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安田健介
弁護士・S13生まれ 京都在住
同人誌「奔馬」編集長

このたび、ユーモアクラブ支配人の児玉さんと再会し「私を笑わせた話たち」を連載することになりました。人間のつながりは、不思議なものですねえ。私は関西人間、児玉さんは北海道人間、昭和39年に双葉社という出版社に私、入社しまして3年で退社しましたが、その間のつながりです。
でも空白が長く40年以上の時をへだてた再会です。これぞ、まさに情報化時代の付合いのあり方でしょうか。
私は、「笑い」については、相当の関心をもってきましたので、それを発表できることは嬉しいかぎりです。
どうか、宜しくお付合いください。

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2009年11月24日(火曜日)更新

第82話 弁護士への転職物語(4)

 双葉社労働組合物語(全14話)のとおりの経緯で昭和42年に私は双葉社を退社しました。私が嬉しかったのは、販売促進の浅井課長が私の送別会をやってくださり、お世辞ではあるにしても
「安田君がこのたび法曹界に転職することになり、」
 といってくださったことです。
「君なんか試験に受からないよ」
 と宣言した人、数人あり。その一人は私のバカ兄の連れ添いだった。これらも、大いにバネの役割を果したのです。
 人間、やはり、感情の動物ですなあ。
 

2009年11月20日(金曜日)更新

第81話 弁護士への挑戦物語(3)

 昭和40年代と今とは弁護士(裁判官・検事も同じ)の資格入手の制度(システム)が異なる。もっと昔は、また違っていた。なにしろ旧帝国大学(東大や京大)法学部出たら無条件で弁護士資格ありの時代でもあった。
 私が大学時代と京都弁護士会時代に縁をいただいた小林為太郎弁護士(上岡龍太郎のお父さん)は、京大法学部出身ゆえに無条件で弁護士の資格を入手されたのだ。今は法科大学院で2〜3年勉強して何割かが受かるシステム。
 私のときは司法試験一本槍のシステムだった。だから2万人余りの受験者があり501人が合格したのだ。3%弱の合格率だった。このやり方だと受験予備校がはびこり、試験合格をかすめ盗る「実力なき合格者」が出る弊害ありとして、今のシステムに変えられた。
 はたして今のシステムが良く機能しているかは知らない。まあ、私も試験合格をかすめ盗った一員かも知れない。なにしろ京大合格、大学の時のドイツ語単位修得、双葉社入社などにつき、私は結構、作戦上手だったのだから。
 

2009年11月17日(火曜日)更新

第80号 弁護士への転職物語(2)

 私は双葉社を退職した昭和42年から5年後の昭和47年から弁護士業をスタートしたが5年かかったのだ。試験受かるのに2年、研修するのに2年かかったからだ。あとは、タイムラグ。今からふり返ってみるとこの間は結構楽しかった。女房はいるし、その実家でそれこそ自由に勉強できるし。私は幸いウツにならなかった。ひたすらポジテブ志向だった。1年後の試験も「もう少し」ということだった。2年後の試験は発表1時間前に合格を知らされていた。これ、問題だろう。しかし、「ツテ」によって私は1時間前に「合格」を知ったのです。
 

2009年11月13日(金曜日)更新

第79号 弁護士への転職物語(1)

 私は20代の終わり、昭和42年に双葉社を辞めて台所(妻)の実家・姫路の離れに身を寄せて司法試験を目指し昭和44年に合格した。そして、2年間の司法修習の後、昭和47年4月から弁護士スタートした。この間2年ほど(弁護士を始めるまで5年)、私は血液型O型と関係あるかどうか分からないが「試験に受かることは当然」と自信持っていた。双葉社に入社した時の10数人の中にハチヤ君というのがいて司法試験受けるため途中で辞めたがどうなったのか。
 私が双葉社を辞める時、坂本修弁護士から職場に残るよう説得を受けたが、私は「弁護士をやりたい」と予ねて考えていたことを思い出したのだ。しかし、昭和42年双葉社を辞めた時法律的知識はゼロといっても良かった。大学はごまかして卒業したのだから。私は好きな囲碁においても勝っていると思っていても負けてること極めて多い。つまりシビアに見ていないのだ。司法試験はなんとかクリアしたけど。
 

2009年11月10日(火曜日)更新

第78話 双葉社労働組合物語(14)

 私は昭和39年双葉社に「編集のプロ」を目指して入社し当初は編集部員としてスタートした。1年後オーナー経営者の意に反した労働組合が突然立ち上がり、私も中心的役割を果たして、いわゆる「不当労働行為たる不利益処分」たる編集から地方書店まわりに配置転換させられた。私はそれを結構楽しんだとはいえ、やはりオーナー経営者の目論みどおり嫌気をさして入社3年後に自発的に退社した。
 この不当配置転換は他の第一組合員は全員、東京都地方労働委員会の「救済命令」で救済された。私はそれを待たずに退職した。
 地方書店まわりの思い出いろいろあるも現在まで引き継いでいるのが「結婚」だ。書店まわりのついでに京都の大学時代の下宿に一泊したことがあつた。下宿のおばさんは私を大歓迎してくれて良い嫁さんを紹介すると張り切った。その結果、姫路駅で昭和40年秋ごろか、現在の台所(妻)と見合いし41年春に結婚したのだ。彼女は梅花女子短大英文科を首席卒業し姫路の商工会議所に勤めていた。20歳だった(私28歳)。彼女の父は長年小学校の教師をしていて当時校長だった。実家は裕福な農家だった。この結婚の成否の総括は、まだ、できていない。
 
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