2024年04月
01 02 03 04 05 06
07 08 09 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
 
 
大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

ご意見・ご要望をお寄せください

 
ユーモアクラブトップに戻る
<<前へ 1234567 次へ>>

2012年06月25日(月曜日)更新

第七日目  『土佐日記』  紀 貫之

 戦争が終って一年以上経ってから、私はやっと東京高等師範学校に入学できた。軍の学校出身者は、総員の一割以下におさえるという、いわゆる一割制限があり、体のよい追放措置にひっかかつていたわけだ。入学してみると、陸軍幼年学校出身者も、陸軍士官学校出身者もいたが、やはり人数は少なかった。入学して間もなく、教授から一冊の本を渡された。昭和二十二年である。廃墟に建つ焼け残りの校舎。虚脱状態からようやく立ち直ろうとしながらも空腹をかかえた人々。そんな時代に、教授が出版社にムリを承知でお願いしてきたらしい。猫の舌のようにザラザラした手ざわりで、仙花紙とよばれる、すき返しの再生紙である。作者・紀貫之自身の筆ではないが、誰かの写本を印刷したものである。私はここから古典の道を歩み始めたといってよかろう。漢字まじりの文であるが、普通に知っているひらかなもあれば、ひらかならしき文字だが、全く見当のつかない字もある。いわゆる変態かなである。こうした字に関心を持つきっかけにもなった。
 また、紀貫之が土佐をはなれたのは『それのとしのしはすの、はつかあまりいといのひのいぬのときに門出す』とある。しはす=十二月、はつかあまりいとひのい=二十一日、ときて時刻はいぬのとき=午後八時、私はこれによって日にちの呼び方、十二支で表す時刻、および方角などを知った。今でも普通に使っている『丑満つどき』とか、『うしとら』『たつみ』『いぬい』という方角、それから起こった苗字の由来など、とにかく多くのことをこれらで学んだものである。東緯一三五度の線をなぜ日本では『子午線』というのかも素直にうなずける。蒙を啓いて下さった教授を、あの世に着いたら何とか探して、あらためてお礼を申し上げたい。


 今から千年以上も昔のこと。当時、公文書はもちろんのこと、日常の文でも男性は漢字で、しかも漢文体で書くものであった。すでに漢字をもとにして日本人によってひらかなが考え出されており、女性はそれと漢字まじりの文をすらすらと書いていたのである。例えば『あ』は『安』から。『と』は『止』からだが、なかには『よ』つまり『登』から出来た字を使うときもある。いづれにしてもひらがなまじりの方が、心のうちを素直にすらすらと書き現わしやすい。作者、紀貫之は考えたのであろう。
 
 どの道を通って任地土佐へ赴いたか分からないが、何れにせよ、帰路、剣山などの四国山地を越えるのは至難のわざである。恐らくは陸路であっても、一旦室戸岬まで南下してから北上して阿波へという、海沿いの道を通るはずだ。しかしそれでも紀伊水道、紀淡海峡を越えなければ、本土には戻れない。そうした道中のつらさ、苦しさは勿論、覚悟のことであったろう。それに加えて、貫之夫妻には、もっと深い悲しみがあった。それは土佐にいる間に、最愛の吾が子を亡くしているのである。そのなきがらを土佐に置いて都に戻らなければならない。奥方は勿論のこと、歌人貫之にとってもそれは深い悲しみであった。吾が子を失った哀しみもあろう。都へ帰れるという喜びもあろう。そうした複雑にからまり合った自分の気持は、とても漢字で、漢文体で書きつくせるものではない。ほとばしるような心のうちは、流れるようなひらかなまじりの文でこそ書き現わせる。貫之はそう考えたであろう。そこで彼は、男性では今まで誰もやったことのない、ひらかなの日記文を女性になり切ったつもりで書いたのである。『男もすなる日記というものを女もしてみんとするなり』と書き出すには、よほどの強い決断があったことだろう。だからそれゆえにこそ、歌物語ともとれるようなこの『土佐日記』が、古典文学として光彩をはなっているのであろう。
 
