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大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

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2012年09月05日(水曜日)更新

第12日目 『舞姫』 森 鴎外

 ある高等学校で、広島―秋吉台―津和野方面への旅行を実施したときのこと。勿論、バスでまわるやり方ではない。班単位の行動にして、班ごとに自由研究。三十年前に流行したやり方である。津和野で一泊して、たっぷり時間をとった。
 津和野には近代工場などは一つもなく、静かで落ちついた、山あいの小さな町である。鯉が、ウグイが津和野川に、掘割に群れをなして泳いでいて、旅人の目をたのしませてくれる。当り前のことだが、町の人は「売らず食わず」でこれらの観光資源を大事にする。津和野城址には、観光リフトもあって、三七○メートルの城址に立つこともできるが、その登り始めは太鼓谷稲成神社、そして鷺舞で有名な弥栄神社。京都の八坂神社とつながりがあり、音も同じ「ヤサカ」である。まさに山陰の小京都にふさわしい。
 津和野川の上流の方へ歩いてゆく。小さな町だから、歩くか、自転車がちょうど良い手段である。森鴎外が生まれ、そして十一歳まで暮らした旧居がある。猪苗代の野口英世の生家、あるいは大分中津の福澤諭吉の旧家とか、明治の頃だから当り前のことではあるけれど、華やかさは全くなく、まことに質素、そして広い部屋の一隅に机がおいてある。あの当時、オーディオやケータイがあったとしても、親はそれを許さなかったであろう。隣といってもよいほど近い。哲学者、西周(あまね)の旧宅も見える。テレビ、オーディオ、ケータイ、飾りたてた豪華な個室。今の子ども達の部屋からは大した人間は育たないだろうと思った。
 キリシタンの殉教者をまつる、乙女峠のマリア聖堂、その手前に永明寺がある。この山門を入ったすぐ左手に鴎外は眠っている。
 話を元にもどして、宿に帰った生徒が先生に聞いたそうだ。「先生、森鴎外の墓はありませんでした」 そう「森林太郎」の墓なら永明寺にある。彼は遺言で「余は石見人、森林太郎として死なんと欲す」と託したという。作家でなく、一人の石見(いわみ)のくにの人として故郷に眠りたいということなのであろう。十一歳までここで暮らしたのち父に従って上京。東大の医学部を卒業後、軍医に任官する。つまり彼は軍籍にある身であり、医者であり、さらに作家でもあった。
 さて、あの世への途中で読む本として、一体「舞姫」と「高瀬舟」の何れを選んだらよろしかろう。どちらも読んでみたい。ならば両方持って行こうか。 なお、ドイツに留学した鴎外は我が子にドイツ風の名前をつけている。漢字の音訓をうまく使ったやり方である。
 於菟(おと) 茉莉(まり) 杏奴(あんぬ) 不律(ふりつ) 類(るい) 半子(はんす)


 ここはサイゴンの港。こうして東に向っている私は、五年前、西に向っていた頃の私ではない。詩や歌に詠んでも消せぬほどの深い恨みを残した今までの生活。友は皆、下船してホテルに泊まり。船にいるのは私だけなので、じっくりと今の私の気持ちを書いてみたい。

