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2016年11月11日(金曜日)更新
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第420号 〜人口減,高齢化で“家も使い捨て”時代〜
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私たちの住居は、六畳の和室やキッチン洗面所などを除いて床にジュータンが張ってある。もちろん上等なものじゃない。要は床面をコンクリートむき出しにしないための手当てだ。だから引っ越してきて20年近くもなれば、食事用のテーブルやイスの脚元はずいぶん薄くなってきたし、静脈の浮腫のようにプクッとふくれている箇所もある。団地にはこれをフローリングにリフォームしたお宅もけっこう多い。
わが家? まあ何か幸運にでも恵まれない限りこのままです。
私たちは結婚以来、住居を5回替えた。まず子どもが生まれてちょっと広いアパートへ、次いで縁あって東横線祐天寺の借家へ、3度目は横浜の日吉にウサギ小屋みたいなマイホームを建てて、さらに周辺がゴルフ場だらけの千葉県野田市へ、そしてここ仙台へ……だ。
こうした経験から感じるのは、われわれ庶民の住居は分相応でしかないなということだ。いま日本で普通に生活していれば、住居を確保するのは買うにしろ借りるにしろ容易だろう。だがその住居は戸建てでもマンションでも、たいてい10年過ぎればどこかしらガタがくる。何しろ地震国だ。かの加藤清正が入念に改築した名城でさえ崩れた。私たちのマンションは5年前の大震災ではビクともしなかったが、それは運よく足元が岩盤だったせいで、1キロも離れていない盛り土の住宅団地では震度7の揺れとともに真っ二つに裂けた家もあった。
現代日本では、自分が満足できる住居に住めるのはほんの少数だけだ。99%の人は住居に自分を合わせている。昔の軍隊の官給品と同じく「足を靴に合わせろ!」を実践しているのだ。“普請道楽”なんて言葉はもはや“死語”といってもいい。
分相応というのはそういうことだ。
ところが、これら住居が近頃は余剰気味らしい。この国の“モノ余り”現象は住居にまで及んで空き家が増えてきたのだ。私たちのマンションでもでも昨年あたりから、入居者より出るほうが多くなってきたという。
こうした傾向はここより古い、40〜50年前に開発された郊外のニュータウンではもっと進んでいる。そこで育った子ども世代が次々と親元を離れて高齢者ばかり残り、町内会が老人会になったといわれたのも束の間、それら老人も“櫛の歯を挽く”ように消えて空き家だけ残っているのだ。戸建ての団地だと空き家も集合住宅よりずっと目立つだろう。
1990年代の初め頃、ある経済学者が「いまの住宅問題は将来自然に解消する」といっていた。この人の予測の根拠が何だったかは知らないが、いずれにせよ現在の様相はそのとおりだ。私たちが曲りなりにも“一国一城の主”を目指した頃とは時代が違うのである。
これは裏から見れば、近頃は住居も“使い捨て”になったともいえる。よっぽどグレードの高い物件、たとえば屋根を東京駅と同じ“雄勝産のスレート”で葺いた建物でもない限り、資産価値は低いと思ったほうがいい。マンションなんか特にそうだ。実際ある週刊誌に「マンション投資は時代遅れ」みたいな記事も出ていた。
だが私には、われわれの住居はこの程度で十分という気持ちがある。
かつて私たちはスキー仲間から「Tさんはスキーをしていなかったら、お城が建ったでしょう」とよくいわれたものだ。お城はともかく日吉のウサギ小屋や野田の中古より少しはマシな家は持てたかもしれない。
それでも、さきの“普請道楽”や古川柳“売り家と唐様(からよう)で書く三代目”の家には程遠いシロモノだっただろう。そして私はそんな家に住むことより、ウサギ小屋に泊まってくれた仲間と一緒に翌朝早く羽田から北海道へ飛んで行ったこと、シーズンが終わって野田の家に集まってくれた仲間たちと、にぎやかに撮りためたビデオを観たことなどのほうが、はるかに意味があったと思っているのだ。このちっぽけなマンションにも泊まって蔵王や安比で遊んだ仲間がいる。
私たちにとって住居の価値は「ナンボで売れるか」より、そこに「どんな楽しい思い出があるか」できまるのだと思うのである。
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2016年11月04日(金曜日)更新
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第419号 〜人々の“読書離れ”と“読むこと”の意味〜
