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大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

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2015年12月24日(木曜日)更新

第22日目 津軽 太宰治

 熱狂的な少数の「鉄ちゃん」たちを除いては、あまり知ることも、旅することもなかったであろう、津軽半島の東側。恐らく、「弘前」までは、豊かになった今日では「不老不死温泉」に入れる五能線に乗る。少しずつ知られてきた津軽平野である。そしてまた、「津軽海峡冬景色」の中で歌われている「北のはずれの竜飛岬」である。脚光をあびる「青森」そして「JR津軽線」だが、さて、津軽線の「蟹田」や「今別」。人々の耳になじみ、通りすぎる人々はあっても、下車してこの地を眺めて、という人は少ないだろう。それでもかってに比べ、この津軽半島の東側が人々に注目されることは良いことだ。「新幹線」がいよいよ津軽半島のこの東側を疾駆して、津軽海峡を走り、北海道の函館まで走りぬけるのだが、やがて札幌まで走るだろう。さすれば、日本は、札幌から青森を通り、東京―名古屋―大阪―福岡―鹿児島と、新幹線で行けることになる。

 水上で、鎌倉で、何回かの心中事件を起こしたが、妙なもので相手の女性は死んでも、彼は生命長らえた、という不思議な人生。しかし昭和二十三年、梅雨の頃、増水した玉川上水に愛人と入水、心中したのが太宰治である。その翌年、二十四年九月から、八雲書店によって「太宰治全集」が刊行されたが、彼の霊が邪魔したのか、全十八巻、発行することなく、書店は倒産してしまった。
私は当時、東京高等師範学校在学中であった。やがて卒業。卒業論文をまとめなければならない。当時までの傾向として、西鶴とか、堤中納言物語とか、新古今であるとか、先人もかなり研究し、どちらかといえば、ある程度、評価の定まったものを選ぶ傾向があった。本人も、資料を集めやすいだろうし、教授方も、目を通して安心感があるからだろうか。太宰は亡くなったばかり。それもあまりよい亡くなり方ではなかった。当然、誰もまだ研究していないし、太宰に関する評論も出ていない。ということは評価がまだ定まっていないということである。やり甲斐はあるが、冒険でもある。私は思い切ってやることにした。そして二百枚くらいにまとめた。評価は「合格」すれすれの「C」であった。お情けで合格にしてくれたのかもしれない。

 太宰についてはそんなかかわりがある。「斜陽」「ヴイヨンの妻」「人間失格」「右大臣実朝」「おしやれ童子」など、その作品の数は、短い作家活動にしては多い方だろうし、すぐれてもいる。私が現職だった頃は、どの出版社の「現代国語」教科書にも、必ずといってよい程「走れメロス」が収録されていたものである。余談だが、井伏鱒二氏は太宰のお師匠さんであり、太宰が、何としても芥川賞が欲しくて委員に手紙を出したことなどは、よく知られたエピソードである。

           津 軽     太宰治
 序篇
 ある年(昭和十九年)の春、私は生まれて始めて本州北端、津軽半島をおよそ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは私の三十幾年の生涯において、かなり重要な事件の一つであった。私は津軽に生まれ、そうして二十年間、津軽において育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村については少しも知るところがなかったのである。
 金木は私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといった特徴もないが、どこやら都会風にちょっと気取った町である。青森、弘前の両市を除いて、人口一満以上の町はこの辺には他に無い。よく言えば活気のある町であり、悪く言えば騒がしい町である。かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草といったようなところでもあろうか。

 弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。私はこの弘前の城下に三年いたのである。弘前高等学校の文科に三年いたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝っていた。町の旦那たちが、ちゃんと裃を着て真面目に義太夫を唸っている。・・喫茶店で葡萄酒を飲んでいるうちは良かったのですが、そのうち割烹店へのこのこ入って行って、芸者と一緒にご飯を食べることなど覚えたのです。少年はそれを別段悪いとも思いませんでした。粋な、やくざなふるまいは、つねに最も高尚な趣味であると信じていました。
 私はこの津軽の序篇に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐について、的確に語り得たかどうか。この六つの町は私の過去に於いて最も私と親しく、私の性格を創成し、私の宿命を規定した町である。この度の旅行は私にとって、なかなか重大の事件であったと言わざるをえない。

 本編       一   巡 礼
「ね、なぜ旅に出るの?」「苦しいからさ」「あなたの苦しいのはおきまりで、ちっとも信用できません」「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川竜之介三十六、嘉村幾多三十七」「それは何のことなの?」「あいつらの死んだ年さ。ばたばた死んでいるー」――「おい、おれは旅に出るよ」ある年の春、乞食のような姿で東京を出発した。十七時三十分上野発の急行列車に乗った。青森には、朝の八時に着いた。T君が駅に迎えに来ていた。――T君は昔、私の家にいたことがある。おもに鶏舎の世話をしていた。「今日おひる頃までに、蟹田のN君のところへ行こうと思っているんだけど」「存じております。Nさんから聞きました。バスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです」

 バスの時間が来た。私はT君と一緒に外へ出た。−大人というものは苦しいものだ。−大人とは裏切られた青年の姿である。「私はあした、一番のバスで蟹田へ行きます。Nさんの家で逢いましょう」私たちはまだ、たわいない少年の部分も残っていた。
          
          二   蟹 田

 津軽半島の東海岸を、青森からバスに乗って北上すると、後潟、蓬田、蟹田、平館、一本木、今別等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩に到達する。ここから波打際の心細い道を歩いて三時間ほど北上すると、龍飛の部落に着く。――蟹田は蟹の名産地、そうして私の中学時代の唯一の友人のN君がいるということだけしか知らなかったのである。――蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のように積み上げて私を待ち受けてくれた。