 父を早くに失った私は、きびしくしつけられ、十九歳で学士。故郷の母を東京に呼びよせ、洋行して勉強して来いとの命令を受けて、どんなに心躍ったことか。我が家を興すのはこの時とばかり、私は命をうけてはるばるベルリンにやってきた。まばゆい街並み、たくましい紳士、そして美女たち。しかし私は勉強に来たのだ。心動かされまいと決心、いろいろ調査のかたわら、地元の大学で法律を学ぶことにした。
 あっという間に三年が過ぎた。私も二十五歳。生きたる辞書と考える母、私の上司は私を活きたる法律と考えているようだが、自由な大学の空気に当っていると、これでよいのだろうかという気になり、歴史や文学に心を寄せるようになったのである。
 ある日の夕暮、家に帰ろうとして近くの寺の前まで来たとき、その寺の門に寄りかかってひっそりと咽び泣く一人の少女を目にした。「どうしたの、何か力になれるかもしれないから」と声をかけると、「あなたはいい人のようね。母は私にむごい人。父が亡くなって、明日は葬儀なのに、私の家には全く貯えもないの」「分かった、とりあえずは君の家へ送って行こう」大戸を入って四階にのぼる。出てきた老女、布団に寝ているのは亡くなった父であろう。私のポケットには二、三マルクしかない。時計をはずして、これもいくらかにはなるだろうと渡してやる。少女はびっくりしていたが、私が握手のために出した手を唇にあて、その上にはらはらと涙が散ったのである。
 この時をきっかけに、私と少女エリスとはつき合い始めたが、仲間は私のことをあれこれと噂するようになった。その頃である、私は二通の書状を受取った。一つは母からの自筆の手紙。一つはその母の死を知らせる親族の手紙。
 私とエリスとの交際は清らかなものであった。私が貸した本を読んだり、私が彼女のことばの訛りを直してやったり。しかし母が亡くなって送金がとだえて、かつ踊り子とつき合っているという理由などで、私は官を免職になったしまった。老母には一切言うまい。学資の途絶えた私をさげすむかもしれないからと彼女は言う。そのいじらしい姿をみて、遂に離れ難い仲になったのはこの時であった。
 このまま日本に帰れば、学問も半端でしかも踊り子に狂ったという汚名を背負ったまま。さりとてこの地に残るには学資を得る手段がない。このとき私を救ってくれたのは、同行してこの地に来た相沢謙吉であった。東京にいる彼は、私をある新聞社の通信員とするよう取りはからってくれた。これで僅かながらも収入が入り、エリスの踊り子としての収入と合せて何とか楽しい日々が送れるようになったのである。
 彼女は練習、私は街の休息所に行って、この国のたくさんの新聞を読み、あるいは小金を貸している老人などに話をきいたりして、コーヒーを飲みながら記事にまとめて日本に送る。妙に忙しくなって大学にも行かなくなり、私の学問は荒んでしまった。エリスは舞台で倒れ、男の私は分からなかったが、もしやと気づいたのはエリスの老母であった。
 そんな時に相沢から手紙が来た。天方大臣に付いていまベルリンに来ている、急いで会いたいという。久しぶりに会った友は、重要書類の翻訳をたのみ、ロシアに行く大臣の通訳をしてくれという。そして最後に、才能ある君が、たとい少女に誠心があっても、いつまでもかかづらっていてはいけない。意を決して断てという。しかし私には表面上は友の言葉に従うフリをしたが、エリスの愛を断つことはできない。そのエリスから、大臣についてロシアに行っている間にも手紙が来た。少しはなれてみて、いかに貴方を愛しているかわかりました。とても離れては暮らせません。一日も早く帰ってきてください。エリスの必死の願い。しかし私が軽率に彼女と別れるよ、と口にしたことを相沢は大臣に話してしまった。大臣と共にベルリンに帰ったのは正月の朝であった。馬車に乗って自宅に帰る。迎えに出た彼女は、私に抱きついて、「貴方が帰ってこなかったら私は死んでいたでしょう」と。それを聞いて、ふらついていた私の心がはっきりと定まった。部屋へ入ると、白い木綿やレースなどがいっぱい積みあげてある。おむつや産着などせっせと準備していたのだ。「産まれてくる子は、きっと貴方に似て黒いひとみの子でしょうね」と嬉しそうに言う。
 何日かして大臣に呼ばれた。「四、五年もこの国にいれば、いろいろな係累も出てくるだろう。しかし相沢君の話ではそれはないという。どうだ、私と一緒に日本へ帰らないか」もし、大臣の言にすがらなければ私は広い欧州の地で一人で生きてゆかねばならない。何と節操のないおのれなのだろう。「承知しました」と答えてしまったのだ。雪の大路を我が家に向って帰りながら、「俺は許されざる罪人だ」と思った。部屋に入ると、おむつを縫っていたエリスが、「どうしたの貴方」と私に駆け寄ったが、泥まみれの衣服のまま、私はそこに倒れてしまった。
 数週の間、私は寝込んでしまった。その間に訪ねてきた相沢は事情を全部知ってしまった。と同時に、エリスもすべての事情を知らされたのだろう。私の病床についているエリスの、ひどくやせて変りはてた姿に、私はびっくりした。私の友人、そして恩人相沢は、エリスを精神的に殺したも同じではないか。エリスは、「豊太郎さん、貴方は私をだましたのね」と叫んで倒れてしまったという。傍の人が誰かも分からない。髪をかみむしり、布団をかむ、おむつを頬におしあてて涙をながしていたという。
 病の治った私は、エリスを抱いて涙を流したことが何回あったろうか。おむつを身にあてて涙を流す、治療の見込みはないということであった。私は何とか生活してゆけるだけのお金をわたして、又うまれる子どものことを頼んで、大臣と共に日本へ旅立ったのである。相沢のようなよき友は又と得がたいだろう。しかし私の胸のうちには一点だけ、彼をにくむ気持ちが今日まで残っている。

※あとを追って日本にやってきたエリス。しかし現代と違って、あの当時は国際結婚はきらわれていたし、森家の体面もあった。皆に説得されて、エリスは悄然と再びドイツへ帰って行ったという。
 

