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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2022年12月09日(金曜日)更新

第730号 〜3年先にも楽しい予定がある〜

 この頃は朝目が覚めても窓の外はまだまっ暗だ。寝ているのが住居の北側の部屋だし、窓に黒い遮光カーテンを引いてあるせいだが、その窓の外に空がまったく見えないのが理由としては大きい。何しろ窓の向こう20メートルほど、ほんの少し高い位置にJR仙山線の駅のプラットホームがあり、その向こうにはさらに高く私が山歩きをしている墓園の木々が迫っているのだ。夏場なら早い夜明けの空が窓ガラスに明るく反映して部屋の中も明るくしているのだが、夜明けの遅いこの時期は6時半を過ぎてもまだそんな状態なのである。

 私はいつも前の夜8時前後にベッドに入るので睡眠時間は申し分ない。空腹感もある。それでもすぐに起き出そうとしないのはちょっと考えごとをしたいからだ。別室で寝ている家内は前夜けっこう遅くまで本を読んでいるので、まだしばらくは起きてこないし、寝起きの頭の訓練に都合がいいのだ。
 考えごとはまず本日の予定の確認だ。予定は私の眼の診察や先月の1泊旅行のように前々から決まっているものもあるし、今日の昼食は家内の買物ついでにファミレスJにしようと前日決めたものもある。それら決まっている予定の間に私の山歩きや原稿書きをはさみ込み、今日はこれで行こうと決めるわけだが、予定はあくまで予定で確定ではない。要は1日をどう楽しく過ごすかだから、臨機応変その場で変わることもしょっちゅうあるのだ。

 考えることが年相応に"来し方行き末"に及ぶこともよくある。そんなときはベッドの中だけでは時間が足りず、起きて朝食の仕度――パンをトーストしたり紅茶を淹れるだけ――をして食べながら考え、それでも足りずに食後の服薬や口の掃除なども終えてから、いつも原稿を書いている机に着いてゆっくり考える。
 実はこの原稿のときがそうだった。

 本稿の更新日12月9日は81年前、日本海軍の航空戦隊がハワイオワフ島のアメリカ海軍基地真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった日の翌日になる。日本の暦では昭和16年12月8日月曜日だ。当時台湾台北市南門小学校(この年から国民学校と呼び名が変わっていた)3年生だった私はいつものように登校し、教室で50人ほどの級友達と始業を待っていた。実はその朝早くラジオで"大本営発表"があり、戦争開始は全国民に告げられたのだが、わが家をはじめ近所の家でも、そして級友達の家でもたった1軒、その級友以外はまったく知らなかった。

 間もなく始業の鐘が鳴り生徒達は自分の席に着き担任の先生が入ってくる。級長の号令で全員揃って起立礼、着席すると教壇の先生が「本日朝、わが日本はアメリカと戦争を始めた。この戦争を何というか、わかる者は手を上げろ」といったのだ。
 その瞬間私をはじめ学級全員が一人を除いてポカンとしたんじゃないかと思う。そしてその一人、学級に数人しかいなかった台湾人の子のC君が「大東亜戦争です」と答えて一件落着したのだった。
 そして後年、これはやはり当時の台湾人ならではの"お上"――日本政府や軍部に対する敏感さだなと思うのだ。

 "行く末"についても書いておこう。
 私はこれから3年先、2025年11月下旬まで予定がふたつある。ひとつは管理組合理事長と管理センター所長から打診されたもので、現在務めている理事会監事をもう1期(2年)延長することだ。私の後任の適任者がなかなか見付からないという事情から私に話が来たのだが、その話の根底に"いまの達者ぶりなら大丈夫"という評価があったはずだと思うとうれしくなる。途中でへたばったりしないように、これまで以上に気を付けよう。
 もうひとつは先日の祝結婚62周年で家内がいったことだ。「こうなったら65周年もやりたいわね!」わたしもすぐ賛成した。いまの二人の気力体力なら余裕綽々だろう。