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パトリシア・コーンウェルというアメリカの女流ミステリー作家のヒット作、女性検屍官シリーズが日本でも文庫で翻訳出版されている。山際淳司(1995年没)のエッセイ集を読んでいたら、その一冊約500ページを4時間15分で読みきったとあったので驚いた。彼女の作品は1ページ中に改行が1ヵ所しかないところもあり、ぎっしり書き込んである。それを4時間ちょいとは相当な早読みだ。とても太刀打ちできないが、その代わり長生きしている……といったら“ゴマメの歯ぎしり”か。
今回のテーマは「読むこと」だ。前々回「書くこと」の続きだが、私自身はけっして“読み巧者”だなんて思っていないし、読むテクニックを云々できるほど勉強もしていない。エラそうなことをいえるわけないので、せいぜい“読む”にまつわるエピソードや私見を並べるぐらいだ。あまり役には立たないと思う。
“読み巧者”からすぐ連想した人物がいる。ワセダのクラスメート熊谷くんだ。自己紹介で「……クマガイというのが正しい読み方です。埼玉のクマガヤは明治維新後薩長のもの知らずが間違えて読んだのがそもそもの始まりで……」といい、ワセダ志望もかの有名なオチケン(落語研究会)に入るのが目的という面白いヤツだった。ちゃんと卒業したかどうかもさだかでなく、ずいぶん経ってから、野坂昭如宅の玄関番をしているとか、浅草で作家や編集者、若手落語家が集まるバーをやっているなどの消息を聞いた。そのバーには私も行ったことがあるが、彼はカウンターの向こうにでんと座ってウィスキーを手酌しながら小説や落語の話をしているだけで、間もなく亡くなった。50代だった。
没後、野坂さんが彼の破天荒な玄関番ぶりを書き、「稀代の“読み巧者”だった」といっていた。作者自身さえ気づかない面白さや欠点が一読たちまち見えるのだ。単に好き嫌いで選ぶ――たとえば村上龍は読むがハルキは読まない私には、目の眩むような才能だ。
「若者が本を読まなくなった」と喧伝され始めたのはだいぶ前だが、いまだにいわれている。つい先日も、月に一冊以上読む学生は10%もいないという調査結果が発表されたばかりだ。池田清彦山梨大学教授(生物学)の著書にこんな一節がある。
「この数年、学生たちのバカ化はさらに進んだようである。インターネットとケータイの普及に原因の一端はありそうだ。小谷野敦(『もてない男』の著者・猫猫先生)の表現を借りれば、バカが意見を言うようになったのである。」
本離れは若者だけじゃない。中高年から老人も同じだ。また原因にしてもネットやケータイ以前に、人々が知識をお手軽なハウツー本に求めたからではないかと私は思っている。経済成長で暮らしに余裕がでてきた結果、人々は他人よりトクするための情報しか読まなくなったのだ。
それは1960年頃からのベストセラー本を見ればわかる。『投資家読本』(邱永漢)や『お金の増やし方』(野末陳平)といった金儲けものだけではなく、『物の見方考え方』(松下幸之助)『気くばりのすすめ』(鈴木健二)などのビジネス&自己啓発もの、『冠婚葬祭入門』(塩月弥栄子)や細木数子の六星占術本など何となくお役に立ちそうなものまで、ハウツー本は多岐にわたっているが読み手に考えさせる内容のものはほとんどないといっていい。
ハウツー本は簡単にいえば“レッスン書”である。読み手は書いてあることをなぞってわかった気になればいいので、それ以外のことを考える必要はない。ほんとうの読書とはここが違う。読書は読んだ本の内容に触発され、人間や世の中について何かしら考えをめぐらすことで、そうやって自分の考え方のしっかりした基礎をつくることである。老いて回転が鈍くなった頭でもその気さえあればできる。
考えなしにレッスン書をなぞるのは単なるモノマネである。
その意味では、あったことをただズラズラ並べている新聞――中にはなかったことまで並べる大新聞もあるが――なんか読むに値しない。下の小咄のほうがとりあえず何か考えさせるだけよっぽど気が利いている。
「俺は、ゴルフの前の晩、よく夢を見るんだ」
「それはうらやましい。ぐっすり眠ってるんだな」
「いや、眠れなくて一晩中もんもんとしている夢を見ているんだ」 |
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2016年10月28日(金曜日)更新
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第418号 〜大天才は自分をコントロールできる!〜
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いま行なわれている将棋竜王戦(七大タイトル戦の一つ)で、挑戦者に決まっていた三浦九段が出場停止になり次点の丸山九段が挑戦している。三浦九段は以前から対局中に盤を離れることが多く、そこでスマホを使って将棋ソフトからヒントを得ているのではないかと疑われていた。早く言えばカンニングだ。本人は否定しているが、こうした疑惑は一旦火がついたら消すのは容易ではない。かくて挑戦者の座から下ろされてしまったわけだ。
