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大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

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2013年08月26日(月曜日)更新

第17日目 最長片道切符の旅 宮脇俊三

 これは、日程も行先も決まっている旅である。だから、今さらに現世の旅がなつかしく、恋しくてならない。そしてもう少し旅を楽しみたかったと悔いてもみる。

 敗戦から五十年も経てば、世の中はずい分と様変わりする。民営化してJRとなって、列車が走らなくなり、鉄路が草にうずもれる(廃線)という所もあれば、船が走らなくなって、列車がトンネルを走って北海道へ行くとか。
 そう、いろいろな旅のかたちが見られるようになった。全国のJRをすべて乗りつぶすというのは、時間とお金が相当必要となるだろうな。行先表示板などの鉄道グッズを集めてニヤニヤしている人とか、時刻表をみつめて空想の旅を楽しむ人もいる。新型車輌の走り初めの日とか、旧型車輌の引退とかのセレモニーには、多くのファンが押しかける。SLが走っている所まで行って、そんな雄姿をカメラに収める「撮り鉄」というのもあるらしい。いや鉄道関係とは限るまい。格安航空券で空の旅を楽しむ人もいるし、全国の連絡船やフェリーを乗りつぶす人もいるだろう。自転車で、芭蕉の歩いた跡を走る人もいるだろう。
 駅弁すべて味わいたい。しかし30分前に一つ食べたばかりだからなあ、これはチト苦しいな。というのも楽しみの一つではある。よほど小さな駅でない限り、立ち食いの「そば」の店はホームに必ず存在している。これを食べ歩くのも楽しいものだろう。駅弁を食べて歩いて本を書いた女性もいました。一個なら50円だが、二個買えば90円というように、すべてそうだとは、大体に於いて物は沢山買った方が単価が安くなっている。商売とはそういうものだろう。
 鉄道も同じである。時刻表をみてみると、6Kmまでは180円。しかし12Kmは360円ではなくて230円である。つまり遠距離になればなるほど安くなるのだが、同じ路線を帰ってくることになると、その2倍になるはずだ。だから別の系統を探して一本につなげてしまえば、それは片道と同じだから計算上は安くなる。安くなるといっても半端な額でなない。それにコースをどう取るのか、しばらくは路線図とニラメッコである。

 それをやった人がいたのだ。そしてそれを実行し、その旅の道中の体験などを本にまとめた人。「最長片道切符の旅」 宮脇俊三さんである。中央公論という会社勤めをしながら、好きな鉄道に乗って旅をしていた。しかし勤め人ではどうしても何かと制約がある。二十年近く勤めた会社をやめて暇ができた。思う存分、鉄道に乗れる。出版社勤めが幸いしたのか、人に読んでもらえる文のコツも心得ていた。エッセイでもない、旅行記とも違う、紀行文でもない。勿論、小説なんかではない。旅行作家、レールライター。などと呼べばよいのか。他に種村直樹氏がいる。貧乏旅を中心に、世界を歩きまわって本にまとめるという仕事をした下川裕治氏。水辺から世界を眺めつづけたカヌーイストの野田知佑氏。「深夜特急」の沢木耕太郎氏も忘れてはいけない。「椰子が笑う、汽車は行く」「時刻表、奥の細道」「時刻表2万キロ」などなど。他にももっとたくさん、本になっているが、この旅に相応しい本といえば、やっぱり「片道最長」かな。

 単純に考えれば、出発点は、北海道の岬の近くか。あるいは九州のどんづまりの地か。ということになろう。しかしそこからが難しい。出来るだけ長く(遠く)なるように、しかも同じ点を二度と通らない。時刻表や地図をみながら、私も考えてみたことがあったが、頭が痛くなってきて、途中であきらめてしまった。当時私は現職であったから、旅をする時間もない。宮脇氏の本を読んですませることにした。昭和五十三年のことである。まだJRになっていない時代。今よりももっと先の方まで、国鉄の線路がはりめぐらされていた時代。そう、例えば、宮脇氏は、北海道の広尾をスタート地点にえらんだ。しかしこの広尾線は「幸福駅」などの名を残して廃線になってしまった。
 第15日目なども面白いし、東京近郊だから興味もある。登戸―尻手―浜川崎―鶴見―品川―代々木―神田―秋葉原―錦糸町―東京―小田原―沼津―御殿場―国府津―茅ヶ崎―橋本―八王子―。
 東京近辺をぐるぐるまわっているが、同じ駅は二度と通っていない。現在なら又違ったルートも見つかるだろうが、まあ見事なものである。宮脇氏の作成した地図をみて、本人もビックリしたらしいが、「えーっ」と思った点がある。一筆書きであり、しかもなるべく「最長」に近づけなければならないからこうなるのだろう。実際に動く人の身になってみれば「大変なこと」に違いない。
 東海道を「富士」から「豊橋」まで行ってきてその先。 豊橋―辰野―小淵沢―小諸―高崎―小出―会津若松―新発田―河口―豊野―直江津 まるで酔いどれの如く、あちらへ寄り、こちらへ寄りという。一見、ムダに思えるようなコースを辿ることになる。
 そして最終。33日、34日でこの旅も完了する。 大分―宮崎―鹿屋―都城―八代―川内―大口―隼人―西鹿児島―山川―枕崎
 鉄道が約一万三千キロ。運賃六万五千円(昭和五十三年現在)切符の通用期間68日。

