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2012年04月16日(月曜日)更新
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第二日目 『奥の細道』 松尾芭蕉
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よみの国への旅は、多分、新幹線などなかろうから、徒歩ということになるのだろう。気ままに、のんびりと歩いて行こう。疲れたら木陰でねころがって、なんてそんな旅にしたいもの。とすればやはり広げて読むものは『奥の細道』だろうか。旅立ったときの私の歳の、その半分くらいの年齢で旅に出た大先輩である。旅の楽しみ方、人とのつき合い方、心のありようなど、すべてを悟らせてくれる本である。長さも適切である。
上野・谷中の花を、いつか又見ることができるだろうかと心細い想いで、みちのくへの旅の一歩をふみ出した。日光から白河の関を越えれば念願のみちのくである。あこがれていた松島は期待通りの美しさ。北上川の大河を越え、平泉で、悲劇の人義経の跡を訪ねる。
金色堂を拝んだときも五月雨であった。人々のすすめで南へ歩き、山寺に詣でる。そして最上川を舟で下って酒田の港へ出た。尊敬する先輩、能因法師ゆかりの島や、西行法師ゆかりの梅の老木もある。ここは象潟という景勝の地。多くの島があって松島に似ている。しかし松島が明るい笑顔とすれば、ここ象潟は哀しみに耐えているようである。
越後路に入って七夕を迎えたが、暑さと雨つづきのため、少しばかり体調を崩したので何も書いてない。七月十二日。親不知、子不知という難所をやっとの思いで越えて、少々疲れて一振に着いたので、今宵は少し早目に床に入った。と、一間はなれた表の間の方から何やら話し声が聞こえる。二人の若い女の声、それに年配者らしい男の声。いやでも耳に入ってくる話し声からすると、どうやら新潟の遊女らしい。抜け詣りかどうか分からないが、二人が伊勢詣りを思いたって、男がここまで送ってきたようだ。ここから新潟へ戻る男に手紙を託したようである。旅に出ている毎日って、ほんとに気ままでいいわ。それにしても何の因果でこういう世界で暮らすことになったのだろうね。その日その日を限りに生きているつらい毎日。亭主でもない、好きでもない男の相手をして生涯が過ぎてゆくのかと思うと、前世で何か悪いことをしたのか、悪いさだめで毎日がつらいのかと涙も涸れてしまう。せめて来世は幸せになりたいものと、二人ともども愚痴を言うのを耳にしつつ、私はいつの間にか眠ってしまった。
翌朝。いよいよ出かけるというときに、この遊女二人、私たちにこう言うではないか。「お見受けしたところ、お方様がたは大へん旅なれた方々のようでございます。私たちは旅は初めて。見知らぬくにへ行く不安でいっぱいでございます。ここで一夜を泊まり合わせたのも何かの縁と思しまして、せめて途中までなりとご一緒して頂けないでしょうか。いえ、決してご迷惑はおかけしません。せめて見え隠れでもよいから、お跡について参りとうございます。何とぞ仏のご慈悲を賜れと、心よりお願い申し上げます」
「初めての旅ではどんなにか心細いことかとご同情申し上げます。ご一緒して何かとお力になれるものなら、そうしたい気持ちもございますが、何しろ私どもは俳諧の旅でございます。あちらこちらに仲間がいます。弟子たちもいます。そんな所へ寄り道したり、思わぬ方に行くこともありで、かえってあなた方にご迷惑をおかけすることになるでしょう。今年は伊勢詣での年ゆへ、そちらに参る人が多いはず。途中で多くのお仲間が出来るやもしれません。その方たちとご一緒においで下さい。神様は必ずあなた方をお守り下さり、無事にお詣りできることでしょう」と、心に痛みを覚えながら、二人の頼みを断らざるをえなかったのである。しかし宿を出てからも、これでよかったのかどうか。伊勢詣でなら、私と向かう方角は同じなのだから、せめて途中まででも一緒に行ってやるべきだったのか。二人のあわれな身の上に同情を寄せつつ、しばらくの間は、思い悩んでいた。
金沢。小松。永平寺をすぎ、腹を痛めた曾良は知人のいる長島へ先に別れて行く。やっとの思いでこの旅のしめくくり、大垣に着いたが、一休みして長月の六日、伊勢の遷宮を拝んでから、ふるさと伊賀に帰ってみようと思い立って、また舟に乗った。
はまぐりのふたみにわかれゆく秋ぞ
そう長くはない『奥の細道』全文の中で、私はこの市振の関のところが最も好きである。
『一つ家に遊女もねたり萩の月』
いかに江戸時代が、今よりずっと人生が短かかったとしても、寿貞尼という恋人らしい人もいたような芭蕉。まだ五十前である。男としての欲望がなかったわけではあるまい。庭に咲く萩に十二日の月がしらじらと輝いている。そして向こうの部屋に女性。たとい遊女であろうと、やはり越後の女。肌が白く若くてきれいな女二人が寝ている。恐らく芭蕉は幾度か寝返りをうったのではなかろうか。
行脚僧のような芭蕉ではあるが、翌日、歩き始めてからも、『哀れさ、しばらくやまざりけらし』であったのと併せて、芭蕉の人間らしさを思わせる部分である。
その後、遊女たちはどうしたのか、無事に伊勢詣りができたのか、芭蕉との縁はそれっきりだったのか、会ったらぜひ聞いてみたい。
なお、曾良は「申の中尅、市振に着、宛」とそっ気なく書いているだけである。
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2012年04月02日(月曜日)更新
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(第一日目) 『日本永代蔵』 井原西鶴
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日本の文学史を考える場合。私は『平安』などの分類を嫌う。書く人も書かれた内容も『貴族』であったから『貴族文学の時代』。著者も内容も武士が多かったので『武家文学の時代』 西行法師ももともとは武士であった。そして書き手も、話の主人公も町人がほとんどであった。
『庶民文学の時代』というように。とりわけて井原西鶴は色と金にしたたかでありながら脆い人間を、鋭く書き出している。この主人公のその後も見てみたいものだ。
一寸した風邪に自薬を使って治してしまう。一生のうちに一度も草履の鼻緒を切らなかったというほど始末にして、一代で千貫目を貯めこんだこの男、八十八まで生きた。遺された男の子一人。そのお蔭で二十そこそそで遺産まるどりの長者であった。この男が親以上に始末第一で、葬儀のあと早や八日目からは商売を始めるほど。火事見舞にも、下駄がへるからと決していそごうとはしない。親の命日に、菩提寺で法要を行い、その帰りみちで『花川さままいる』と書いた封じ文を拾った。家に帰ってあけてみれば、恋をはなれたご無心の文。中から一歩判がひとつころがり出た。反故紙一枚得をしたと思ったが、なにやらあわれな気もしてくる。ふびんに思ったこの男、手紙の主をたずねて島原へ出向いて、ようやく探しあてたのはやはり下級の女郎であった。帰りかけたその時、この金はもともと自分のものではない。この分だけ、一生の思い出に、ここで遊んでいくという浮気心が起こったのである。飲みなれぬ酒に浮かれて、これを手始めに揚屋に通っては大夫を残らず買い出したりと豪遊。扇屋の恋風さまと言われたこの男、四〜五年のうちに二千貫目の金は塵芥と消えて、家名の名残の古扇だけが残ったという。
このような面白い話が三十篇も収めている。どれもこれも人間の醜さ面白さに溢れているので飽きることがない。
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