 その年(承平四年)十二月二十一日、午後八時頃に、いよいよ館を出て帰路についた。多くの人たちが別れを惜しんで盛大な宴をひらいてくれたのは嬉しいことであった。二十七日、大津で船にのりこむ。海岸沿いに進むしかないが、二十九日、大湊に着く。しかし風波がひどく船が出せないで正月も過ぎてしまった。九日になってようやく船を出すことができ、奈半(現在の奈半利)、十二日に室津に着いたが、また悪天候のため足止め、とうとう二十日になってしまった。折から海にのぼる月を見ていると、異国にいて「天の原ふりさけみれば春日なる・・・」と三笠山にのぼる月をなつかしみ詠んだ阿部仲麻呂の歌を思い出してしまう。二十一日船出、海賊の噂あり、海の神に無事を祈る。三十日船出。沼島を通ってやぅとのことで紀淡海峡を越え、和泉に着く。一安心である。二月五日、住吉で海が荒れる。六日。難波に着き、ようやく淀川に入る。十日には交野。十一日に船出して、山崎で船をおり、これからはもう陸路である。十六日の夕方、やっと京に着いた。

 五年ぶりに桂川を渡る。なつかしい。人々は大喜びで歌をよむ。しかし留守番を頼み、贈り物までしていたというのに、和が家はすっかり荒れていた。ふと見ると庭先に小さな松が生えているではないか。吾が子は遠い土佐で亡くなってしまったのに、ここには子供の松が生えている。複雑な、哀しい気持になって、私たちは亡き子を偲びつつ歌をよんだのである。
 
 むまれしもかへらぬものをわがやどに こまつのあるをみるがかなしさ

(生まれた子はもう帰ってこない。この家の庭に子どもの松があるのは、何とも悲しいことである)
 
 みしひとのまつのちとせにみましかば とおくかなしきわかれせましや
 

2012年06月11日(月曜日)更新

第六日目  『伊勢物語』

『伊勢の御』という方が書いた本だからという節もある。男と女(夫婦)のことがらを書いたものだから『緒背物語』、それがつづまって『伊勢物語』になったという説。私はずっとそうだと信じてきた。しかし在原業平の自記だという説もあるし、いや、業平の記述に、例えば壬生忠峯らが補筆したものだという説もあって、作者については全く見当がつかない。ただ、中心にすわる人物はというとこれはまちがいなく在原業平。今でも美男であり、教養も兼ねそなえた男を“今業平”という程の美男子であったという。その人である。ところが最近、とみに有力になってきたのは、作者は“紀貫之”ではないかというものである。成立は源氏物語よりかははるかに以前のことであるし、和歌を柱にした旅日記風という、土佐日記との類似点もある。たしかに、詠み進んでゆくと、あるいはもしかしたらと思わせる部分もある。 
 幼馴染との初恋を語る、井戸端の話もあれば、都暮らしでしばらく母と別れて暮らしている一人っ子の哀しさもある。よく知られているのは、三河八橋を通り、駿河で富士山を眺め、やがて辿りついた隅田川で都鳥をみて涙を流すというくだりであろう。和歌の詞書(ことばがき)そのものというものもある。妻間婚の時代(男が妻の所へ通ってゆく)、男と女のありようなど、あの世への道すがら、ゆっくりと読み、味わってみたい古典である。

          九
 あるひとりの男の人。後期高齢者(今ふうに言うなら)でもないのに、もう自分はあまり必要とされていないのではないかと思いこみ、どこか東の方に、心おきなく住むことのできる国であるならばと思い、仲のよい友二〜三人で連れだって旅に出た。慣れない旅で疲れもするし、道にも迷ったりしながら、やがて三河のくにの八橋も通りすぎ、ようやく駿河の国までやってきた。難所の中津谷峠を越さなければならない。木が、つたやかえでが生い茂っていて昼なお暗い山道は、襲われはしまいかという心配もあって何とも心もとない。旅とは大へんなものなんだとおどおどした気持で歩いていると一人の修行僧に出会った。こんな山道を、どのような用事があっておいでになるのですかと言うので、ふと顔をあげて見ると。京での知り合いの人であった。ちょうどよかった。ぜひ、便りを届けて頂きたいと、京に残る妻に手紙を書いてその方に託したのである。