 かって旅をした駅。あるいは路線。そのあたりの風景がまざまざと思いうかぶ。鉄道マニアに限らない。もう一度、この本で書かれたどこかの駅を旅してみたくなる。駅弁を食べて、駅そばを味わって。
そんな、味のある一冊である。
 

2013年06月25日(火曜日)更新

第16日目 「アーロン収容所」「アーロン収容所 再訪」 会田雄次

 随筆やエッセイ、あるいは評論などの「本」を書き著す場合。時に先人の、あるいは同時代の人でも、この道にかけては先輩にあたる方の著書から、ごく一部分を拝借して、自分の説や主張を補強する、こういうやり方をすることがよくあるものだ。勿論、自分の著書の最後に「著者名」「著書名」、あるいは新聞や週刊誌なら、「○○新聞」「週刊誌名」「日付」などを明確に記載する。それ以前に「この本の、何ページ。この部分を引用したい」という趣旨の手紙を書いて、ご本人の許可を頂くことが必要である。そして本文中にも「許可」を頂いた方の「著書名」「著者名」を明記する。そして発行に当たっては、必ず一部を、その方にお送りする。それらのことは、本を書きあらわす場合、最低限のマナーであろうかと思う。
 そうやって私も、十三冊の著書を書き、多くの方々に目を通して頂いた。京都大学の教授である会田雄次先生。その著書から、ずい分と感銘をうけ、何回となく引用をお許し頂いた。西欧史学を専攻された先生の、透徹した眼はすばらしかったし、ずい分と勉強になったものである。テレビにもしばしば顔を出され、明快な論調がすてきだった。

 話はとぶが、若者の活字離れはだいぶ前からだが、最近はテレビ離れも少しずつ進んでいるらしい。それでも番組欄をみると、いわゆる「モーニングショー」や「午後の一とき」などは相変わらずお盛んのようで、ちゃんと設定されている。ご主人や子どもたちを、職場へ、学校へと送り出して、ホッと一息つく時間帯、奥さま方向けのこの「モーニングショー」は、話題を提供する看板番組だったようだ。私も何回となく出演した。日常では仕事中だから、新聞の番組欄と実際に出演してみて、大体の内容がつかめた。芸人の誰と誰がくっつきそうだとか、○○夫妻は分かれたそうだとか。どうでもいいことを、まるで天下の一大事のように、真顔で喋っているレポーターなる人。でもこういう番組にゲストとして呼んで頂いたお蔭で、いろいろな司会者とも知り合った。亡くなった、都知事だった青島幸男さんとか、大の読書家であり、俳優であり、当時は司会業もされていた、児玉清さん。
 ご承知のように、これらの番組は、朝の八時頃、各局競って放映する。内容はどこの局も大同小異といったら語弊があるだろうか。やがて正午。これはニュースだが、民間局では一時頃から、モーニングショーと似たような内容のものを放送する。フジテレビの「三時のあなた」などが有名であった。そして夜。七時から九時台はテレビ界にとってはゴールデンタイムであって、ニュースを流したあとはドラマとか歌謡番組とかがずらりと並ぶのが当り前のことであった。しかし、日本テレビは深夜近くなる十一時から「イレブンPM」という番組を流していた。幕開けは、裸に近いような、カバーガールの映像。そして内容もどちらかといえば、お色気が中心のもの。司会は、大阪に腰をすえて、時代ものやら風俗やらの小説を書いて、筆力はたしかな藤本義一さん(この方ももう故人となられた)。

 ある日のこと。大阪の「よみうりテレビ」から一本の電話がかかってきた。「イレブンPM」にご出演願いたいとのこと。当時の私の勤務先は川崎であったから羽田空港は近い。当日の勤務をすべて終わってからでも十分間に合う。問題は翌日。一番はムリとしても、伊丹空港を二番でとびたてば、昼少し前には学校に帰って来られる。私の担当で、一クラスだけ、自習問題を作って渡しておけば、何とかなりそうだ。出演を承知して、時間や伊丹空港から局への道。そして千里のホテルの件など、いろいろと局の人が話してくれた。すべてあちらまかせにした方がよいようだが。「実はですね、ゲストとしてご出演をお願いするに当たっては、準レギュラーの会田先生がご推薦下さったんです。是非ということで」

 当日、放課後、掃除の監督をしたり、翌日、一クラスの課題を用意し、教頭に「他行届」を提出して、いつもより少し早めに勤務先を出て、羽田空港へ向かった。チケットはすでにテレビ局から届けられていた。伊丹空港からタクシーで直接テレビ局へ、もうすでに夜である。簡単な打ち合わせ。会田先生ともご挨拶程度しか出来ない。あちら側のゲストは、当時女性解放運動の中心人物と騒がれていた。榎美佐子女史である。そして司会者、藤本義一さん。CMの時はカバーガールの方をチラチラとのぞいていた。何をしゃべり、何といってやり合ったのか、今となってはもう記憶もたしかではない。あっという間に終わったような気がする。
「お疲れさまでした」と口々に言いあって、休憩室に移動、あらためて藤本さんや会田先生と雑談する。おだやかな語りくちである。本で感ずるきびしさは少しもなく、じんわりと胸の奥に届いてくるやさしさがある。藤本さんは、少しせかせかした語りの人であった。もう深夜である。京都のご自宅に帰られる会田先生のタクシーを見送って、私もタクシーでホテルへいそいだ。
 今年の、NHK大河ドラマ「八重の桜」、会津が舞台である。「会では実感が出ないんですよ。やはり會ときちんと書かないと、自分の名字みたいでなはない。もとは何といっても会津の出ですからね」とにこにこしながら語ってくれた先生の温顔を、いまだに忘れることはない。
 