2012年08月15日(水曜日)更新

第11日目 『雲の墓標』 阿川弘之

 まるで宗教の教組のごとく、多くの人たちを惹きつけてやまなかった吉本隆明氏が亡くなった。そのとき私は吉本ばななさんが、彼のお子さんであることを始めて知った。不勉強で恥ずかしい。芸人の世界ではまわりがチヤホヤするから本人にその才がなくても何とか恰好はつく。しかし文学の世界では本人(子ども)にその才がなければどうにもならないだろう。アララギの大家、歌人斉藤茂吉は幸せ者だろう。長男の斉藤茂太氏は同じく医者でありながら、啓蒙書のようなエッセイのような本を何冊も書き、「楡家の人々」「白きたおやかな峰」の北杜夫氏は弟である。森茉莉さんも森於菟さんもついに父と並ぶことすら出来なかった。慶応大学の教授である阿川尚之氏は、専門がアメリカ憲法史。文学でないのが残念だが、父親、弘之氏の血をひいてか「横浜の波止場から」とう著書もある。エッセイストの阿川佐和子さんは同氏の妹、父を越えるまでには至らないが、喜んでいるとは言えるだろう。
 NHKを始め、民間局でもゲストで、あるいは自ら司会をこなしたりと、目の方も楽しませてくれたが、軽妙な文章で多くのファンをとらえたエッセイなど、その活躍が楽しい二人の女性がいる。一人は壇ふみさん。ご存知であろう「火宅の人」の著者、壇一雄氏のご息女である。凄絶な家庭に育ちながら父を憎まず女をにくむ。その文がいい。 そして一緒に出演する、次々にエッセイを出す阿川佐和子さん。「雲の墓標」の著者であり、元祖テッちゃんでもある阿川弘之氏のご息女でもある。お二人とも親ゆずりの才気あふれる、見事な方たちである。ところでその阿川さん。自分のルーツを知りたくなって父にたづね、あげくは旅に出たというから、あるいは執念があったのかもしれない。本州は西のはずれ、山陰本線を乗り継いで、あと二十ほどの駅で下関、という終点近くに、一時間に二本ほどの列車が通るという小さな駅『阿川』がある。カルスト台地のはずれのあたり。沖合いに小島の点在する、どちらかといえばあまり馴染のない、旅行者が、下りてみようかと思うことのない、忘れられたような地域といえようか。ご自分の祖先がこのあたりの出であったのか、ここで生きていたのかという想いを文字にした一文を、何かに書いておられたのを読んだおぼえがある。北杜夫氏や遠藤周作氏らと同世代でもあり、無類のいたずら好き、そして親友どうしでもあった。阿川氏はまた海軍将校でもあった。さまざまな疑問を抱きながらも、国とともに破滅へと向っていく一個人。その体験を生かして書かれたのが「雲の墓標」である。真珠湾の奇襲からしばらくは勝っていても、やがて物資が不足しはじめ、戦局が暗転して東京が空襲を受ける。大学生や専門学校生は本を捨てて陸軍へ、海軍へ入隊することになった。十五、六歳の少年も志願できるようになり、食糧が乏しくなった中学生、女学生は空腹をかかえて工場に動員されていった。未熟な腕で特攻機にのり、片道の旅に出た友、敗北で終わった戦争。あの空の彼方へ消えた友を思う。あの雲こそ友の墓標だと。房総の海辺にたたずんで友をしのぶ。私にしても身につまされる本である。


「真幸くて逢はむ日あれや荒橿の下に別れし君にも君にも」 最後の万葉集演習が終わって、みんなで集まって喋りあったときに、鹿島が詠んでくれた歌である。緒戦の勢いはすでになく、戦況はますます不利になっている。南雲中将は戦死し、サイパンはアメリカの手におちた。私たちは学業半ばで海軍に入った。そして大竹海兵団に入隊したのである。これから鍛えられる。ということはつらいことを体験し、理不尽なことでも「はい」と言わなければならないことだろう。しかしこうして京都大学の分隊として友が身近にいることは幸せと言わなければなるまい。しかし娑婆をはなれた海軍の生活が始まっても、本当にこのまま訓練を受けるだけでよいのかという疑問がわく。殴られる、走らされるなどのさまざまな制裁が次第に海軍の人間を育てるのだろうか。検査によって飛行科になる。次はいかにして戦況を挽回するか。いかにして死ぬか。特攻隊が現実のものになってきた。訓練の態様により、大竹から宇佐へ、そして出水へ、あるいは茨城の百里基地へと日本中を移動する。その間にもやはり学問への望みは断つことができない。それらのことで友と議論することがある。父が宇佐へ面会に来てくれた。兄はフィリピンで戦死したそうだ。水俣の人、深井蕗子さん。外出したとき、つげの櫛をみて、蕗子さんに送ろうと思って買い求めた。しかし一年以内にほぼ確実に死ぬ者が、想いを表白してよいものかどうか。
 
