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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2016年05月20日(金曜日)更新

第395号 〜ゴルフ場閉鎖とメガソーラー〜

 先日、久しぶりに県南のMゴルフ場に行ってきた。ここは私達がお気に入りのOゴルフ場と同じアコーディア系列のコースで、県内にもうひとつHゴルフ場がある。そのアコーディアが系列3コースを対象に4月から平日スタンプラリーを始め、3コースともプレーするとどこでもOKの無料プレー券をくれるのだ。私達はすでにOで2回、Hでも1回プレーしており、Mへ行けば1枚目の無料券をゲットできるというわけで、天気具合を見定めて出かけたのである。

 Mは昔“陸前浜街道”と呼ばれた国道6号線沿いにあり、すぐ先は福島県になる。引っ越してきた頃はたまに行っていたが、あるきっかけからぱったり行かなくなった。もうちょっと足を伸ばしたところに、同じアコーディア系列のRといういいコースを見つけたのだ。かつて女子プロトーナメントの舞台になったことがあり、併設ホテルもゆったりして食事も美味い。すっかり気に入って時々行っていたところに5年前の大震災・原発事故である。コースは福島第1の30キロ圏内とあって即閉鎖、いまは草ぼうぼうの各ホールを放射能汚染されたイノシシがうろついている。
 この先いつリバイバルオープンするか、それまで二人とも元気でいたらいいなと、よく話し合っている。

 そんなわけで久しぶりのMだったが、コースが様変わりしていた。以前は27ホールだったのが18ホールになり、閉鎖された9ホールは膝丈より深い雑草におおわれて見る影もなかったのだ。聞くところによると、大震災でコースが方々破損した上に原発に近いことから客も大幅に減り、18ホールの営業にしたらしい。

実は同じように27ホールを18ホールに、それも今年から縮小したコースが近くにある。私達の住居から直線距離だと5キロ足らずのNカントリーだ。ここは県内でも古参コースでバブル期にポコポコできたチンケなコースより内容ははるかに上等だから、私達も月曜サービスデーを狙ってよく行く。ただしOよりもアップダウンがきびしいし、また古いコースとあってレディスティがあまり優遇されていないので家内は苦手らしい。この閉鎖した9ホールを太陽光発電施設(メガソーラー)に変更すると聞いたのだがいまどうなっているか、今年はまだ行っていないのでわからない。

 そういえば去年、18ホールのコースすべてをメガソーラーにしようとしたゴルフ場もあった。栃木県矢板のフィフティーンエイトゴルフクラブだ。ここは以前は違う名前だったが、あの丸山茂樹がアメリカのとあるトーナメント予選で58というトンデモスコアを記録したのを機に名称変更したものだ。ちなみにこの後丸山は選手仲間達から「どのホールをスキップしたんだ?」と散々からかわれたそうだ。

 矢板周辺は北関東でも屈指のゴルフ場銀座といってもいい。いわゆる名門や人気コースも多く、ロペやJUNには私達も年2回は行く。だから逆にいま出来のチンケなコースはバブル崩壊後徐々に客足が遠のき、大震災以降は原発事故の風評被害も加わって経営は四苦八苦なのだ。それらのコースにしてみれば先々を考えてお手軽(?)な太陽光なんかに飛びつきたくもなるだろう。だが物事はそう簡単にはいかない。この58も昨年末でコースを閉鎖、今年初めから工事にとりかかる予定だったというがソーラー業者の都合で延び、3月いっぱいゴルフ場として安価で暫定営業していた。現在はどうなっているか……。

 こうしたことから世の中の不景気ははっきりわかる。将来に不安があれば誰だって余計なカネは使わなくなる。こんなときに贅沢できるのは近頃ニュースの税金ドロボー氏ぐらいだ。考えてみるとわれわれ日本人は、誰もが「情報々々」と口にし始めた1900年代末あたりから、真の“モノづくり”を忘れてしまったのではないか。東芝や三菱がいい例だ。人間にとってもっとも大切なのは実体のない、いわば屁のような情報より実際に見たりつかんだりできる“モノ”なのである。
 
 私は“モノ”の原点は自分の心身だと思う。達者に越したことはない。
 
 