20年ほど前、私は「いま世界には途方もない大天才が三人いる」とよく言ったものだ。年齢順に将棋の羽生善冶(1970年生)さん、野球のイチロー(1973年生)選手、ゴルフのタイガー・ウッズ(1975年生)だ。三人ともわれわれ凡人の想像を絶するプレーを見せてくれるのでいつも楽しみにしていた。そして三人とも、私が生きてる間はずーっと楽しませてくれると思っていたのだったが……。
早々にズッコケたのが一番若いタイガーだった。不倫スキャンダル+事故でコンディションを崩したというが、私はその前に受けた2回の膝の手術が彼のゴルフを狂わせたと思っている。われわれ人間の体はメスを入れるとロクなことはない。アスリートなら尚更だ。「身体髪膚之を父母に受く、あえて毀傷せざるは……」なんてことではなく、人体の故障は本来備わっている自己回復力に重点をおいて対処したほうが賢明というのが私の基本的考え方なのだ。
体でも脳でもわれわれは持って生まれた能力を大切に扱い、十分に働かせるのがベストなのである。
羽生さんの七冠達成(1996年2月)やイチローのシーズン最多安打262本(2004年)は、その能力を年間通してフルに働かせた結果で、それに徹底できたことが大天才たる証拠だと思う。もちろんそれは緊張しっぱなしということではなく、集中と弛緩のメリハリをつけてであることはいうまでもない。
この二人について私が何にもまして“凄いな”と思っていることがある。羽生さんもイチローも――テレビで見る限りだが――若い頃から体型がまったく変わらないことだ。サラリーマンなら中間管理職、周りから「貫禄がついてきたな」といわれて腹の出っ張りが気になる年代だ。それが現役大リーガーのイチローはともかく、“居職”といってもいい羽生さんも変わらないのは、マジに“凄いこと”ではないかと思う。
これは「自分をコントロールできるからだ!」
私なんかこの年になってもゴルフのラウンド中、傍からのつまらない口出しで途端に“われを忘れて”しまうことが多いから、まだまだ修行不足なのである。
最近、18歳以上を対象に行なったある世論調査で「好きなスポーツ選手」の第一位にイチローが選ばれていた。また、誰がいつごろ言ったものか「将棋とは最後に羽生が勝つゲームだ」という“名言”もあった。これから先も二人には、われわれ凡人をわくわくさせるドラマチックな大天才ぶりを見せてほしいものだ。 |
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2016年10月21日(金曜日)更新
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第417号 〜文章を綴る作業が脳の老化を防ぐ〜
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「書くことは筆者に若返りのホルモン注射をするようなもの……」
といったのは、かの小泉信三さんだ。いまこの名前を聞いて“あのセンセイ”とわかる人はけっこうな年配者か、あるいは文化学術方面に知識や興味がある人だろう。たいていは「コイズミシンゾウ? 自民党の“シンジロウ”の間違いじゃないの」だろうから、私も相当古い人間だ。まあ気になる方はネットででも調べて下さい。
“書くこと”とは文章を綴ることであり、それはいうまでもなく筋の通った意味のある文章でなければならない。近頃はネット掲示板へのコメントやらメールのやりとりやらで、誰でもお手軽に何か書くようになったが、ああいうものは頭に浮かんだ言葉をただ並べているだけで、文章を綴っているとはとてもいえない。読み直してみるとよくわかる。先日もこんな一節に出会った。
「包丁を使い、実をとったトウモロコシと酒、塩を加えて炊く」
『トウモロコシの炊き込みごはん』のレシピにあったものだ。箇条書きになっており、この前に「お米をといで炊飯器に入れ、ごはんを炊く用意をする」、後ろに「炊きあがったらよくかきまぜ……」などとあるので、いわんとするところはわかるし、常識的に考えれば作り方を間違える人はまずいないはずだ。
だがこの一節は厳密に、いや意地悪に読めば『包丁で実をとってしまったトウモロコシの茎の炊き込みごはん』になってしまうのだ。
これはいつもは受講生相手にしゃべっているレシピを、そのまま文章にしたせいだろう。おしゃべりでは言葉と言葉の間に、“この”や“その”などの補助的な言葉がふんだんに入ってくるので、内容もきちんと通じるのである。
もっとも、話そのものが筋の通らないものだったらそれを文章にしても、内容は支離滅裂トンチンカンなものになってしまう。たとえば……。
「私は“老人”と呼ばれると抵抗感があるので、いまの高齢化社会は現役時代の経験はゼロなわけですから、血縁や地縁も医者とか薬にばかり依存している現実をおおいに憂慮すべきではないかと、そのためには何といわれようと必要不可欠なのは、業務監査のできる人材です」
これを理解するのはマルクスの『資本論』より難しい。
書く行動は何か他の人に伝えたいことがあるからで、読んでもらわなければ意味がない。同じ意思伝達行動でも話すことなら、相手が聞いていようがいまいが一方通行でもかまわないが、書くことはそうはいかない。