    「アーロン収容所」
    「アーロン収容所 再訪」
 二十歳の後半、四年間、会田さんは一兵卒としてビルマ戦線で戦った。戦ったというより、物資や兵器はないのに人間だけ送りこまれたのである。そしてあの悲惨さ。戦死者というより餓死者の多いビルマ戦線であつた。そして敗戦。それから二年間、この収容所で強制労働をやらされた。「旧ソ連のように国際法は無視するために存在すると信じられている国があるが、イギリスは、私たちを一般捕虜と区別した。国際法上、軍事目的に使ってはならないとか、将校を労役させてはいけないとかいう制約があるから、私たちは、日本降伏軍人、もしくは被武装解除軍人という名称を与えた」 西洋史を専攻し、非常事態下に生きた会田さん。軍事知識は至って乏しいが、クラウゼイッツの「戦争論」などは読んでいる。冷徹な学者は、澄んだ眼で戦争末期も、収容所の中でも冷静であった。筋はうろ覚えだが、こういう部分があった。どこから聞きつけて来たのか、私たちは解放され、日本へ帰されるかもしれないという噂ばなし。将校はどうかしらないが、私たち兵隊は無邪気に喜んだ。それが励みにもなった。しかしそんな噂も次第に消えて行った。兵士たちは黙ったままだった。失望は大きかった。またしばらくすると、「帰れるかもしれない」という噂が流れる。兵士たちは喜び。しかしその流言も間もなく立ち消えになり、兵士たちはあきらめよりも、むしろ絶望が強くなる。英軍側がそれとなく噂を流したのであろうか。それは分からないが、多分そうだろう。何回かそれをくり返しているうちに、人間はまわりの言うこと、流れてくる噂を全く信用しなくなる。人間を信じなくなり、絶望的になる。彼らが意図的にやったことか。それとも捕虜である日本兵の、希望的観測、願望が幻影となったのであろうか。
 時代の流れで、隆々たるかっての威風は無くなったものの、それでも大英帝国である。七つの海に、陽のかげろうところなしと豪語したイギリスならば、このくらいの絶望を与えて覇を唱えるなど、ごく初歩的なことであったかもしれない。

 最近、ミヤンマー(ビルマ)の民主化指導者、スー・チーさんが何年ぶりかで来日した。再びアーロン収容所への旅をした会田先生は、「ミヨトウカイノ・・」やら、他の軍歌などを歌いだすミヤンマーの人たちに出くわした。ミャンマーの人たちの心の中には、日本及び日本人への好意と尊敬があると感じたのである。会田先生の収容所生活。そして辛く、なつかしい再訪の旅。
 私はこの二冊を持って行く。そして会田先生に会ったら、あの端切れのよい口調でいろいろと語って欲しいと願っている。
 

2013年03月25日(月曜日)更新

第15日目 「伊豆の踊子」 「雪国」 川端康成

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり

 書斎といえる程、立派なものでないが、座り机があり、作りつけの書棚もあって、一応この部屋が私の仕事場である。欄間に、一枚の書を入れた額がかかっている。道元禅師の歌を「尤」「保」「里」など変態仮名をまじえて、川端康成氏が書いたものである。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」 ノーベル賞受賞の記念講演で語ったものであるらしい。勿論、本物ではない。複製であるが、もう四十年余りも私の身近にある宝物である。
 そして、平成二十五年二月。川端康成という名前を久しぶりで新聞紙上で目にした。代表作「伊豆の踊子」刊行直後、福岡日々新聞(現 西日本新聞)に連載された『美しい!』という小説。四〇〇字詰原稿用紙で約二十枚程度の短編だが、川端先生の全集にも未収録であり、埋もれていたといってよい作品だという。
 一八九九年、明治も半ばすぎ、川端は大阪市に生まれた。幼少期に、父そして母、祖母や姉に死別。十五歳という少年期に祖父と死別して、全くの孤児となった。川端氏の文学では常に「孤独感」とか不幸な運命などが描写されているのが特徴である。新に見つかったこの短編もそうだ。ある実業家の男性には障害を持った幼い息子がいる。温泉地に住まわせているその息子が、数年後に亡くなる。その息子と交流してきた、足の不自由な少女も事故死する。男性は二人を「美しい」と感じて「美しい少年と美しい少女共に眠る」と墓石の碑文に記す。という内容。
 老醜をさらす、ということに、孤高の作家は耐えられなかったのだろうか。あるいはその老醜を恐れたのかもしれない。
「雪国」という不朽の名作。それ以外にも見事な作品は数多い。「山の音」「眠れる美女」「古都」など。そしてノーベル文学賞に日本人として始めて選ばれたが、間もなく七二年、ガス自殺をとげてその生を終えた。


