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2015年11月20日(金曜日)更新
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第370号 〜歩いて歩いて死ぬまでボケるもんか〜
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先日「世界史にない非常事態/ニッポンの大ピンチ・認知症老人1000万人に!/医療も介護も年金もぜんぶ吹っ飛ぶ」という週刊Gの広告を見て、例によって早速立ち読みしてきた。
内容は大体この広告から推察したとおりだ。
10年後、日本の総人口は1億人以下になるから、いま4人に1人の高齢者比率はもっと高くなる。同時に寿命ものびるので認知症老人も増えて9〜10人に1人、その面倒を押し付けられる現役世代の負担は際限なくふくらみ、現行の社会保障制度のままでは、国の財政そのものが破綻する。しかも認知症老人相手の施策など、政治家は票にならない、役人は先々の責任はとりたくないとあって、誰も手をつけようとはしない。それこそ“一億総活躍”どころか“一億総介護”になりかねないというのである。
この際われわれは「死んでもボケるもんか!」という気構えが、何にもまして必要なのである。
いま、ボケになる要因の半分以上はアルツハイマーだ。昔の日本人には卒中など脳血管性のボケが多かったが、戦後それが食生活の変化につれてとって代わった。アルツハイマーはアミロイドβというタンパク質が脳に蓄積し、神経細胞を壊死させる病気で、現在効果的な治療法はない。だが医療は技術も薬も日々進歩している。この病気だって明日にも画期的な治療法が開発されないとも限らない。
よっていまのところは、病気を寄せ付けない生活に徹するしかないのである。
アルツハイマーにしろ脳血管性にしろ、ボケの原因の大半は老化と家系だ。特に前者は85歳を超えると発症率は高くなり、また片親どちらかでも発症していたら、子も大抵そうなるという。その点、私達は年齢はともかく家系は大丈夫だ。私も家内も代々ボケたという話は聞いたことがない。
とはいえ、その他の危険因子なら身の周りにいくつもある。
例えば、最近知ったひとつが血圧降下剤だ。このクスリを常用していると、脳細胞が酸欠状態になり、細胞そのものが減少し始めて、アルツハイマーを誘発しやすくなるというのだ。私は左眼の加齢黄斑変性を機にこのクスリを服用している。3週前このページに「秋晴れの穏やかな日が続くと曜日がさだかではなくなる。ひょっとするとボケの前兆か?」と書いたが、まさか!……と思ったものだ。
そのほか、“アルミニウムイオン”とか“ヘルペスウィルス”とか“インスリン過多”とか、危険因子と目されるものはけっこう多いのだ。
ただし“アルミ”や“ヘルペス”といった特異な例はさておき、一般的な原因=危険因子なら、毎日の暮らし方次第でほとんど予防できる。何年か前、NHK『ためしてガッテン』でもいっていたように、
「魚や野菜をよく食べる、運動を欠かさない、知的生活を心掛ける、タバコは吸わない、よく眠る」
そんな健康な毎日を送ればいいのだ。
私はその中でも、一番大切なのは運動だと確信している。それも近頃流行りのアメリカ式に器具を使って筋肉を鍛えるのではなく、ただ歩くのがいい。
歩けば下半身の筋肉がよく働き、血行も盛んになる。すると地球の重力のため下半身に溜まりがちだった血液が、心臓によく還流されるようになり、さらには頭にもどんどん押し上げられる。つまり頭の血の巡りがよくなるわけで、さきの脳細胞の酸欠などたちまち解消してしまうし、脳の働きもアップするのだ。知的生活にもつながるのである。
考えてみれば「ボケ老人1000万人」というのは、世の中が便利になり過ぎたせいだろう。自分の足で歩くことは、その便利さに溺れないベストな方法ではないか? と私は思うのである。
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2015年11月13日(金曜日)更新