 駿河なる宇津の山べのうつつにも ゆめにも人にあわぬなりけり

 すばらしく美しい富士山を眺め、さらに旅をつづけると、やがて武蔵と下総の間を流れる大河、すみだ川に着いた。川のほとりに腰をおろして、考えてみたら、ずい分はるかな所まで旅をしたものだなあと、わびしい気持で感慨にふけっていると、『お客さん、もうじき暮れますよ、早く船に乗って下さい』という。さらに又旅を続けるのかと思うと、仲間の友もみな京に愛しい人たちを残して来ているから、余計にさみしさがこみあげてくる。ふとみると口ばしと脚が赤くて羽のまっ白い、しぎの大きさくらいの水鳥が、水に浮かんで魚を取ったりしては遊んでいるではないか。京では見たこともない鳥なので仲間は誰も知らない。あれは何という鳥ですかと船頭さんに聞くと、「これが、人によく知られた、都鳥という鳥ですよ」と答える。そこですぐに
 
 名にし負はばいざこととはむ都鳥 我が思う人はありやなしやと

 と一首よむと、みな同じような想いであったのだろうか、乗り合わせた人たち、みなわびしさに涙を流したことである。

          二十三
 子どもの頃は、井戸のほとりなどで一緒に遊んだ幼馴染ではあったが、大人になってみると、何となく気恥ずかしくなって口もきかなくなる。しかし心の中ではお互い好きでいるので、親が持ってくる話に耳をかそうともしない。
 
 筒井つつ井筒にかけしまろがたけ 過ぎにしけらしな妹見ざるまに

 くらべこし振分髪も肩すぎぬ 君ならずして誰かあぐべき
 
 と詠みあってめでたく夫婦になった。
 しかし移り変るのが世のならい、女の方の親が亡くなってみるとやはり心細くさみしいものである。とともに男の方も浮気心が芽生えてくるのもまたどうしようもない性でもあろう。河内のくに、高安という所に通ってゆけるような、好きな女ができた。当時は妻の家へ、あるいは好きな女の所へ男が夜になって通ってゆくという妻間婚の時代であったから、妻あるいは女は、今日来るか明日来るかとひたすら待ち続けなければならないし、男は、こちらへご無沙汰してあちらへは足繁くということもとがめられはしなかった。
 さてこの女。夫に好きな女が出来たらしいと気がついたけれど、それをにくいと思うようなそぶりもみせず、行ってらっしゃいと送り出してくれる。さては私の留守に、もしかしたら他の男でも引き入れているのではないかかと疑う気持ちが強くなった。そこであるとき、自分の浮気は棚にあげて、女の浮気現場をおさえつけてやろうと思い、一旦、出かけるふりをして、庭の植込みの中にかくれて夜を待った。しかし、一向に男は現れない、それどころかこの女はきれいに化粧をして、河内の方に顔を向けながら、物想いに哀しげな顔をして
 
 風吹けば沖つ白波たつた山 夜半にや君がひとり越ゆらむ

 それは、風のきつい夜にひとりで山を越えて他郷に行く夫の身を案じた、妻の切ないそしてひたむきな心を詠んだ歌であった。男はああ何ということ。妻を疑った自分を恥じ、妻のひたむきな気持にこの上ないいとしさを覚えて、それからは河内へ行かなくなったということである。
 それでも男というものは仕方のないもので、何年かすると又、浮気の虫。しばらくぶりで河内のくに、高安の女の所にやってきた。この女、始めの頃は化粧をし、気をひきしめてつつましやかに男を迎え入れてくれていたが、今はもうすっかり女房気取りで、なれなれしすぎる。本来なら小女をやとい、その小女が膳部をととのえたりするのがごく当り前のしきたりであるが、この高安の女は自らしやもじやおたまを手にとって、ご飯などをうつわ(茶碗)に盛ったのである。男はそれをみて、あ、この女はもともと育ちがいやしいのかもしれない、もうこれまでだなと思って、とうとう高安へは行かなくなったということである。  
 ※ 人並みにというか、生意気にもというか、妻以外の女とつき合ったことがある。やっとの思いで口説いてそれ用のホテルへ連れこむことが出来た。気を利かしたつもりだろう、彼女は早速お茶を入れてくれた。しかし彼女は急須のふたを取って、その内側をぺたんとテーブルにつけたのである。急須ややかん、鍋、お茶碗などのふたは、内側を上側にむけておくもので、それがマナーになっている。私は女の育ちを見た思いがしてそれから徐々に遠ざかり、やがて別れた。