 私は食べ物に無用心たれという自戒を平気で破って、三つも四つも蟹を食べ、夜の更けるまで飲みつづけた。――僕に酒を教えたのは実にこのN君なのである。――中学のころ。同じクラスのN君のところへは実にしばしば遊びに行った。雨が降っても、全身ぬれねずみになっても平気でゆっくり歩いた。N君は中学を卒業してから東京へ出て、ある雑誌社に勤めたようである。私はN君より二、三年遅れて東京へ出て大学に籍をおいたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場。ほとんど毎日のように逢って遊んだ。戸塚の私のすぐ兄の家へちょいちょい遊びに来て、この兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろな用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなって帰郷した。それからもその不思議な人徳により、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、いろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてはならぬ男の一人になっている模様なのである。その夜も、N君の家へこの地の若い現役が二、三人遊びに来て、一緒にお酒やビールを飲んだ。 

 翌る朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞こえた。私はすぐにはね起きた。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人を一人連れてきていた。又、その病院の蟹田分院の事務長をしているSさんという人も一緒にきていた。――三厩の近くの今別から、Mさんという小説の好きな若い人も、はにかんで笑いながらやって来られた。――これからすぐ皆で、蟹田の山へ花見に行こうという相談がまとまったようである。

          三   外ケ濱

 Sさんの家を辞去してN君の家へ引きあげ、N君と私はさらにまたビールを飲み、その夜はT君も引きとめてN君の家へ泊ることになった。三人一緒に奥の部屋に寝たのであるが、T君は翌朝早々、私たちのまだ眠っているうちにバスで青森へ帰った。――この旅行に出る前に、ある雑誌に短編小説を一つ送る約束をしていて、その〆切が、今日、明日に迫っていたので、私はその日一日とそれから翌る日一日と二日間、奥の部屋を借りて仕事をした。――
 その翌日、N君の案内で外ヶ浜を北上したのであるが、出発に先立ち、まず問題は酒であった。「お酒はどうしますか」と奥さんに言われて、私はまったく冷汗三斗の思いであった。――N君も同じ思いとみえて「僕もね、ひとりじゃ我慢できるんだが、君の顔をみると飲まずにいられないんだ。今別のMさんが、配給のお酒を近所から少しずつ集めておくと言っていたから、今別にちょっと立寄ろうじゃないか」
――三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけていた。表二階の小綺麗な部屋に案内された。――お昼頃、雨が晴れた。私たちは遅い朝食を食べ、出発の身支度をした。うすら寒い曇天である。宿の前でMさんと別れ、N君と私は北に向かって発足した。――露道を通って私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て私たちを部屋に案内した。「ええと、お酒はありますか」答えは意外であった。「へぇ、ございます」「いや、おばあさん、僕たちは少し多く飲みたいんだ」「どうぞナンボでも」

 翌る朝、私は寝床に中で、童女のいい歌声を聞いた。風もおさまり、部屋には朝日がさし込んでいて、童女が表の路で手毬歌を歌っているのである。「せっせっせ 夏も近づく八十八夜 野にも山にも新緑の 風に藤枝さわぐとき」

          四   津軽平野
 考えてみると、津軽というのは、日本全国から見て、まことに渺たる存在なのである。芭蕉の「奥の細道」には、その出発に当たり「前途三千里のおもい胸にふさがりて」と書いてあるが、それだって北は平泉、いまの岩手県の南端にすぎない。青森に到達するにはその二倍歩かなければならぬ。――
 バスでまっすぐに蟹田のM君の家へ帰ってきた。歩いてみると津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、五能線に乗り換えて五時ごろ、五所川原に着き、それから津軽鉄道で平野を北上して、私の生まれた土地の金木町に着いたときには、もう薄暗くなっていた。――金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉をいっぱいに開けてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。

           五   西海岸
 雪のまだ深く積もっていた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父は大きい棺桶に横たわり、そりに乗って故郷へ帰って来た。
          木造。 深浦。 鯵ヶ沢。
 