二十年六月、新しい特攻隊の編成あり、一番に指名された吉野次郎。急遽木更津へ移動。吉野は遺書を二通書いた。一つは両親あて。
「・・・・(前略)二十五年のご慈愛、深く深く感謝いたします。御二方の御こころはお察ししますが、私が自分の使命に満足して安らかに行くことを信じて、多くは嘆かないでいただきたいと思います。・・・(中略)・・・・・出水にいる頃世話になった人、水俣の深井蕗子、この人のことを、もし生きていたら私は申し出たかもしれません。しかし先方は何も知らず、その後文通もないのですから御通知等は御無用と思います。突っ込む時、父上母上の面影と一緒に胸に浮かべるかもしれないので、一寸だけお断りしておくのです。いま八時半です。走り書きで、さようなら」

遺書二、 鹿島へ
「雲こそ吾が墓標、落暉よ碑銘をかざれ。わが旧き友よ、今はたして如何に。共に学び共によく遊びたる京の日々や、その日々の盃挙げて語りし、よきこと、また崇きこと、大津よ山梨よ、奥津藻の名張の町よ、布留川の瀬よ。軍に従いて一つ屋根に暮したる因縁や、友よ、ありやなしや。されど近ければ近きまま、あんまり友よしんみり話をしなかったよ。なくてぞ人はとか、尽さざるうらみはあれど以って何をかしのぶよすがとなせ。友よ、たっしゃで暮らせよ。二十年七月九日朝」

 昭和二十年十月、鹿島は、吉野次郎のご両親宛に手紙を書いている。京都の教室へ帰りたい気持はあるが、なかなかその気になれない。学業半ばにして海軍に投じた四人の仲間の、自分以外のすべてを失ったことが大きな打撃だという。七月十日早朝、米軍機動部隊が本州東京海面から本土に接近とあるので、その艦隊に突入したのではなかろうか。
「・・・私は今、房州東海岸の鵜原というところに居ります。天際の、海と雲とが合するところに、湖を墓にして、雲に碑銘を記して静かに眠っておられるでしょう。いづれ京都へ帰りましたら、必ず一度お邪魔して万万お話申しあげる所存でございます」

廣 墓           ―――亡き吉野次郎に捧ぐ―――

われ、 この日
真南風吹く この岬山により来れり
あはれ はや
かえることなき
汝の墓に額づくべく

(略)

真南風吹き
海より吹き
わがたつ下に草はみだれ
その草の上に心みだれ
すべもなく、 汝が名は呼びつ 海に向いて
 

2012年07月30日(月曜日)更新

第10日目 『山月記』  中島敦

 小学校の、それも低学年の頃。関心のあるのは良い友だちと、担任の先生くらいのものだろう。クラスの女の子も興味なし。ましてや他学年、他クラスの先生。そして校長先生など、全く関心がない。苗字さえも覚えようとせず、あ、この学校の先生なんだという印象ぐらいしかない。何かの儀式のときや、朝礼などで拝む校長先生の顔は、むしろ怖い人という印象しかない。まことに申しわけないことだが、私が小学生だったころの校長先生は、お名前も忘れてしまった。
 そして戦後。名古屋陸軍幼年学校から復員してきた私は東京高師にやがて入学する。従って私の妹や末弟たちが小学校であった。幸か不幸か、私の家は、小学校の正門前にある。そして小学校長は官舎に住んでおり、校庭の西南の一遇にあるから、我が家から50mくらいの距離、当時の小学校長はAさんといい、奥さんがまた、とても賑やかで社交的な方で、私の家にも、しょっちゅう遊びにきていた。隣組のような感覚であったのだろうか。
 講義が早めに終わる。池袋から電車、赤羽から列車に乗り、今で言う宇都宮線の途中で下車してバス。長い通学時間をのんびり歩いて我が家に近づく頃、賑やかな声がきこえる。A校長の奥さんが我が家に遊びにやってきて、母とお茶をのみながら会話を楽しんでいるのだろう。声が大きいからすぐに、あ、Aさんだなと分る。そんな父や母から、Aさんはどうやら、中島敦という作家と、遠い親戚らしいと聞いたことがある。どの程度のつながりかまでは分らなかったし、私自身がその頃は、漱石や藤村を読みふけっていたので、中島敦という作家は念頭になかったのである。また、漱石や藤村らは教科書の常連でもあった。
 やがて自分が教壇に立つようになる。次第に教科書の内容が変化してきたことを、実感として受けとめられるようになった。さすがに、織田作之助や川上宗薫先生はないけれど、漱石、藤村、鴎外ら大作家は不動の常連であるが、詩などをふくめた広い文学面からいえば、薄田泣菫、佐藤春夫、上田敏らに伍して、高村光太郎、朔太郎、立原道造、北原白秋、蒲原有明らが出てくる。そして太宰治であり、中島敦である。勿論、作者が一体、何を書きたかったのか、何を分ってほしいのか、そういうテーマが割りとつかみやすいものが選ばれて教科書に採択される。例えば太宰の『走れメロス』などはきわめて明快であり、生徒にも抵抗なく受けいれられた。まことに不甲斐なきことながら、漱石や藤村を経て、当時私が読んでいたのは、太宰。坂口安吾、織田作之助、梅崎春生、安部公房、舟橋聖一、丹羽文雄、少々下って井上靖、水上勉、川端康成。さらに若く(?)なると、遠藤周作、阿川弘之、北杜夫らへとつづいた。正直いって、中島敦の作品は、教科書に採択された。少しでもふれておかなければ、という気持ちで、ごく軽い気持ちで目を通してみた。そして圧倒された。漢語を自在に駆使してしかも飽きさせず、むしろ声を出して読むことによって、陶然たる気持ちになる。見事という他ない。以降、教科書の常連になってゆくのも、当然の帰結といえよう。


