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安田健介
弁護士・S13生まれ 京都在住
同人誌「奔馬」編集長

このたび、ユーモアクラブ支配人の児玉さんと再会し「私を笑わせた話たち」を連載することになりました。人間のつながりは、不思議なものですねえ。私は関西人間、児玉さんは北海道人間、昭和39年に双葉社という出版社に私、入社しまして3年で退社しましたが、その間のつながりです。
でも空白が長く40年以上の時をへだてた再会です。これぞ、まさに情報化時代の付合いのあり方でしょうか。
私は、「笑い」については、相当の関心をもってきましたので、それを発表できることは嬉しいかぎりです。
どうか、宜しくお付合いください。

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2009年08月21日(金曜日)更新

第57話 妖しき春はむかし (1)

 大学生の私と京都の弁護士・小林為太郎さんとの奇縁。その後、私が京都の弁護士となり先生とつながったこと、先生見送りの件、上岡龍太郎氏との挨拶のことなど語った。
「妖しき春はむかし」は、「スバル」10号(昭和36年8月)に、先生が発表した作品です。私の作品をその一部として紹介して頂いた(第43・44話)。「スバル」の作者たちのうち、私は小林先生をダントツと評価しています。私の大学時代の個人雑誌「混沌」を多分先生は評価されていたのでしょう。私の予備校時代(昭和32年)の、島原遊郭上がり>を先生は採用した。そのことは43・44話で「表現のちがい」として示した。ちょうど昭和36年に「スバル」で「はじめての経験」という特集あり、小林先生は「妖しき春はむかし」を発表したのだ。その刺激のひとつとして私の「島原体験」が引用されたのです。「妖しき春はむかし」は七章からなり、二章では私の「混沌」の文が引用されたのですが、小林先生の魅力を私はお客さんに伝えたい。しばらくお付合いください。
 

2009年08月18日(火曜日)更新

第56話 「奔馬」発行時の私の意気ごみ

 昭和63年4月「奔馬」創刊号は発刊した。私は昭和13年3月生まれだから50歳の時。「スバル」終刊9年後、小林弁護士逝去後3年だ。私の体内でエネルギーが湧いてきたのだ。今回はその創刊号の私の「発刊の口上」を読んでもらおう。必ずしも笑ってもらえないにしても。

「発刊の口上」
 1987年(昭和62年)10月4日、日曜日の長い秋の夜の入口をはいってまだ間もない刻であった。すべての人、いなすべての生きものはこの時何かをしていた。
 京都の鴨川べりにある碁所(日本棋院京都本部)では、この日京都法曹碁会が開かれて、十数人のすべて下手な面々が、それでもその程度に応じて個々の頭の嵐を楽しみ、懇親会も済んでさらに第二次、第三次の奥深い快楽を追求するため散っていった。中に三人、残って碁に執着するのがいた。他にゆくところがないものと見える。二人が対戦し、一人が観戦していた。その中の二人が、「同人雑誌をやりたいですなあ」「やりましょうか」と話した。懇親会の酒とビールで、体内環境は、欲望がだらしなく口をついて出る状態になっていたのだろう。ビールは「アサヒとスーパードライ」だったか知らない。酒は京都伏見の「月桂冠」だったか知らない。
 数日後、二人が三人になり、さらに三人が書面で人を誘った。「訴状や準備書面のような型にはまった文章ばかり書いていては飽きるので、文学的香りのする文章を書いてみないか」と。すると現在までに22人が集まり、創刊号となった次第である。予定としては年4回発行である。誌名の「奔馬」(ほんば、副題、京都法曹文藝)は、提案、協議で決まった。どこまで、いななき駆けていけるか。
 こうなるについては、先輩弁護士のことが頭にあったのである。調べてみた。1958年(昭和33年)9月に創刊号、1979年(昭和54年)10月に終刊27号の21年間に亘る27号の同人雑誌が出されていた。名を「昴」(SUBARU)という。各弁護士会にも送ったと記載がある。創刊号の熊谷康治郎の「発刊のことば」には、「私らは、ふだん訴訟書類や、弁論要旨に、・・・理路井然たる文章を書いている・・・、これらの書類の作成はいわば法律技術であって、文学や芸術といささかのかかわりがないから、その文章に高雅な味わいや馥郁たる香りが欠けて居り、面白味やユーモアが薬にするほどもない、、。それで果たして可いものだろうか」というような議論から発刊に至ったことが述べられている。「すばる」(昴)という名は、明治末から大正初めの同名の文藝雑誌名を採用している。弁護士で「逆徒」「長者町」その他十数編の小説を同誌に載せた平出修にあやかっている。
 さて、先輩弁護士たちの「昴」は、当初は年4回発行していたが、終わりごろは2年に1回になり、「今生の思い出に一つ書いてくれとまで頼んだが、気に乗らないらしい」と小林為太郎編集長の薬石も効がなかった。(後、数行略)。
 こうして、「奔馬」は始まり、私が33号まで編集長をやり、今や私から離れて2人編集となり35号まで発行中です。
 

