2024年03月
01 02
03 04 05 06 07 08 09
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
 
 
仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

ご意見・ご要望をお寄せください

 
ユーモアクラブトップに戻る
<<前へ 123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142434445464748495051525354555657585960616263646566676869707172737475767778798081828384858687888990919293949596979899100101102103104105106107108109110111112113114115116117118119120121122123124125126127128129130131132133134135136137138139140141142143144145146147148149150151152153 次へ>>

2016年09月02日(金曜日)更新

第410号 〜人生いろいろ――団地の“ビール祭り”〜

 8月最後の土曜日、団地の夏祭りがあった。管理組合を自主管理方式に変えた年から始めたもので、今年は12回目になる。子どもたちのクリスマス会に対してこちらは大人の懇親が目的。ビールサーバーで生ビールを振舞い簡単なつまみも用意するので、われわれは“ビール祭り”といっている。もちろん持ち込みOKで他の飲み物やご馳走もいろいろ、親しいグループごとに盛り上がる。
 12回にもなると、出てくる顔ぶれもかなり変わる。亡くなったり引っ越したりしていなくなった人、体をこわして出てこなくなった人などの一方、成長して親と一緒に飲めるようになった若者など、まさに“人生いろいろ”だ。

 亡くなった人ではIさんが筆頭だろう。外部の管理会社に任せっきりでデタラメだったこのマンションの管理体制を、いまの自主管理に改善した“功労者”だ。理事会の先頭に立ち、敷地内の斜面に新たに駐車場を造成し、ゴミ置き場のコンテナを取替え、管理センター職員にニラミを利かせ……など一時は団地のボス的存在だったが反発する人も多く、大震災以後は肝臓病で入退院をくり返し、気力体力とも衰えて亡くなった。私より10歳ほど下、いわゆる“有卦に入った”ときは強いが守勢に回ると俄然弱くなる、そんな根は弱気な単純で憎めない人だった。

 Iさんと同年代で同じ頃亡くなったS氏も、ビール祭りがらみで忘れ難い。仙台一高から福島大学卒、七十七銀行に定年まで勤めた経歴がウリモノの、いわば地元エリートの典型だ。仙台は出身大学より出身高校で人物を評価する気風が、他県の出身者が増えているいまでも根強くある。そんな土地柄に加えて七十七は河北新報と並び、地元では大手のメガバンクや中央全国紙より上と思っている向きも多い。S氏のエリート意識は当然で、当人に考える頭と常識があれば問題なかったのだが残念ながらなかった。しかもアルコールが入ると見境がなく、飲酒運転で捕まったこともあるし、雪の日に突然電話をかけてきて、高校の先輩でもある私を自宅に呼びつけたこともあった。理事会に何か提案があったらしく酒も用意して待っていたが、さすがに私も「こういう無礼な真似はかえって迷惑だ」と玄関先で言い捨てて帰ってきた。結婚して子どももいたというが、私が知る限りでは一人暮らし、いつの間にか淋しく亡くなっていた。

 ほかに顔を見なくなった人では、転居していったえらく背の高い――ハイヒールを履くと私より首ひとつ上だった――オカマのOさん、色っぽい相手と再婚したところすぐ体をこわして好きなゴルフにも出なくなり、仲間に下世話な話題を提供したAさんなど、面白い話も多いのだが、それよりぜひ書いておきたいことがある。
 このテの集まりにはかならず出てきて、あちこち回って誰彼なく話しかけ、存在感をアピールしている人物のことだ。

 私と同年の“T”さん――本人が苗字より名前で呼ばれたがっている――である。かつて町内会長や管理組合理事長を務めたこともある団地一の知名人で、先のIさんと並べて古い職員は陰で“ビッグ2”と呼んでいた。体は私よりひと回り小さく、酒もあまり飲める方ではないし、近年は言動にも老いが目立つようになり、ゴルフでもシルバーティになった。だがこうした集まりにはマメに顔を出して、会場めぐりをするのである。意欲(何の?)だけはまだまだ十分あるらしい。

 このTさんを見ると、なるほど“長生きも能力の一種ではあるな”とつくづく思う。信長が殺され秀吉が死んだ後、20年近く行き続けて天下を獲った家康のようなもので、結局は「生き残った者が勝ち」というわけだ。
 となると、私もこの先「精進あるのみ」かな。
 