こうした一方通行的話し方をするのは、町内の役員会や地域のサークルといったちょっとした集まりで、自分は実力者だと思い込んでいる年寄りに多い。しかもその話の中身が毎回同じことの繰り返し、聞く方は「またか」とそっぽを向いている人が多いのに当人は気づかないからあきれる。さきのような支離滅裂な文章を書くのもほとんどこのテの人だ。もちろん積極的に読もうという人もいないのだが、これまた当人は気づかないのだから世話ない。
先日、行きつけの内科医院の待合室である週刊誌をめくっていたら、「高齢者の記憶力を向上させる方法」として、脳の専門家が「新聞のコラムなどを書き写すことをすすめている」といっていた。
小泉信三さんが第一線にいたのはもう半世紀以上前だ。脳科学も現在ほど進歩していなかっただろうから、“書くこと”の効用にしてもおそらく体験的に感覚していたのだと思う。やっぱり偉いセンセイは違うのである。
私もあやかりたいものだ。 |
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2016年10月14日(金曜日)更新
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第416号 〜老後貧困と生活保護の警察ミステリー〜
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ここ1年ほど地元紙の連載小説を毎日欠かさず読んでいる。思い返してみると新聞小説など、かの井上靖の名作『氷壁』(昭和31年2月24日〜同32年8月22日・朝日新聞)以来60年ぶりだ。自分でもなかばあきれている。
内容はここ仙台を舞台にした事件ものだ。
主人公は“超”生真面目な男性。彼が恩人と慕っていた老女の生活保護申請を、窓口の担当者があれこれ難癖をつけて却下する。このため困窮した老女は、食物がわりにテイッシュまで口にした末に餓死する。主人公は担当者に残酷な復讐を行ない、その犯行を刑事が追求するというストーリーだ。
私が興味をひかれたのは、近頃話題の老後貧困や歪んだ社会保障制度が背景にあったからで、いわば自分にとっても身近な話題だったわけだ。
作者の「中山七里」は岐阜県出身の50代なかば、ペンネームは県内の名所だ。48歳でデビューして著作も10点ほどあり、業界では“露悪的社会派ミステリー”の書き手と評判らしい。ブロック紙とはいえ新聞連載に起用されるのだから実力はあるのだろうが、私は初めて目にした。まあ私が知っている中山七里は「お地蔵さんに野花を供養する……」橋幸夫の歌だけだったのだから世話ない。
この連載にしても、始めのほうに殺人現場や警察が出てきて、警察ものはこのところハマッているので「どれどれ……」と目を通し始めたのがきっかけだ。
作中に、生活保護について福祉窓口の職員が刑事に説明している箇所がある。要約引用しよう。「暴力団がらみの犯罪的なものは別にして、いわゆる不正受給が多いのです。低賃金であくせくするより、働かずに生活保護を受けたほうが楽だとか、保護を受けながら闇商売をするとか、保護制度を食い物にしている連中がいる。その一方、実際に困窮してぎりぎりの生活なのに、国のお世話になってまでとか、世間に恥ずかしいなどの理由で、申請を躊躇している人たちもいる。どちらも生活保護という制度を誤解していると思います」
そして、本当に切羽詰まってやって来た申請者を、その引け目や無知に付け込み些細な難癖をつけて追い返す、ひねくれ根性の小役人(作中では被害者)もいるのだ。
連載はそろそろ終わりにさしかかっている。作者には“どんでん返しの帝王”という異名もあるそうだから、どんな結末になるか楽しみに待っている。
ところで老後貧困の要因として、近頃ワーキングプアの子どもが指摘されている。若い頃を実りのない“自分探し”や“高望み婚活”などで浪費した中年デラシネが、親の年金目当てに転がり込んでくるケースだ。経済面で次第に行き詰まってくるのは当然として、より深刻なのは精神面の負担だろう。
成人して親元から離れていった子どもは、親にとっては基本的には“便りのないのがよい便り ”がいいのだ。それが厄介者として舞い戻ってくるのだから、人によっては精神的負担は育児期より大きくなるだろう。それは神経をいらだたせるだろうし、さらには心の病気にもつながりかねないのである。
そうした例は私の周辺にも見られる。人間は他の動物と違って、結局は年老いても子離れできないのだなと、私は複雑な気持ちになる。
「タフじゃなきゃ生きられない。優しくなければ生きる資格はない」
皆さんご存知の往年のハードボイルド私立探偵、フィリップ・マーロウの名台詞だが、私はいまのような世相では、年老いた男にこそふさわしいのじゃないかとひそかに思っているところだ。 |
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