 まずはやはり「伊豆の踊子」だろうか。
 紺がすりの着物。袴。二十歳の私は高等学校(旧制)の帽子をかぶって、伊豆への旅に出た。天城峠の茶屋にたどり着いたとき、そこで休んでいた旅芸人の一行と出会った。十七くらいにみえる踊子。四十代の女。若い女二人、そして若い男。もう一度会えることを期待していそいで来たのだ。やがて踊子たちが出発する。彼らがいなくなったあと、茶屋の人に行方をたずねると、「あんな者、どこで泊まるやら分かるものでございますか」と軽蔑したように言う。再び峠道を歩き、先に出発した芸人たちを追い越したところで、男に声をかけられた。そして湯ケ野を越えて下田まで一緒に旅をすることになった。
 温泉に着く。宿は向かいあわせの別の宿である。尋ねてきた若い男と一緒に湯に入ると、男は川向こうの共同湯を指す。湯殿の奥から裸の女が走り出してくる。明るい中で背のびするほどに、まだ子供なんだ、そう思うと頭の中が拭われたように澄んできた。
 若い男は芸人の妻があり、踊子は男の妹で、十四歳。薫という名であるという。夜、踊子にせがまれて本を読みききかせる。
 翌日、宿を出て下田へ向かう山道で、踊子はいろいろなことを話してくれた。孤児根性でゆがんでいる、その憂いに耐え切れずに旅に出たのだが、踊子が「いい人ね」と私のことを仲間うちで話している声をきいて、言いよもなくありがたかった。私は下田に着いた翌日、朝の船で東京に戻らねばならなかった。男の人が一人で見送りに来た。踊子は?と思ってみると乗船場の海ぎわに踊子はうずくまっていた。何度となくうなずいてみせるだけだった。船の中では頭が空っぽで何も感じなかった。涙がぽろぽろカバンにこぼれおちた。

 純愛小説である。六回も映画化されているという。撮影に使われた旅館「福田屋」は、実際に川端氏が泊まった宿であり、彼が泊まった部屋は現在も当時のまま残されているという。この湯ケ野からのんびり歩く。一足早い春を告げる河津桜が見事な桜並木。河津駅はもうすぐそこである。
 私も、この伊豆の天城越えを、何回か歩いてみた。踊子たちが辿ったトンネルも、新しいトンネルも歩いてみた。松本清張氏の「天城越え」という小説もあるし、歌謡曲では三浦光一氏の歌もある。あまりふれる人はいないようだが、私はこの作品の始めの部分に心ひかれる。


川端康成氏の作品。すべてあの世に持って行きたいが、他の方々のも読んでおきたい。となると、せめてあと一冊は持参したい。何にしましょうか。やはり「雪国」だろうな。


 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。向側の座席から立ってきた娘が「駅長さあん・・」と叫ぶ。ゆっくり雪をふんできた男が「ああ、葉子さんじゃないか、お帰りかい」という。弟が今度こちらに勤めることになったらしい。悲しいほど美しい声であった。島村は一そう彼女に興味を強めた。