 達者な年寄りにとって先の楽しい予定はさらなる達者につながるのだ。
 

2022年12月02日(金曜日)更新

第729号 〜冬場老人は寒さの用心が第一〜

 暦は12月に入り季節はいよいよ冬だ。春夏秋冬と四季が几帳面ならこれから来年2月まで寒い日が続く。われわれ高齢者には厳しい3ヵ月だ。

 だが「冬来たりなば春遠からじ」という。この言葉は19世紀イギリスの詩人シェリーの『西風に寄せる歌』の1節で"冬が来れば春は遠からずやってくる。厳しくつらい時期を耐えて忍べば、幸せなとき繁栄の時がいずれ訪れてくる"という、ちょっと人生訓めいたものだ。訳者はわからないが一般に流布したのは明治維新後、近代化とともにどっと流れ込んできた西洋文明の断片である。
 寒さは苦手で冬は意気が上がらない人たちには、頼りになる言葉だろう。

 私自身は冬も暖かい台湾の生まれ育ちにもかかわらず寒さは苦にしない。というより寒さにも暑さにも順応性が高く、体がすぐ慣れて苦にしないのだ。でなければ冬はスキー夏は野球やゴルフなど、一年中アウトドアを楽しめるものか。
 思うにこれは筋肉質で脂肪分の少ない、私の特別注文したような体によるところ大であるようだ。子どもの頃から"やせの大食い"で、よく食べる割には太らず体重は平均以下、手足だけが長かった。だから当時の小学校で体育のメインだった相撲はからきしダメ、代わりに長距離走と水泳と竹登り(上部を固定した高さ5メートルほどの孟宗竹を昇る)が得意だった。一種の特異体質だと思う。
 そのため運動能力の割に手足が細く、手首の細さなどいまだにコンプレックスを抱えている。ただし60代からはそれを逆手にとって自慢することにし、手で足首を握って親指と中指の先がくっつくのを見せて「サラブレッドだよ」といっている。

 本題に戻って、とにかく冬の寒さは高齢者にとって鬼門だ。心筋梗塞や脳卒中など高齢者特有の病気も発症しやすくなるし、ちょっとした風邪で寝込んだら持病が悪化して……なんてことも起こりやすくなる。実際死因の如何にかかわらず冬場は高齢者の死亡が多くなるのだ。

 だが昔―といってもそれほど古くはない。せいぜい‘60年代以前だ―にくらべると現在われわれの日常生活は冬場も格段に暖かくなった。
 私はかつて猪苗代湖畔の『野口英世記念館』を見学したとき「箱床」を見て驚いたことがある。葬式のとき死者を収める棺そっくりの木箱に野良着姿の男のマネキン人形がワラにくるまって寝ており、明治時代にはこれが一般的な農家の寝床だったというのである。私はその狭苦しい寝床をのぞき込みながら「この中でどうやって寝返りを打ったのかな」とくだらないことを考え、「昔の人が長生きできなかったのも当然だな」と思ったのだった。
 ちなみに野口英世博士は昭和4年まで生き52歳で亡くなっている。

 そんなところから見ると当地は東北6県の県庁所在地の中でも格段に過ごし易いところだ。海に面しているおかげで夏はあまり暑くないし、冬もそれほど寒くならないのだ。降雪も多くはない。戦後間もない頃は雪もけっこう降って、道路に積もったのを往来するアメリカ進駐軍のジープがきれいに踏み固めて、われわれ子どもたちに格好の遊び場を提供してくれたが、それもいつ頃からかなくなった。
 ただしひと冬に1度ぐらい大型で強力なシベリア寒気団が、日本海を越え奥羽山脈を越えて、海の上からわざわざ抱えてきた水蒸気の残りをばら撒きに来て、慣れない市民をうろたえさせる。
 いつだったかそんな雪の後、地元紙の一面コラムに「仙台は雪国ではないが北国である」などと処世訓めいた一言もあった。