2016年08月26日(金曜日)更新

第409号 〜書く楽しみは寄り道と悪口に尽きる〜

 この原稿を自分で打ち始めてから4年半になる。それまでは下書き、手入れ、清書したのを家内に打ってもらっていた。そもそも私はワープロにも触ったことがない。あれが入ってきた頃はエラくなっていたので、部下任せですんだのだ。パソコンも当初は近くのリサイクルセンターから只でもらってきたのを家内がいじり始め、私は将棋ゲームで遊んでいただけだ。それが何かの拍子に──多分家事との両立は大変だとか言い出して、私にお鉢が回ってきたのだ。

 4年半になっても私がキーを打つのは右の人差し指1本、それで十分間に合う。というのも、いまの私は以前のように原稿をきちんと仕上げてから打ち始めるのではなく、下書きをちょっと直した程度、それも半分〜3分の2ぐらいでパソコンに向かっているからだ。要は打ちながら手を入れたり、さらには先々の展開や内容、あるいは関連して思い付いたことなどをメモしたり調べたり、あちこち寄り道しながら打っているのである。
 両手10本の指をフルに使って機関銃のように打ち込んでいく必要など、私にはこれっぽっちもない。

 思うに、ああいう機関銃打ちができるのは、指そのものが文章の型に出来上がってしまったのである。「ああいえばこういう」みたいな一種の条件反射だ。たとえばファミレスや居酒屋チェーンの店員の応対の型、大臣の答弁、一般人がテレビカメラに向かって何か意見を述べた後「……というふうに考えております」という締めくくりの言葉など、要するにパターン化されたスタイルである。
 文章なら「時下益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」にはじまり「今後とも倍旧のご愛顧を賜りますようお願い申し上げます」と終わる型だ。こんなもの役所や会社の庶務関係者なら目をつぶっても打てるだろうし、またそんなもの誰が興味を持って読むか。普通の人なら、新聞の社説や共産党の主張同様素通りする。

 共産党といえば、私にはあの委員長以下のしゃべり方が、みんな同じように聞こえてしょうがないのだが、どうだろうか。「ナントカカントカでは」ここでちょっと間をおいて「ありませんか」と早口にきめつける最後の言い方がそっくり同じなのである。私たちの団地の傍に時々辻立ちに来て、ケヤキやサクラや無人のベランダ相手に演説している初老の党員も、同じしゃべり方をしている。共産党が日本では依然として不人気なのも、あの"きめつけしゃべり方"に一因があるんじゃないかとさえ思ってしまう。
 ちなみに"初老"とは、以前は四十歳の別称だったがその後どんどん高齢化して、いまはリタイヤ世代だ。昔風にいえば私なんか"倍老"である。

 人差し指1本打ちは、こんな寄り道ばかりの書き方に合っているのだから、私はいまさら機関銃になりたいとは思わない。
 とはいえ、私は型を全否定する者ではない。世の中には"型どおりが最善"というものも沢山ある。お通夜や葬儀の挨拶はその代表、目立たず無難なのがベストだ。自分をアピールする必要なんかないのだが、世間には"モノ知らず"もいる。かつてワセダのクラスメートの葬儀に自分から弔辞をしゃしゃり出て、故人のシモネタを得々と披露したAがそうだった。Aはそのネタがマスコミに漏れるのを抑えたことを自慢したかったらしいが、列席した他のクラスメートはその臆面もない非常識ぶりがわがことのように恥ずかしくなり、顔を伏せてだんだん縮こまっていったという。

 私の書く楽しみはこのような寄り道と悪口である。何しろこれがボケ防止には一番いい。足腰の鍛錬とともに益々磨きをかけたいと思っている。
 

2016年08月19日(金曜日)更新

第408号 〜この年でも感じたい「上手くなった感」〜

 本を読んでいるとジャンルは何であれ、時々「うん、いいな!」と思わずひざを打ちたくなる一節にぶつかる。つい最近読んだ小説『ビビビ・ビ・バップ』(奥泉光、講談社)にあったのはこうだ。
「……自分、ちょっと上手くなったかも、とフォギーは感じていた……」
 21世紀末の超進化したコンピュータ社会を舞台にした作品で、フォギーはヒロインの日本人ジャズピアニスト。かつて祖母・霧子(同じくジャズピアニスト)の恋人だった世界的コンピュータ科学者(130歳、活動しているのは脳だけ)に協力して、人類とコンピュータを滅亡させる凶悪ウィルスと戦う──というのが本筋。その合い間に、ロボットとして実物以上にリアルに再生された往年の名プレーヤーたちとジャムセッション(即興演奏)をくりひろげるのだ。さきの一節はその演奏中のヒロインの気持ち、後々「上手くなった感」と短縮されて何度も出てくる。
 全660ページは読み応え十分,『ピルグリム』(テリー・ヘイズ、ハヤカワ文庫)以来久々に長編小説の醍醐味を満喫した。

