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安田健介
弁護士・S13生まれ 京都在住
同人誌「奔馬」編集長

このたび、ユーモアクラブ支配人の児玉さんと再会し「私を笑わせた話たち」を連載することになりました。人間のつながりは、不思議なものですねえ。私は関西人間、児玉さんは北海道人間、昭和39年に双葉社という出版社に私、入社しまして3年で退社しましたが、その間のつながりです。
でも空白が長く40年以上の時をへだてた再会です。これぞ、まさに情報化時代の付合いのあり方でしょうか。
私は、「笑い」については、相当の関心をもってきましたので、それを発表できることは嬉しいかぎりです。
どうか、宜しくお付合いください。

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弁護士 安田健介が日々考えていること

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2009年02月20日(金曜日)更新

第7話 大学時代の恋

 兄からの有害情報ブロック、ないままに私は育った。
「逆読みあそび」「春歌」こういう情報はいまないんではないか、その必要ないもの。何故ならズバリそのものの性行為、情報はあるし中高生ともそれをやっている人が多いとか。
 つまり、想像する必要なく現実なんだよね。これ、良いことなのかどうか。
私のこと、語る。
 大学時代、結婚するかどうかという女の人と付き合った。その人と結局、結婚しなかったけどね。その人は文学少女だった、私はその人に惚れた。昭和30年代、カネボウに四国中学から来ていた。その人に私は大学時代惚れたのだ。私が、東京の出版社に入ったときも追いかけてきた、結局ダメだったけどね。私の経済と彼女のソレがソゴしたのだ。いま、どうしていられるのか。私は彼女とハダカで何回も抱き合ったよ。しかしチョメチョメはしなかったよ。こんなこと、今ではあるのかどうか教えてください。やろうとすれば、10回以上チャンスはあったよ。しかし、私はしなかった。これフシギですねえ。いまだったら、きっと指を動かしてチョメチョメまで誘導したでしょうね。チツに指を入れると泉がわいていたよ。
 

2009年02月13日(金曜日)更新

第6話 兄から「有害情報」侵入のこと

 10歳年上の兄から、私への「有害情報」というか「おもしろ情報」というか、私の小中学校時代、相当あります。今から60年前のことです。今ではネットの「有害情報」問題があって、そのブロックシステムがあります。60年前にはネットありませんから「有害情報」もありません。それでも、若者は性的にもだえていますから、口コミで、情報を得たり、出したりするのです。その隙間をうめるのに、いわゆる「春歌(しゅんか)」があったのでしょう。「春歌」とは、「春画」に似たものです。今は「春歌」不要でしょう。
 私の兄の時代は「春歌」必要時代だったのでしょう。
若いお客さんよ。
あなた方は、中高生でセックスしている人もいるでしょう。私の場合は、それは無かったのですよ。その、時代の違いもあるかも。
 想像力による「セックス」「性」へのアプローチをするのです。その「道具」が「春歌」だったかも。
 私が兄を通じて知った「春歌」沢山あるも、そのひとつ

イ、うちの母さん センタク上手
  夜の夜中に サオさがす

ロ、うちの父さん キツネかタヌキ
  夜の夜中に アナさがす

 これ、若いお客さん、理解できますか。理解できると思いますが念のため「正解」言いましょう。「アナ」は「女性性器」。「サオ」は「男性性器」です。
 

2009年02月06日(金曜日)更新

第5話 10歳上の兄のこと

 第1話で話したとおり、私と兄は10歳ちがいです。いま、わたし70歳、兄80歳、兵庫県豊岡市で生きている。
 第1話「みかん事件」は、私4歳、兄14歳のときの話です。母は私より30歳上です。つまり、母30歳のとき私が生まれたのです。母は、いまやアッチの世界です。
「10歳年上の兄がいる」ということは、10歳年下の私にとっては、相当タイヘンなことなのです。何故なら、私4歳のころ兄は第1話のとおり、かなり進んだ「ミカン食べたと言うなよ」という圧力うけたのですから。その結果、私は母に「ぼく、戸棚のミカン食べへんかったで」という、クッセツした返答をしたのですから。
 この兄から、今や影響力ありませんが、若いころ、20代頃までは随分影響を受けました。ちなみに私の弟は、私より10歳下ですが、兄から私が影響を受けたほど、私は弟に影響を与えていないと思います。時代の違いでしょうか。
 そういう訳で、昭和20年(1945年)前後、私は兄に翻弄されたのです。
そのひとつ。
「逆読みことば遊び」がありました。
「タイツリブネニコメオタビナシ」と言うのです。
 この逆読み遊び、私4歳ではとても理解できないから、もうちょっと先だったかもかも。 
「鯛釣り船に米を」までは分かったが、「タビナシ」は未だに「意味不明」なのです。
 お客さん、分かりますか。
 

