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2015年12月25日(金曜日)更新
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第375号 〜自己満足に徹して楽しむ“頭の体操”〜
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来年の干支(えと)は丙申(ひのえさる)、私は年男だ。干支など現代人が意識するのは年賀状を見るときぐらいしかないだろうが、私らが子どもの頃は日常の暮らしに組み込まれていた。
「……サル年生まれは、よく気が利き器用でなんでもできるが、おっちょこちょいであきっぽいところがあるので、大勢の上に立つ大将役より、巧みな作戦を立てて兵を動かす参謀役に向いている……」なんていう干支占いもけっこう真に受けていたものだ。“当たるも八卦当たらぬも八卦”と同じ、まあ一種の娯楽と思えばツミもない。したがって老人会などで同世代と顔を合わせたときなど、サルとかイノシシとか聞くと昭和何年生まれだなとすぐ見当がつく。
ところで“坤―ひつじさる”という文字、あるいは言葉をご存知だろうか。干支の十二支を元にした方位のひとつだ。子(ね)を北に定め、右回りに丑(うし)寅(とら)……と12等分していくと、東が卯(う)、南が午(うま)、西が酉(とり)になり、その四方向の中間を同じく北から右回りに、北東が艮(うしとら)、南東が巽(たつみ)、南西がさっきの坤、そして北西が乾(いぬい)と定めているものだ。
これらは中国古来の暦法からきたもので、方位だけでなく昔は時刻もこれで表示した。“丑三つ時”や“正午,午前午後”にその名残りがある。
艮,巽,坤,乾,と並べると、坤のほかの三つは知っている人もいくらかいる。これら四文字の音読みは順に、コン,ソン,コン,ケン,それぞれの使用例は以下のとおり。
まず艮は土地や家の鬼門、鬼が出入りする方角とされ、災厄を除けるために神仏を祀った。京都の比叡山、江戸には東叡山(上野)がある。
巽は百人一首の「わが庵はみやこのたつみ……」(喜撰法師)が有名だし、巽芸者は江戸城の南東・深川の粋筋のことだった。
乾は天地の天を意味し、目出度い字なので、年号や名前によく使われている。清朝全盛期を築いて“十全武功”と称した第六代皇帝・乾隆帝は、治世時の年号を諡号されたものだ。また「板垣死すとも自由は死なず」の板垣退助の若い頃は乾退助だ。ただし現代は“乾燥”ぐらいしか知られていない。
だが坤は、第一に“ひつじさる”という訓がメンドクサくて、さきの三つほど一般的ではない。せいぜい「乾坤一擲」――運命をかけてイチかバチかの大勝負をすること――が有名なくらいだ。乾の天に対して坤は地を意味する。天地を一気になげうつのである。
こんなことを書き並べていると、なにをクダラナイことを……と反感を持つ向きも多いだろう。だが、私にとってはこれが“頭の体操”なのだ。古い漢語にしろ近頃のカタカナ語にしろ、これは? と気になった言葉を辞典やネットで調べて、意味内容を確かめる作業はいい勉強になる。さらには、そんな言葉をときどき頭の片隅から引っぱり出して文章にまとめる作業はいい復習になるのだ。こうした頭の体操はいま流行りの“数独”なんかより、脳にはよっぽど効果的ではないかと私は思っている。
しかもご覧のとおり私の文章は、内容があっちこっちへ飛んで落ち着きがない。頭の中の引き出しを片っ端から捜しまわって、関連する話題をかき集めてくるのでそうなるわけだが、私にはこの書き方が一番性に合っている。まさにサル年である。
いずれにせよ、ものを書くことは“究極の自己満足”だ。しかし、小さな自己満足でも弛まず積み重ねていれば、いつか「なにものか」になるかもしれないし、ならないまでも、私の脳は同年代では随分若いはずだと思うのである。 |
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2015年12月18日(金曜日)更新