 芸能でもスポーツでも脇目もふらずに熱中したことがある人なら、この「上手くなった感」はわかるだろう。それは他の誰かと比べることから出てくる、優劣とか勝ち負けとはまったく別の感覚だ。ふとしたときにプレーヤー自身が「こんなことができるようになったんだ」と感じるもので、いわばちょっとした自己満足、達成感なんて大袈裟なものじゃない。逆にいえば、いつも他人と優劣を競い勝ち負けばかり気にしている、現代日本の偏差値人間には無縁な感覚といっていい。

 いまの日本の子どもたちがそうだ。
 彼らは──近頃話題の貧困層はさておき──歌舞音曲からスポーツまで望めば何でもやらせてもらえるし、中には親の見栄から押し付けられることもある。ただし、それらを趣味や余技としてしっかり身につけて、生涯楽しもうと考える子どもはあまりいない。
 だから、そうしてせっかくレッスンしたピアノも、高校入学の頃には他のオモシロいことにかまけて、あるいは偏差値競争のあおりを食らって見向きもしなくなり、はては『ネコ踏んじゃった』さえ満足に弾けなくなってしまうのだ。言っちゃあなんだが“とりあえずやった”という点で、まるで“短大卒の学歴”とそっくりだなと思う。
 私たちが戦前戦中戦後にかけて熱中したささやかな遊びに比べれば、まさに目もくらむような贅沢さだが、それがいまのトレンドなのだと思えば腹も立たない。

 ついでにいえば「上手くなった感」がわかるのは、プレーに熱中しながらでも自分を客観視できる余裕のある人だ。もともと運動神経の鈍い体力も衰えかけた中高年が、あたふたと始めた付き合いゴルフぐらいで感じるわけないのだが、当人はこのニュアンスわからないだろうな。

 私自身はいまでもゴルフに行けばいつも感じたいと思っているし、たまには感じることもある。もっとも近頃は忘れるのも早いので、次回のラウンドで「あれっ!?」と思うこともしょっちゅうですけどね。
 

2016年08月12日(金曜日)更新

第407号 〜片足のハトとヘイトクライム(憎悪犯罪)〜

 先日ちょっと興味深いものを見た。
 家内と町のほうへ出かけ、駅前で帰りのバスを待っていたときのことだ。私たちがいたのは大勢の人がいる正規の待ちスペースではなく、誰もいない階段裏の物陰だったが、そこにハトが1羽いたのだ。ハトは私たちがいるベンチから2メートル足らずの地面にじっと立っており、よく見ると足が片方しかなかった。
 このバス乗り場にはハトが多く、いつも人の足元をせわしなく動き回っている。あの頭を前後に振り動かす歩き方を見ると、私はいつも石原伸晃そっくりだなと笑ってしまうが、これは脱線──片足のハトはそんな群から離れた一匹狼(ヘンな言い方)だろう。とにかく他のハトがまるで寄って来ないところをみると、この物陰はこいつの縄張りらしい。そしてそんな推測の上で改めて観察すると、こいつは片足とはいえ立派な成鳥だ。つまりここに立っていることでエサにありつけ──くれる人がいるのだ、群の連中のようにセカセカ動き回らなくても生きてこられたのである。

 実はこのハトを見たのは、あの相模原の知的障害者殺傷事件が起こった頃だ。事件後、犯人U(何も仮名にすることないんだけどね、このほうが言いやすい)の障害者に対する狂信的差別観が喧伝されるにつれて、片足のハトも私の中でクローズアップされてきたのだ。

 野生動物は同属中の障害者を画然と差別する。野良ネコは何匹も産んだ仔ネコの中の五体不満足なものには授乳させない。先週テレビで見たウナギの生態も興味深い。養殖ウナギを天然ウナギのいる川に放流しても成長が格段に劣る。そこで実験室の水槽に2匹一緒に入れてみると、天然が養殖の腹部に噛み付いて除け者扱いしていたのだ。これらは強い子孫を遺そうとする動物の本能である。