「山月記」について
 袁惨という役人が地方にでかけたとき、この先の方には虎が出ることがあるので、白昼だけ歩いてくださいと注意された。忠告を無視して未明に出かけた袁惨たち一行に、草むらから一匹の虎がとびかかろうとしたが、一瞬の隙に草むらに逃げこんだ。そして「危ないところだった」という人間の声。ききおぼえのある友人、季徴の声ではないか。二人は親友だった。その親友が去年、汝水のほとりへ公用で出かけたが、夜半、何やら叫びながら寝床をとび出し、再び戻って来なかったといういきさつがある。しかし声は親友の季微、二人はなつかしく都のことなど語り合った。姿はみえない草むら越しである。なぜそんな虎の姿に・・という問いに季微はこう答える。
「おのれの才能を傲慢に信じこんだ。と同時に才能の無さが暴露されることの恐怖心もあった。うぬぼれだろう。その尊大な羞恥心が俺にとっての虎だったのだ。一日に僅かの時間、人間らしい心が戻ってくるのが、それも徐々に減っている。いつかは本当に虎になってしまうだろう」
 そう、確かに季微は頭脳明晰で才能もあり、若くして役人になった。しかし気性が激しく、自信家で、性、狷介。役人をやめて詩作に熱中したが、何か欠けるところがあるのか、詩人としての名声も得られず、生活は苦しくなる。やむをえず再び役人になった、といういきさつがある。今は虎の姿になった季微は茂みの奥から語りつづける。
「そのうち本当に虎になってしまうだろう。詩人として名を残すことが望みだったが、その手段がない。暗誦している詩を書きとめてくれ、そして世に伝えてくれないか。友人としてそれが最後のお願いだ」 朗々と三十編ほど暗誦。袁惨はそれを部下に書きとらせた。何れもすぐれた作品、見事な才能をうかがわせる作品だが、微妙な点で何か欠けているものがあるのを思わせる。
 おのれの才能を傲慢と信じたから虎になってしまったとおのれを分析する季微。やがて夜が明け始めた。季微は心まで虎になってしまうのだろう。季微は言う。
「どうか故郷に残してきた妻や子どもたちのことをよろしくたのむ。そして出張の帰りにはこの道を通らないでくれ。友人と分らずに襲ってしまうかもしれないから。そしてもう一つ、あの丘の上から私の醜悪な姿を見て欲しい」
 季微も袁惨とも涙のうちに別れなければならなかった。丘の上に立った袁惨の眼に、一頭の虎が茂みからとび出し、月に向って吼えるのが見えた。しかし次の瞬間、虎は茂みに跳びこみ、二度と姿をみせなかった。
 