2016年05月13日(金曜日)更新

第394号 〜反社会性人格障害者・サイコパス〜

 私達のマンション団地は区分所有者で構成する管理組合が、管理業務を自前で運営する“自主管理システム”をとっている。大部分のマンションはデベロッパー系の管理会社に業務を委託しているので、これは稀なケースだ。
 
 団地は今年で竣工から25年になる。前半の18年間は委託管理だったが、仕事振りがあまりにも杜撰だったので、居住者の中から「改善させよう」という声が起こり、有志が“業務改善委員会”を立ち上げて管理会社とやりあった結果、いっそ自分達で人を雇って運営しようとなったものだ。私達がここへ転居して来たのは竣工9年目、その委員会には私も当初から参加している。
 ついでに自主管理以前の杜撰な実例をいくつかあげておく。職員の出退勤の時間が出鱈目、なおかつ所定の深夜の巡回をほとんどやっていなかった。管理費や修繕積立金の会計管理がおざなりで、未納分が溜まる一方だった。アパマン仲介業者への連絡が不徹底なため、飼育禁止のペットがどんどん増えていった。パートの清掃職員の実働人数を水増しして経費を請求していた……などだ。

 自主管理になってそれらはもちろん改善したが、別の問題も出てきた。
 居住者の中に職員を“自分達の使用人”という感覚で見る者が多くなったのだ。具体的には「お前の給料を払っているのは俺達だぞ」という言葉を面と向かっていうのである。管理会社に委託していたときもそれは同じだったのだが、間のワンクッションがなくなってあからさまになったのだ。
 組合の理事をつとめて職員と親しくなった者が冗談口をたたくのならともかく、何か気に入らないことがあると職員をつかまえて怒鳴り散らす者がいるのだ。そうしたヤカラは、例えば玄関先で宅配業者相手に大声を上げるクレーマー、相手が自分より弱い立場だと見た途端高圧的になるいわば“いじめ人間”である。

 以前、かの“政界の放射性廃棄物”小沢一郎がある記者会見の場で、質問してきた記者に逆ギレして「あんたはどう思うの?」と居丈高にあびせ返すのを見て、イヤなやつだなと思ったことがある。某政界通がそんな小沢を「彼は周りの人間を敵か下かの二種類でしか見ないから仲間はできない」と評したことがあったが、つまりはそういう類いの人間である。

 こうした性格異常者が「サイコパス」である。アメリカの犯罪心理学者が言い出した言葉で、精神病質的な人間だが精神病者ではない。数年前テレビ放送された同名のアニメともまったく違う。日本では「反社会性人格障害者」といっているが、(仮)あるいは(偽)精神病質者という言い方もある。99%が男性で、何人もの専門家があげている類型を統合してその人物像をスケッチするとこんな風になる。
「口が達者で表面は魅力的だが、自己中心的で他人への思いやりがなく、共感性に欠け、自分の言動について責任感も薄い。想像力旺盛で虚言癖があり、それを自分でも信じ込んでしまう。異性関係が乱倫……」

 このスケッチからすぐ連想した人物がいる。「お前の給料を誰が払ってると思ってるんだ」と大声を上げる団地のサイコパスよりはるかに有名人、最近話題の東京都知事・舛添要一である。彼の経歴言動を見るとまさにピッタリではないか。
 東京の将来にとって「サイコパスはその特性によって組織内の位置では下層より上層部に多い。組織内のサイコパスは長年安定してきた組織をときには破滅に導く要因にもなり得る」という専門家の意見は無視できない。

 自主管理から居住者の中に異常な人物がいるというだけの話をするつもりが、妙な具合になってしまった。
 サイコパスはアメリカでは25人に1人、約4%いるが、日本を含む東アジアではおよそ0,1%と、たいへん少ないらしい。日本的ムラ社会では生まれにくかった人物類型だったはずだが、いまはその社会が変化しつつあるのだ。われわれ善良な(?)年寄りが暮らしにくくなるのも当然なのである。
 

2016年05月09日(月曜日)更新

第393号 〜人体は精密,脆弱だが生命力はしぶとい〜

 先頃、医学部と歯学部の学生が初めて人体(もちろん本物)の解剖実習をしたときの感想文集を読む機会があった。文集は新書版よりちょっと幅広,300ページ足らずの小冊子だが、全国から100通を越える寄稿が集まっていた。中から“ふ〜ん”と思った個所を以下に列記する。