「あした、小泊へ行って」私は他の事を言った。「たけに逢おうと思っているんだ」「たけ。あの小説に出てくるたけですか」、このたび私が津軽へ来て、ぜひとも逢ってみたい人がいた。私はその人を自分の母だと思っているのだ。故郷といえばたけを思い出すのである。こんどの津軽旅行に出発する当初から、私はたけにひとめ逢いたいと切に念願をしていたのだ。いいところは後回しという、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのいる小泊の港へ行くのを、私の今度の旅行の最期に残しておいたのである。
「でも逢えるかどうか」私にはそれが心配であった。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに私はたずねて行くのである。小泊行きのバスは一日一回。一番の八時の汽車で五所川原を発って、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗って約二時間。あすのお昼頃までには小泊に着けるという見込みがついた。中里は津軽平野の北門といってよいかもしれない。小泊までの約二時間、バスの中では立ったままであった。お昼少し前に私は小泊港に着いた。ここは本州の西海岸の最北端の港である。この北は山を越えてすぐ東海岸の龍飛である。「越野たけという人を知りませんか」私はバスを降りてから、その辺を歩ている人をつかまえ、すぐ聞いた。「こしのたけ、ですか」中年の男が、首をかしげ「この村には越野という苗字がたくさんあるので」「前に金木にいたことがあるんです。そうして今は五十くらいの人なんです」
 私は懸命である。「ああ、わかりました。その人ならおります」「いますか。どこにいます。家はどの辺です」 私は教えられたとおり歩いて、たけの家をみつけた。間口三間くらいのこじんまりした金物屋である。カアテンがおろされ、ガラス戸に南京錠。引っ越したということはなかろう。越野さんと呼んでみたが返事はない。筋向いの煙草屋で行先をご存知ないかと尋ねたら、おばあさんが、運動会へ行ったのだろうと答える。すぐそこの学校だと、行き先を教えてくれる。なるほど砂丘の上に国民学校が立っていて、まず万国旗、娘たち、白昼の酔っぱらい、百に近い掛小屋。お昼の時間らしく、それぞれの家族が重箱を広げている。別れてからもはや三十年近くになる。眼の大きい、頬っぺた赤い人であった。逢えば分かる、その自信はあったが、この群衆の中から探し出すことは難しいなあと私はべそをかいた。「越野たけという人、どこにいるかご存知ありませんか」私は勇気を出してひとりの青年にたずねた。あの辺にいたようなことを言われても探すのは大変だ。いくつかの掛小屋ものぞいてみて声をかけたが、運動場を二度ほどまわったが分からなかった。学校の先生に頼んで呼んでもらおうとしたが、それもイヤだった。帰ろう。運動会のすむのは四時頃か。そのへんの宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待ったっていいじゃないか、はるばるここまでたずねて来て、すぐそこにいるということが分かっていながら、逢わずに帰るというのはつまり縁がないのだ。バスの発着所で聞いたら、一時三十分に中里行きが出るという。発着所のベンチに腰をおろして、また立ち上がってその辺をぶらぶら歩いて、もう一度、たけの留守宅前まで行って、ひとしれず今生のいとま乞いでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると入口の南京錠がはずれている。勢い込んでガラス戸をあけ「ごめんなさい」「はい」と返事があって十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私はその子の顔によってたけの顔をはっきり思い出した。「金木の津島です」と名乗った。少女は、あ、といって笑った。津島の子供を育てたということを、たけは自分の子供たちにかねがね言って聞かせていたのかもしれない。もうそれだけで私とその少女の間に一切の他人行儀がなくなった。「「私は腹がいたくて、いま薬をとりに帰ったの」気の毒だが、その腹痛がよかったのだ。――たけのところへ連れて行ってもらう。運動場を横切って、一つの掛小屋へ入り、すぐそれと入違いにたけが出てきた。「修冶だ」私は笑って帽子をとった。「あらあ」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。――たけの小屋に連れて行き「ここさすわりになりませ」と、たけのそばにすわらせ、それきり何も言わない。足をなげ出し、黙って運動会を見ている。無憂無風の情態である。心の平和を体験した。先年亡くなった私の生みの母は、気品高く立派な母だったが、このような不思議な安堵感を与えてはくれなかった。――親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。――あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。それから六年間ばかり、私はたけに育てられ、教えられた。――たけは私の思い出をそっくり同じ匂いで座っている。――たけは眉をひそめ「たばこものむなう、さっきからたてつづけてふかしている。たけはお前に本をよむ事だけば教えたけども、たばこだの酒だのは教えねきゃなう」――そして「龍神様の桜でも見に行くか、どう?」と私を誘った。――砂山を登りきる。たけはぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取りー勢いよく私の方に向き直り、にわかに能弁になった。「久しぶりだななあ。はじめはわからなかった。金木の津島とうちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔をみても、わからなかった。修冶と言われて、あれ、と思ったらそれから口がきけなくなった。――三十年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかなとそればかり考えて暮らしていたのを、こんなちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばる小泊までたづねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだかうれしいのだか、そんなことどうでもいいじゃ、まあよく来たなあ。お前の家に奉公に行った時には、お前はぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころんだ。よく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫の石段の下でごはん食べるのが一番好きで、たけに昔噺語らせて、たけの顔をとっくと見ながら、一さじずつ養わせて、手かずもかかったが、愛ごくてのう、それがこんなになって、みんな夢のようだ。金木に行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年ごろの男の子をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ」 私はたけの、そのように強くて不思議な愛情のあらわし方に接して、ああ、私はたけに似ているのだと思った。――
 見よ、私の忘れえぬ人は、青森におけるT君であり、五所川原における中畑さんであり、金木におけるアヤであり、そして小泊におけるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちもそのむかし、一度は私の家にいたことがある人だ。――
 

2015年11月26日(木曜日)更新

第21日目 聖職の碑 新田次郎

2015.11.26(木曜日)更新

第21日目 聖職の碑 新田次郎

 かって「先生」は「せいしょく」と言われ、本人もそう思っていた所があった。いろいろな技術や知識を教え、伝えるだけではない。徳義的なことも道徳的なことなども、身を以って範を示す必要がある。教師になろうと心がける人も、先生自身も、いつもそうした点に心を配っていたものである。しかし戦後は見事に崩れ去った。教師は労働者であると日教組に教えこまれて、ジャンバーで職場へ通勤する人が多かった。担任として親御さんから四十の生命を預かっているのだという使命観。仮令、教室に行かないで、IT機器を操作するだけであっても、子どもたちは何らかの点でその先生の空気から影響を受けているものだ。そういう意味ではやはり今でも、これからも「聖職」の匂いを持ちつづけるのが「先生」だろう。
「私の故郷の霧ヶ峰に立つと、甲斐駒ヶ岳も伊那駒ヶ岳も手の届きそうなところに見える」とあるように、新田氏は三千メートル級の連なる山なみの中で育った。「孤高の人」「槍ヶ岳開山」「冬山の掟」など、山を中心に据えた作品が多い。中でも、高倉健氏(故人)主演で映画化された「八甲田山、死の彷徨」は、発刊当時も、映画も圧倒的な評判を集めた。そういうことが、伊那谷で起こった。中箕輪尋常高等小学校高等科生徒(現在は箕輪中学校二年生)の駒ヶ岳遭難事件は、何としても一冊の小説にまとめて後世に伝えたいと、意欲をふるいたたせるものであった。

