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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2014年06月06日(金曜日)更新

第295号 〜国家の大方針と皇帝ドブネズミ〜

 銀座のドブネズミは、和洋中選り取り見取りの贅沢な食生活のせいで栄養満点体力抜群、ネコも尻込みするほどの大物も中にはいるという。そんなデカいドブネズミを、私はかつて銀座ならぬ上野駅で目撃したことがある。正面コンコース奥の広い改札口を入った先、始発ホームのひとつで入線列車を待っていたときだ。視界の隅に何か動くものを捉え目を凝らしてみると、ホーム下の薄暗がりを尻尾の先まで一尺はあろうかというドブネズミが悠然と移動していたのだ。「図体といい態度といいデカい奴だなあ!」と私はただ呆気にとられて、そ奴が排水口に消えるまで見送ったものだ。

 近頃、ニュース映像で中国の習近平総書記を見ると、私はすぐこのデカいドブネズミを連想する。とにかくイメージがそっくり、特にロシヤのプーチン大統領と一緒にいると尚更だった。プーチンは習近平より小さいが顔つきや動きはキツネ、肉食獣タイプだ。ネズミにとっては天敵である。ところが習近平はその天敵さえ見下して、まさに皇帝ドブネズミといった感じなのだ。現代中国の代表者としてこれほどの適役はいないだろう。

 いまの中国はドブネズミ集団である。第一に汚い。環境はいうまでもなく人心も、隅から隅まで上から下まで汚い。第二に、人口をはじめ経済軍備などの膨張拡大ぶりもドブネズミ的だ。そうした急成長を背景に、陸でも海でも空でも近頃はあらゆる活動が傍若無人、目に余るばかりで周囲はただオロオロしている。

 先日、開高健の古い著作を読んでいたら、以下の文章にぶちあたった。
「……過去の中国は世界でもっとも道徳の頽廃した国の一つで、アヘンとトバクと泥棒は有名なものであったが、いまはそんなものは博物館にでもいかなければお目にかかれない。たとえば北京でも上海でも、ホテルには世界各国からきたひとびとが宿泊しているのに、部屋のドアは一日中あけっぱなしにしておいてもチリ紙一枚なくならない。有名な話であるが、ある日本人旅行者は捨てるつもりであとにのこしたフンドシ一本をわざわざ日本まで小包郵便で厳重に封をして送りとどけられたというエピソードもあるくらいだ。……」
 昭和35年『西日本新聞』に発表した記事『新生国家の精力と魅力―訪中日本文学代表団に参加して』の一節である。俄には信じ難い内容だが、50数年前のことはわからない。

 昭和35年、日本では60年安保で退陣した岸信介の後、池田勇人が内閣を組織し、所得倍増をぶち上げて国民の関心を政治から経済へ向けさせた年だ。その結果、日本中がガムシャラに働き、10年後にはアメリカに次ぐ世界第2位の国民総生産を達成したのだった。

 この昔の日本といまの中国を並べてみると、私はある共通に気付く。それは、国家の目標が実にわかりやすい言葉で、国民に提示されているということだ。魅力ある目標なら国民は一も二もなく踊り始める。所得倍増がそうだったし、いまの中国のそれは、察するに「アジアのリーダー」だろう。人民にとってこれは魔法の言葉だ。だから邪魔する者を威嚇したり暴力を振るっても、自分の行動は正当だとうそぶいていられるのだ。ナワバリを拡げるドブネズミさながらである。

 そしてひるがえって私は、いまの日本に一番必要なのは、こうしたわかりやすい言葉で国家の目標を提示することだと思うのだ。「集団的自衛権」などというフニャフニャした言葉、説明すればするほど内容不明になるような言葉ではなく、「自分の国を自分達で守る」とはっきり言ってしまえばいいのである。いつまでも虎の威を借りていたら、本当の喧嘩をする覚悟などとてもできないではないか。
 

