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2009年12月11日(金曜日)更新
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第87話 弁護士への挑戦物語(9)
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それにしても、岐阜の米屋の三兄弟が起業した出版社(雑誌社)の双葉社といい、そこで一緒に第一組合で頑張った木谷仁哉君のブックマン社(出版社)といい、起業と、その存続発展の努力は大変なものだ。私が三年だけお世話になった双葉社は、いまだに入れ替わり立ち替わり人材が出たり入ったり、会社が経営できることは凄いじゃないか。
双葉社を定年退職した児玉さん(元、双葉社常務取締役)が、「ユーモアクラブ」のネットマガジンを始めたのも、なかなかのものだ。ただし、まだ、儲けには至っていないようだが。
私も三年だけお世話になったが、その後弁護士に転職して何とか生活しているが、何かと「もうひとう」なのだ。このまま朽ち果ててしまうのか。皆んな、それぞれ思うに任せ無いなかで生きているのだろう。
第一組合で頑張っていた白井さんはギョーザ屋で生計を立てているらしい。いつか立ち寄りたいものだ。彼も販売促進課(不当配転)にまわされたのだ。東京・世田谷赤堤と聞いている。私が週刊大衆編集部にいた時の編集長、塩沢実信さんは、東京新宿の小さな事務所で毎日執筆しておられ、おそらく100冊ぐらいの本が出ている。
このように、私もその一人だが、皆んな生きているのだ。
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2009年12月08日(火曜日)更新
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第86話 弁護士への転職物語(8)
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私は編集者のプロを目指して双葉社に昭和39年入り、アクシデント(労働組合問題)で昭和42年に退社し、5年間の時を経て弁護士となり今日に至ったが、どうも満足できないのだ。同人誌「奔馬」の編集長を33号までやり(現在35号)。ブログ「弁護士安田健介が日々考えていること」を4年余り続けエントリー約1万件、アクセス延べ32万人あるももう一つ満足できない。児玉さんの「ユーモアクラブ」に一部屋貰って「ヤスケンの私を笑わせた話たち」を一席演じていますが、これもどの程度の反応があるかさっぱり分からないのでストレスが溜まっている。
私は71歳になり第3の転職を模索しているがままならない。第3の転職希望はギリシャのソクラテスになりたいことです。つまり一般人の教師になりたいのです。いまや悶々としてキーボード叩いているのです。どなたか私の本を出してくれないかな。ただし自費出版はお断り。
こないだ、双葉社で第一組合の同志の木谷仁哉君(ブックマン社長)に、この「私を笑わせた話たち」26話を「奔馬」に載せたのを読んでもらったが、編集長から丁重に断られた。確かに出版界は大変なようだ。しかし私の作品の出版がひょっとして「バカの壁」、「窓ぎわのトットちゃん」、「サラダ記念日」、「気くばりのすすめ」、「福翁自伝」、「徒然草」たちと競争することにならないとも限らないことを分からないのか。
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2009年12月04日(金曜日)更新
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第85話 弁護士への転職物語(7)
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私は昭和50年大阪から京都に移り、今も同じところ(京都西南の地、方角でいうと、良くないところ、西院で賽の河原に通じるところという。西院をサイとも読む)でやっています。
最近私の所属する会派(七燈クラブ)から70歳の記念品がもらえるという。そんなもん、要らんわい。私は弁護士もうすぐ40年になるが、弁護士としては大したことは何ひとつしていない。それでは何をしたか。せいぜい京都弁護士会の弁護士に呼びかけて文藝同人雑誌「奔馬(ほんば)」を昭和末年に立ち上げ33号まで編集長をしたことくらいだろう。これも、大学時代の個人雑誌「混沌」4号まで発行、双葉社に就職、その延長線上でしょう。いまや「奔馬」編集長はやめたがブログ「弁護士安田健介が日々考えていること」、児玉さんの「ユーモアクラブ」の一室で「ヤスケンの私を笑わせた話たち」に熱中しています。丁度、志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」の主人公の如しだ。
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2009年11月30日(月曜日)更新
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第84話 弁護士への転職物語(6)
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私は昭和47年4月に大阪弁護士会に登録して弁護士スタートした。大阪の民事弁護士として有名な小倉武雄法律事務所に入れていただいた。弁護士5名の事務所だった。ここに3年居て昭和50年5月、独立して京都弁護士会に移り、今の事務所で始め、いまだに同じところにへばりついている。30数年だ。
ところで独立したころ、まだ40歳前のころ、私の出身高校(兵庫県立香住高校)から呼ばれて、全校生徒に対して檄をとばしたことがあつた。まあ、威張っていたのですね。それのみならず、夜、香住町内の漁業協同組合の会館で町民相手に「わが人生の中間報告」をしたのだった。ずい分ふざけていますな。
しかし、これ、おもんばかるに、岡校長先生(私の担任の英語の先生)が、私を政治家デビユーさせるつもりだったのではないか。私はその線は全く食指が動かず、たぶん、岡先生を失望させたことでしょう。
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2009年11月27日(金曜日)更新
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第83話 弁護士への転職物語(5)
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今の法科大学院時代と違って、私が試験勉強始めた昭和42年頃は大学教養部の単位を取得した者は誰でも受けることができた。ただし合格率3パーセント弱はいかにも「難関」の印象があった。たしか私の時は2万人余りが試験に挑戦し、試験は3回に分けて行われた。1回目は○×式60問の試験で、ここでフルイにかけら2000人ほどが残り、2回目は論文試験で、ここで600人くらいが残り、3回目は口頭試験で、501人が残った。私は222番で受かった。順位まで知らせてくれるんですよ。いやらしいですね。
法科大学院システムが無かった私の受験のころの仕方の定番は、何人かの同目的者が集まって所謂ゼミナールを組むことだった。私も姫路で同目的者(裁判所書記官2人、市役所職員、学校の先生、弁護士の息子、司法書士など)と勉強会をした。受かったのは私とあと1人(裁判所書記官)だった。もう1人の裁判所書記官は、簡易裁判所裁判官試験に受かり簡裁判事に転じた。しかし、刑事裁判の被告人の女性と親密になったことで裁判官を失脚した。このことは、一時、大いに話題になった。
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