 島村はよく山歩きをする。その日も国境の山から温泉場へおりてきた。その晩、酌をしてくれた芸者は、東京にいた旦那が死んだと素直に話した。翌日の午後、女は彼の部屋へ遊びに寄った。親ゆずりの財産でのんびり暮らす島村。時には翻訳の仕事をひきうけたりすることもある。そして「芸者を世話してくれないか」とねだる。しかし「ここにはそんな人ありませんわよ。みんな芸者さん自由なんですから」 そういう駒子の、一途な生き方にひかれて、何度となくこの温泉場にやってくる。駒子のことがしきりに思われる、さて来てみると、彼女の肉体も親しすぎるのか。昨夜も駒子は泊まって行ったばかりである。それも駒子しか知らない、裏から部屋へのぼって来た。今、島村はフランス文人達の舞踊論を翻訳していて、何れ自費出版するつもりでいる。そこへ通ってくる駒子は「もうみんな知っているから」と素直だ。「私たちはどこへ行ったら働けるかしら」とも言う。
 秋が冷えるにつれ、彼の部屋で死んでゆく虫も日毎に多い。季節の移ろうように自然と滅びてゆく。ふと家に残してきた子供たちのことを思い出すこともある。
澄み通った声で葉子が呼んでいた。そして駒ちゃんといって結び文をおいて、すぐいなくなった。又 葉子がやってきて、刺すように美しい眼で島村をちらと見た。「寝る前にお湯の中で歌を唄うんだって」「あ〜、いやだわ」・・「私も東京へ行きますわ」「いつ?」「それじゃ、帰るとき連れていってあげようか」「女中に使って頂けませんか」いろいろ喋っているうちに目頭に涙があふれてくる。畳におちていた小さな蛾をつかんで泣きじゃくりながら、「駒ちゃんは、私が気ちがいになるというんです」ふっと部屋を出て行ってしまった。島村は内湯に行った。葉子も隣の女湯へ、宿の子を連れて入ってきた。そしてあの声で歌いだした。「・・お杉友だち墓参り、墓参り一丁一丁一丁や」すんだ調子の手まり唄である。上がったところへ駒子が来た。二人して語りしな「あの子をあんた泣かしたのね」「あんた、あの子が欲しいの?」「行く末、あの子は私のつらい荷物になりそうな気がするの」
縮を好んで着る島村。今でも「雪晒し」に出すほど。葉子の唄う手まり歌をきいて、この子も糸車や機にかかってあんな風に唄ったのだろうかとふと思われた。縮の産地へ行ってみようかと思いついた。列車にのって川下にあるさびしそうな駅におりた。温泉村から続いている古い街道を歩いた。また列車にのってもつ一つの町におりた。暮れてゆく山はもう白かった。温泉場に戻り、車で帰る途中、料理屋の門口に駒子たち芸者が三四人立話をしていた。窓に吸いつくようにして「どこへいらしていたの?」としつこい。「どうして私を連れて行かないの」突然、半鐘が鳴り出した。「火事だ」「火事よ」下の村の真ん中あたりに火の手が上がった。「繭倉よ」火をみながら島村は駒子を抱いていた。「そうだ、繭倉に映画があるのよ、人がいっぱい入っているのよ」「私は村の人が心配」と言って駒子は駆け出した。島村は駒子を呼んだ、「行くの、あんたも」「うん」「悪いじゃないの?火事場まで、あんたを連れて行くなんて」
駒子がかんざしを畳に突き刺していたのを島村は思い出した、「泣いたわ、あんたと離れるのこわいわ、だけどもう早く行っちゃいなさい」 新しい火の手か火の粉を吹き上げた、「あんたが行ったら、私はまじめに暮らすの」やっしょ、やっしょと声をかけながら、古い手押型のポンプが来た。焔の音が聞こえた。熱かった。火の手を噴きあげ、黒煙が立った。駒子が島村の手を握った。また燃え出した。あっと人垣が息をのんで、女の体が落ちるのを見た。駒子がするどく叫んで両の眼をおさえた。落ちた女が葉子だと分かった。 葉子を胸にかかえて戻ろうとした、「どいて、どいて頂戴」駒子の叫びが島村に聞こえた。「この子、気がちがうわ、気がちがうわ」 駒子に近づこうとする島村は、よろめいた。その時、音をたてて天の河が島村の中へ流れおちるようであった。
 
みどころ
(A)「国境の長いトンネルをぬけると雪国であった」 現在の上越新幹線ではない。昔のトンネルをくぐった上越線である。列車の中はほの暗い状態のはず、そしてトンネルを出るそこは雪あかり。その見事な美しさ。
 そして最後は「紅蓮の焔」 この対比、明暗、想像してみても、何か美の世界へと誘われていくようですらある。

(B)「〜雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さでふもとから私を追っていた」という「伊豆の踊子」の冒頭部分、三角錐のようにして直立する杉の樹林に、斜めに激しく降りかかる雨足。幻想的な、線描の美しさがそこに見えるような気がする。見事な書き出しといえよう。

(C)清水トンネルを抜けた先の温泉地といえばもちろん、有名な「湯沢温泉」である。今はマンションも乱立して、住宅地的様相を呈しているが、ガーラ湯沢というスキー場もあった、大変な賑わいの街になっている。言うまでもなく、冒頭の「信号所」というのは湯沢ではない。清水トンネルを抜けて最初の駅は「土樽」である。昭和六年、信号所として誕生する。そして昭和十五年、駅に昇格したのである。この冒頭のシーンは、雑誌連載のときにはなくて、昭和二十三年、単行本になった時に加筆されたものだという。しかし時代をやはり初期に設定したら、こう書かざるをえないだろう。信号所でよいのだ。今でも上下線合わせて十本ほどしか土樽には停まらないし、利用者も一日に平均二十人ほどだろう。谷川岳に登り、オキノミミ、トマノミミを経て、稜線を土樽へと下る。下に線路と駅が見えているのだが、なかなか下りつけない。私はそういう尾根を汗を拭きつつ下ったことを覚えている。
 

2012年11月27日(火曜日)更新

第14日目 「坊ちゃん」  夏目漱石

 秋田、大館から、今はもうない小坂鉄道に乗った。山形寒河江に泊まって大朝日岳に登った。山梨・長野は登山のたびに何度通ったことか。不帰ノ嶮を通って黒部をトロッコ列車に乗り、宇奈月温泉は富山である。ある教育団体に招かれて行き、阿波おどりを見せてもらったのが徳島。岡山の後楽園。ヒロシマ。秋吉台。長崎は波佐見で焼物を買った覚えがある。世界遺産になってから、オレも私もと出かけるはるか以前、半世紀近くも前に、私は屋久島にわたり、九州の最高峰宮之浦岳に登った。日本地図や二万五千分の一地図をみながらこんなことをやっていたら、日本の都道府県はすべて行ったことになるなとニンマリ。しかし、念を入れてもう一度チェックしながら確認したら、たった一つだけ、落としていた県があった。長い人生の中で、旅好きな私なのに、なぜこの県に足をふみ入れたことがなかったのか。高知へは何回か出かけた。しかし四国の正面玄関は何といっても高松である。宇高連絡線(当時)で上陸し、直行、帰路。四国への旅はそれが当り前と思っていた。だから地図上でみても若干、横みちにそれる型の、愛媛への旅は考えたこともなかったのである。フィリピンで戦死した、陸軍幼年学校の直接の上官。前田少佐の墓参に、戦後間もなく、交通事情の悪い頃に出かけたが、切符の入手も行列で、しかも大混雑の車中、急行といっても当世の各停ぐらいの速さ。高知へ直行して墓参。同じコースを帰るという旅。愛媛のことは念頭になかったし、あったとしても戻り道は難しかったろう。