2014年05月30日(金曜日)更新

第294号 〜面白さとお得感を基準に読む本を選ぶ〜

 読んでいる本の著者が、自分より若い人が多くなったなと感じ始めたのは、10年前あたりからだと思う。司馬遼太郎さんと山本夏彦さんが亡くなって、両氏の著作をあらかた読み尽くしてしまってからだ。もちろん両氏以外にも好みの著者はいる。私より年配の方なら子母澤寛、開高健、徳岡孝夫……。

 私の著者の好みには可成り偏屈なところがある。開高健は読むが大江健三郎は絶対読まない、村上龍は読むが春樹は読む気にならない、浅田次郎、宮部みゆきは読むが京極夏彦、東野圭吾はパス、ついでに、阿佐田哲也は読んだが色川武大は読まなかった……である。

 評論、小説、エッセイ、ルポなど内容は何であれ、私が読むものに期待するのは、面白さと同じ比重でお得感である。「へえー、そうだったのか、いいこと教わったなあ」と思う個所が、一つでも二つでもあれば満足する。どれほど為になる立派なことが書き連ねてあっても、そうしたお得感が全然なかったら、私にとっては数学定理の説明文と同じ、味気ない内容になってしまう。

 だから私はいつも、自分が書く文章にもできるだけ、そんなお得感を盛り込みたいと思っている。例えばつい先日,ASKAが覚醒剤所持と使用で警視庁に逮捕されたが、その際、栩内(とちない)とかいう女も参考人か何かで名前が出ていた。初めて見る珍しい姓なので早速調べた。
 手元の漢和辞典によると“栩”は音読みの「く」だけで訓はなく、木は“くぬぎ”をいうとあり、「とち」という読み方はどこにもない。漢字で“とち”は栃と橡があり、“くぬぎ”は櫟である。櫟は「いちい」とも読み、戦後間もない頃、プロ野球の東急フライヤーズ(日本ハムの前身)に櫟信平という左の好打者がいたが、後に阪神に移り間もなく現役引退した。なお本来の栃を用いた「栃内」という姓は岩手県に鎌倉時代からあり、地元では名族だ。また樹木の種類でいえば、とちはトチノキ科、くぬぎはブナ科で別物、どんないきさつから栩をトチと読ませるようになったものか、私も知りたいところだ……と、こんなことを書いてしまうのである。

 私がかつてよく読んでいた著者の本には、そんなお得感がたっぷりあったし、近頃お気に入りの若い書き手たちの著作もその点は変わりない。それにしても、彼ら若手達の勉強ぶりにはほとほと感心する。いつだったか、私より20歳近く若いH氏の本を読んでいたら「……三軒の書店を回って約百二十冊の専門書を買う……」「……単行本を書き下ろすため四百冊あまりの専門書を読破中……」などの日記の一節に出会って、びっくりしたことがあった。きちんとした仕事をしようと思ったら、これぐらいやらなきゃ満足できないのだろう。こうして考え方にしっかりした芯ができれば、表現はいくらでも面白く工夫できるし、付け加える飾り物もあれこれと集められるから、面白いお得感たっぷりの仕上がりになるのである。

 そういう若い人達に比べると、私などこうして一応書いてはいても、勉強不足もいいところだ。だが今更それを補うべくもない。精々ブックオフの100円の棚を漁りながら、手の届く範囲で頑張るだけだ。まあ、読まなくなった連中よりはましだろう……なんてことは言わないでおこう。
 

2014年05月23日(金曜日)更新

第293号 〜“話しかけ方上手”で良き友いっぱいの人生〜

 前回の原稿は『奥の細道』の日光の句をとっかかりにまとめたが、実は私達は日光には結構深い縁がある。私が退職する数年前から、出版健保の日光保養施設「つがのき」をよく利用するようになり、退職後は特例退職者として、また当地へ転居して後期高齢者になってからも出版OBとして、以前同様被保険者扱いで利用させてもらっているのだ。おかげで代々の支配人さんをはじめ、厨房などの職員さん達とも昵懇になり、いまでも時々一緒にゴルフをしている。