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第374号 〜なにごとも為し得ぬうちに棺桶に?〜
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年の瀬だといって、この年齢になれば忙しがることもない。前より減った年賀状はもちろん、当クラブの原稿も早々に書いてしまった。年末年始の支度も殆どない。大掃除はさして広くない住居なので、家内と手分けして週一回やっているのを、先週特に念入りにやったので十分だ。和室の障子があちこち破れているが、これは暑い時期に張り替えるほうが簡単かつ得策なのでそのままにしておく。だいたい年末年始も来客なんかない家では、慌ててカッコつける必要もない。
年末を人生のたそがれになぞらえて来し方を振り返る、などという殊勝なココロネは私にはない。人一倍前向き志向なので、なによりもまず今年できなかったこと――一番はやっぱりエージシュート――を来年こそ達成するぞと意気込むだけだ。やり残したことはほかにもいくつかある。大半は身辺整理だが、新たにチャレンジしたいこともないではない。
ところで、近頃時間の過ぎるのが遅くなったような気がする。
「……年齢を重ねるごとに、時間が加速度をつけて過ぎていく気がする。この調子では、三十歳を越えた三日後には九十八歳になって大往生するのではと危惧されるほどだ。あまりぼんやりしていては、なにごとも為し得ぬうちに気づいたら棺桶に入っていた、ということになりかねない。……」
三浦しをんの連作短編中にあった一節だ。30代の主人公の感慨といったものだが、いまの私にはどうもピンと来ない。いや、私も同じ30代の頃はそうだったかもしれないが、80歳過ぎたいまは逆だ。
考えごとなどしながら所在なくベランダのガラス越しに、冬の澄明な青空を飛行機雲がだんだん薄くなっていくのを見ていると、いつのまにか時間が止まってしまい、このまま日も暮れないんじゃないか、なにかやることないかなと、あたりを見回してしまうのだ。年老いても性格の“貧乏ヒマなし”は変わらないものだなと思う。
しかしよくよく考えてみれば、「……なにごとも為し得ぬうちに棺桶に……」というのは、まことに一般的な生き方といっていい。以下のようなロシアの有名なジョーク(アネクドート)がある。
ロシアの指導者たちは次のような教訓を後世にもたらした。
レーニン……絵空事でも国を支配することができる。
スターリン……一人でも国を支配することができる。
フルシチョフ……バカでも国を支配することができる。
エリツィン……家族でも国を支配することができる。
プーチン……スパイでも国を支配することができる。
要するに、よっぽど人並みハズレたことでもやらかさない限り「なにごとか為し得た」とはいえないのだ。まずは、世界中からカラカワれるようなネタにならなければダメだ。その点ニッポンの総理大臣など、あちこち出かけてはカネをばらまくだけ、お人好しのサンタクロースみたいなマヌケなキャラだから、カタチだけ感謝されてもカラカワれることはない。
というわけで、われわれその他大勢は「なにごとか為そう」などと分不相応なことはスッパリ諦めて、日々メいっぱい楽しく生きることに徹すればいいのである。おまけに私のように時間の過ぎるのが遅くなってくると、「あし〜たがある〜さ明日がある……」という気持ちも、若い頃よりかえって強くなっている。まだまだ楽しんでやるぞという気持ちになってくるのだ。
そのために“心身達者”が肝要であることはいうまでもない。 |
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2015年12月11日(金曜日)更新
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第373号 〜車のほうを見ない高齢者のワガママ〜
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日本自動車連盟から『JAF MATE』を毎号、家内に送ってくる。表4に“第53巻”とあり、この小冊子の歴史は家内の運転歴とほぼ同じだ。こうしたPR誌はいい情報源なので私もよく目を通しているが、最近号に「車のほうを見ない高齢者」という、ちょっと興味深い記事があった。