         八十四
 ある男の人。身分はまだ低いけれど、お母さんはさる宮筋の人で立派な方である。京の西、長岡という所に住んでいる。子どもの男の子は京に出て宮ずかえをしている。いわば単身赴任のようなもので、何かと気にかかるけれど、遠いものだから、そうたびたび逢いに行くわけにもいかない。一人っ子なので、とにかく可愛がっているけれど、なかなか思うようにはいかないものである。ある年もおしせまった師走のころに、その母から急ぎの手紙が届いた。子は何事かと驚いていそいで文をみると、歌が書いてある。
 
 老いぬればさらぬ別れのありといえば いよいよ見まくほしき君かな

 男は、そう、世の中にはどうしても避けることのできない別れというものはあるもの。しかしお母さんはいつまでも健やかであってほしいと、ひたすら悲しくなり、涙を流しながら返しの歌をよんだ。

 世の中にさらぬわかれのなくもがな 千代もと祈る人の子のため

 ※これは男女というより、母と子の情愛のものがたりである。私も現世にいる頃、いくたびかさらぬ別れで肉親を送ってきた。さらぬ別れで今度は送られることになった。この物語をじっくりと読んで味わってみたい。 
 

2012年05月28日(月曜日)更新

第五日目  『幾山河』   若山牧水

 マスコミに取り上げられたお蔭で秘湯らしさがだいぶ失われてしまったが、まだ秘湯らしさを残している、川原に涌く露天の尻焼き温泉。バス通路から少々歩かなければ辿りつけない湯の平温泉。これら上州の名湯の近くに『暮坂峠』というすてきな名前の峠がある。若山牧水が愛した峠みちで、今もハイキングに訪れる人が多い。民主党政権が中止を決めた八ッ場ダム、お蔭で生活が宙に浮いてしまった川原温泉は少し南の吾妻峡谷にある。

「おのが身のさびしきことの思われて滝あふぎつつ去りがたきかも」と詠んだ不動滝がこの近くにある。
「辻々に山のせまりて甲斐のくに甲府のまちはさびし夏の日」 牧水は山梨も歩いているし、静岡・沼津の千本松原はお気に入りの所だったらしい。
「愛鷹のねにわく雲をあした見つ 夕べみつ夏の終わりとぞ思う」 この松原から彼が仰ぎみるのは霊峰富士ではなく、その手前にそびえてみえる愛鷹山であったようだ。しかし彼は甲州や上州の人ではない。「ふるさとの尾鈴の山」と詠んだ、終生忘れることのなかった尾鈴山は、宮崎県都農町の北西にそびえる1400メートル余りの山である。
「かにかくに祇園は恋しねるときも枕の下を水の流るる」 私はとうとう京の祇園なる所で遊ぶことを知らずに生涯を終ったが、旅を愛し、酒を愛した牧水が、どんな想いで賀茂川の水の音を耳にしていたか、後に国文学を学ぶようになって、よく分かったように思う。

 中学一年生になって手にした国語教科書の中に『短歌』が収録されていて学んだものであろうか。それとも名前が記憶に残っていて、先輩の所へ遊びに行った折に、その本を借りてきたのであろうか。
  
 若山牧水著『幾山河』 放浪の詩人を意味るボヘミアンなることばに、わけもなく心ときめかせていた少年時代だったが、幼年学校への受験勉強の合い間、ふっとこの本をひらく。旅のさびしさがあり、小鳥たちへのやさしい眼差しがあり、自然へのいつくしみがある。そんな旅のエッセイであり、書名はもちろん「幾山河越えさりゆかばさびしさの果てなむくにぞ今日も旅ゆく」から採られている。幼年学校に合格した私は、これだけは持って行って、折々に目を通したいと思った。バッグの一番下にカバーをして入れて名古屋へ持参した。ひき出しの一番下にカバーをして入れておいた。しかし所持品検査で見つかってしまい、没収された。その後、日曜日の外出時に、名古屋の書店で探してみたが、もうその種の本を書架に揃える時代でなかったのかもしれない。とうとう見つけることが出来ず、敗戦で郷里に帰った。世がだいぶ落ち着いてから、単行本でなく、文庫本でこの書を見つけた。しかし今は、文庫本の目録を探してもこの本はない。絶版になったのだろう。あの世への旅では、この本を、声に出しながら読み進めてみたい。
 