2012年07月17日(火曜日)更新

第9日目 太平記

 三浦哲郎氏が先に旅立った。『忍ぶ川』『繭子ひとり』などのすぐれた作品を残した。そして彼の「小説は文章」が口ぐせでであったことも文学愛好家にはよく知られたことである。句読点の一つに至るまで神経を使い、みがきぬかれた文章を書くことに心血を注がれたという。当節はそういう作家が少なくなった。というより、小説家に限らず、評論・エッセイ・旅行記などのいわゆる書き手の方々、新聞記者でさえも文章に心を配る人がほとんど稀になってしまった。学校でも作文はなおざりにされており、やってもおざなりで、「思ったことを書きなさい」というだけ。文を削ったり、磨いたりということは全く教えられていない。ダイヤモンドも黒曜石もただの石である。削って、磨いて、そして始めて宝石となる。自分の顔のあっちを削り、こちらに何かを加え、鏡の前に一時間以上もいてはパフを叩き、紅をひく。まさに詐欺的行為をやっているのに、おのれの書いた文を磨こうともしない。ケータイをいじっているだけだから文には無縁なのかもしれない。
 私は作家ではない。しかし多少の著作もしてきた。だから私は文はリズムだと思っている。勿論リズムとは、五七調で、いや七五調でというわけではない。漢語が続いたから、ここは和語でとか、あるいはここの読点はやめておこうとか、そういうことを考えながら文を書き、推敲を進める。それが、読んでくれる人への礼儀だろうと信じている。
 中学(旧制)の同級生たちは、学校ではなく工場へ出勤していると手紙にあった。いわゆる学徒動員で少年たちは汗を流していた。私たち軍の学校の生徒たちは、幸運にも毎日、ごくふつうの課程をこなしていた。午前中は、国語、地理、歴史、物理、化学、生物、数学など。時に修身、音楽、美術、書道がある。私はドイツ語だったが、フランス語班もあった。年長は軍事教練、体育、柔道、剣道など、時に角力大会や水泳訓練もあった。
 国語の授業で私は沢田教官(軍の学校では先生のことを教官と呼ぶ)から古典の『太平記』を教わった。作者は小島法師という説もあるが定かではない。後醍醐天皇を中心とした戦乱の南北朝時代。内容をよく読めば南朝方に同情を寄せる誰かが書いたものというのが一般的である。
 鎌倉の北条幕府を倒そうと多くの人が画策した。日野朝臣俊基もその中心人物の一人であった。一度は発覚したがなぜか許されてる。しかし二度目の画策がバレて捕えられたとき、『再犯許さざるのこと』とて、鎌倉へ送られ、処刑されることになった。家族と別れ、住みなれた都をはなれて東へ下る道中を、その胸の中を思いやって、作者は切々とこの一文にまとめる。かの有名な道行文である。JR横須賀線の北鎌倉駅から鎌倉に向う途中、右手化粧坂のあたりを入って行くと、源氏山につづく一帯の岡に出る。今は整備されて葛原岡公園になっているが、その昔は刑場だったところで、日野俊基はここで処刑された。『杖を持たで葛原岡に消ゆる身のつゆのうらみや世に残るらん』が辞世の歌である。勿論彼の死はムダにはならなかった。翌年、新田義貞がこの岡を越えて鎌倉に入り幕府を倒した。葛原岡神社は日野俊基をまっている。
 縁語やかけ詞を駆使し、流れるような七五調の一文は、声を出して朗々と読むにふさわしい美文である。沢田教官はじっくりと解説してくれた。そして「出来たら暗誦するとよい」と教えてくれた。古典の見事さに圧倒された私は、早速一生懸命覚えた。もちろん、陸軍の学校であるから『我がくにの軍隊は・・・』で始まる『軍人勅諭』も必至に覚えた。やがて戦争が終る。東京高等師範学校で学んで高等学校の教師となる。三男だから気楽なもので、愛知県かの半田から、北海道帯広市の三條高校に転任した。もちろん国語の教師である。新米であり、若かったから、何んでも引き受けた、というか押し付けられたというか。担任となってクラスをあずかり、この学校の定時制の講師。隣町の定時制(夜間)の講師もやった。吹奏楽部、軟式庭球部、文芸部の顧問にもなった。よくもまあ働いたものだと思う。私の担当するクラスの中に、瑠璃子という、キツネ顔で色白の美女がいた。部活動は文芸部であった。
 国語の授業で話したことなのか。部活動のときのことであったのか。コピー機のなかった時代であったから、ガリ版で切って印刷したものか、口頭で喋っただけのことか。それともこの瑠璃子が図書館で本を探してきたものなのか、半世紀以上も経ってみるとその辺のことはもはや記憶にないのである。ただ、縁語やかけ詞の見事さ。七五調の流れるような美しさ。韻をふくんだリズム感。そういった日本の古典のすばらしさを話した覚えはある。採りあげる材料は、太平記の『道行文』であり、北原白秋の『落葉松』であり、ドイツで聴く『野ばら』である。
 私が傘寿を迎えたとき、かって教えた帯広三條高校の教え子たちで、東京近辺在住者の会合があった。児玉君という人が中心となって毎年開いており、ニ〜三十人は集まるようだ。時に帯広で開くこともあり、札幌や帯広在住の者たちが空路はせ参じることもある。案内を受け、私もその席に顔出したら、思いがけず、帯広に住む瑠璃子も出席していた。喜寿に近いというのに相変わらずの美女であった。近況を語りあったりしてしばらく歓談していたら、突然彼女がこんなことを言いだした。「先生、私、今でもこれが暗誦できるんですよ。先生に教えられて一生懸命覚えたんです」といって語りだしたのは、あまりにも有名な、太平記の『道行文』であった。六十年以上も昔、戦時中に軍の学校で習ったこの文は、今でも私ははっきり覚えている。青春時代、若い頃に頭に刻みこまれたものは決して消えて無くならないものである。
 会場の片すみで私は彼女と一緒に『一夜を明かすほどだにも、旅寝となれば物憂きに・・・なお、漏る(守る)ものは秋の雨のいつか我が身の(美濃)終り(尾張)なる・・・』と、見事な七五調を声をそろえて口ずさんでいた。流麗な道行文を一生懸命覚えた少女時代の彼女、今なお暗誦できる彼女の心がけが何よりも嬉しかった。有難かった。涙が出た。教師のことばとは、こんなにも重いものなのか。果たして教師としての私は誤っていなかったかどうか。改めて自分に問い直してみた。太平記の「道行文」を朗々と声に出して口ずさみながら、あの世へ道行きとしてみよう。瑠璃子という名はあの世へ行っても忘れないだろう。