 平成の世になった。四国が鉄道でつながり、岡山で乗りかえれば、あっという間に瀬戸内海を渡り、乗りかえなしで高知へ。親友の三回忌と、追悼誌の編集を兼ねて、また高知へ出かけた。このとき始めて私は、愛媛に行ってみよう、しまなみ海道で瀬戸内海を渡るのも素敵だろうという、ささやかなゆとり心で、そんな老後の旅を計画してみた。 高知から松山へは、仁淀川を眺め、山の中に分け入る道をバスで行くのがよかろう。久万高原を通って、宿はやはり道後温泉か。まるでトラムのように、伊予鉄が悠然と、のんびりと松山市内を走り、やがて道後温泉駅(終点)に着く。停留所にあるトイレのマークも明治風のもの、そして近くに子規堂があり子規記念館がある。夏目漱石が「坊ちゃん」に書いたように、ここ松山中学に先生として赴任したころ「マッチ箱のような汽車」と書いたその列車に乗って、この温泉に入りに来たのであろう。その「坊ちゃん列車」が、その当時のまま保存されている。プロ野球の公式戦もやる野球場は「坊ちゃんスタジアム」である。漱石が最初に下宿した愛松亭。次は上野家へ。その下宿を愚陀仏庵と名づけ、やがて帰郷した子規が一階に、漱石が二階に住んだ。「坊ちゃん団子」もある。道後温泉本館で耳にする、朝、昼、晩の太鼓の音。そして漱石ゆかりの「坊ちゃんの間」それだけ並べたら、やはり夏目漱石の場合「坊ちゃん」を、飽きるほど読んだけど、最後にもう一度読んでみよう。

 漱石といえば勿論、「草枕」「我輩は猫である」などの初期もの。「三四郎」「それから」「門」の前期三部作。「彼岸過迄」「行人」「こころ」の後期三部作も、もう一度読みたいし、「明暗」もいいな。しかし、もう冥土は目の前です。あまり固苦しくなく、切実に人生を考える、というのはこの際やめにして、のんびりと気楽に過したいもの。私は教師でもあったので、やはり「坊ちゃん」が身近に感じられる。


               坊ちゃん


 どういうわけか、親爺は私にきびしかった。母も私にはつらく当たった。出来の良かった兄ばかりひいきにしていた。もっとも向うみずであばれん坊でという私だから、「お前の顔は見たくない」というので、親類へ泊まりに行ったら、その間に母は死んだ。残されたのは父と兄と私。それに下女の清。清はどういうわけか私を可愛がってくれた。この年齢の私をつかまえて「坊ちゃん」はないものだが「あなたは真っ正直でよいご気性だ」とほめる。鉛筆も帳面も買ってくれる。ある時、清が三円貸してくれたが、便所へ落としてしまった。清は棒を持ってきて、ひろいあげ、水できれいに洗ってくれた。いまに返すよといったきり返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
 物理学校を卒業して八日目に校長に呼ばれた。四国のある中学校で数学の教師がいる、月給は四十円で、どうだという話なので「行きましょう」と返事をした。
 母が亡くなってから六年目に父も亡くなった。兄は商業学校を卒業して、ある会社の九州支店に行く。家は他人にゆずった。困ったのは清のこと。「あなたが奥さまをおもらいになるまでは、甥の厄介になります」といことで何とかなる。出立が近いある日、清を訪ねたら風邪をひいて寝ていた。行くことは行くがじき帰る、何が欲しいときいたら、越後の笹飴という。方角が違う、私は西の方へ行く、別れの日、清はホームまで送りに来てくれた。「もうお別れになるかもしれません。ずい分ご機嫌よう」と清の小さな声。涙をいっぱい浮かべて。汽車が動き出す。窓から首を出してみたら、まだ立っていた。
※ 無鉄砲な「坊ちゃん」を面白く読んだものだが。よく読んでみると、実はこれは「清」の物語では
ないかと思われる。東京へ帰ってきてすぐに清の顔を見に行った。もう田舎へは行かない、清と家を持つんだといったら、涙をぽたぽたおとしていた。三月、肺炎で死んでしまった。「清が死んだら、坊ちゃんの寺へ埋めてください。お墓の中で坊ちゃんのくるのを楽しみに待っております」といった。そして松山にいる間にも、長い手紙をもらっている。起承転結、折にふれて清がセ全体をひきしめ、味わいをつけている。私はこの小説を「清にささげる物語」と読みたいのである。