 胃を探すのに苦労した。消化管を辿ってみればよいが、その一部は肝臓などの裏に隠れて辿れない。ようやく胃と固定した物は、想像していた袋状ではなく腸の一部のような管状だった。私達が参考にしてきたイラストの胃は、内部に食べたものが存在する時のものだったのだ。

 ある血管が細いと反対側の血管が太くなり、補っていることは、生命力の強さを示しているようだった。

 太いと教わった筋肉が見落としてしまうほど細かったり、あるはずの器官が手術で切除されていたり、教科書と実際の人体には大きな差がありました。一人ひとり人生が違うように、人体には同じものは二つとないのだなと実感しました。

 手術や治療の跡、褥瘡(じょくそう・床ずれのこと)などから闘病生活の長さや最期の暮らしぶりを想像して、体には人生が現われてくるのだなと思いました。

 何よりも心臓が印象に強く残った。想像以上に大きく、圧倒的な存在感を放っていた。この心臓が70年80年と鼓動し続け、ときには喜びときには悲しみ、天寿を全うされたのだなと荘厳な気持ちになった。

 どんなに解剖してみても、ひとつだけ目で見ることのできないものがありました。それは「心」です。

 ……お腹に何か付いているのが目にとまりました。胃ろうが付いていたのです。遺体は腕も足もとても細く、背中にはたくさんの床ずれがありました。きっと長い闘病生活の末に……

 人体は非常に精密に合目的的にできている一方で、人体をつくる神の手のようなものがあるとすれば、その作業が途中で終わってしまったような構造や、胎児の頃に使われていたものがそのまま残って使われていない構造もあり、まさに人そのもののようで、非常に興味深く思いました。

 腕に内出血が見られると、点滴や注射が多かったのかなと想像したり、大腿骨が非常に細く骨密度が低いと、転倒したときなど骨折しやすかっただろうなと……

 遺体は一人ひとり違って個性があった。肺が黒ずんでいれば喫煙者だったのだな、筋肉が発達していればよく運動していたのだな……などと、生前の生き方を考えることができた。

 人体の脆弱さに気付いた。体を外界の刺激から守る皮膚はとても薄く、鮮やかな黄色の脂肪は体のあらゆる隙間を狙って、筋肉にも臓器にも入り込んで体に負担を与えていた。体の情報を伝える大事な神経はすぐにも切れてしまいそうに細かった。

 脳はとても美しかった。通常1,2キロといわれる重さよりずっと重く感じ、これだけの重量を首が支えているのかと驚いた。

 ……知識だけしかなかったガンも実物を見ると、肝臓にブドウの巨峰みたいなものがいくつもくっ付いており、重さも倍近くなっていた。終末期はさぞ苦しかっただろうなと……

 さて、これらの解剖実習は医科歯科の学生が2年生になると、各大学によって異なるが2〜4ヵ月かけて行われるもので、遺体は篤志者から死後献体されたものだという。ただ歯医者のタマゴにも必修課程とは知らなかった。
 ここに取り上げたのはほんの一部だが、全体として共通していたのは、学生達が人体の“途方もない精密さ”と“想定外の脆弱さ”に気付いたことだ。逆に言えば、人体はその機能が停止して始めて精密さや脆弱さが際立つのである。すなわちわれわれの体は生命力が尽きない限り、けっこう丈夫でしぶといということだ。われわれ年寄りは病気や故障、痛みなどあまり気にすることないのではないか。
 

2016年04月29日(金曜日)更新

第392号 〜夕焼け空のトンビと知識人気取り〜

 当地もようやく初夏らしい気候になってきた。日差しが強くなり空も高くなって、あちこちで鯉のぼりが泳ぎ、空にはトンビが舞っている。
 私達のマンション団地は仙台市青葉区とは名ばかりの郊外にある。ベランダの1キロほど向こうには青葉山とそれにつづく尾根の新緑の北斜面が視界いっぱいに連なり、団地がある岡との間を広瀬川が流れている。旧市街地の北東端から3キロほど、両岸に山が迫った谷間を蛇行遡行していた急流は、このあたりでようやくゆるやかになって小ぶりな平地もひらけ始め、わずかな耕作地や人家も見え始める。要するにこの一帯は、海や川など水辺に近く高い木や林が多く人もそこそこ住んでいる、トンビの生息には適したところらしいのだ。