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第369号 〜高齢者と健康に関するピンからキリ〜
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このほど世界保健機関(WHO)が「高齢者と健康に関するワールドレポート」を発表した。内容を要約すると、
「いまの高齢者は、若者をしのぐ達者な人から介護漬けの寝たきりまで多様で、ひとくくりにはできない。しかも人口の高齢化は世界規模、かつ急ピッチで進んでいる。したがって、行政も社会も“高齢者=弱者”という従来の認識を改め、元気な高齢者には積極的に社会参加し貢献してもらえるように、活動をサポートすべきである」 ――こんなところだ。
一読、いまさら何をと思った御仁も多いだろう。私などその筆頭である。老人といっても心身の健康状態はさまざま、ピンからキリまであることはいまに始まったことではない。
かつて世界的チェリストとして知られたパブロ・カザルスは、80歳のとき21歳の女性と恋愛結婚して96歳まで生きたし、いまから70年前、昭和天皇に乞われて首相の座に就き、泥沼の戦争を終結させた鈴木貫太郎は77歳だった。またつい先日は週刊P誌の広告で「80歳で300ヤード!? 仰天シニア……」という記事を見て、早速立ち読みしてきた。
ところがその一方では、九州宮崎で73歳の半認知症男性が、歩道を軽自動車で暴走して2人を死なせ、同じく福岡県下で93歳女性が、高校生をひき逃げして警察に捕まり、当地では78歳男性が夕飯の支度をしたヘルパー女性を、いきなり果物ナイフで刺して眉間に傷を負わせるなど、キリの部類の老人も目につくのだ。
そして私は、こんなこと言っちゃあなんだが!、現代日本は行政も社会もわれわれ老人を、キリを平均値として見ているんじゃないかと言いたくなる。
例えば、先日家内が免許更新のため高齢者講習を受けてきたが、帰ってからこんなことをいっていた。
「私は実技を全部スムーズにできたけど、他の人はクランクで縁石に乗り上げたり、一時停止できちんと停まらなかったり、もう初心者みたい。それでも免許は更新してくれるのよね」
要するに、老人には実力より既得権に敬意を表し、“そっとしておけ”という方針らしいのだ。言い方を変えれば、当の老人の周りに責任をマル投げしているのだ。
似たようなことが、いま公立の小学校で行われている。“できない子”に合わせて授業を進めるというのがそれで、“できる子”は塾で受験技術の練磨に励んでいる。ここにあるのは高齢者=弱者と相通じる考え方である。現代日本人が子どもから老人までジコチュウであり、社会人としての意識が希薄ななのは時代相というしかない。
そんなことから考えると、WHOの提言に行政がすぐ反応し、世間一般もその気になるとは到底思えない。われわれ“達者な年寄り”はこの先も自分の面倒は自分で見、いくらかでも世間に貢献できることを、自分でアピールしていかなければならないのだ。そしてそれは私自身望むところでもある。
人にはそれぞれ老い方に差がある。その差は知力にしろ体力にしろ、結局は日々の積み重ねによる。それも中年以降、特に老いの坂にさしかかってからの積み重ねが大きいのではないかと、私は思っている。毎日30分でも歩き、つとめて本を読み、体のケアに気をつけている60歳と、ビールなんか飲みながらダラダラとテレビを見て寝てしまう60歳では、1年もすればはっきり差が出てくる。私が気をつけるようになったのは大腸がんの手術後、60代末からだったが、それでも70代なかば頃には同年代とはどこか違うなと実感できたし、心身両面とも自信がついた。
いくら長寿社会でも、キリでは楽しみも半減するではないか。 |
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2015年11月06日(金曜日)更新
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第368号 〜いつも鏡を見ていれば10歳は若返る〜