 赤羽が校長を務める中箕輪尋常高等小学校の教員は全部で二十六名いた。若い教師が多い。そのせいか、最近は白樺派の文学がよく読まれ、講義されてもいるようだし、島崎藤村の自然主義文学「破戒」を児童たちに読みきかせる教師もいる。そのせいか、中学受験が近いから、そちらの準備に力を入れてくれないと困るという親の苦情もあるようだ。その上、今年も赤羽が予定している、駒ヶ岳登山についても賛成できない教師がほとんどなのもやっかいなことである。個人的なことではあるが、教師の樋口に頼まれている、水野春子との件。これも何とかしなければ。いくら本人の意志、自由だといっても、小作人の娘を、大地主の樋口家に迎えるわけにはいかない。樋口の親はそういって反対しつづける。お盆が終ると学校はいっせいに始まった。赤羽は「高等科第二学年駒ヶ岳修学旅行案」を作成して配布した。服装や、準備すべきもの、例えば「股引、草鞋2足、手帳、鉛筆、仁丹、氷砂糖」など実に細かいものにまで気を配って作られた「知らせ」である。青年会の方からも何人か参加する。樋口は春子のことがあるので残ることにした。
 登山道は去年の通りで異常はないが、伊那小屋がひどくいたんでいる。無人小屋だが、隙間から風が吹きこむという。赤羽は前日に、飯田の測候所に天気のことを問い合わせた。「曇りで俄雨」のおそれありという。山の服装をして、樋口は春子と一緒に、予定通り、日輪寺というお寺へ向かった。赤羽は、午前四時、登山姿で学校に来た。すでに十名ほどの子供たちも来ていた。有賀という教師は「朝曇りは心配するに当たらないということです」「そうだな、そうあって欲しいな」赤羽は有賀の前を去った。額に一粒、冷たいものを感じた。
 隊列の先頭に青年会の征矢隆得。後尾は清水政治、赤羽は列の中央にいた。
 北の空に僅かながら青空もみせていた。いつものお天気だから心配する者は誰もいなかった。始めは平坦な道だから、約四里弱(十六キロ弱)を五時間で踏破したことになる。
雨が降り始めた。急な登り坂になる。針葉樹林帯である。岩石が露出し、土の道ではなくなった。稜線に出ると濃ヶ池、日蔭に残雪があった。小屋はどこだ、小屋がないぞと叫ぶ声が聞こえた。石垣によって四角にかこまれた四坪ほどの敷地内には、水たまりがあり、焼けぼっくいが散乱していた。どこに寝たらよいのか。暴風雨はそこまで来ていた。赤羽は残っていた石垣の上に、残っていた角材で骨組みとし、鉈で切ってきたハイマツを上にのせて屋根とする。そう指示して小屋造りを始めた。暴風雨の夜。ハイマツはなかなか燃えなかった。いらない紙を燃やした。煙がもうもうである。煙くて死にそう。寒くて死にそう。「眠るな、眠ったら死ぬぞ」それでも子どもたちは眠かった。そして寒かった。
登山に参加していた青年会の九名は同窓生であった。彼らもいま必死である。しかし夜明けと共に暴風雨は勢いをました。全員がズブ濡れである。寒さのため口もきけない。
時松の様子がおかしくなった。宝丹や水をのませてやったが、やがて呼吸がとまった。赤羽もまた蒼白な顔をしていた。
「俺たちは青年会として来たのだ。先生たちの言うことを聞く必要はない」青年たちは有賀になだめられてとび出すのをやめたが、落ちつかなかった。青年たちは、何人かの子供たちを連れていた。着茣蓙も濡れてていた。唐沢武男は馬の背屋根に出た。強風が彼の体温をうばい去った。頭がふらふらした。唐沢可作が「一緒に行こう」と言ってくれたが、先に行ってくれ、すぐ追いつくからと言う。黄葉したダケカンバ。紅葉のナナカマド。赤と黄がぐるぐるまわる。濃ヶ池のほとりで倒れた武男の耳に、自分を叫ぶ誰かの声がした。
 登山中は喋らないのが常識だが、彼は「三千メートルに近い駒ヶ岳の尾根だけのことはある」とひとりごとを口にした。雪量のようなものを目にしたが、あるいはそれは目の前にある花崗岩のガレ場だったかもしれない。
 後になって、ここに一段と大きい、四角な岩が置かれた。「遭難記念碑」である。
「大正二年八月二十六日 中箕輪尋常高等小学校赤羽長重君は修学旅行のため児童を引率して登山し、翌二十七日暴風雨に遭って終に死す」と書かれ、「遭難記念碑」の左側に
共殪者   堀   峯    唐沢武男
       唐沢圭吾   古屋時松
       小平芳造   有賀基広
       有賀邦美   有賀直治
       北川秀吉   平井 実
大正二年十月一日  上伊那郡教育委員会
 麓から持ってきたと思われる幾つかの花束が、すでに枯れていた。ゆかりの人々の心づかいであるのだろう。
 赤羽は、平井実を抱きかかえるようにして天水岩の下まで来た。上衣の下に着ている冬シャツを脱いで平井に着せてやった。行くぞと声をかけ烈風の尾根に立った。最低鞍部にさしかかろうとするあたりで、息絶えた有賀兄弟を発見した。絶望感が彼をおそった。先生行こうと平井に言われて、赤羽はよろめきながら立ち上がった。めまいがした。三度目に倒れてからは、もう動けなかった。
 内の萱を出発した救助隊、午後の六時半に行者岩についた。赤羽が発見された。彼の唇がかすかに動いたが、何を言っているのか分からなかった。唐木が赤羽を背負い、安全地帯までおろしたとき、赤羽は「うれしい」とひとこと言った。それが最期だった。