今年6月のある晴れた日の夜、千葉県内の国道で、40代の女性がマイカーで人身事故を起こした。現場の道路は幅8メートル強、片側1車線の見通しのよい直線で、事故当時、対向車はなく、前走車はだいぶ離れており、勤め帰りの運転者は通い慣れた道を、時速40キロほどで走っていた……。と、いきなりヘッドライトの先右側から歩行者があらわれ、急ブレーキも間に合わず、はねてしまったのだ。
原因が加害者の漫然運転による前方不注意であることは否めないが、被害者が黒っぽい服装だったことも一因にある。
被害者は90代の女性。救急車で病院に搬送され、翌日午後亡くなった。道路右側の自宅から、左側の親戚宅に行こうとしたところだったが、実は現場の約120メートル先に、押しボタン式の横断歩道がある。しかし道路はふだん交通量もあまりなく、車が途切れることも多い。120メートル往復するより、車の来ないときを見計らって8メートル強を渡ったほうが早くて楽だ。年の割りに足腰の達者な被害者も、以前からよくそこを横断していた。
「右を見て左を見て、もう一度右を見る」という道路横断の際の安全確認標語は、ピカピカの一年生になった途端、わざわざ学校まで警察の人がやって来て教えてくれるし、高齢者だって当然知っているだろう。
――(以下記事関連の私見を8行)――ただし、この言葉にはちょっとばかりヌケたところがある。右見て左見てまた右見て道路を横断し始めたら、まん中あたりでもう一度左を見なければ、安全とはいえないのだ。つまり「車のほうを見ない高齢者」とは、「横断途中で左のほうを見ない高齢者」ということなのである。右見て左見てまた右見て、まだ車はずっと先だから渡れるだろうと判断しても、年老いてくれば歩く速さも、見た車との距離やスピードのとらえ方もかつての自分とは違う。咄嗟の動きも鈍っている。町中でよく見かける、横断歩道の真ん中で立ち往生している年寄りがいい例だ。
警察によると「道路横断中事故に遭い、運よくケガだけで済んだ高齢者は、口を揃えて“左右はよく見た”とか“車のほうで止まると思った”といっている」という。そして「以前は運転者に“子どもの飛び出し注意”をよくいっていたが、近頃は“横断歩道以外を渡る高齢者に注意”という時代になった」とつけ加える。
――記事の内容はざっと以上だ。
この記事に対する私の感想は「年寄りほど自分の衰えを過小評価するものだな」である。しかもその上で、「われわれは社会弱者なのだから、これをしてくれ! あれもしてくれ!」とゴタクばかり並べている。ワガママもいいところだ。
老いによる体の衰えは、病気になってみるとよく実感できる。私は14年前、貧血から大腸ガンが見つかり、手術で回復したが、貧血中は4階の自宅に上るのさえ途中で息切れして、それまでの自分じゃなくなった思いが強かったし、また2年前、左眼が失明しかかったときには、今度こそゴルフも読書や原稿書きもできなくなるなと、心中なかば諦めかかっていた。
だがそんな危機を運よく乗り越えてみると、自分のいまの足腰や眼がさらにかけがえのないものになり、年齢相応の衰えをあれこれ工夫してカバーしながら、大切に使っていかなければと思うのである。
「君子、危うきに近寄らず」は、年老いてこそ意味のある言葉なのだ。 |
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2015年12月04日(金曜日)更新
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第372号 〜忘年会などは年老いても積極的参加〜
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忘年会シーズンである。だが近年は官庁企業など多くの事業所で,「あんなもの出たくない」という若手が増えているという。つい先頃もネットの掲示板に、「欠席するうまい言い訳を教えて下さい」という書き込みがあり、「若手はこき使われるしクダラナイ説教は聞かされるし、ホント出たくないよな」という同情派から、「無能なヤツは積極的に出ろ!」という鬼軍曹派まで、さまざまな回答が集まっていた。
