼岸に会ったときはまだ元気で、薬剤の説明書をひろげて治療内容などをとくとくと話してくれたが、その後病状が進行したようだ。先月なかば、亡くなった際の連絡先などを確認がてら見舞いに行ったときは、自宅(本人の希望で入院先から戻っていた)で末期の緩和ケアを受けており、ベッドでうつらうつら状態だった。

 彼は「うちの家系はみんな心臓をやられているから俺もガンには無縁だ」というのが口癖だった。だから私もかつては"そんなものかな"とぼんやり思っていたが、16年前自分が大腸ガンの手術を受けて"待てよ"と思うようになった。医学の進歩によってガンが早期発見されるようになり、自分は心臓さえ気をつけていればいい時代ではなくなったのだ。
 そのあたり私たちの世代はガンを軽くみているフシがある。

 本家は代々農家だが、かつては村(いまは合併して市)いちばんの大地主だった。先代までは実際の農作業に携わった経験など、ほとんどなかったと思う。家屋敷も大きく、昔は入り口に藁葺きの門があった。そこから一段高い敷地に建っている母屋まで30メートルほどだが、道の先が直角に左折しているので庭木にさえぎられて屋根しか見えない。
 
 母屋は玄関を入ると20畳はあろうかという広い板の間があり、昔はそこに大きな囲炉裏が切ってあった。いまは掘り炬燵に変わり、夏場は座卓が置いてある。囲炉裏は客から見て横長で左側の上座がいわゆる"横座"、一家の主人の定位置で又従兄はいつもそこに坐っていた。その横座の背のほう、つまり板の間の奥に6畳10畳10畳と座敷が三つ、幅三尺の縁をおいて広い庭に南面しており、また座敷の裏側にも廊下をはさんだ北側に小部屋が並んでいる。
 とにかく、これまでちっぽけな住居しか経験のない私にはどれほどの建坪か見当もつかない大きな家だ。この家に彼は奥さんと二人だけで暮らしていた。
 
 又従兄には息子(跡継ぎ、ここらでは"家督"という)がいる。もちろん世帯持ちで成人した子ども、彼にとっては孫も二人いるが、一家は同じ敷地内に別棟を建てて両親とは暮らしを分けていた。若い世代にはいくら広い家でも、同居生活は気詰まりだったのだろう。ただ子どもたちは小さい頃、母屋の座敷に勉強机を置いて祖父父母に甘えていたそうだ。

 敗戦後、農村の地主の生活が一変したことはよく知られている。私の知る限り本家も随分変わった。先代は広い庭に好きな盆栽の鉢を並べ、死ぬまでマイペースだったが、又従兄は若い頃から畑や田んぼに出ていた。盆栽の鉢もいつの間にか消えてしまい、門を入って右側にあった大きな池もいまは広さ半分ほどになり、ただの汚れた水溜りになっている。大きな旧家の体面を保っていくために、時代の変化に戸惑いしながら心身とも相当苦労しただろうなと思うし、そのあたりは想像の外でしかない。

 私たちは通夜から直会(なおらい)まで一連の行事にすべて参列した。そして会場正面の写真を見るたびに思ったものだ。
 生まれ育った家で人生を締めくくれるなんてやっぱり幸せなことではないか。いまハヤリの波乱万丈ドラマチックな生き方には程遠いかもしれないが、首尾一貫きちんと完結した人生なのだ。現代日本では稀有な例なのである。私には望むべくもない羨ましい85年余りだったと思う。「人生いろいろ」だなと、つくづく感じるのである。
 

2017年08月11日(金曜日)更新

第458号 〜辞典をひきさらに多くを知る楽しさ〜

「置酒款晤」読みは"ちしゅかんご"である。本など読んでいてこんな言葉に出会うとうれしくなる。「お初にお目にかかります」と挨拶したいぐらいだ。本といっても近頃の軽い小説ではないし、もちろん新聞雑誌の類にこんな言葉は絶対出てこない。江國滋さん(随筆家)のエッセイにあった。
 意味は字面や前後の文章からおおかた見当はつく。だが初対面の相手にはこちらも礼をつくさなければ……というわけで、国語辞典と漢和辞典をひく。「置酒――酒宴を開くこと」ふむふむ、「款晤――(これはさすがに漢和辞典)うちとけて話し合うこと」なるほど、よくわかりました……となるわけだ。
 いまは電子辞書なんてのもあるし、パソコンやスマホでも簡単に調べられるようになったが、私はやっぱり辞典のちょっとヌメリのある薄紙をめくっていくのが好きだ。

 辞典をひく楽しさは目的の言葉を知ることだけでなく、ついでにその周りにある類語にも目を通してさらに多くを知ることにある。私は"款"を部首の"欠"からひいたが、その"欠"に"アクビ"という解説がついていた。