 八丈島付近に停滞していた低気圧は、二十六日の午後になって北に向かって動きだした。発達しながら東京湾を斜めにつっ切って北上し、二十七日の午後八時頃には、銚子のあたりを通過していた。当時の気象台は単なる低気圧として扱っていたが、今風に言えば、これは明らかに台風であった。

 村をあげての大騒動。わけても兄弟二人を失った有賀家の悲しみは、より深かった。
「駒ヶ岳登山の中箕輪尋常小学校の児童数は二十五名。青年会九名。引率教師三名の計三十二名」
 後に石碑が建てられたとき、これは赤羽校長をたたえる碑である。子どもたちは共食者として扱われているだけではないか。死んだ子どもたちが浮かばれないと反感を示す者もいた。(「殪は」はたおれる、死ぬ、つきる、の意)

「引率教師として予定されていて参加しなかった自分の罪は大きい。もし自分が行っていたら、もっと犠牲を少なくできたにちがいない」樋口はそういって自分を責めた。そして一緒に住んでいた妻の春子と共に川の淵に身を投げた。二人も、この児童遭難事件の犠牲者でもあった。
 学校には新しい訓導が何人か着任した。しかし学校と村との間に生じた不信感はなかなか取り除けなかった。そしてさらに煽ったのが、イワンの馬鹿や、レ・ミゼラブルを読んできかせたり、教科目をスケジュール通りにこなさない、いわば白樺派教育者の風潮が主流となっていることであった。
 
 爾来、今日に至るまで(現在は)箕輪中学校二年生による駒ヶ岳登山は毎年行われ、男女併せて約二百五十名が参加。事故が起きたこともない。辰野、箕輪、伊那、駒ケ根東、中川東等の各中学校。登山人数は二千を越えるであろう。夏になると必ず登ってくる中学生たちの供える花束に、遭難記念碑はいつも飾られている。
 

2015年10月29日(木曜日)更新

第20日目 五番町夕霧楼 水上 勉

 本当は「みずがみ」というのだそうだ。しかし誰もが「みなかみ」と口にしているので、ご本人もそういうようになったのだろう。「刊行」の奥付にもはっきり「みなかみ」とふり仮名がつけてあるので、そのように言う。
文学を志して、いろいろ書いてみたが売れない。最初はたしか、「フライパンの歌」であったと思うが、素人の私よりいくらかましという程度の出来であったようだ。評判にもならずに、氏の名前も消え、実生活でも貧乏のどん底で、家庭的にも大変な苦労をされたらしい。後年、丹念に作ってあるので、傑作と評判になった映画「飢餓海峡」は、原作が水上氏。小説の方も見事な構成で評判をよんだ。実際にあった北海道のある町の大火に想を得た作品は成功したが、あと、いくつかの推理作品は、あまい評判が良くなかった。
それよりも、氏の最も得意とし、且つ生きいきとした描写が人を引き込むのは、氏の故郷、あるいはその故郷に近い風土と、そこに生をうけた人々の、どうしょうもない運命の中を生きる生き方。それを書いた作品が人々をとりこにする。この「五番町夕霧楼」は水上氏を決定づけたといっても過言ではなかろう。運命にはさからえない、人間の弱さ、「越前竹人形」「越後筒石親知不知」「越後一乗谷」「湖笛」「銀の座」「流旅の花」 見事な作品がずらりと並ぶ。

戦争が終って間もない頃の物語である。場所は京都。西陣京極のある中立売から西へ一丁ばかり。三間幅ほどしかない通りで、京都人が「ゴバンチョ」と少し早口で言う、古い色街である。二百軒からなる家々はみな妓楼であり、この紅燈が消えて女たちの姿が見られなくなるには、あと何年か待たねばならなかった。まだ戦後の苦しい時代、私の給料も一万円に届かない頃である。