 トンビの飛び方は、大きく羽を広げて上昇気流に乗り、ほとんど羽ばたかずにゆったりと円を描きながら高々と舞い上がっていく。カラスなんかにくらべると憎らしいほど落ち着いている。夕焼け空に舞うトンビを見ていると、あんなふうに悠々と巷を見下ろせたらいいだろうなと羨ましくなる。

「夕焼け空がマッカッカ とんびがくるりと輪を描いた……」という三橋美智也の歌があった。昭和33年、私がF社に入った年の新曲だが、三橋はその3年前『おんな船頭唄』で大ヒットを飛ばし、その後もヒット曲を連発して人気実力とも歌手人生一番の上昇期だった。
 ただその頃の私は学生時代の延長で、音楽はクラシックにしか興味がないようなブンガク青年を気取っていたから、演歌にはちょっと背を向けた感じだった。クラシックにしろブンガクにしろいま思えば“幼稚なスノッブ趣味”だ。なにかと背伸びしたがる年頃は、そうした“一見高尚なもの”についハマってみたくなるのだ。私の場合さらにサヨクにのめり込まなかっただけまあ健全なミーハーだったといっていい。

 当時観た映画『第三の男』にこんなシーンがあった。
 舞台は第二次大戦終了間もない連合軍占領下のウィーン。アメリカから幼馴染みに会いに来た作家が地元の文化人グループから文学講演を依頼される。だが彼は安直な西部劇をペーパーバックで出しただけのいわば三流作家で、新しい高尚な文学論など知識もないし話もできない。聴衆から「意識の流れについてどう思いますか」と質問されて立ち往生してしまうのだ。
 日本でいえば、股旅物の書き手に小生意気な若者が、カミュの不条理について文学論をふっかけるようなものだ。もっとも、そんなことは後年映画館やテレビの再映を観てわかったことで、当時はジェームズ・A・ジョイスも『ユリシーズ』も全然知らなかった私だってあのシーンは「何のこっちゃ?」だった。
 
 そんな私に三橋美智也の歌は、通俗的なものにひそむほんとうの面白さを教えてくれたのだ。クラシックだのブンガクだのと知識人気取りでいると、歌謡曲や大衆小説の面白さや奥深さに気付かないのかもしれない。だが私は子どもの頃『明治一代女』や『支那の夜』を聞き『怪人二十面相』や『鞍馬天狗』に夢中になったほうなので、ミーハー的要素も十分にあったのだと思う。以来この年まで、聴くのも読むのも通俗に徹して楽しんできた。
 なまじ半可通が利いた風をいうと一言いいたくなるのもその延長だ。週刊誌の編集部にいたとき編集長のSが大ヒット曲『黒い花びら』の歌詞を「あれなら俺だってつくれる」としたり顔でいったことがある。私はすぐさま「歌詞だけじゃなく作曲もしてついでに歌えば」とやり返した。“能ある鷹……”ではないが、その面白さや奥深さをほんとうに知っている者は怖くて口も出せないのが普通なのである。

 さて鷹が出たところで話はトンビに戻る。
 実は日曜の夕方テレビで『笑点』のテーマ音楽を聞くと、私は出だしの「パンパカパカパカ ンパッパ」が『夕焼けとんび』の出だしと重なってしまうのだ。『夕焼けとんび』は前にいったとおり昭和33年、『笑点』のスタートは昭和41年、時間差もあるし作曲者も違う。並べて聞いたらもちろん違いは歴然だろうが、『笑点』が始まるとつい「夕焼け空がマッカッカ」と口ずさんでしまう。
 もうひとつ、このテーマ曲は最後も面白い。「……パッパーラ パラパ」と全体が終わったなと思わせておいて半拍後「パ」とラッパがひとつ鳴るのだが、あの間の抜けた感じが何ともおかしく、いつも感心している。
 