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先週はNゴルフ場に行ってきた。私達がお気に入りのOゴルフ場よりずっと近く、20分ほどしかかからない。コースは広々としてメンテナンスもよく、各ホール変化に富んで距離もあり、200ヤード以上の打ちっ放しの練習場もある。私がよくいう“ちゃんとしたコース”だ。市内からも近くプレー代もOより高い。だから私達が行くのは平日月曜のサービスデーが主になるし、天候のことを考えると、早くから予約するわけにはいかない。その点Oなら4〜5日先の天気のいい日に「空いてますか?」と申し込めるし、割安でもあるから、遠くてもそちらの方が多くなるのだ。
当日は月曜日とあってプレーヤーは年寄りが多く、私達の後続組女性ツーサムもけっこう年配だった。そこで気付いたのだが、この二人以外にちらほら見かけた女性プレーヤーは、皆さん(もちろん家内も)相応にニューファッションでキメているのに、男性の大部分は型も古い地味な色合いばかり。せいぜい赤かオレンジのセーターぐらいで、私のような大柄チェックのローライズパンツなんて一人もいないのだ。どのパーティも古めかしい、よくいえばオーソドックスなスタイルとドブネズミ色の没個性揃い、一人々々見分けがつかなかったほどだ。
これは年寄りが多いという以上に、ゴルフ場そのものが古いメンバーコースという事情も大きい。クラブハウスや練習グリーンの会話を聞いていると、皆さん別のパーティの人達とも顔見知りのようで、それぞれが仲間を集めてやってきているのだ。だから、一人だけ飛び抜けたファッションなんかすると、すぐに年齢や体型を引き合いに何かいわれるのだろう。その点、セミパブリックのOは若者が多くファッションも多彩、私も年齢を気にせず楽しめるのである。
以前お役所や大企業が、週イチだったか月イチだったか“カジュアルデー”を設けたことがあった。ネクタイなしのラフな格好で、のびのびと仕事をしようというアイデアだったが、当日は官公庁以下多くのカタイ職場で、殆どの男性がスーツのズボンにゴルフウェアという、何とも珍妙な一律的雰囲気だったという。
そういう職場に長年勤めていると、単にファッションだけでなく、いろんなものの考え方まで“右へならえ”になってくるのではないか? “事なかれ意識”といってもいい。周囲と異なることや集団から突出することはできるだけ避け、考え方も行動もその他大勢と横並びで安心するようになるのだ。少年期から青年期まで少しはあった冒険心や反抗心も、上からはつつかれ仲間うちではもまれて次第に薄れ、いつしかひたすら周りの空気を読み、背格好も同じドングリの一つになって安住するのである。
そんな風に年寄りじみてしまった男性は、ふだん鏡なんか気をつけて見ることもないだろう。チラッと見て、昨日と同じドングリが写っていればオーケーなら、じっくり見る必要もない。そうしてゴルフではいつも無難なウェアになり、日々同じ格好で近所をうろつき、はては鼻毛が伸びていても(シェーバーでは剃れないもんな)気付かず、毎度同じ自慢話と口臭を撒き散らすようになるのだ。いくら金持ちだろうが口達者だろうが、こんな老醜男性の周りに寄ってくるのは同類か、ハイエナ“後妻業”ぐらいだ。
いかに年老いた男性でも、ふだんから鏡をよく見ることが大切だと思う。それも顔色を見て体調をチェックするのではなく、全身の装いを見るのだ。健康状態など熱っぽいとかだるいとか、長年身についた感覚の方がかえってよくわかる。当然だが鏡は大きい方がいい。さらには外出したときなど、あちこちのガラスに写る自分を見て、服装だけでなく姿勢や動作もチェックするのがいい。
これからの季節、町中を背筋をシャンとして歩くだけで10歳は若く見える筈だ。 |
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2015年10月30日(金曜日)更新
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第367号 〜曜日を間違えるのはボケの初期症状?〜
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この季節、秋晴れの穏やかな日が1週間も続くと、月日や曜日がさだかではなくなる。「今日は何月何日ですか?」と訊ねられて、なかなか答えられないボケ老人ほどではないが、頭の中で戸惑うことがあるのだ。