2012年05月14日(月曜日)更新

第四日目  『小鳥のくる日』  吉田弦二郎

 この人の名前を耳にして、「ああ」と思い当るのは、今はもう八十歳を越えて、若い頃は友人と文学論をたたかわした文学青年だった人たちだけである。昭和十四、五年頃、まだ世間が戦争の色に染まりかけたかという頃のこと。今でいうならベストセラーのエッセイストではなかったろうか。私は中学(旧制・五年の年限で義務教育ではない)に入学したばかりの頃であった。しかし私には次の目標があった。陸軍幼年学校への入学である。だから中学生になったからといって浮かれてもいられない。夏休みだから、どこかへ遊びに行く。兄弟が多く貧しいからそんなゆとりも金もない。ひたすら受験勉強を続けた。もう絵本でもあるまいからと、先輩のところからよく本を借りてきた。その中に『吉田弦二郎』の書いたものがあった。血涌き肉踊る、そんな物語の本ではない。散歩の途中で目にした、ごくありふれた小さな花、あるいは家の庭にやってくる多くの小鳥たちの、楽しげな語らい。その声。さりげない筆づかいでそれらを書きながら、人の世のすがたや、人の生き方などを考え、語りかけてくる。何ということのない随筆である。この人の文が絶妙だったのか、あるいは私が文学的に少々ませていたからなのか。私はこの人の文に魅せられて二〜三冊をたて続けて読んでしまった。勿論、幼年学校受験勉強の方が第一である。しかし、静ひつで、どこかぬくもりのある、およそ戦争にはそぐわない本であったが、幼年学校に合格したとき、しばらく悩んだものだった。こういう本は将校生徒に相応しくないと叱られるにきまっている。持って行くことを断念した。戦後、しばらくしてから、誰もが忘れ去ったようなこの人の名前を、文庫本の書架で目にし、迷わず買って、家に帰り、一気に読み通した。『小鳥のくる日』なつかしかった。いい文だった。しかしもう絶版になっているから書架にはない。   
 

2012年04月30日(月曜日)更新

第三日目  『梅川忠兵衛 冥途飛脚』  近松門左衛門

 江戸の三巨峰。西鶴、芭蕉。そしてもう一人が近松門左衛門である。徳川の将軍さまのことは歴史書やテレビドラマにまかせておけばよい。松尾芭蕉は、宗房といい、藤堂家に仕える武士であった。そしてこの門左衛門も「甲冑の家に生まれた」が、杉森信盛といい、公家に仕えていた。いくさのない世の中で格式ばって生きる公家や武士よりも、明るく、たくましく生きる庶民により深い関心を寄せたに違いない。 私は浄瑠璃や清元などの世界に関心がなかったから、その妙味は分からない。しかし文字で読むと、義理と人情のあいだで見事に生き、きれいに死んで行く庶民を、門左衛門がいかに愛情をこめてみつめていたかが分かる。私も日本人だから義理と人情を気にしつつ生きて来たような気がする。梅川と忠兵衛、こちらの世界に来て、幸せに添いとげたのであろうか。できれば会って、前世での苦しみや喜びなど、いろいろと聞いてみたいものである。
 



 後家妙閑の後見の形で、飛脚問屋 亀屋に養子で入った忠兵衛、商売は繁盛していそがしい。まだ二十四の男前。大和のくに新口村の大百姓のひとり息子。実母に死に別れ、後添えを迎えた、父右衛門の思案で世継ぎの養子として出した。その忠兵衛の鼻紙の使い方がおかいいと妙閑は気にかかる。今日も甚内様が三百両、八右衛門様が五十両の催促。とっくに渡していなければおかしいはず。実は籠の鳥なる梅川にこがれて通う廓資であったのだ。何とか言いつくろって甚内を帰し、八右衛門は侠気で待ってもらうことにしたが、手代の伊兵衛が甚内に届ける金を用意すれば、それを懐中にして、甚内に届けるなら北へ。しかし身は南へという次第。
 