そういえば、私が入った頃のF社でも、年末に“スキヤキ会”なるものがあった。当時の社屋は、国電飯田橋駅から歩いて約10分、外濠都電通りに面した木造一部2階建て。その1階フロア30坪ほどの全員の机の上を片付け、あちこちにコンロを置いて、煮炊き飲み食いした。社員の負担は一銭もなし、ただ下ごしらえなどは女子社員がやっていたようだ。私などよく飲んで楽しんだ口だったから、どんな風にお開きになったのかさっぱり覚えていない。
創業者ワンマン社長が文字通り“君臨”していた頃で、その意図は懐柔か懇親かそんなところだろう。だが、若い女子社員にはあまり歓迎されなかった。
酒が入るとクセが悪くなるヤカラはどこにもいる。ましてや半世紀以上も昔、セクハラなどの言葉はもちろん、概念(考え方)すらなかった時代だ。女性は軽く見られ、男のセクハラは笑ってすまされるのが普通だった。当時のF社にもMやNといった古参の札付き社員がいた。二人は熱海への社員旅行の際、酔ったフリをして女性浴場にチン入したという話もあり、家内はいまでも名前を口にするのもイヤだという顔で、「スキヤキ会なんか休みたかったくらいだ」という。家内が2年足らずで退社したのも、私と知り合ったことよりそっちが主因だったかなと思ってしまう。
そんなことから考えると、いまの若手の世間知―実社会に対する認識は、半世紀前のオボコ娘並みかといいたくなる。私みたいな古い人間には、近頃の若者は甘やかされて育ったヒヨワな連中にしか見えないのだ。
私は忘年会のような集まりには、さきの鬼軍曹流にいえば「無能有能関係なく」できるだけ参加した方がいいと思っている。職場や町内で日頃はすれ違うだけの顔ぶれが集まる場は、何よりも自分を見てもらういい機会だ。さらには人脈を拡げる、専門外の情報を仕入れる、さまざまな人間を観察できるなどのメリットもある。若いうちなら酒の飲み方も勉強できる。
飲み方で思い出した。かのスキヤキ会で私と同期のIは新人の頃、飲むと顔が青ざめ目がすわり、福島なまりでネチっこくからんでくる、さきのMやNとは別口の傍迷惑な酒だったが、だんだん鍛えられて30過ぎる頃には直ったものだ。
会費にしても仲間うちなら、ベラボウにふんだくられることもまずない。
もっとも世の中にはセコい奴もいて、結婚披露宴から二次会にくり出そうとしたとき、新婦の父親が新郎に「皆さんに負担をかけないように……」と、そっと渡してくれた金をポッポに入れ、参加者から会費を集めた男もいる。観察眼をみがけば、そういうケチな人間性も見えてくるのだ。
これは逆に言えば、自分も誰かに観察されていることである。私のようなガードの甘い人間は、酔うほどに腹の底まで素通しになってしまう。そんな酒がらみの集まりに出掛けるとき、家内が「飲みすぎないでね……」と、いつもクギを刺してくるのは体もさることながら、そっちの方の心配もあるのだろう。
とはいえ、こうして自分が開けっぴろげになるのは、けっして悪いことではない。われわれは一人ぽっちでは生きられないのだから、気心の知れた仲間は沢山いる方がいい。しかし、タテマエや口先だけでどれほど人脈を拡げても、真の仲間はなかなかできるものではない。結局は人柄次第、つまりは飲める飲めないもそれほど関係ないのだ。酒は酔うとホンネが出やすくなるから、人柄のウラオモテすべて周囲にわかってもらえるのがいいのである。
年老いるにつれて、周りから仲間――と自分では思っていた顔ぶれが一人二人と遠ざかり、忘年会などの誘いもかからなくなってきたのを、単に暮らし方が変わったせいだと思っている人は、そうした人生の機微にうといジコチュウ傾向の強い人間だと思う。付き合いたくない相手だ。
逆に、私の倍以上お誘いがある当クラブ支配人氏など、羨ましい限りである。 |
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2015年11月27日(金曜日)更新
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第371号 〜おらが女房をほめるじゃないが……〜