2009年08月14日(金曜日)更新

第55号 労働組合という発想

 私は「労働組合」という発想を実におもしろい発想だなと思うのだ。この発想はアングロサクソンの発想だとつくづく思うのだ。ラテンでもない、フランス系でもない。「労働組合」という働く集団となって初めて経営者と交渉ができるというシステムだ。いま、まさに地方分権(主権)システムが構築されようとしているのと同じだ。
 労働組合の歴史は,つみ重ね大いにあり現在にいたっている。私が出版社「双葉社」に昭和39年入社し、たまたま昭和40年「労働組合」が立ち上がったのだ。そしてたまたま私が「副分会長」として関与したのだ。
 

2009年08月11日(火曜日)更新

第54話 無借金経営

 私が昭和39年から42年までお世話になった出版社「双葉社」は、岐阜の米屋の三人兄弟が戦後始めたこと、「キャラメル商法」、のことなど語った。
 この出版社は平成21年現在も健在です。「週刊大衆」「漫画アクション」などの雑誌や新書、文庫、ハードカバーの単行本も出している。時にはベストセラー本も出している。漫画のベストセラー多し。「クレヨンしんちゃん」「子連れ狼」「がんばれタブチくん」「嗚呼!花の応援団」「ルパン三世」等々。これらは私の退社後であるけれど。
「週刊大衆」のライバルは「週刊アサヒ芸能」だった。いまどうなっているのか。ちなみに「週刊朝日」VS「サンデー毎日」。「週刊現代VS週刊ポスト」。「週刊文春」VS「週刊新潮」です。
 現在、双葉社経営は岐阜の三兄弟から他に移ったという。どういう移り方か知らないが三兄弟はいま、どうしていられるのか。
 ところで「双葉社」の経営上のビジネスモデルは「キャラメル商法」の他に「無借金経営」があったらしい。お金を沢山持って始めたらしい。このビジネスモデルは文句無くいいもでるがだが、起業家はそうはいかないのでベンチャー投資会社から資金をあおぐ方式が必要だ。無借金経営、不動産(自社ビル持ち)などあったので経営もスムースに移転し、現在に至っているのだろう。
 私は3年しかいなかったけれど何百人もの人たちが入れ替わりしてこの会社を支えてきたのだ。
岐阜の米屋の三兄弟に「マンマンチャン、アン」
 

2009年08月07日(金曜日)更新

第53話 小林弁護士とのお別れ

 第49〜51話のとおり、私は小林為太郎弁護士(愛称タメさん)と大学時代にご縁をいただいた(弁護士志望と称して2年間返済無用の奨学金をいただいた)が、何ら法律の勉強もせず出版社に入社し、3年で辞めてから思い出したように勉強して、結果として弁護士になり大阪時代3年を経て、昭和50年京都で独立開業して小林弁護士と再会した。そのとき、すでに語ったとおり京都弁護士会の有志弁護士たちは「スバル」という文藝同人雑誌を続けていたが、だいぶんエネルギーが無くなりかけていた。中心の5人をふくめ皆んな歳をとっていたからです。私が京都弁護士会に入ったものだから、小林弁護士に原稿を書くよう勧められたが、私はその余裕がなく書けなかった。
 ついに昭和54年、27号をもって「スバル」は終刊した。小林弁護士は昭和60年逝去された。民事事件3件は私が引き継いだ。先生の葬儀の時、私は始めてにして終わりの先生ご自慢の漫才師(漫画トリオのパンチ、その後の上岡龍太郎氏)と黙礼を交わした。
 
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