 さてここは越後屋、田舎者の客に意地悪されて嶋屋を抜け出してきた梅川。拳遊びで賑やかな二階へ気晴らしに上がるが、心は明日駆落ちし、夫婦になりたい忠兵衛のことばかり。傾城に誠なしと世間は言うが、嘘も誠ももとはひとつ。縁のあるのが誠である。そこへ八右衛門がやってきたが、梅川は逢いたくない。階下で喋る八右衛門を、壁に耳ありで梅川は立ち聞きする。

「大和の親が長者とはいっても亀屋へ養子にだすところをみれば、高の知れた百姓ではないか。他の客と張り合って身請けもきまって五十両の手付けを渡したという。梅川とて借銭もあるだろう。二百五十両、天から降るか地から湧くか、盗みするより仕方あるまい」二階では声を殺して泣く人がいる。

「もうここまで来てはお釈迦さまの意見でも通るまい。梅川殿にも言って下され、忠兵衛がかわいかったら決して寄せてくださるな」忠兵衛、八右衛門に向かって「身代の棚おろしをしてくれてかたじけない。どうしても梅川を嶋屋の客にやる気か」「待て忠兵衛、性根のすわらぬ気違いだぞ、お前は」あげくは包みをほどいて出した五十両を八右衛門へ投げつけ、八右衛門は投げ返す。そんなバカをくり返しているところへ、「すっかり聞きました。八さまが道理です」と、梅川がかけおりてきた。

「情けなや忠さま。ここの恥は恥ではありません、人さまの金をこんなにして、梅川はどうにでもなれということではあいませんか。何かあればあなた一人くらいは養ってみせます。魔がさしたのはみな私のせい。さ、八さまにお詫びなさい」と小判の上にはらはらと涙を流す。忠兵衛は「やかましいわい、わしはそんなにたわけではない。この金は養子にくるとき、敷金に持ってきて、余所に預けておいた金だ、何やかやと百五十両、諸係りもあろう、あとはご祝儀やら何やらだ」と、金銀をばらまき降らすほどの愚かぶり。八右衛門も五十両受け取って手形を返して、みなそれぞれ宿へと帰った。
 
 残った忠兵衛と梅川。ゆるりと出かけましょうよとふと梅川が忠兵衛をみると、男はわっと泣き出した。「この金はお屋敷への急用金、悪いと知りつつ、いとしい女のために手をつけた男の役。詮議は覚悟の上」と本当のことを打ちあければ、梅川を「二人死ぬなら本望です。なんの命が惜しかろう」「生きられるだけ生きよ」「生きられるだけ、この世で添いとげましよ」と両人は、大和路へ向けて駆落ちの旅に出たのである。

 これが冥途への旅、かごに乗ったり、裏道を通ったり。綿帽子で顔をかくしたりと、藤井寺から富田林をすぎ、恋の道は狭い浮世の道でもある。しかし、巡礼やら古物買いに化けて、大和国は警備の目もきびしい様子である。それでも梅川の様子は目立つもの。かご代やら旅籠代やら、持ち出した四十両の金もあとは二歩残すだけ、やっとの思いでふるさと新口村に着いた。「お梅、ここは私の生まれた所。二十まで育った所です。しかし師走でもないのに、あちこちに商人たちが立っているが何やら胸騒ぎがする。もうちょっと行けば、父親孫右衛門殿がいる実家がある。目の前の家は幼馴染の忠三郎の家だ。ちょっと寄ってみよう」のぞいてみれば忠三郎は庄屋殿へ行って留守だとか。

「私は嫁、しかし前の人たちのことは誰方もよく分かりません。親方孫右衛門さまの継子忠兵衛様が、傾城買って人の金を盗み、その傾城連れて駆落ちしたと、代官殿から取調べの最中。この田舎も今は大騒ぎですよ」「さようか、大阪でも今その話ばかり。私たちは参宮の途中なので一寸寄り道しました」嫁はそれではと忠三郎を呼びに行く。梅川は門口をしめて鍵をかけてしまう。