ゴルフとか理事会とか町の方へ出掛けるとか、何かイベントでもない限り、私の一日の過ごし方は連日似たようなものだ。
起床は7時前後、家内よりちょっと早い。自分で朝食の支度をし、一人黙々と食べる。トイレをすませ、新聞を見――近頃の新聞は“読む”ところがない――てから、ベランダに出て日課の筋トレを始める。それが終わると、パソコンに向かったり原稿を書いたり本を読んだり、その合間に昼食、おやつ、シャワー、夕食……と、昨日と同じ今日を過ごして、10時にベッドにもぐり込むのだ。
以前は1〜2日おきにやっていたウォーキング&階段上りも、この夏の猛暑以来週イチになったし、そのほかアイロンかけや包丁研ぎ、不用品の整理など、時々思いついてはやっている気晴らし作業も、そうしょっちゅうはない。月日や曜日の意識が薄れていくのももっともなのだ。
10時就寝は、私がテレビを殆ど見なくなったせいだ。いつも見ているのは朝夕のNHKニュースだけ、たまに内容に魅かれて『ためしてガッテン』を見る。近頃の番組は民放はもちろんNHKまで、誰も彼も大袈裟で耳障りなしゃべり方をするのでイヤになった。オンナ子ども若僧じゃあるまいし、年寄りにはやかましくて邪魔でしかない。このテレビ離れも曜日の感覚を薄れさせた大きな原因である。
7日単位の曜日が抜け落ちるようになったら、1ヵ月単位の日付なんかもっといい加減になる。残るのは暑さ寒さの四季だけだ。確かな四季がある日本の老人は、その点だけは恵まれているといえる。
ところで、先日「早起きは寿命を縮める」という研究データを、オックスフォード大学の研究チームが発表していた。人間に本来備わっている体内時計は、地球の自転を規準にした実際の時計とはズレがあるので、朝早く起きることは体への拷問でしかなく、心筋梗塞や脳卒中、糖尿病のリスクを倍増させるというのである。「早起きは三文の得」なんてのは単なる迷信、年老いてくると眠りが浅くなり、朝早く目が覚めるようになるのは仕方ないが、それでもできるだけ“遅寝遅起き”を心掛けた方が体にいいし、長生きできるのだという。私の7時起きがまあまあの線らしい。
さて、曜日や月日が飛んでしまうことに気付いたのは最近だ。
私は2000年1月1日から日記を付けているが、内容は天気と出来事を並べるだけで、きまった日課や心情的なことは記入しない。例えば「原稿送る、○よりTel,○日ゴルフ予約、夕食時酒1本」といったもので、飲まなかった日は“NA”と書く。日記帳はA5版のノート、薄いグレーで3ミリ方眼罫が印刷してあるページに横書き、特別なことがなかった日は、肩書きの日付天候を合わせて2行でおさまる。
この日記帳のページをめくったとき、本当なら10月○日と書くべきところを、9月○日と書きこんで何日も気付かなかったり、昨日の日付に今日のことを書いてしまったことが近頃相次ぎ、これじゃ曜日も間違えるなと気付いたのだ。とにかく、妙な思い違いがよく起こるようになったのである。
古いことは覚えているが最近のことは忘れるようになるのが、ボケの始まりだという。私も自慢じゃないが、古いことはよく覚えている。先週書いた“ナンジャイ”もそのひとつだし、テレビを見ていた家内が「珍しい名前ね。束を三つ書いて何と読むのかしら?」と首を傾げるのに、すぐ「ナツメだよ」と教えることもできる。ところがこうして原稿を書きながら、昨夜何を食べたっけと考えると、なかなか出てこないのである。
家内を見知らぬ他人だと思ったり、食べ終わったお昼を「まだか、まだか」と催促したりは、随分先のことかもしれないが、気をつけるに越したことはない。片付けておかなければならないことが、私にはまだまだ沢山残っており、ここでボケたりマイッたりするわけにはいかないのである。
この際、起床時間をもう少し遅くしてみるか……。
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2015年10月23日(金曜日)更新
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第366号 〜達者な老後にいい日課と適切なクスリ〜