2009年01月30日(金曜日)更新

第4話 陽子さんとの初恋のこと

 私の小学校時代は、昭和19年(敗戦一年前)から、昭和25年です。いわゆる、「ソカイ」ですね。京都の本屋から、父の実家の兵庫県日本海そばの「ヤスギ」に避難したのです。
 いまどきの若い人は「ソカイ」(疎開)も、わからないかも。まあ、京都という都会から、田舎に避難したのです。これから、戦争があったら、あなたも「ソカイ」することになりますよ。
 そういうわけで、私は、京都ではなく、兵庫県日本海そばで、小・中・高校を過したのです。
 その「安木小学校」全校生徒、「ソカイ」人含めて60人台。私の同年は14人。複式授業。これ、わかりにくいでしょう。1年2年(3年4年、5年6年も同じ)で同じ教室。ひとりの先生なのです。

 日本が、戦争に負けて3年後(私、小学4年生)から、学芸会あり、その初演は「舌切りスズメ」で、私が主演の「爺さん」。相棒(ちょん)のスズメが陽子さんだった。それ以来、私は、陽子さんに恋をしたのだ。
小学5年ごろ、当時、生徒で教室を掃除していた。そのとき、陽子さんは、私にヒイキして、雑巾をしぼってくれたりしてくれた。そのことは、みんなに知れわたり、ヒイキ、ヒイキと、はやし立てられた。

昭和25年、小学卒業し、陽子さん、どっかに行ってしまった。
私の父は、実家にはいつくばったため、私も、高校までそこにいた。

 いまから4年前、小学校同級会を京都でやり、陽子さんも参加した。私が掃除のときに、とくべつ、雑巾しぼってもらって、みんなからはやされたこと、話すと、陽子さん、憶えておらず、
「たんに、サービスしただけと思う」と、語った。
 

2009年01月23日(金曜日)更新

第3話 よしむら せいてつさんから笑わせられ

 私の、高校までの笑いエピソードは、いま思い出せるのは、いじょうのたった二つです。
 いや、掘りおこせば、まだ、あるはずですが。
 私の4歳のときの、笑いのエピソード「戸棚のミカン食べへんかったで」は、我ながら、おかしい。
 私は、おかあさん、母親と親しかったというか、腰巾着の関係だったので、このようなヤリトリになったのでしょう。
 私と、母親のシンミツさは、相当な関係です。いや、別に、母と息子の性交はありませんよ。しかし、私と母は、ヤイト、すえあえ関係でした。
 そのとき、私は、母の体を見るわけです。おしりの丸みとか、見ています。
 私の、女性観察第1号でしょうか。おっぱいも、当然見えるんです。あやちゃんと違って、ぺっちゃんこです。
 あやちゃんは私のガールフレンドです。私70歳、あやちゃん、30歳です。
 
 ここで、私が笑える<笑い作品>に、であったのです。
 理論社発行 「一年一組せんせい あのね」という本です。
 この本、とても、面白いですよ。
 よしむら せいてつさんの小学一年生の、文は、特におかしい。

       ぼくのおふる

ぼくが あかちゃんのときに つこうとった ほこうきが 
いまでは いもうとに とられとう
いもうとは ほこうきであっちへいったり 
こっちへいったりして ごんたしょる。
ぼくが あかちゃんのとき つこうとったものは 
まだいっぱいあるけど おとうとや いもうとが
みんなつこうて いまではみんな ぼろになってしもうた
おかあさんの おちちかて ぼくのおふるやで
そやから おかあさんの おちちは
ぼろで ぺっちゃんこ
 
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