「仮令死んでもふるさとならば悔いはない。母と一緒のところに埋められて母と嫁の未来の多面をさせてやりたい」障子を細目にあけてみると風まじりの雨、ふと見る多勢帰ってくる中に父の姿。隙間から「今生のお暇」と父に手を合わせる。孫右衛門は年で足も弱っているのか、氷にすべったのか、田んぼに転がってしまった。しかし忠兵衛は出るに出られない、梅川があわてて走り出て、孫右衛門を抱きおこし「痛みませんか、鼻緒もすげましょう」という。「誰方かは存じませんがありがたいこと、鼻緒は私がすげますから、手を洗って下さい」、梅川はよい紙があるからと延紙を出す。その手もとを見つめつつ「あんまり見かけないお方じゃが」「いえ私たちは旅の者でございます、私の父もちょうどあなたと同じ年頃。他人に対するいたわりとはとても思えません。お年寄りをいたわる嫁の役目、どうぞその紙とこの紙を引きかえて下さい、この紙をつれあいの肌につけさせ、おやじさまの形見にさせたいもの」「さようか、私があなたの父親に似ているとか。それにしても大阪へ養子に出したが、人の金に手をつけて駆落ちし、今はこのいなかも大騒ぎ。よく言うではないか、『盗みする子は憎いからで、縄かくる人が恨めしい』と。
 
 利発なあの子を勘当した孫右衛門は阿呆だといわれても嬉しくはない。探し出されて縄かけられ、よい時は勘当したとき、よかったねとほめられても悲しいことでありますよ。ああ私は一日も早く往生したいもの」といひれ伏して泣き出す。隙間からみている忠兵衛も涙をながしつつ拝むことしかできない。

「仲のよい他人より、縁を切ってもやはり親子は親子。こういうわけの金がいると言ってくれれば、母親を早くなくした子ゆえに、田畑を売っても罪人にはしたくなかった。今では養子先にも迷惑をかけ、人さまには損をかけている。そんな子に一夜の宿も貸すことはできない。ろくな死に方もしないだろうように、親は生み育てたわけではない。憎いとは思うがしかし子は可愛いもの」涙を流しながら、銀子一枚取り出して「これは今のお礼だ。このあたりをうろうろしていては、よく似ているといって捕まるかもしれません。これを路銀にして、御所街道の方へ一ときも早く逃げなさい。あなたの連れ合いにも、一寸でも顔をみたいが、いやいやそれでは世間さまに申しわけない。どうぞご無事で」と二足、三足行っては又帰り、「どうだろう、逢ってもよかろうか」「どうぞ逢ってやって下さい」「いやいや、それでは大阪への義理が立たぬ。どうか逆さまな回向をさせてくださらぬようたのみますよ」とあとをふり返りふり返り去って行く孫右衛門、それを拝んで忠兵衛と梅川は人目を忘れて泣きくずれたのである。
 
 そこへ忠三郎と嫁が帰ってきた。「これはこれは忠兵衛さま。いまこの田舎は、大阪から役人が来て、剣の中にいるようなもの。かたっぱしから家探しをしていて、これからこの家の家探し。サ、裏道から御所街道の方へ逃げて下され」二人に古みの、古笠などをつけてやる。やがて取手の衆が忠三郎の家にやってきて家探しをしたが、狭い家だから隠れようもない。「ここは異常なし、他を探せ」と出て行く。そこへ孫右衛門がはだしでやって来て「どうじゃ忠三郎」「いや心配ありません。お二人うまく逃がしました」「ありがたい、早速道場へお礼に参ろう」と出かけたところ、「亀屋忠兵衛、梅川たったいまつかまりました」という声。

 間もなく役人が二人を搦めてひいてくる。孫右衛門、その様子をみて、ふっと気を失ってしまう。二人を捕えている縄目、忠兵衛はは「私が悪いのだから、命をうばわれても仕方のないこと。しかしながら親の嘆きはどれ程のものか、それを思うと、あの世へのさし障りにもなりましょう。どうぞ、私の顔を包んで下され」というので、役人が手拭いで目かくしをして、面ない千鳥に」してやったのである。
 
ユーモアクラブトップに戻る
 


ページTOPへ