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安田健介
弁護士・S13生れ 京都在住
同人誌「奔馬」編集長

『私を笑わせた話たち』同一人
「笑話」は毎週「火・金」発表
200話を超えて継続中です。
この度、支配人におねだりして
『私を考えさせた話たち』を
毎週「木」に発表させて頂く
こととなりました。
何故なら「笑い」は生活を
笑い視点から照らすものなので
硬直的思考をときほぐし、少な
くとも二次元的視点を手に入れ
て、快感を入手するものです。
しかしそれだけでは、生きる力
(チカラ)に足りない。
「笑い」の基盤たる「考える」
を掘り起こす要ありと考えたの
です。
どうか、お付合いください。

ブログ
安田健介は なにを 考えているか
http://plaza.rakuten.co.jp/
satotakehiko/

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2011年08月01日(月曜日)更新

第5話 津波てんでんこ逃げろ

 私は主に関西方面で73年生きてきて、津波に出くわさなかったのは、運がよかっただけだ。

 4ヶ月前(平成23年3月11日)の三陸沖の地震大津波、78年前(昭和8年)115年前(明治26年)にも同じ海に地震大津波が発生し、明治津波2万2000人、昭和津波7000人、平成津波2万7000人の死者がでた。

 この地域内に大正末年に生まれた山下文男さんは、今87歳。明治津波は自身、経験していないが、一族8人が死んだという。昭和津波は小学生のときであった。

「津波だ!」の声を聞いて親子10人が家を飛び出し、山に向かって雪道を裸足で走ったのですが、もう親も子もありません。それこそ「津波てんでんこ」(てんでんばらばら)で、親でも子でも他人のことなどかまってはいられない。夢中です。

 昭和津波から78年後の今年(平成23年)3月11日に、三度目、地震大津波が三陸沖にやってきたのだ。

 山下さんは、この地区に居つき、政治活動や地震津波の防災のため、ずいぶん尽力されたようである。

 そして、山下さんは、小学生のときの昭和津波と、78年後の今年の平成津波にでくわした。

 今年3月11日、山下さんは、陸前高田市の病院4階に入院していて、津波を眺めていたら、病院4階まで津波が上がってきて、首まで津波につかりながら、カーテンにしがみついていて、生き延びたという。

※今号より月曜日・木曜日に更新します。
 

2011年07月28日(木曜日)更新

第4話 寺田寅彦の見た人間の自然現象

 昭和8年5月、寺田寅彦は「津波と人間」と題するエッセーを書いた。「同年3月3日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津波が来襲して、沿岸の小都市村落を片端からなぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った」と書き始め、次いで「明治29年6月15日の同地方に起こった、いわゆる「三陸大津波」とほぼ同様な自然現象が、約37年後の今日再び繰り返されたのである」と書き次いだ。

 同じような現象は、過去繰り返され未来にも繰り返すのだから、相当な対策を尽くして、災害防止ができてよさそうだが、そうならないのが「人間界の人間的自然現象」だと、寺田寅彦は見ている。

 津波が起きた37年前には、海から高い所に住居を移していても、だんだん、低い所を求めて人口は移っていき、37年後に到るのだ。

 なんでそうなるのかの「人間的自然現象」につき、寺田寅彦は十分、分析解明している。

「人間の健忘症にくらべて、『自然』は過去の習慣に忠実で、頑固に、保守的に、執念深くやってくる」ことを寺田寅彦は指摘している。

「結局、人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するよりほかにないであろう」という結論と、台風や地震に強い家ができたからといって、津波は防げないことを知り、津波対策するしかない。

 地震国日本の小学校で、少なくとも毎年1回、1時間や2時間ぐらい、地震津波に関する特別講演考えるべし、と寺田寅彦は提案している。

 昭和8年3月3日から、こないだ(平成23年3月11日・三陸大津波)まで、78年が経った。
 

2011年07月21日(木曜日)更新

第3話 福澤諭吉の好んだ文

 私は福澤諭吉の書いた(語った)「学問のすすめ」「文明論の概略」「福翁自伝」を、こよなく好む。これからも読みかえしたい。

「福翁自伝」(岩波文庫)25ページの次の文章だけは、そのまま、お客さんに伝えたい。

 あるとき私が何か漢書を読む中に、喜怒色に顕わさず((きどいろにあわらさず)という一句を読んで、その時にハッと思うて大いに自分で安心決定(あんじんけつじょう)したことがある。「これはドウモ金言だ」と思い、終始忘れぬようにして独りこの教えを守り、ソコデ誰が何と言って誉めてくれても、ただ表面(うわべ)に程よく受けて心の中には決して喜ばぬ。また何と軽蔑されても決して怒らない。どんなことがあっても怒ったことはない。いわんや朋輩同士で喧嘩をしたということは、ただの一度もない。ツイゾ人と掴合(つかみあ)ったの、打ったの、打たれたのということに一寸(ちっ)ともない。これは少年時分から老年の今日に至るまで、私の手は怒りに乗じて人の身体に触れたことはない。

 これにつづいて、20年前に一度だけ、これに反したことを告白し、後悔している。

 私も、福澤諭吉のこの「金言」をわが金言にしようと志向しているが、何割方実行できているであろうか。
 

2011年07月14日(木曜日)更新

第2話

 笠信太郎さんの「花見酒の経済」(朝日文庫)には、養老孟司さんの「バカの壁」と連動する「私を考えさせた話」あり。

 ここに発表の第1、第2の二つのエッセー(昭和33年、36年の思考)は凄いですよ。なぜか。昭和33年、36年時代は、まさに一直線で日本経済が発展をつづけた時代です。

 笠さんは、この「発展しつづけ」に、どうもフに落ちない気持を書きつづけたのです。これはどうも「花見酒の経済」(ウソの経済)ではないかと。

 このころ私は大学時代で「日清キムチラーメン」「コカコーラ」を楽しんだし、貧乏学生の私は、じゃんじゃんアルバイト(家庭教師、牛乳配達、中華料理店皿洗い、祭り行列、大掃除手伝い、キャバレーボーイ)して、それで、結構生活できた。

 笠さんの予想(昭和33、36年時代の日本経済発展の行き過ぎ)は、平成に入ってから、いわゆる「バブル崩壊」によって、なんと30年後に実際の現象となったのです。
 

2011年07月07日(木曜日)更新

第1話 

『私を笑わせた話たち』(毎週火・金更新)の他に『私を考えさせた話たち』(毎週木更新)を書きたいと思ったキッカケは、「ユーモアクラブ」執筆者・北 広次郎さん(ミスターヨーロッパだより)の「原子核と原発の関係の意見」を読んだときです(私も、このことを、いつか「一話」として書きます)。

 養老孟司さんの「バカの壁」は「私を考えさせた話」が豊富です。

 彼は、人には、考えおよばない壁(バカの壁)があること、すなわち「思考停止」領域があること。あるいは、「アベコベ思考」に走りがちな領域があること、を語ったのです。

 そのひとつとして、脳(首から上)よりも身体(首から下)の方が、より中心なのに、人は、脳中心の「アベコベ思考」に走りがちなことを指摘しています。

 73歳、隠居人間の私は、このことを実感しております。足が(時に太ももの裏側筋肉が)弱くなりがちです。これは、脳にも良くない。一日、30分は歩くつもりですが。

 夕方、家を出て、フラフラと居酒屋に行って飲んだ後、カラオケ喫茶で、アカペラ大声で三橋美智也の歌など歌いまくると、翌日の寝覚めもよく、脳の働きも良いように感じるのですが。
 
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