 さて、船をおり、マッチ箱のような汽車に乗ったりしてやっと中学校に着いた。が放課後で誰もいないので宿屋へ行った。翌日中学校へ行き、校長に紹介してもらう。いろんな教師がいて、いろんな所が目について、狸だとか赤シャツ。うらなり、山嵐、野だいこなどとをあだ名をつけてやる。早速に、山嵐が下宿を世話してくれ、そこへ移る。そして清に来年の夏は帰ると手紙を書いた。
 初めての授業。田舎者に弱味をみせるとくせになるから、大きな声、少々巻き舌で喋る。すると生徒があまり早くて分からんけれ、もちっとゆるゆるやっておくれんかな、もしという。分からなければ分かるまで待つがよい。こんな調子であとの授業も終り下宿へ帰る。こうやって規則通り働いているうちに、何だかもう学校もいやになった。街中へ出てそば屋に入った。天ぷらそばを頼む。暗いのでよく分からなかったが、三人ほど中学校の生徒がそばを食べていた。汽車に乗って温泉街へ行ったこともある。そこでうまいという評判のだんごを食べたことがある。そういう何もかもがすぐに広まる。翌日、教室へ行くと黒板に大きな字で「天ぷら先生」と書いてある。次の教室へ行くと「天ぷら四杯也。但し笑うべからず」と書いてある。あるいは「だんご二皿七銭」と書いてある。こんな鼻の先がつかえるような狭い所へ来たのかと思ったらいやになった。
 順番で、宿直することになった。放課後からずっと一人だ、退屈なので温泉へ行く。他の者もやっていることだし、小使いに頼んで出かけた。何もすることがないから寝るだけだ。布団に入ると、ざらざら足にさわる、ぐちゃりとふみつぶしたようなものもある。毛布をめくるとバッタが五六十匹。やっと掃除をして、寄宿生を三人呼び出した。バッタでなく、イナゴぞな、もしという。こんないたずらは許せない。
※ 松山のさらなるいなかの方からの中学生は寮に入ることになる。昭和三十年代より以前は、学校の先生には男子に限って宿直という制度があった。一晩のうちに二回ほど、校舎内を懐中電燈を持って巡回する。夕飯は近くの食堂へこっそり出かけ、朝飯はぬきで翌日の授業をやらなければならぬ。いつもの教室だから怖くはないが、日常、全く縁のない理科教室などは一寸怖い感じがする。手当てがつく。しかし給料に応じてだから、若い新任教師などは少ない。定年近い方の手当ては高額だ。だから一人者の新任教師は、喜んで宿直を代わってやる。年輩の家族持ちの人もその方がいいにきまっている。


 その後、だいぶ経ってから職員会議があり、教頭などは寛大な処置を求めた。しかしあまり気の合わないような、それでいて下宿も世話するような山嵐は厳罰を求めた。但し、宿直のときは温泉に行くのを慎んで下さいとつけ加えて。時に、海釣りに誘われたこともある。松山の沖合いには小島がいくつもある。松がターナーの絵にそっくりだの、マドンナをあそこに立たせてみたいだの、勝手なことを言う赤シャツと野だいこ。マドンナとは赤シャツの馴染の芸者のことらしい。赤シャツは書生流に正直だけではつまらないという。うらなり君は土地の人だ。この辺の事情にくわしい。その縁をたよって下宿をかわることにした。あれこれ他人の話をきくと、マドンナは、うらなり君と結婚の約束が出来ていたらしいが、去年うらなり君の父親が亡くなってから家は傾きつづき。そこえ赤シャツがつけこんで、マドンナさんを嫁に欲しいと言い出す、そんな頃、清から長い手紙が来た。下書きして清書をして何日もかかった。見ると大てい平かなばかりだから、どこで切れてどこで始まるのか、句点をつけるのに骨がおれる。じっくりと読んだ。田舎者は人が悪いそうだから、ひどいめにあわないように。気候も東京と違って不順だろうから寝冷えをしないように。以前、坊ちゃんに貰った五十円は、坊ちゃんが家をもつときの足しにと思って郵便局へ預けておいた。などという四尺ばかりの長い手紙。赤シャツに、君に話があるから家へ来てくれと言われた。立派な玄関をかまえた家だ。この土地の人、古賀君(うらない君)が月給が上がって、日向の延岡へ転任になるという。家もある、母もいる、月給はこのままで良いからここに居たいと頼んだが、もう決めたことだからと校長に言われたという。そこで君の月給も上げられるかもしれないと、こんな話であった。一旦は家に帰ったが、気がすすまないので、断わりに又出かけた。うらなり君の送別会をやり、すべてうらなり君を遠ざけてマドンナを手に入れる赤シャツの策略である。よしそれならとある時、赤シャツとやり合ったがラチがあかない。それならばと、山嵐は辞書を出して、温泉街の枡屋の表二階にひそみ、障子に穴をあけて見張りを始めた。私も一緒に張り込んだが、一週間経っても何の変化もなし。八日目芸者が先に角屋へ入り、太鼓の音がひびいたあとで赤シャツと野だいこがやってきた。朝の五時、宿を出た二人のあとを追って町ずれまで来た。「そば屋とかだんご屋へ入ってはいかんという人が、なぜ芸者と一緒に宿屋に泊まるのか」 買って袂に入れておいた生卵をぶっつけてやった。殴りつけた。下宿に帰ったのは朝の七時。すぐに荷造りを始めた。そして「私儀都合有之、辞職の上東京へ帰り申候」と書いて郵便で校長に出した。夜、六時の出帆。私と山嵐はその夜、この不浄の地をはなれた。東京に帰ってすぐに清のところへ行った。そして東京で清と家を持つんだいった。―だから清の墓は小向日の養源寺にある。