 2年ほど前の失敗もあるし、私も冬場はより一層注意するつもりだ。
 

2022年11月25日(金曜日)更新

第728号 〜早過ぎる日暮れが嫌なこの季節〜

 今月も残りわずか、今年も5週間後には大晦日から新しい年を迎える。おまけにこの晩秋は先週はじめまで季節はずれの暖かさだったので、気候的にはいきなり冬に入ってしまった感じだから体もあわてている。

 だが体ほど気持ちがあわてていないのは、私も家内もけっこうな高齢者だからだろう。年寄りは師走も年の瀬もあまり関係ないのだ。いつ頃からか年賀状も書かなくなったし、クリスマスや新年も特別なイベントはないし、昨年のような上京予定もない。せいぜい年明け早々息子が一人で親の達者ぶりを確認しに来るぐらいだから、祝90歳で頂戴したお酒と生協から申し込んだ"銀座ローマイヤオードブル"を並べておくだけでいい。
 つまりはこれまで過ごしてきた春夏秋と同様の"他愛(たわい)ない"日々を送り迎えするだけなのである。

 もちろん私たちにもそれぞれ個人的な記念日はある。先月なかばには私の満90歳をささやかながら(天気が悪かったので予定していたゴルフをキャンセルした)祝ったし、昨日は結婚62周年で松島まで足を伸ばして海鮮バイキングを味わってきた。そして年明け早々には家内の誕生日で、当然ちょっとした祝いをすることになるだろう。
 こうしてみると私たちの個人的な記念日は10月中旬から1月初旬までのほぼ3ヵ月間に集中しており、だからこそ残り9ヵ月間はまったく制約なしに二人で野放図に遊ぶことができたのだなと思う。

 たとえば息子が中学生だった頃、縁あって川崎〜日向カーフェリーの招待乗船券を入手したときは、マイカーにゴルフバッグを積み込んで宮崎ではかのフェニックスCC、鹿児島では霧島CCと空港CCと、関東のゴルフ好きでも滅多に行かないようなコースを楽しんできた。
 またかの軽井沢72の108ホールを、私たちに息子夫婦を加えた4人で、1日36ホール(2ラウンド)ずつ3日で回りきったこともあった。97'年8月末の金曜〜日曜、外資系の生保が企画主催したコンペに参加したのだ。
 当時はまだ電動カートも乗用カートもなくラウンドは全員歩き、キャディはバッグを4つ積んだカートを引いたり押したりの重労働だ。だから私たちプレーヤーもティショットを打ったら次に使うクラブを何本か持って自分のボール目がけて走るように教え(鍛え)られていた。
 そんなラウンドを親子4人で3日間楽しんだのだ。私がリタイヤして5年後の64歳のとき、当地へ転居する前年だった。

 だがこうした遊びぶりも11年前の大震災を機に徐々に減ってゆき、近年はコロナのせいもあってさらに少なくなっている。原発事故のため常磐方面に行けなくなったためで、お気に入りのコースがいくつもあったのになぁと残念でならない。
 さらには私たちの行動力もだいぶ落ちている。いくら"1万歩スイスイ"と口ではいっていても私は体のあちこちにガタが来ているのだ。いい例が先週ちょっと書いた"義歯の割れ目"だ。「義歯なんて人工物が老化するわけないだろ」と反論されるかもしれないが、義歯を支える自分の歯茎が老化するのだ。
 また家内も先日自分から言い出して"胃カメラ診断"を受けてきた。幸い特に注意点はなかったようで、ひとまず安心している。

 とにかくこれから先の1ヵ月は私にとってユーウツな日々が続く。私の不自由な目にとって暗くなるのは1番の厄介者で気分が落ち込んでしまうのである。いわゆる"気無精"になり、"歩くこと""書くこと"さえ消極的になる。
 だが調べてみるとこの暗さも来月20日頃まで、冬至前には日没も遅くなり始めるようで、辛抱もそれほど長くはない。さあ、気合いを入れ直そう!
 