 名の通った夕霧楼の主人、酒前伊作は、与謝半島の突端にある樽泊という部落。彼の故郷であるここに疎開していた。しかし馴れない畑仕事などですっかり体をこわしてしまい、燈火管制がなくなっても、京都へ帰ろうとはしなかった。若い頃から女道楽をしていた伊作には本妻の方にも子供がなかったし、本妻を亡くしたあと、二号だったかつ枝を夕霧に入れて采配させていた。
 散歩にでた伊作が、具合が悪くなってしやがみこみ、「かつ枝を呼んでくれ」と言った。京都から長い道中を経て、何とか伊作の最期に間に合った。かつ枝は、伊作の葬式を一人で取り仕切った。京へ帰る前の晩、しのび込むようにして家に入ってきた男がいる。そして木樵の三左衛門という者だが、ここに連れて来たゆうを奥さんにあずかって貰いたいという。娘ともよく話し合ったことだという。その娘は、美人という程ではないが、田舎娘らしい佳さが感じられた。この子の母親は病気。下には妹たち三人もいる。十分に話し合ったこと。ともかくいろいろ話し合ってお互いが納得した上で、翌朝、夕子は父親、三人の妹たちに送られて樽泊の家にやってきた。そして舟着場へ。「奥さん、浄昌寺が見えます・・・百日紅が咲いとります」と夕子がいう。そこから舟は宮津へ。夕方六時に京の五番町に着いた。夕子十九歳である。
 夕子の部屋に案内し、あちこちに手紙を出しておきなさいというと、夕子はこっくりとうなずいた。それから西陣帯の織元、竹末商店の主人、武末甚蔵に電話した。五年前に妻を亡くしてから独身を通してきた。水揚げをして、それからずっと世話してもらう。竹末は最も相応しい人物に思えた。夕子にも話しておかなければと、夕子の部屋へ。ふと目をとめたハガキの束。一番上の文字を盗みみるように読んだ。「京都市上京区衣笠山 鳳閣寺内 櫟田正順様」 
 水揚げも無事すんだ。諸掛をひいて、一万二千円を新しい貯金通帳を作ってやり、それを夕子に渡した。甚蔵はいい妓やったと喜んだがふと「あの妓は生娘やないで」と奇妙なことを言った。そういえばついこの間、少し歩きたいというので、このあたりをといろいろ教えてやったが、帰りが遅くなったことがあった。
 珍しく夕子に客があったが、ふと見ると修行僧のような、学生のような、あとで聞けば「櫟田正順」であるという。
甚蔵は、隠居の年になって、十九歳の娘が抱けたことで大満足だった。燈全寺の広間を借り切っての展示会も大成功だったが、ちらと見た櫟田の姿がいつまでもしこりとなった。かつ枝は夕子を問いつめてみた。「あの人はどもりだから、経もろくには読めん。勉強もいやで、だから私のところへ遊びに来る。しかし何もせんと、ただ布団の中で寝てゆくだけ。あの人はお寺はんの子ではない。どこぞ貧乏な家に生まれて、お寺はんにもらわれたのだろう。櫟田さんを生んでから旦那はんが死ぬのを待ってたようにしてお寺はんに再縁しやはった。今の和尚さんは、お母さんを横取りしたんどすねん。浄昌寺は私たちのよい遊び場でした。百日紅のあかい花がはらはらと散って。正順さんは本当の兄のように思えたのです」夕子は、みんなにそう言ってやりたかったが、まだ本心は言えなかった。
夕子が血を吐いて倒れた。竹末はんが来る晩だけで、あとはのん気にいていた夕子だから、恐らく母親のような病なのだろう。かつ枝はあちこちの噂をきいたり、自分で確かめたりして、東山にある大和病院に入院させることにした。何もせず、のんびり療養しているせいか、少しずつ元気を取り戻しているようにみえた。かつ枝は鳳閣寺へ行って直接、櫟田に会って、今までのことや、夕子のことなど話してやった。
その夜半、二時頃のことである。新聞にも大きく報じられた。
「国宝・鳳閣から出火。炎上。放火容疑で、行方をくらましている同寺の徒弟 櫟田正順を手配」
 櫟田正順は、二日午後七時頃、うら山の中腹で服毒。昏睡状態でいる所を発見。本部に連行したところ、放火を自供。国宝が放火によって焼失した大変な事件で、新聞は連日、学者や多くの人の意見を載せていた。人間はまことに勝手なもので、あれほど惚れていた夕子の所へ、竹末甚蔵は一度も見舞いに行かなかった。櫟田は係官の目を盗んで剃刀で首を切って自殺する。正順の母親は、弟を連れて京都に来た。お世話になっている鳳閣にお礼の意味で見舞いしたが、息子の放火を知って、帰る途中、列車のデッキから保津川へ身を投げて死んだ。身をもって子の罪を詫びたのである。
 夕方、大和病院に入院中の患者が、涼みに行くといって外出したまま帰らないと届け出があった。夕霧楼は大へんな騒ぎになった。
汗くさい浴衣を着た若い女が樽泊で下車している。浄昌寺の裏にある墓地。その墓地の一本の老朽した百日紅の根もとで夕子の遺体は発見された。傍らに一枚の薬包紙が落ちていた。夕刻になって父親がかけつけて来た。「夕、夕、いつ帰った。だまってお前はいつ帰った・・」三左衛門は急に夕子をだきしめてから馴れた手つきで死骸を背負った。大きな病気な子が父に負われて病院へゆくようにみられた。「夕、去の、お前のおかげで、そくさいになったお母んが待っとる、幸もお照もみんな待っとるぞ」
蜩が鳴いた。父娘が墓地を下りきると、夕子の背中へいつまでも花が散った。
 

2015年09月24日(木曜日)更新

第19日目 「しろばんば」 井上 靖

 ずい分と昔のことになるが、氏の代表作である「氷壁」を読んで、少なからずショックを受けた。文学的にもすぐれているが、「ザイルが、岩角などに当たって切れるものなのか」戦後、登山ブームがまき起こって間もない頃で、あちこち登っていた私も、当然のようにこの書を読んだ。昭和が遠くなり、平成も三十年近くを過ぎようとしている。当節は「山ガール」がブームらしい。御嶽山の噴火もあったが、ぜひこの書も読んで欲しい。
 北海道旭川で、明治四十年に生誕。九州帝大に入学したが、京都帝大に再入学。卒業後大阪毎日新聞社入社。すぐれた文章で、読ませる力が魅力なのは、この新聞社時代に養われたのであろう。「猟銃」「闘牛」と相次いで発表し、芥川賞受賞、「敦煌」「風濤」「崑崙の玉」など西域ものは、井上氏の得意とする所であった。文化勲章を受章。平成三年、生涯を終える。