 人間にもその本能はある。男はいい女、女はイケメンに群がる。そんな本能をタテマエで抑えてカッコつけているのが文明人だ。
 だいぶ前、年老いた両親が知的障害者の娘を「可哀想だが先に逝け」と、金槌で殴り殺した事件があった。このとき2チャンネルの書き込みに「昔は生まれたらすぐ絞め殺した」とあったのを見て、やっぱりホンネを言う人はいるなと思ったものだ。これを露悪趣味と片付けてしまうのは間違い。ホンネを口に出す人のほうが、なまじわけ知り顔に偽善的な人権論を並べる人よりマシなのである。

 こうしたヒトとして原始的なホンネは、犯人Uの根拠あやふやな幼児的差別観とはまったく違う。犯人Uの差別観は、かつてのヒトラーやいまのイスラム過激派と共通しているから怖い。

 いま日本で障害者より多数を占め、障害者以上に厄介者扱いされているのが高齢者だ。相模原事件のようなヘイトクライム(憎悪犯罪)が起こると、それを真似する第二第三の犯人Uがかならず出てくる。被害者にならないようにわれわれも備えなければならないのだ。
 片足のハトだってしっかり生きてるではないか。
 方法? 私ならまず“君子危うきに近寄らず”を心がけ、次いで“逃げるが勝ち”と普段から足腰の衰えに気をつけます、はい。
 

2016年08月05日(金曜日)更新

第406号 〜ポケモンGOなんかやってる場合か!〜

 地元紙の書評欄に『万引き老人』という新刊が取り上げられていた。タイトルにひかれて目を通すと版元が古巣のF社だ。退職してはや四半世紀、顔見知りも片手で数えるぐらいしかいないが、やあ頑張ってるなとエールだけ送った。

 著者はスーパーやドラッグストアで目を光らせている“万引きGメン”。仕事の場で出会ったさまざまな万引き老人の実態をレポートしたものだ。サブタイトルの「貧困と孤独が支配する絶望老後」と,800字ほどの紹介文で内容は見当がつく。日々加速する高齢化や収入格差によって食い詰めた老人たちが、卑近な盗みについ手を染めてしまう“いじましい”実例集だ。
 たとえば紹介文の冒頭にこんなエピソードがある。
「死ぬ前に、好きなものを目いっぱい食べてやろうと思って…」スーパーマーケットから、ウナギのかば焼きにビール、すしの詰め合わせやギョーザを盗んだ71歳男性の所持金は300円ほど。末期ガンを患っていた。
 言っちゃあなんだが、こうした話は“他人の不幸は蜜の味”で、高みの見物ができる部外者には面白いのである。本もまあ売れるだろう。

 近年は高齢者の刑法犯が増加の一途で、うち7割が窃盗その6割が万引き、動機のほとんどが生活苦だという。万引きなんて昔は若者がゲーム感覚でやるものだったが……と思うと、他人事じゃないなという気になる。

 関連して思い出したことがある。先日読んだ小説に登場した72歳のひったくり現行犯だ。4年前に刊行された書下ろし長編警察もので作者は堂場瞬一、市のごみ焼却場に付随したリサイクルプラザの書架からもらってきた文庫本だ。
 この犯人はかつては腕利きのスリだったが、年老いて往年のデリケートな指先の感覚が衰え、いまは体力勝負のひったくりに転向している。つまり72歳とは思えない敏捷な身のこなしと脚力で生きているのだ。獲物のアタッシュケースをかかえ、現行犯逮捕を目論んだ刑事たちの監視包囲をケムにまいてしまうのである。
 小説とはいえさきの万引き老人とは大違いである。私ならこちらをとる。70歳超で体力勝負に挑戦なんてカッコイイじゃないか。

 さて、またまた本の話。さきの書評翌日の地元紙一面下段の三八つ広告に『爺の暇つぶし』(ワニブックス)があった。タイトル肩の惹句に「もてあます暇をもてあそぶ極意、教えます」とあれば、これまた中身は読むまでもない。「重版出来!3刷!」ともあり、そこそこ売れているようだが、私など「近頃の年寄りは暇のつぶしかたぐらい自分で工夫できないのかねえ」と悪態をつきたくなる。

 こうしてみると私には、いまの日本人は年寄りから若者まで──72歳ひったくり犯のようなほんの少数派を除いて──何もかも誰かが設定したマニュアルまかせ、ぬるま湯に浸かっているとしか思えない。そんな日本人に今度のアメリカ大統領選挙は、熱湯か冷水を浴びせる結果になるかもしれないのだ。
 “ポケモンGO”に夢中になってる場合じゃないだろう!
 
ユーモアクラブトップに戻る
 


ページTOPへ