2022年11月18日(金曜日)更新

第727号 〜この先"歳はとらない"ときめた〜

 90歳の誕生日からようやく1ヵ月が経った。

 この1ヵ月は自分に"90歳になったこと"を納得させる期間だったといっていい。
 若い頃、サラリーマン時代、リタイヤ後つい10年ほど前までを振り返ってみると"よくまあここまで達者で生きてきたものだ!"とつくづく思うばかりだ。第一それらの大過去中過去近過去(とでもいうか)を振り返ってみても、そのとき自分がいくつまで生きられるか、真剣に考えた記憶などまるでないのだ。まあ若い頃は大抵の人がそうだろうが、現役終盤からリタイヤ後など生活状態が変わって、体調に変化が起こったりすれば誰でもそんなことを考えるのではないか。

 私にも近過去にそういうことがあった。当地へ転居して間もない満69歳を迎える直前、大腸ガンの手術をしたのだが、この手術は逆に私に気力体力の回復をもたらしたのだ。悪いところがなくなったのだから、もう心配することは何もない。これからは思う存分楽しくやればいい……である。
 一昨年秋の始まりとともに左眼失明し、翌年正月から2ヵ月ほど不整脈と胃炎で寝込んだときもそうだった。片目ぐらい見えなくても楽しめることはまだまだあると気付いた途端、心身ともたちまち元気回復したのだ。

 こうしてみると私が90歳まで生きてこられたのは、日々楽しもうという気持ちが他の人よりちょっぴり強かったことと、その楽しみができるこれまたちょっぴり達者な体があったこと、そんな私と一緒に楽しみながら支えてくれる伴侶に恵まれたことと、持って生まれた"運"だ。そんな運が占める割合は半分以上ではないか。
 だからこそ私は90歳を自分に納得させようとしたのだ。

 この1ヵ月間、私は初めて出会う人に機を見ては"自分が幾つに見えるか?"たずねたが、90歳といった人はいなかった。ほとんどの人が80歳前後といい、私はその都度「昭和7年生まれのサル年で90歳です」と訂正し、相手の驚き疑いないまぜの表情を見ながら「実際90歳なのだから……」と胸中独語していたのだった。

 私の90歳発言に対する相手の反応の中で、非常にうれしかった一言がある。今月初め義歯にヒビが入って治してもらったときのことだ。
 修理が終わった義歯を装着して噛んでみせ「うん大丈夫、これならやってみたいことも安心してできるよ」というと、その若い女性の歯科技工士が「何ですか?」と聞き返してきた。「走ってみたい」と答えると間髪を入れず「かっこいい!」少しトーンの高い"!マーク"を入れたい声が返ってきたのだった。私もすぐ「ありがとう」といったが、これはほんとうにうれしかった。

 走ることに関しては、かかりつけ内科のセンセイからも非常にいいアドバイスを受けた。「高齢者は走ろうとすると上体に弱った足がついて行けず、前のめりになって転倒することが多いので要注意」というものである。成程と思った。日頃"1万歩スイスイ"と豪語している私だって、いざ走るとなればどうだかわからない。注意しようと思った。

 とにかくこのほど私は90歳の第一歩を無難かつカッコヨク踏み出すことができたところだ。これもひとえに、マイペースの私を長年にわたり助けてくれ、一緒に楽しんでくれた家内をはじめ、大勢の仲間の皆さんのおかげである。
 そして私自身まるで思いもよらなかった90代がこの先何年間、あくまでいまのペースで続くかは、まさに"神のみぞ知る"だ。私としてはこれまでどうり日々カッコヨク家内と一緒に過ごすだけである。

 これから私は"歳はとらない"ことにしたい。90歳は言葉のキレもいいし、そうすれば気力体力とも現状維持で日々楽しく活動できそうな気がするからだ。
 あと2〜3年、私のささやかな"死に欲"である。
 