 本名、夏目金之助。一八六八年〜一九一六年。高浜虚子に勧められて、雑誌「ホトトギス」に「我輩は猫である」を発表したのが作家としてデビュー作であった。
 

2012年10月09日(火曜日)更新

第13日目  『高瀬舟』 森鴎外

 入相の鐘のなる頃に漕ぎだされた高瀬舟は、京の町の家々を両岸に見ながら高瀬川を下って加茂川を横切る。罪人と親類の者とは夜通し語り合う。そして役目柄を忘れて、その話を耳にしながら、ひそかに胸を痛める付き添い同心もいた。
 知恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べ、珍しい罪人が高瀬舟にのせられた。三十歳になる喜助である。親類はないので一人で乗った。護送を命じられて舟にのりこんだのは同心の羽田庄兵衛である。喜助はおとなしく、しかしお上にへつらうような態度でもない。横になろうともしないで月を仰いでいるが、目にはかすかな輝きがある。弟を殺した罪だそうだが、いかに悪い弟にせよ、人を殺してこの態度はあるまい。口笛でも吹き始めそうな喜助をみて、分けのわからぬ庄兵衛は、「お前、何を思っているのか」と呼びかけた。「今まで多くの人を島に送った。夜通し泣くにきまっていたが、お前はどうも島へ行くのを苦にしていないよう。どうおもっているのか」 喜助はにっこり笑って言う、「「ご親切、ありがとう存じます。他の方は今まで楽をしていたからで、私は今まで苦しみ通しでした。今度はお上が島にいろとおっしゃいます。その島におちついていられることが、何よりも有難いことでございます」さらに言葉を続ける。「さらにお上には二百文というお金を下さった。私は今までに、二百文というお金を持ったことがございません。いくら働いてもお金は右から左、お牢に入ってからは何の仕事もしなくても食べさせて頂ける。島へ行ったらこの二百文をもとでにして働こうと思います」 それを聞いていた庄兵衛は何も言うことができずに考えこんでしまった。
 庄兵衛は老母や子どもをふくめて七人暮らしである。月末には勘定が足りなくなることがある。すると女房が内証で里から金を持ってきて帳尻を合せる。しかも喜助が有難がる二百文の貯えすらない身の上だ。そしてたとえ自分が一人身だとしても喜助のような心持にはなれそうもない。どうしてなのか。庄兵衛は今さらのように驚異の目で喜助を見た。この時庄兵衛は喜助の頭から毫光がさすように思った。そして、「喜助さん」と、さんづけで呼びかけ、「人を殺めたからだと聞いたが、わけを話してくれないか」と声をかけた。喜助は、「かしこまりました」と言って小声で話し出した。
「私は小さいときに病気で両親と死に別れました。弟と二人残されたのです。子どものころは近所の人たちが気にかけてくれ、走り使いなどして何とか育ってきました。大きくなって職を探すときにも、なるべく二人で一緒に働くようにして助け合ってきました。そんな頃、弟が病気になりました。
 仕事が終わって帰る途中で食物などを買って帰る。弟に食べさせる。すまないと言っていました。ある日帰ってみると、弟は布団に伏して周りは血だらけです。どうしたと、弟にかけ寄りましたが、ものを言うことが出来ない。血を吐いたのかと思ったがそうではなかった。やっとものが言えるようになった弟が話すには、「どうせ治りそうもない病気だから、早く死んで、兄きに楽をさせてやりたい。喉を切ろうと思ったら刃が横へすべってしまった。これを抜けば死ねるだろうと思っている」 私は、「医者を呼んでくるから少し待ってくれ」」と言いましたが、弟は、「医者が何になる、早く抜いてくれ」と言うばかり。そして私を怨めしそうに見るのです。しばらく思案していましたが、弟を楽にしてやるのがよいのかとも思い、剃刀の柄をにぎって、さっと引いたのです。そのとき、閉めておいた表口の戸を開けて、近所の婆さんが入ってきました。留守の間、弟の面倒をみてくれるよう頼んでいる婆さんです。婆さんは、「あっ」と言って駆け出してしまいました。私は剃刀を手にしたままぼんやり婆さんの後姿を見ておりました。ふと気がつくと弟はもう息が切れておりました。
 喜助の話は筋が通っている。庄兵衛は思う、これがはたして弟殺しというものだろうか。弟は早く死にたいといったのは苦しみに耐えられなかったからであろう。喜助もその苦しむ姿を見るに耐えられなかった。それが罪であろうか。殺したのは罪に相違ないが、それが苦から救うためであったと思うとそこに疑問が生じてくる。
 次第にふけてゆく朧月夜。沈黙の二人をのせた高瀬舟は黒い水の面をすべって行った。
 
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