俊基朝臣再び関東下向のこと
(前略)
 落花の雪に道迷ふ、交野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物うきに、年比栖み馴れし九重の、花の都をば、これを限りとかへりみて、恩愛の道浅からぬ、古郷の妻子をば、行末も知らず思ひ置き、思わぬ旅に出て玉ふ、心の中こそ哀れなれ。関の此方の朝露に、都の空を立ち別れ、行くも帰るも旅人に、逢坂(逢う)超えて、打出(うちいでる)の浜より奥を見渡せば、塩焼かぬ海にこがれ(漕ぐ)行く、身は浮舟の浮き沈み、水の上なる粟津野の、哀れはかなき身の行末を、思ひぞ渡る瀬多の橋、駒も轟に打ち過ぎて、野路の玉川浪越ゆる、時雨もいたく守山(漏る)の、篠に露散る篠原や、小竹分けわぶる道問ひて、いざ立ち寄らん鏡山、老やしぬると打ち詠め、物を思へば夜の間にも、老蘇(老いる)の森のかげ行けば、泪を留むる袖ぞなき、さても我身の類かや、古人の云ひおきし、その詞葉に近江路や(逢う)、世を宇禰野に鳴く鶴も、さこそ雲井を恋ふらめ。番馬、醒井、柏原、はらはらと落つる泪こそ、不破の関屋の月にだに、袖泄る雨となりにけれ、旅衣、野上の露の置き分けて、暮るれば泊まる旅の道、いつか我身(美濃)の尾張(終り)なる、熱田八剣伏し拝み、塩干に今や鳴海潟、傾く月に宿問へば、なお行末は遠江(問う)、浜名の橋の夕塩に、引く人もなき捨て小船、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀れと夕暮(言う)の、人逢わなれば今はとて、池田の宿にぞ着き給ふ。
(中略)
 天竜川。佐夜の中山。菊川、大井川、宇津谷峠などを過ぎる。

 昔、業平中将の、住み所求むとて、東の方へ下るとて、「夢にも人に逢わぬなりけり」と詠ぜしも、誠に理と覚えたり。旅衣はるばると、清見湾を過ぎ給へば、都に帰る夢をさへ、通さぬ浪の関守に、泪を催されて、向ひはいづく三保が崎(見よ)、奥津、蒲原打ち過ぎて、富士の高嶺を見給へば、雪の中より立つ煙、上なき思ひに比べつべし。明るく霞に松見えて、浮嶋が原を過ぎ行けば、塩干や浅き舟浮きて、おり立つ田子の自ら、憂世に廻る車返しはこれかとよ。竹の下道行きなづむ、足柄山の当下より(行きなづむ足)、大磯小磯見下ろして大磯小磯みおろして、袖にも浪はこゆるぎの(礒―急ぐ)、急ぐとしもはなけれども、日数積もれば程もなく、鎌倉にこそ着き給ひけれ。

補足
○(   )内は私が勝手につけたもの、主なかけことばを挙げてみた。
○今から八百年程前、この文でみれば、富士山は活火山で煙を噴きあげていたようだ。
○日野俊基の東下りでは、鈴鹿峠から桑名、そして海上七里で熱田に着く海上七里の渡しという。まともな東海道の道を通っていない。現在の東海道線(関が原方面)に近いコースを通っているようである。
○まだ、箱根の関もなかった。1200メートルの金時山の近く、足柄峠を越える道を人々は往来していた。
 