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先日、私達は結婚55周年を迎えた。欧米の風習をマネて、銀婚や金婚は日本でも一般的になっているが、55周年は何もない。この先はアメリカ式なら60周年、イギリス式なら75周年のダイヤモンド婚があるだけで、それまで二人とも達者ならいうことない。……とはいえ、イギリス式はまず無理だろう。
当日はいつものOゴルフ場ではなく、例年女子プロのトーナメントを開催するRゴルフ倶楽部でプレーし、松島の温泉ホテルでのんびりしてきた。いずれも平日なのでそんなに高くはない。いまの私達には分相応の楽しみ方だ。
実は、時々思い返すのだが、なぜこの日に挙式したのかどうもよくわからない。家内に訊いても「さあ……」と首を傾げるばかりだ。団地の親しい知人に、私達とは2日違いの“いい夫婦の日”が記念日というご夫婦がいるが、そんな特別な日でもない。なにか行き当たりバッタリに決めたような気がする。
日曜祭日でもなかった。新婚旅行先を水上温泉にして、上野駅から乗った列車が通勤帰りの人達でいっぱいだった。いまの若い人には「信じられない!」かもしれないが、あの頃はそういうものだったのだ。
この年はアンポ騒動で退陣した岸信介の後をうけた池田勇人が、国民の関心を政治から経済に向けようと“所得倍増”をぶち上げた年だ。もっとも私などには、前年セリーグ最下位だった大洋ホェールズ(横浜ベイスターズの前身)の、リーグ優勝から日本シリーズ4連勝制覇までの方が、時代を強烈に印象づけた記憶になっている。いってみれば下克上だ。誰もが「なんだ!やればできるじゃないか!」と思い、“岩戸景気”や“いざなぎ景気”の掛け声に乗って働き出したものだ。そうして55年、まずまずの老後を迎えているわけである。
かの山本夏彦(平成14年没)さんのエッセイ『理解なき妻』の冒頭に、
「昔の病人は自分のうちで死ぬことができたが、今はできなくなった。ひとが病院で死ぬよりほか死ねなくなったのは現代の不幸である。」
とある。昭和61年『文藝春秋』に掲載された、同年5月に亡くなった夫人の入院中をスケッチしたものだ。山本さんの文章はご自分で"変痴気論"と称するとおり、内容もタイトルも一筋縄ではいかない。この『理解なき妻』も冒頭から10行足らずで、
「妻は私の書くもののよき読者ではなかった。理解なき妻と言ってよかった。理解ある妻とない妻をくらべたら、ある妻のほうがいいにきまっていると思うだろうが必ずしもそうではない。…(中略)…妻は私の書くものを読むと頭が痛くなると言った。自分が痛くなるばかりでなくたいていのひとは痛くなると言って譲らなかった。」
とくるが、末尾を、
「妻すみ子はひとくせあって 私の書いたコラムを認めませんでした いわゆる理解なき妻で 私はおかげできたえられたと言って ふたりは笑うにいたりました 名高いうたの文句に おらが女房をほめるじゃないが ままをたいたり水しごと というのがあります 彼女はそれを畢生(ひっせい)のしごとにして 世間には自分が認めないものを 認めるひとがあるのに満足していました …………」
と、夫人の告別式の挨拶状で締めくくっている。
山本さんは私など及びもつかぬ人生の達人である。夫人のことは理解なき妻どころか、すべて理解していた人だ。翌年、夫人亡き後のやもめ暮らしを書いた『みれん』を読むとよくわかる。山本さんが夫人と何年連れ添ったかくわしく知らないが、55年よりは短い筈だ。
だが夫婦は年月ではない。私みたいな自分勝手は、55年経ってもわからないことだらけだ。いまさらどうなるものでもない。
さて、私が自宅(うち)で死んだ病人を看取ったのは、昭和44年夏の母親が最後、以来50年近く一人もいない。いまはとりあえず達者な私達も、結局は救急車で病院に運ばれて……ということになるだろう。幸不幸とは別に現代はそういう時代なのだ。その時になって慌てないよう、早々にきちんとしておかなければと思っている。 |
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