2016年04月22日(金曜日)更新

第391号 〜“まだら物忘れ”はボケの始まりじゃない〜

 先日、我ながらおかしな“物忘れ”を2回した。ひとつは腕時計、ひとつは私自身のキャディバッグ。先月末から4泊5日で楽しんできた旅行中のことだ。
 旅は、1日目に日光の保養所に泊まって、かつてのスキー仲間達と大いに飲んで歓談。2日目は皆と別れた後、同じ栃木県内のJゴルフ場に移動してロッジ泊、翌日プレーして連泊。3日目の朝食後、1時間ほどゆっくり走って茨城県D町に移動、道の駅などぶらぶらして午後Fゴルフ場へ。2時頃から前泊サービスのハーフをラウンドして、東京の姪夫婦と落ち合い、歓談夕食宿泊。翌日4人でプレーして帰宅したものだ。移動距離は全部で600キロ足らず、ゴルフは2ラウンドだったが、運転の家内はともかく私にはそれほどハードなスケジュールではない。

 まず時計は、出発時に腕にはめていたもののほかに、ゴルフが2回だから気分を変えようと用意していた別のひとつだ。
 私は勤めていた頃腕時計はまったくしなかった。東京ではどこへ行っても時計は目に入る。わざわざするまでもなかったので、勤続記念にもらった品もただしまいこんでいた間に電池がイカれて、使い物にならなくなったほどだ。それがこちらへ来てからゴルフの際するようになった。左腕の先に重りがついていれば多少は遠心力にプラスするんじゃないか、手首の細さをカバーしてファッションにもいいんじゃないかなどと思ったからだ。
 私の体型は身長に比して手足が長く、手首足首が細い。しかも手が大きく足首を握ると親指と中指の先がくっつく。「サラブレッドは足首が細いんだ」と自慢しているが、若い頃はちょっとばかりコンプレックスだった。これで運動オンチだったらただの手長猿だ。
 そこでいわゆるファッションウォッチをするようになり、ハードオフで気に入った品を見つけたりして5個ほどになった。そのひとつが行方不明になったのだ。
 
 旅行に持っていったバッグ4つをはじめキャディバッグからシューズケース、車の中もくまなく捜したが見つからない。何かに入れた覚えはあるが、それを取り出した覚えは全然ないので、ひょっとすると入れたこと自体思い違いだったかなと、帰宅してすぐ置き場を調べたがない。
 そのうちどこからか出てくるだろうと捜すのを諦めた。

 もうひとつのキャディバッグは、いわば“思い込みによる度忘れ”である。
 まずFゴルフ場のチェックインシステムが以前来たときとは変わっていた。プレーヤーは車を一般のコースのようにクラブハウス玄関ではなく、裏のスターティングエリアに直接乗り付けて、バッグを自分で積み下ろしするようになっていたのだ。帰るときは当然その逆を行うわけで、これはコースの経営が変わったためだが、その分プレー代も以前より大分安くなったのだから文句をいう筋合いはない。
 ところが前日ハーフを回った家内が当日後半のハーフをパスして先にあがり、帰り支度を整えて玄関に車を置いていたので、私は自分のバッグを積み込むのを忘れて姪達に別れを告げ、車に乗り込んでしまったのだ。忘れたことに気付いたのは帰路半分以上も過ぎてからで、これは後日着払い宅急便で送ってもらった。

 さて、それから10日ほどたって時計が見つかった。おなじみのOゴルフ場に行こうと「今日はいい天気だしサングラスが要るな」とケースを開けたところ、中に鎮座ましましていたのだ。JかFで必要かもしれないなとついでに時計も入れたのを、元から忘れてしまったのである。
 つまり、何かにしまった覚えは確かだったわけで、それを是とするか元から忘れたのを非とするか議論は分かれるところだが、いずれにせよ出てきたのはメデタシメデタシだった。

 ボケの始まりは最近のことを忘れるようになることだという。また正常とボケが交互にあらわれる“まだらボケ”という現象もある。そうすると私の物忘れは、さしづめ“まだら忘れ”といった程度でボケが始まったわけではなさそうだ。
 この程度の物忘れは年老いてくれば普通だろう。だから忘れても大事に至らず、結果オーライならオーケーなのである。そしてこうした結果オーライは、何事も前向きにとらえる人にはついて回るのだ。私なんかゴルフではいつも、ミスショットをした後も「これを放り込めばバーディだろ」と次を打っている。
 
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