 夕やみの立てこめ始めた空間を、綿くずでも舞っているように浮遊している白い、小さい生きもの。それが白ばんであるが、“白い老婆”といことなのだろう。今は「伊豆市」となってるが、「湯ヶ島」と言った方がなじみがある。そこで暮らす「洪作」と「おぬい婆さん」の物語である。遊び仲間の友だちがあちこちに散っている小さな集落である。洪作の祖父・祖母と、洪作の母の弟妹たちのいる家。「上の家」という屋号の家。洪作と同学年のみつは一番下の子である。洪作にとっての曾祖母にあたるおしな婆さんも住んでいた。洪作とおぬい婆さんは上の家から少し離れた所の土蔵に住んでいた。父は軍医で、当時は豊橋に住んでいた。小学校へは、仲間とふざけながら、遊びながら行く。しかしそこの校長先生は、洪作の父の兄である。つまり伯父さんなのである。
 洪作が二年生になった春。沼津の女学校を卒業したさき子が帰ってきた。そして、毎日のように、渓あいに湧き出している西平の湯へ出かけて行った。さき子は洪作の身体を洗いながら、明日から学校の先生になると言った。翌日、洪作は学校へ行って、職員室にいるさき子を見て、ほんとうだと思った。
 夏休みに、父や母や妹のいる豊橋へ行くことになった。おぬい婆さんがふれまわっているせいか、洪ちゃの豊橋行きは村中に広まってしまった。当日、九時頃になると、村中の大抵の人が、何か豊橋の家へ持って行ってもらう土産を持って集まってきた。十時に出発。馬車で大仁まで行く。大仁駅前で馬車をおり、そこから軽便鉄道で三島まで。当時はここで一泊する。朝食を食べてから駅へ。そして汽車に乗って西の方へ。富士川を、大井川を渡り、すっかりあきえしまった頃「とよはし」という声を耳にした。いそいで降りると、そこには母が迎えに来ていた。改札をぬけて、人力車に乗って、父や母や、妹の小夜子のいる家へ向かう。
 翌日から洪ちゃは午前中の二時間ずつ勉強させられた。しかし午後には遊びたくても、その相手がいなかった。小夜子は女の子だから遊び相手にはならない。何日かたって、みんなで繁華街へ買物に出かけた。あちこちまわり、少々疲れた頃、金魚屋のおじさんが、一匹だけ、タダでやってよいというので、金魚すくいをやってみた。面白くて何回もやっていて、ふとみると、母や婆ちゃも誰も居なかった。洪ちゃはあわてた。見知らぬ街である。婆ちゃ、婆ちゃと泣きながら叫び、あっちへ走り、こっちをのぞきして見知らぬ街をうろついた。若い男女のグループに「狐がついとる」といって背中を叩かれたこともある。泣きながら、めちゃくちゃに歩いた。お婆ちゃんと叫びつづけ、どれ程か経ったとき、田んぼ道で、誰か人にぶっかった。「もしや、湯ヶ島の洪ちゃじゃないか」そういう婆ちゃの声。偶然にめぐりあえたのだ。翌日二人は、来た道を逆にして、三島へ戻り、土産物をいっぱい持って、軽便電車にのり、馬車にのって湯ヶ島へ帰って来た。

 さき子は、東京の大学を出た中川という代用教員の先生と一緒になった。おぬい婆ちゃに夫をうばわれた曾祖母のおしな婆さんが亡くなった。沼津のかみきとう、おぬい婆さんの親しい家へ行って、蘭子とれい子という姉妹の、奔放さ、きれいさも見てきた。
 ある夜、洪作はふと眼をさました。ばあちゃが、人を送りに行くといって出ようとした。さき子を送りに行くという。上の家の前へ行くと人力車が二台並んでいた。「洪ちゃ」さき子に呼ばれた。「あんた、勉強するわね」「はい」 そうしてさき子は西海岸の夫の任地へ去って行った。夏休みに入ってから、さき子の所へ行こうと思っていた頃、突然、さき子の訃報が上の家へ届いた。その夜から、洪作は一人で土蔵の中にこもっていた。仲間が呼びに来たが、遊ぶ気にはなれなかった。
 さき子の葬式が行われる日、洪作は少々あきてきたので、友だちの幸夫たちと、天城峠へ、そこのトンネルの方へ出かけることにした。他の遊び仲間たちもついて来た。そして「なむまいだ」と念仏を唱える真似をした。念仏にあきると、みんなは、さき子に教わった幾つかの唱歌をうたい出した。
 なお「続 しろばんば」も併せて読むことをおすすめする。
 