 考えてみると、こうした親しい関係が出来たのは、私の力より家内の性格、あるいは人柄によるところ大といった方がいい。これはつくづく感じている家内の特質だ。

 家内は一言でいえば“話しかけ方上手”である。“話し上手”や“おしゃべり”な人は沢山いるが、話しかけ方上手は初耳だろう。私も初めて言った。例えば時々行くファミレスのレジで、勘定しながら「いまごろの時間帯にしてはちょっと混んでて大変ですね」などと話しかける。空模様のようなありきたりの挨拶的話題とは違う、ほんの少し相手の立場に気配りした言い方である。これで相手も何となく打ち解けてしまう。こうした話しかけ方を家内はよくしているのだ。

 家内はどちらかといえば、おしゃべりな方である。一緒にいると私があまりしゃべらないので、より一層そう感じる。もっとも家内のおしゃべりは、世間によくいる耳障りなおしゃべり屋とは違う。耳障りなおしゃべり屋は自慢話が多い、座の中心になりたがるなど、いわゆる周囲の顰蹙を買う話し方をするが、家内の話し方にはそういう感じは殆どない。相手を気持ちよくさせる話し方だ。それが相手に好感を与え、何度か顔を合わせるうちに親近感も増してくるのだ。話しかけるタイミングや言葉の選び方など、これはいくら考え工夫したからって誰でもできるものではない。つまりは持って生まれた才能だろう。

 私など口を開く前に、頭の中で話の組立てを考える。家内に言わせると、私の話は初めは何を言いたいのかよくわからないものが多いらしい。頭で組み立てているうちに、主要テーマから離れた面白そうな前置きが浮かんできて、自分でもちょっと回りくどいなと思いながら、そこから話し始めてしまうからだ。家内同様身についた癖で今更しょうがない。要するに私達夫婦は、こと人付き合いに関しては、二人有無通じ合ってうまくいってきたのである。

 そして実は、私がここにこんな文章を発表するようになったのも、日光プラス家内の縁がきっかけなのである。7年前の6月末、私達は那須黒羽近辺でゴルフをした後、「つがのき」に行った。元禄の昔、芭蕉と曽良が歩いた道を逆に辿ったわけだ。その夕食時に私達の席の傍にヌッと立った人物がいる。当「ユーモアクラブ」の支配人氏だった。氏は私の背中側、テーブルの列をひとつ置いた向こうにいらしたのだが、家内の顔を遠目に見て気付いたという。家内は私と結婚する前、1年半ほどF社にいたので氏も見覚えがあり、併せて私も確認してやって来たのだった。このとき氏は免許取りたて、最初の長距離ドライブだったそうだが、まさに奇遇奇縁だった。食後カラオケルームに場所を移し、奥様共々飲みかつ歌い楽しいひと時を過ごしながら当クラブのことを伺って、早速書かせていただこうと決めたのである。

 以来毎週金曜日更新を積み重ねて、もうすぐ300回だ。おかげで私は体力だけでなく、頭の活動力も衰えさせないでいる。これもすべて家内をはじめ多くの方々のサポートの賜物だと、吾にもあらず殊勝に感謝しているところだ。
 

2014年05月16日(金曜日)更新

第292号 〜あらたふと青葉若葉の日の光〜

 これは芭蕉が『奥の細道』の日光で詠んだ句だ。近頃は“甚五郎煎餅”など土産物の包装にも書き込まれて、山寺の「閑かさや岩にしみ入るせみの声」や「荒海や佐渡によこたふ天の河」などと並んで、広く知られるようになったが、私はいつも初句の五文字に感心する。句は書き出しの「卯月朔日、御山に詣拝す」から東照宮開山の由来や威光をたたえた後に置いてある。つまりこの五文字は、東照大権現家康公を尊んだ言葉でもあり、これは元禄の頃の知識人として当然の心情だろう。その上で私はこの五文字を、いまの季節の爽やかな日差しや新緑の鮮やかさを、すぐれた詩的感覚で端的に表現して、これ以上はないと思っているのだ。