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2年半ほど前から血圧降下剤を飲んでいる。加齢黄斑変性で左眼がいきなりホワイトアウトし始めたのがきっかけだ。この病気の原因がタバコと紫外線と高血圧だというので、家内のかかりつけ医へ行って、薬を処方してもらうようになった。
タバコは40代初めにやめた後、1本も吸っていないし、紫外線は子どもの頃から浴びすぎるほど浴びて、サングラスなどスキー以外かけたことがなかったのだから、いまさら……というわけで、クスリだけ飲むことにしたのだ。以来、手首で測る簡単な血圧計で朝晩計測記録しているが、上(収縮期)が140前後、下(拡張期)が70前後で安定している。
ところが先日、ネットのニュースで「患者には出すけど医者が飲まない薬」という記事を見つけて検索すると、私が毎日飲んでいるクスリの名も上っている。「クスリの効果が強く血圧が下がりすぎてしまう。高血圧の規準は“年齢+90”が妥当。製薬会社の売り上げを増やすため従来の高血圧の規準を引き下げたのだと思う」と医師のコメントもついていた。「ナンジャイ!」である。
突然だが“ナンジャイ”という地名がある。群馬三山の一つ妙義山の南東麓、先年、製糸場が世界文化遺産になった富岡市の西端、“南蛇井”と書く。高崎-下仁田を結ぶ上信電鉄の駅は代表的な珍名駅だ。
註・上記は先週の「支配人の一言」から連想した。
そういえば勤めていた頃、私は毎年の健康診断では、どこも一度も引っかかったことがない。検査の数値はすべて正常、レントゲン撮影も視力も異状なしだった。同年代のYが本態性高血圧と聞いて、やっぱり山家育ちだな、塩漬けばかり食わされて大きくなったんだなと、妙に納得したものだ。
考えてみれば、退職して以降も私の日常は、遊ぶ時間が増えただけで以前と殆ど変わりはない。その証拠に体型も体重も全然変わらない。大腸ガンや眼底出血など、突発的な疾患や部分的な機能の衰えはあっても、全体としては老化による変化だけで、特に悪くなったところはない筈だ。したがって、高血圧など突然なるわけないだろうと思うのである。つまり、医師のコメントにある"年齢+90"という従来の規準でみれば、私は高血圧でも何でもないのだ。
日本高血圧学会が規準を下げたのはつい近年のことだ。その裏には、高齢者医療費の増加やメタボ健診や製薬業界の思惑など、さまざまなファクターがあり、政治家や役人の画策裏取引もあっただろう。「クスリ九層倍」というように、昔もいまも製薬はオイシイ業界なのだ。利権に目ざとい連中が見逃すわけない。その揚句、余計なクスリを飲まされるわれわれはいい迷惑なのだ。
だが私は、このクスリをやめるつもりはない。効果が強いクスリなら、やめた後のリバウンドが心配なのと、クスリが狭心症にも効能があるからだ。本家の又従兄がよくいう「おらい(家)の係累は皆心臓が悪い」ので、私も一応用心は必要だろうと思っているのである。もうひとつ、高血圧は脳卒中のリスクが高いという。F社で私と同期だったAは40代なかばで脳卒中になり、幸い軽症だったが半身不自由になり、20年も前に亡くなった。そんな前例があるので、私もこの際、血圧は低めでもいいだろうと思っているわけだ。
この年になると、健康はちょっとした日課や習慣の積み重ねだなと、つくづく実感する。首、肩、腕から指先まで、胴回りと腰、ひざ、足首など、全身の可動部分をまんべんなく動かすストレッチ体操を毎日おこない、できるだけ歩き、よく本を読んで脳を働かせ、好きなものを食べ、夜は早めに寝て十分眠り……そして体に必要なクスリは気にせずに使うのだ。
いくら“スーパー爺”でもゴルフの翌日は、背中や腰に痛みが出る。そんなときはロキソニンの貼り薬をしっかり使うと、日課のストレッチも楽にできる。行きつけの整形外科で処方してくれるクスリで、4ヵ月に一度天気のいい日に、往復約8キロを歩いて行って来る。高血圧のクスリもそうした経験から、使って損はないだろうと気付いたのだ。老人なりの知恵である。 |
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