2012年07月02日(月曜日)更新

第8日目 『破戒』『若菜集』『落梅集』   島崎藤村

 名物駅弁で知られる『峠の釜飯』が売られていた。信越本線の「横川」。今はここが終点である。連絡バスにのりついで軽井沢へ。軽井沢から先は篠ノ井までが「しなの鉄道」となり、篠ノ井から先は再び「信越本線」となる。長野新幹線のお蔭で、小諸はふみつけにされてしまった。新幹線は高崎から軽井沢、そして「佐久」「上田」というコースになっている。
 しかし浅間山のすそ野、丘陵に広がるこの小諸の街はおだやかでやさしい。私は何度、この地を訪れたことだろう。北国街道ぞいの店の蕎麦がおいしかった。小諸駅はまるで『懐古園』の玄関口のようでさえある。園内をそぞろ歩きながら、詩碑を眺めたり、藤村の遺品に目をとめたりする。そして足もとに堂々と流れる千曲川を眺めては、藤村が若きいのちを燃焼させて創った傑作の詩のいくつかを口ずさんでみる。はるか千曲川の向う、畑中の道を何人かの旅人が、夕ぐれにいそいでいるかのような光景が目にうかんでくる。そして夜は懐古園にすぐ隣り合った中棚温泉に宿をとる。そう、ここは藤村が愛して何回も泊まり、「にごり酒をのんで、草枕しばし慰め」たところでもある。りんごの浮かんだ温泉に入る。初恋の人 ゆふさんが「我に与えし」りんごもやはりこういう色のすてきなものであったのだろうか。島崎藤村は「小諸」で有名だが、生まれは「夜明け前」の舞台でもある「木曾馬篭」であり、今は藤村記念館・記念文庫などがある。もちろん、鉄道は通っていない。南木曾駅からバスで行く。一つ手前の宿場が「長篠」である。ここの本陣は藤村の母の生家だったところ。脇本陣奥谷は、りんごをくれた初恋の人、ゆふさんが嫁いだところである。
 本名・島崎春樹。あの当時としてはまことにハイカラで、キザな名前である。九歳のときに、碓氷峠を越えて上京、実家が名家であり資産家でもあったので出来たことであろうが、二十歳になって現在の明治学院大学を卒業する。教師として仙台に行くが、その頃のすっきりしない心の内は、初期の詩をよむとよく分る。恩師に誘われて小諸義塾の先生となり、その頃から詩情が開花、同時に最初の小説を書き始める。そして『破戒』をきっかけとして創作活動を始めるのである。
 
 主人公瀬川丑松は小学校の先生である。子供たちにも慕われていた。下宿している蓮華寺には、お志保さんという素敵なお嬢さまがいる。(第二次大戦後、この作品が映画化された。丑松役は誰であったか忘れたが、ヒロインの名をとった、島崎志保さんである) 毎日が充実していた。時折、あちこちで開かれる社会運動家であり思想家である猪子連太郎氏の講演には何はさておいても出かけていった。そんな頃、彼の耳には、何か秘密をかかえているのではないかという世間の、あるいは保護者たちの噂している評判が耳に入ってくる。そのたびに彼は苦しんだ。何をかくそう、彼は部落の民であることを隠して教壇にたっていたのだ。だから、子供たちや、世間の人たち、蓮華寺の皆さん、よくしてくれている人たちをだまし、欺いているおのれの生き方に、苦しみ悩んでいた。そんな折、牧場での事故で、父が瀕死の重傷を負う。枕もとにかけつけた丑松に、父は「絶対に身分を明かすな、戒を破ったら身の破滅だ」と遺言して亡くなった。再び子供たちの前に笑顔で立った丑松は、身分をかくしているおのれの苦衷に耐えきれなくなる。そしてとうとう『破戒』って手をついて子供たちにあやまり、教師をやめて、新天地を求めて旅立ってゆく。
 身分元別との戦い、苦悩、それに挑んで書かれたこの小説は、まさに自然主義派小説の華であり、多くの読者に読まれた。藤村の処女作であり、自信作でもあり、ベストセラーでもあった。


初 恋

まだあげ初めし前髪の
りんごのもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思いけり

やさしく白き手をのべて
りんごを我にあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひそめしはじめなり

我がこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃を
君がなさけに酌みしかな

りんご畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰がふみそめしかたみぞと
問いたまふこそこひしけれ

 
 小諸なる古城のほとり

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよう波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

 
  椰子の実

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた 渚を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂(うれい)

海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷の涙

思いやる 八重の汐々
いずれの日にか 国に帰らん

 
 千曲川旅情のうた


昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水卷き歸る
嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を靜かに思へ
百年(もゝとせ)もきのふのごとし
千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれひ)を繋ぐ
 
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