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安田健介
弁護士・S13生まれ 京都在住
同人誌「奔馬」編集長

このたび、ユーモアクラブ支配人の児玉さんと再会し「私を笑わせた話たち」を連載することになりました。人間のつながりは、不思議なものですねえ。私は関西人間、児玉さんは北海道人間、昭和39年に双葉社という出版社に私、入社しまして3年で退社しましたが、その間のつながりです。
でも空白が長く40年以上の時をへだてた再会です。これぞ、まさに情報化時代の付合いのあり方でしょうか。
私は、「笑い」については、相当の関心をもってきましたので、それを発表できることは嬉しいかぎりです。
どうか、宜しくお付合いください。

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弁護士 安田健介が日々考えていること

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2009年03月13日(金曜日)更新

第12話 島原遊郭初体験

 お客さん、特に若いお客さん。「遊郭とは何ぞや?」でしょう。今でも、一部続いているらしいでしいですよ。
 売春防止法が制定され、昭和33年3月で無くなった(建て前上)のです。京都では島原、中書島、五番町、宮川町などに遊郭があったのです。私の予備校時代(昭和32年)が最後の年だったのです。
 私の下宿が島原(シマバラ)に近かったのです。そこで、私は、19歳の私は、そこに、気持がいきますわなあ。予備校の岡田さんのおもしろ話もウワの空。昭和32年6月のある日、決意したのです。下宿の帰り道です。遊郭の門をくぐり、歩く。誘いの女たちが、声をかけるが、しらぬ顔。だんだん出口に近づく。これではならじ、と、思うが、体がこわばっている。
 出口近くの、ばあさんの声にひかれて、入る。初めての、行事する。みじめな行事。それでも、歓喜の一面あり。このようにして、一人前になっていくのか。
 

2009年03月10日(火曜日)更新

第11話 私の自由奔放

 というほどでもない。昭和32年予備校時代だ。田舎から都会にきてまさに「自由」を感じたのだ。京都の親戚に下宿して予備校に通い岡田先生のおもしろ話、その他結構おもしろ講義あったよ。数学のヒロナカヘイスケ先生もいた。
 私の下宿の親戚は私を優遇してくれたし、私は「自由」を満喫した。私の下宿が島原遊郭の近くにあったことが、私の問題だったのだ。結局、夏ごろソコ(遊郭)に上ったのだ。それから、京都の他の遊郭にも行き4人の仲間の経験しないことを私はしたのだ。
 私の父が、私の下宿にやってきたとき、親戚のオカミは「ケンスケさんは勉強熱心で、体大丈夫かと心配してます」と父に言っていたのを、私は心地よく聞いていたのです。この昭和32年は、とても快適な年でした。遊び方がた勉強した年でしたから。京大法学部にはかろうじて(後から三分の一)受かったことを、後から知ったけど。
 

2009年03月06日(金曜日)更新

第10話 岡田先生のおもしろ話

 昭和32年4月から33年3月まで、兵庫県日本海の香住(かすみ)高校から、大学すべった4人が京都の予備校に行き、33年(翌年)には4人とも大学に入った。この年は、なかなかおもしろい年だった。
 私は京都の親戚の家に下宿した。今と当時は全然違う。昭和32年は京都では路面電車が都大路を走りぬけていた。私もそれを利用して予備校に通っていた。
 岡田先生の「おもしろ話」が楽しみだった。1時間半の講義の前半は「おもしろ話」。後半は、「さあ、きれいに訳しましょう」と英語の本題に入るのです。岡田先生の「おもしろ話」前回は、父の髪の白髪になったのを見て、「ああ、おやじも年とったなあ、親孝行せんならんなあ」と感じるか。「あ、おやじの毛髪の色素が欠乏した。カミノモトをつけなさい」と言うか、という話をした。
 このように、岡田先生は二つの考え、感じ方の対比を受験生に示して、受験生の考えの幅を広げるのだった。だから、話はいっぱいあるが、もう一つ。
 ある男が、いさかいある男にピストルで殺そうとして、ピストル発射したが、相手からそれた。その場合、二つの考えあり。
 一つ「殺人未遂だ」という考え。もう一つ「ピストルがカチンと鳴った」
 

2009年03月03日(火曜日)更新

第9話 予備校 岡田先生による衝撃的話

 私、昭和32年、兵庫県日本海岸香住(かすみ)高校を卒業して、京大法学部に申し込んだが、「ムネン、サイキヲキセ、イッソウノベンレイヲノゾム」だった。
 そこで、私は京都の親戚に下宿して、近畿予備校アドバンスドクラスに通った。4人一緒だった。この4人は翌年すべて大学(京大2人、京都府立医大1人、滋賀大1人)に入った。この昭和32年の予備校体験もオモシロ体験だった。
 岡田先生、おもしろかった。英語の先生。旧制三高の先生だったらしい。英語の講義の前半は「オモシロ話」、後半を本業としたのだ。前半「オモシロ話」に私は熱中した。これ、いろいろあるけど、今回と次回の二つを紹介する。
 旧制三高は、こういう先生がいたのですね。私の香住高校には考えられない。いや、その後校長になった岡先生が唯一の先生だが岡田先生の足元にも及ばない。近畿予備校の先生でも岡田先生のほかほとんどいない。それほど、人間の力というものは優劣あるのです。
 私は、岡田先生の話をお客さんに伝える能力ないけれど、ふたつだけ語るだけ。今回その一つ。
「みなさん、お父さんの髪の毛が白くなっていたら、どう感じますか」
「あ、おやじに苦労かけたな。これから親孝行しなければと思いますか」
「それとも、おやじ、髪の色素が欠乏した。カミノモト使いなさい」と感じるか。
 

2009年02月27日(金曜日)更新

第8話 もうひとつ兄の話

 どうも、下ネタで恐縮ですけど。私、中学時代、10歳年上の兄は20歳代。青春まっさかり。付き合ってた女性がいたようだ。私、彼女から兄への手紙をこっそり読みました。
「この間お会いしたとき、抱いて欲しかったのですけど、メンスだったのです。ゴメンナサイ」という意味の手紙であった。私は「メンス」という言葉に、なぜだか興奮した。いまや、「メンス」という言葉も「月経」という言葉も見聞きしませんね。なんて、いってるんですか。私40歳ごろ、付き合ってた25歳ぐらいの女性は「月の訪問者」といってたけど。この兄への手紙を私は、中学時代盗み読みして、こないだ兄と彼女が会ったときのことを想像しておかしく感じた。
 兄は、どうやら、ソレを言わなかったのか。彼女も言わなかったのか。その話題なしに一日過したのか。兄も案外純情だったのか。そのことを彼女は手紙で釈明したのか。兄と彼女は結婚していません。
 私の大学時代の付き合いといい、兄の20歳代の付き合いといい、そういうことはごくありふれた男女の付き合いなのでしょう。
 
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