 しかし"欠"は"口を大きくあけること"で、アクビはそれに体をのばす意味の"伸"をプラスして「欠伸」と書き、"けんしん"が本来の読み方だという。"欠"は敗戦後のドサクサ時に旧字"缺"の代用品につくられた当用漢字だ。よって意味も読み方も本来から大きくそれてしまったのだ。なお"欠伸"の元々の意味は、馬上の武将などが体をすっと伸び上がらせて"下馬するふり"をする軽い挨拶のことだ。
 以上の事例は高島俊男さん(中国文学者)の著作からいただいた。

 話は脱線するが、敗戦後の代用品で私が真っ先に思い出すのが、和服の帯芯で手作りした野球のファーストミットだ。当時の子どもたちの屋外ゲームは野球が主、というより野球しかなかった。だが道具がない。バットやボールは1本1個あれば何とかなるが、グローブなどは無理だ。そこで誰が考えたのか登場したのが、古い帯芯でつくったファーストミットだった。このアイデアは瞬く間に全国にひろまったようだ。なぜファーストミットだったかというと、作り方がグローブやキャッチャーミットより簡単だったからで、軟式のボールにはこれで十分。当時はどこの空き地でもこの手作りミットの野球少年が、ファーストだけでなくサードや外野にもいたものだった。
 当時の代用品をもうひとつ思い出した。メリケン粉の代わりに配給されたトウモロコシの粉だ。アメリカの援助物資ということだったが、後日家畜の飼料だとウワサされた。練ってパンに焼いたもののパサパサして食べられるものではなかった。私がトウモロコシが苦手になったのは、あのトラウマのせいだ。
 もうひとつ、これからは公用語(もちろん日本語)をフランス語にすべきだと論を張った有名な文学者・志賀直哉もいた。
 当用漢字ぐらいしょうがないか……である。
 
 いずれにせよ、新しい知識が増えるのは楽しみなものだし、それは年老いても同じはずだ。私の場合その対象になるのは言葉が多い。だが言葉は調べて頭の片隅に納めただけでは自分のモノにならないから、積極的に使うことが必要だ。とはいえ置酒款晤のような言葉をサラリと口に出せる場面も場所も、近頃はほとんどないだろうし、同世代相手でも人物によっては、「イヤミなヤツだな」とかえって白い目を向けられかねない。
 そういう"時世時節"なのである。こうして原稿に書くしかないではないか。

 置酒款晤は私も好きだ。酒量はだいぶ落ちたがお付き合いは十分できる。声をかけてくれる仲間もまずはこと欠かない。それは私が心身とも"まだまだ現役"と目されているからだと思う。日々鍛錬のたまものである。
 私にとって辞典をひくことは、毎朝の筋トレや墓園の階段上りと同じく鍛錬の一部なのだ。頭も体もだらけたまま年老い、それでいて長老として一目置かれようなんて虫がよすぎる。
 

2017年08月04日(金曜日)更新

第457号 〜後悔は逃がした魚=マボロシの理想〜

 老人を対象に「人生でいちばん後悔したことは?」とアンケートをおこなったところ、回答の70%が「チャレンジしなかったこと」で、ぶっちぎりのトップだったという。例の2chニュースから拾ったネタだが、ただし、アンケート主や目的は特に調べなかったのでわからない。
 これを最初に見たのはもう1週間以上も前だ。そのときは"チャレンジ"を筆頭にその他いろいろと20数本が並んでいた。その中には、たとえば「この女房と一緒になったこと」とか「ゴマすり上司をぶん殴らなかったこと」など、わが身にひきかえて納得できるものも多かったのだが、いつの間にか"チャレンジ"1本になってしまった。

 それにしても、これはちょっと"奇麗事"すぎる。まさに"タテマエ"であり、回答者は何本か並んだ回答例から無難でカッコイイものを選んだ感じがする。実際の後悔なんてもっと生々しく生活臭あふれたものだ。
「後悔を先に立たせて後から見れば杖をついたり転んだり」という都々逸がある。道楽者の若旦那をネタにした落語などによく出てくる有名なものだ。私がこれを初めて聞いたのは中学生の頃だったか、世間知もあまりなかった少年は「いいこというなあ」と感心したものだ。しかしいまでは、横丁のご隠居がいかにもわけ知り顔に口にする道学者風のセリフにしか聞こえない。杖なんかつく前に足を鍛えておけよとツッコミたくなる。

 後悔するのはわれわれ人間だけだ。トラやオオカミがせっかくの獲物を取り逃がしても「しまった、若いメスに気ぃとられるんじゃなかった」と後悔するなんて絶対にない。人間の進化した脳だけが刻々と過ぎ去っていく事象を記憶し思い返すことができるので、後悔もできるのだ。だから、われわれが後悔するようになるのもいわゆる"物心がつく頃"4〜5歳ぐらいからだろう。そして、おやつを食べ損なったり幼稚園のバスに遅れたり、日々他愛ない後悔を繰り返しながら年を取っていくのだ。そんなわれわれがいくら年老いたからって、いきなり「チャレンジしなかったこと」などと哲学的思考にふけるわけない。
 そんなことを真剣に考えるのは、われわれ凡人にはうかがい知れない高い目標を持っている人だ。ましてや、高度成長のさ中でのうのうとしていたいまの老人たちには、チャレンジしようがしまいが現状に不満などあるはずもない。