2014年03月24日(月曜日)更新

第18日目 「水の旅」 富田和子著

 私の育った、田舎の家は井戸を使用していた。というより田舎はどこの家でも井戸に頼っていた。あるいは五、六軒で一つの井戸を使う、いわゆる井戸端会議なるものがそこから生まれた。だから子供心に、どこでも少し掘れば水は涌いてくるものだと思いこんでいた。学校も井戸。もちろん「つるべ」ではなく「ポンプ式」になっていて、子供に使いやすいようになっている。東京へ嫁いだ姉の家へ遊びに行って、そこで始めて水道なるものを見て、蛇口をひねれば水が出てくる不思議な光景に驚いた記憶がある。
 井戸は何も手を加えないわけではない。一年に一度、七夕の頃に「井戸替え」といって、いわゆる掃除をするのだ。「ウチの水は一番だ」と、いつも父が自慢していたが、たしかに冬は少しあたたかく、夏は冷たくて、西瓜やきゆうりなどをよく吊るし下げて冷やしていたものだ。味もなかなかよく、「良い水脈に当たった」という父の言い分。たしかに、どこでも掘れば、よい水が涌いて出てくるものではないようで、土の中のことだから、どこを走っている水脈がよいか、悪いのかは、素人には全く分からない。
 水を汲み上げて、地下水脈への栓が見えると、父が縄梯子をおろし、それを伝って下へおりて行く、そしてまわりの壁の部分とか、下の方などをきれいにタワシでこすり、洗いあげる。終わると再びあがってきて、井戸にふたをする、その上に盛り塩をおいて、父はしばらく手を合わせて、何ごとか井戸神様にお祈りしている。子ども心にも、その真剣さには、何か切なるものが感じられたものである。

 今は昔と違って、ものによっては百八十度違うものもある。私が若い頃、登山で大汗をかき、水が欲しくなってもあまり飲んではいけないといわれたものだ。私はその主義で通してきた。どんなに大汗かいても、のどが乾いても、なるべく水は飲まないようにした。
 しかし、今のやり方は違うようだ。飲みたくなったら飲んだ方がよい、という方針らしい。疲れ切った、のどが痛いほどに乾いたときに、あの大河の、これが源流かと思われるような岩清水が、こけを伝って流れおちている。その水のうまさ、「甘露」とはこのことを言うのだろうか。人間にとって必要欠くべからざるものではあるが、三陸沖を震源とする東日本大震災で、巨大な津波となって押し寄せた水は、多くの生命をのみこんだ。まさに「方円の器に従う」である。動物だけではない。植物も水を欲しがる。水は森を育て、海の生き物たちを育てる。
 大学の教授でもあった富山和子氏(とみやまかずこ)は、いま、評論家として活躍している。特に「水」を生命の根源として、森林、林業の問題にまで言及するなど、巾が広い。しかも読んでいて肩がこらない。この『水の旅』(文春文庫)などはのんびり読むのに好適である。「水田は文化と環境を守る」という信念を持つ著者は、他にも『水と緑と土』『日本再発見、水の旅』など「水」に関する著書が多い。


『水の旅』
「日本列島の森林を支えている林業。その林業は独立しては成り立たない。自分の植えた木は自分が生きている間は採れず、孫子の代でなければ収入にならない・・・日本の森林は米のもと、水も土も作って来た。でもその森林を作ったのは日本の米であった。・・・・・信濃川は水の豊かさは日本一、年間流量は利根川の二倍、淀川の一、七倍である。・・・・・まるで滝のような日本の川。しかし雪ならば流れ出さない。雪は天然のダムだからだ。・・・・・つい八百年ほど前までは、海は長岡市あたりまで迫っていた。新潟市などは江戸時代、まだ海だったのである。・・・・サケ、マスは新しい川の土の香を好んで上がるという。分水の河口を見て下さい、三、四キロ沖まで水が勢いよく流れています。私は新潟の分水路近くで、本物のサケの子、大変なご馳走を食べた」
つまり、山に降った雨(雪)は、森を育て、海に流れて海を育て、海の生きものたちを育てていたのである。

 皇居のお濠の水はどこから。
「江戸の高台に降る雨を、うまく集めて低い場所、つまり谷筋、川筋を利用して作られていたのである。・・・・・武蔵野台地をぬって流れるいくつかの谷、その谷の二つ、局沢と平川を掘り下げて城をぐるりと囲んだのがお濠であった。半蔵門を分水嶺として、桜田濠、日比谷濠へと連なるのが局沢。一方反対側の平川濠、千鳥が淵、清水濠など、のちの日本橋川の川筋に当るのが平川筋であった。その水は堀から堀へと流れて海へ入っていった。今では日比谷交差点のところで下水管に入ってしまう。一方、広大なお城の中にも、うっそうたる森林があり、湧水があり、池があった。・・・現在なお二十を超える大小のお堀はそれぞれ水位が異なり、順々に移動するよう計算され作られている。江戸にはさらにもう一つ、玉川上水という水源があった。・・・いまも半蔵門の土手の下には、玉川上水の出口が、昔の石組の姿のまま残されている。・・・昭和四十年、玉川上水の送られていた新宿の淀橋浄水場が廃止されると、新宿方面への水路も廃止され、皇居への送水もストップされた。・・・お堀の水は流れなくなった。しかもギトギトの水源である高台に降った雨は、いまでは土にしみこまず、下水道でさっと海へ捨てられるようになっている。・・・水が汚れるのも当然だろう」

 巨大都市となって多数の人が住み、くらし、生きている。車が走り、物流が激しい。時代はこう移り変わっていく。いつまでも砂利道にしておくわけにはいくまい。都市は当り前のように舗装路となり、水道が当り前となり、夏の日などは、焼けつくようなアスファルト道路。ヒートアイランドで、人々は苦しめられる。自分らが望んだ舗装路の結果なのだから、甘んじて我慢するしかない。かっては降った雨がじわじわと土にしみこんだものだったが、今は雨はただ捨てられるように流れるだけである。何年、何十年という時をかけて湧き出てくる。三島の富士の湧き水。そういう時代に、もはや戻ることは出来ないだろうが、せめて「水」にまつわるさまざまなエピソードを、富山さんの鋭い指摘などを、ゆっくり、のんびり、楽しんで読みたい。
 
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