 卯月朔日とは旧暦の4月1日、現行の太陽暦に直すと5月19日、ちょうどいま頃になる。実はいまのこの季節、よく晴れた日に、わが家のベランダ越しに眺める青葉山の情景が、この句にぴったりなのだ。眺める方向はもちろん南、したがって私が眺める山の斜面は北側になる。だがこの時期、太陽は日の出から日に入りまで、可成り北寄りになっているし、日中も高いところにある。もう一週間もすれば、私が寝ている北側の部屋にまで曙光が差してくるほどだ。だからこの時季の北斜面は、晴れてさえいれば一日中陽光燦々、淡い新緑がキラキラと照り映えて、まさに“あらたふと”なのである。

 青葉山は市中心部から目と鼻ほどの近さだが、麓を巡る広瀬川からいきなり急斜面でせりあがっているので、人の手はあまり入っていない。市街地寄りの東麓に博物館や美術館、学校などの公共施設と、ちょっとした住宅地があるぐらいで、そこから上は東北大学と宮城教育大学の大きな建物が大部分を占めている。以前あったゴルフコースもいまは東北大学の新しい施設が建設中だ。これらのキャンパスへ通う学生達が通学路を“地獄坂”と呼んでいるのもうなづける。ましてや私が対面しているのは北斜面だ。稜線には電波塔などの人工建造物も点々と見えるが、それから下は雑木林、いや原生林といってもいい。聞くところによると、樹齢300年を越えるモミの木もあるそうで、淡い新緑の合間のあちこちにある、日差しをあまり反射しない濃緑の群落がそれだろう。

 この新緑の北斜面の一部に、見るからに場違いな人工の緑がある。鉄柱とコンクリートとペンキで斜面をえぐり取ったゴルフ練習場だ。カニの甲羅を原料にした健康食品メーカーが造成したものらしいが、同じ緑色でも大自然の新緑とは気品が違う。見るたびに、余計なものを造りやがって……と悪態をついている。
 もう一ヶ所場違いな色が、青葉山から東北道のICを越えた蕃山の斜面に見える。一帯は30年ほど前に開発された造成宅地だが、その一角の先の大震災で崩壊した例の盛土部分だ。揺れが始まったとき、「家が裂けるっ!」と叫んだ住人がいたと報道されて話題になり、以来ことある毎に取り上げられている個所だ。その土色むき出しの斜面のあちこちにブルーシートが点在して、いまだに復旧工事中なのである。ペンキの緑とは内容は違うが、青空の下のブルーシートもあまり見たくない色だ。

 私は樹木についてそれほど知識はない。マツとスギ、ウメとサクラなどを区別するのが精々である。私は台湾で生まれ、中学一年生で本土に引き揚げて来たので、子どもの頃に慣れ親しんだ木は、ガジュマルとヤシとヒノキぐらいだ。ガジュマルは木登りに最適だったし、ヤシは長い葉柄を肥後の守で削ってチャンバラごっこの刀を作った。そしてヒノキは地面に生えている樹そのものではなく、製材した台湾ヒノキの木っ端だ。近所にあった製材所から適当なのを拾ってきて、これまた肥後の守で飛行機や軍艦を作ったのだ。余談だが、明治神宮の大鳥居も台湾ヒノキで、私が通った南門小学校の父兄が納めた材木だそうだが、これは戦後も大分経ってから知った。

 そんな子どもの頃はもちろん、その後の30代半ば過ぎまで、私はいわゆる花鳥風月には殆ど関心がなかった。日本中が金儲けに突っ走っていた時代だったせいもある。自然を楽しもうと思いはじめたのは、50代になってからだ。それが遅かったか早かったかはわからない。しかし近頃は、新緑を眺めながら1時間ぐらい何となく過ごすこともできるようになった。もはや人生あせることもあるまいと、余裕がでてきたのである。この先ずーっとこの調子でいきたいものだ。
 