2022年11月11日(金曜日)更新

第726号 〜けたたましい嬌声に辟易するばかり〜

 家内が半年前から乗り換えている新しい車はもちろん中古車だが、その日の最初に始動したときカーナビも自動的にスイッチオンし、車の現在地の図面とともに「今日は11月11日金曜日です」という女性の声が流れてくる。

 そして私など昭和ひと桁老人は"へぇ!最近はこんなシステムまで標準装備されるようになったのか"と感心するのだが、女性の声はその後も「何とかの日です」と続くのだ。しかし仲良く経年劣化した私たちの耳ではこれがはっきり聞きとれない。「いま何ていった?」とお互い"?顔"を見合わせるだけだ。

 "今日は何の日?"は1年365日すべてにあるが、いちばん多いのが11月11日、本日だという。数字の並びがいいからだろう。調べてみると100近くあった。介護の日、豚饅の日、たくあんの日、まつげ美人の日、スーツセレクトの日、など関連のわからないものから"さむらいの日"なんてわかりやすいものもあった。全国各地の自治体をはじめ各種団体や企業、個人が思いつきでつけるのだから何があってもかまわないが……。
 というわけで私なら今日は単に"語呂合わせ"で"いい月いい日"で十分だ。

 そこで思い出すのが『いい日・旅立ち』という半世紀近く前の古いヒット曲だ。詞と曲は"アリス"の谷村新司、歌は山口百恵だったが、その詞に「父が教えてくれた歌を道連れに」がある。「母の背中で聞いた……」と対になっており、思うにこれは子どもの家庭教育の原点だろう。
 ともかくその"父が教えてくれた歌"が「ひとつ出たほいの……」や「爺さん酒飲んで……」の類じゃないことは確かで、旅立った娘の成長に役立っただろうと思う。

 その「父の教え」からの連想で近頃私が気になっているのが"家庭教育"だ。
 私たちが時々お昼を食べに行くファミレスがある。30年ほど前に開通した北環状道沿いにある"C"というチェーン店だ。沿道にはこの道路に合わせて開店したスーパーをはじめパチンコ屋、カーディーラー、薬屋、各科医院、カラオケ、ドコモショップなどが並んでおり、1本裏通りへ入るとこれまた道路開通に合わせて売り出した戸建ての2階屋がひしめいている。
 だからファミレス"C"は系列店の中でもけっこう客が多い。昼食時には空席待ちになるほどで、私たちはそれを避けて11時頃行くようにしているが、ときには病院で時間をとられてやむを得ず1時過ぎに入ることもある。
 女性グループのやかましさに辟易させられるのはそんなときだ。

 女性グループはたいてい3人〜4人、2人だけもたまに見るが4人をオーバーすることはほとんどない。ボックス席からはみ出すからだ。年代は30代がメイン、いわゆる"ママ友"だ。おそらく朝旦那や子どもを送り出して家事をすませ、週イチぐらいの情報交換にやってきたのだ。最近流行のフワフワスカート姿がグループに1〜2人いるから察しがつく。
 こうした女性グループがボックス席20ほどの店内に3〜4組いるのだが、そのやかましさといったらないのだ。コロナ感染予防に設置したアクリル板を越えて「……でえ」と語尾をはね上げる声が聞こえてくるし、さらにはその話し声を追っかけて上がる笑い方が爆発的なのだ。"けたたましい"といいたくなる。
 "けたたましい"を辞典で引くと「突然大きく強い声や音が起こる」とあり、用例に――半鐘の音」とある。あの嬌笑はまさに半鐘の"すり半"である。

 彼女達は親からどんな話し方を、ひいては公共の場での"TPO"をどう教わったのだろうと思ってしまう。いずれにせよ"旅の道連れ"にできるようなものじゃないのは確かだろう。そして"この親にしてこの子あり"と思うとゾッとするのだ。

 書き出しの目論見とは裏腹に年寄りの嫌味になってしまった。ご勘弁を……。
 
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