 だいたい"真のチャレンジ"とは、たとえば"ルビコン越え"や"敵は本能寺"のような"天下への挑戦"だと思う。自分ひとりだけでなく妻子眷属すべての運命を賭けて、挑戦するかしないか決断しなければならないのだ。そんなチャレンジのチャンスに恵まれるのは万人に一人いるかどうか。
 われわれが"チャレンジしなかったこと"は、別の言い方をすれば"逃がした魚"である。弓なりの竿ブルブル震える道糸、やっとタモまで引き寄せて「やった!」と思った瞬間、ハリスを切って逃げてしまったヤツだ。「チキショウ!」と思い出すたびにだんだん大きくなっていく獲物、マボロシの理想である。
 たとえマボロシでも理想はあったほうがいいが、それは後悔のタネにするより、自慢のタネにしたほうがいいと私は思う。後悔するのはクダラナイもの、後腐れのないものが心身の健康にはいいのだ。
 

2017年07月28日(金曜日)更新

第456号 〜禍福は糾える縄、悲報の後は朗報が〜

 ひと月半ほど前、会社の後輩で遊び仲間のI君が心筋梗塞で倒れたという知らせがあった。行きつけのメンバーコースの5番ホールをプレー中に発症し、ドクターヘリで救急搬送され、患部にステントを入れられて助かったという。
 ドクターヘリと聞いて私はすぐ、I君は普通の人があまりできない経験をする人だなと思った。そのあたり彼は妙に運の強いところがある。5番ホールならたいていのコースではクラブハウスからもっとも離れている。だから救急車が入って行けないのでヘリになったのか、実際に一刻を争う容態だったのか、いつか訊いてみたいと思っている。

 町内のゴルフ仲間に同じく心筋梗塞で倒れ、ステントが入っている男性がいる。機会があって聞いてみると、「あのときはマジで死ぬかなと思いましたよ。その後1年ぐらい体が慣れるまでたいへんでしたけど、いまはこのとおり」とゴルフも仕事もバリバリやっている。もっとも彼が倒れたのは50代はじめ、親身に看護してくれる奥さんや闘病の励みになるお子さんもいて、I君とはちょっと条件が違う。とはいえ何事も前向きのI君のことだ。きっと回復するだろう。

 このI君を皮切りに知り合いの悲報が相次いだ。
 彼が退院して1週間後ぐらいだったか、同じく後輩のO君の奥さんが亡くなった。彼女は社内結婚だったし二人とも遊び仲間でもあって、私たちとも顔見知りだ。結
婚後も出版健保の野球大会に子連れでよく応援に来ていた。年は干支で私のふた回りほど下。乳ガンとのことだが、年なりに病気の進行も急だったという。

 さらには、思いがけない知らせを家内が聞いた。
 先頃の九州豪雨の際、福岡県在住の知人に安否をたずねる電話をかけたのだが、出たのがご主人のほうで「M子は2ヵ月前に脳内出血で倒れて入院したきり、いまだに意識不明の状態なのです」と告げられたのだ。ショックのあまりさしもの家内も、しどろもどろの受け答えしかできなかったようだ。
 M子さんは45年前、私たちが横浜の日吉に小さなマイホームを入手したときからの知り合いだ。全部で8戸あった同じような建て売りの中で私たちの一角4戸の奥さんたちが、それぞれご亭主の仕事はまるで違うのに何となく仲良くなり、またそれぞれご亭主に先立たれたり転居したり環境は変動しているものの、いまだに何かにつけて消息を確かめ合っているのだ。こうした古い友人関係を途絶えさせずに続けられるのは女性の特質なのか、それとも家内の人付き合いのよさによるものか、どうもよくわからない。

 M子さんは再婚である。日吉にいたとき離婚し、数年後10歳年上のいまのご主人と一緒になって、彼の故郷の福岡県内に転居したのだ。若い綺麗な(4戸の奥さん中いちばん美人だった)再婚相手をご主人は大事にしていたようで、電話で声を聞くたびに家内はうらやましがっていたものだ。

 それにしても、こんな悲報がわずかひと月半足らずの間に相次いでやってくるなんて滅多にあるもんじゃない。85年生きてきて初めてだ。10年以上も前のことだが、年明け早々母方の叔父が亡くなった後、春なかばに本家のまたいとこ、梅雨時に家内の甥、秋口に私の下の弟……と、1年間に4人亡くして以来だ。
 あのときは身内だったので私も家内も東奔西走テンテコ舞だったが、この度は知り合いということで多少は気楽でいられた。

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」で、悪いことばかりそういつまでも続くわけではない。そのうちには知り合いの誰彼にいいことが起こるはずだ。そして、私たちにもおこぼれがあることを願っておこう。
 
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