2014年05月09日(金曜日)更新

第291号 〜徘徊老人とボスザル・ベンツの大往生〜

 すでにご存知のとおり、いま日本に認知症の高齢者は約460万人、予備軍も約400万人おり、それらの中で徘徊癖が嵩じて行方不明になっている者は1万人に達するという。このうち死亡が確認された者はざっと数えて350人、残り9千人以上は住所姓名年齢など不詳のまま、どこかで見知らぬ誰かの世話になっているわけだ。

 先月初め頃だったか、NHKニュースがそんな事例をひとつ紹介していた。大阪市内の一角で保護され、とある介護施設に収容されている男性が、自分自身のことは何ひとつ話さないまま世話されているという内容だった。施設では“ナントカ太郎”と仮の名で呼ばれており、一日中何をするでもなくおとなしく過ごしている。その一週間後ぐらいに続報があった。テレビに出たおかげで太郎さんの身元がわかったのだ。隣りの兵庫県の人で年齢は75歳、住居は保護された地点から4キロほどしか離れていないということだった。

 この太郎さんのようなケースは稀だろう。テレビに取り上げられ、それが知人の目にとまって……という僥倖でもなければ見つかるものではない。わずか4キロの範囲内でさえそうだ。テレビに映っていた太郎さんは病身という感じはなかったが、特に足が達者という風にも見えなかったから、徘徊するにしても、普通の年寄りが出歩く程度だったのだろう。それでも4キロである。私など本気で徘徊し始めたら、どこまで行ってしまうかわかったものではない。

さて、私がこの太郎さんからすぐ連想したことがある。去年話題になった大分市高崎山のボスザル・ベンツである。ベンツは9月なかばに一度、群から離れて行方不明になったが、2週間ちょっとで戻ってきた。ベンツは推定年齢35歳、人間なら優に百歳を超えている。また一度群から離れたボスザルは、戻ってもボスに復帰した例はないという。だが群はベンツをボスとして迎えた。そして、それから2ヵ月半後の12月なかば、ベンツは再び姿が見えなくなり、今度は戻ってこなかった。群には新しいボス・ゾロメが誕生し、年が明けた1月なかば、市はベンツが死亡したものと発表したのだった。

 こうしたベンツの行動は老人の徘徊に似ている。ただし、ベンツが認知症だったということではない。一回目の行方不明から戻った際、ベンツはボスに復帰しているから、知能はしっかりしていた筈だ。したがって徘徊も人間のように認知症によるものではなく、ベンツ自身の意思、野生動物の本能から生じた行動だと思うのだ。そしてその目的を、私は“死に場所捜し”ではなかったかと想像するのである。一度目の徘徊で自分に相応しい場所を見つけたベンツは、一旦群に戻ってゾロメに後を託し、二度目の出奔で大往生したのだ。動物に人間感情を投影するのはタブーらしいが、そう考えた方が私も腑に落ちる。

 さらに言うと、私は認知症の徘徊老人も、自分の死出の旅立ちに相応しい舞台を、捜し歩いているのではないかと思うのだ。認知症になって常識や人間関係など世間のしがらみから解放されて、本能だけで生きるようになったからだ。その意味では、足腰達者でこれといった持病のない徘徊老人は幸せ者である。

 ベンツは人間から見ると、まことに理想的で羨ましい死に方をしたと思う。だがわれわれは程度の差はあれ、誰もが他の人とのつながりの中で生きている。理想ではあっても、こんな大往生はちょっと無理だろう。しかし気持ちだけならそれに近づくことはできる。そのために必要なものは、悟りか覚悟か……これから私も時にはそんなことを考えてみようと思っているところである。
 
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